小林一三に学ぶ「まちづくり」その1(2025/04/14/#0576)
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公益財団法人阪急文化財団が主催する「もっと知りたい小林一三」という連続講座の第一回に参加された際の感想を述べられています。この講座は全10回で、毎月13日に開催されます(ただし、5月と8月は除くとのことです)。
第一回のテーマは「阪急電車の始まりと、沿線の広がり」でした。阪急電車は、元々「箕面有馬電気軌道」という名称で設立されました。一般的には小林一三がよく知られていますが、実際には彼は当初、専務理事のような立場で入社しました。しかし、その後の活動が高く評価され、当時の社長よりも小林一三の方が広く知られるようになったとのことです。
小林一三は元々銀行に勤務していましたが、自身のやりたいこととのギャップを感じて退職しました。その後、証券会社の設立に関わる話がありましたが立ち消えとなり、その流れで箕面有馬電気軌道に入社した経緯が語られました。
1910年頃、箕面有馬電気軌道は初めて電車を走らせましたが、当時は都市間の移動需要が現在ほど高くありませんでした。そのため、鉄道会社は自ら沿線に顧客を創出する必要がありました。また、資金面でも厳しい状況だったようです。
そこで、小林一三らは、電車の運行だけでなく、沿線の宅地開発を積極的に進めることで固定客を増やしていくという方針を取りました。不動産収入を鉄道事業に再投資することで、路線網を拡大し、さらなる住宅開発を推進しました。最初に宅地分譲が行われたのは、池田市の室町という場所で、100坪の区画が約200戸用意されました。頭金200円、月々12円の分割払いという条件は、当時の物価からすると高額だった可能性もありますが、大阪市内の工業化による住環境の悪化を背景に、郊外の住宅地を求める層にアピールしました。
阪急は、単に鉄道事業で利益を上げるだけでなく、沿線に住む人々にとって魅力的な街づくりを目指していました。当時の広告には、小林一三自身が書いたと思われる文章も見られたそうです。
初期の集客の目玉として、箕面公園が大きな役割を果たしました。日本で3番目の規模を誇った箕面動物園も一時的に存在しましたが、運営が難しく5年で閉園し、その後は宝塚方面へと観光開発の重点が移っていきました。
駅の設置場所も工夫され、当初は豊中のような場所ではなく、服部天神のような寺社のある場所に設けられました。これは、観光客や参拝客をまず取り込むためでした。その後、宅地開発が進むにつれて、池田や箕面の桜井といった場所に駅周辺の土地を取得し、住宅地が開発されていきました。
このような鉄道事業と宅地開発の連携により、阪急は大きな収益を上げ、持続的な成長を遂げました。当時、行政との連携もあったと考えられますが、資金調達や事業推進は主に民間主導で行われた点が特筆されます。太田様は、現代の街づくりにおいても、民間主導の重要性を見習うべきだと指摘されています。
池田室町の広告では「池田新市街」という言葉が使われており、これは英語の「ニュータウン」に相当します。阪急電鉄の登記上の本店は、現在も池田にあります。これは、創業時に池田の人々が用地を提供してくれたことへの感謝の表れではないかと述べられています。
阪急電車の最初の車両は、川崎重工業(当時は川崎造船という名称だった可能性あり)製でした。当時、造船業が中心だった川崎重工が鉄道車両の製造にも進出したことは、同社の発展においても大きな転機となりました。
阪急の路線延伸や宅地開発においては、常に先行して広告が積極的に展開されました。資金調達は、小林一三の銀行員時代の知識も活かし、月賦払いを導入することで実現されました。自らニュータウンを開発することで、通勤・通学の固定客を創出し、安定的な収益を確保するビジネスモデルは、非常に合理的だったと評価されています。
初期の電力供給のため、阪急は三国に石炭火力発電所を設置しました。また、一庫ダム周辺には水力発電所も一部あったようです。宅地には電線がセットで引かれ、当時まだ一般的ではなかった電気を供給しました。電気メーターがない時代には、電灯の数に応じて料金が課金され、阪急自身が電球を販売する事業も行っていたそうです。
太田様は、1時間半の講演内容を短時間で全て伝えることは難しいとしつつも、非常に興味深い内容だったと語っています。今後、ノートを見返しながら内容をさらに掘り下げていきたいと考えているようです。
最後に、戦後の沿線開発を含め、阪急電車、ひいては小林一三が関西圏の街づくりに果たした役割の大きさを改めて認識したと述べられています。また、企業が利益を追求するだけでなく、地域住民への還元を考えることの重要性についても触れ、学ぶべき点が多いと感じたと締めくくられています。
第一回のテーマは「阪急電車の始まりと、沿線の広がり」でした。阪急電車は、元々「箕面有馬電気軌道」という名称で設立されました。一般的には小林一三がよく知られていますが、実際には彼は当初、専務理事のような立場で入社しました。しかし、その後の活動が高く評価され、当時の社長よりも小林一三の方が広く知られるようになったとのことです。
小林一三は元々銀行に勤務していましたが、自身のやりたいこととのギャップを感じて退職しました。その後、証券会社の設立に関わる話がありましたが立ち消えとなり、その流れで箕面有馬電気軌道に入社した経緯が語られました。
1910年頃、箕面有馬電気軌道は初めて電車を走らせましたが、当時は都市間の移動需要が現在ほど高くありませんでした。そのため、鉄道会社は自ら沿線に顧客を創出する必要がありました。また、資金面でも厳しい状況だったようです。
そこで、小林一三らは、電車の運行だけでなく、沿線の宅地開発を積極的に進めることで固定客を増やしていくという方針を取りました。不動産収入を鉄道事業に再投資することで、路線網を拡大し、さらなる住宅開発を推進しました。最初に宅地分譲が行われたのは、池田市の室町という場所で、100坪の区画が約200戸用意されました。頭金200円、月々12円の分割払いという条件は、当時の物価からすると高額だった可能性もありますが、大阪市内の工業化による住環境の悪化を背景に、郊外の住宅地を求める層にアピールしました。
阪急は、単に鉄道事業で利益を上げるだけでなく、沿線に住む人々にとって魅力的な街づくりを目指していました。当時の広告には、小林一三自身が書いたと思われる文章も見られたそうです。
初期の集客の目玉として、箕面公園が大きな役割を果たしました。日本で3番目の規模を誇った箕面動物園も一時的に存在しましたが、運営が難しく5年で閉園し、その後は宝塚方面へと観光開発の重点が移っていきました。
駅の設置場所も工夫され、当初は豊中のような場所ではなく、服部天神のような寺社のある場所に設けられました。これは、観光客や参拝客をまず取り込むためでした。その後、宅地開発が進むにつれて、池田や箕面の桜井といった場所に駅周辺の土地を取得し、住宅地が開発されていきました。
このような鉄道事業と宅地開発の連携により、阪急は大きな収益を上げ、持続的な成長を遂げました。当時、行政との連携もあったと考えられますが、資金調達や事業推進は主に民間主導で行われた点が特筆されます。太田様は、現代の街づくりにおいても、民間主導の重要性を見習うべきだと指摘されています。
池田室町の広告では「池田新市街」という言葉が使われており、これは英語の「ニュータウン」に相当します。阪急電鉄の登記上の本店は、現在も池田にあります。これは、創業時に池田の人々が用地を提供してくれたことへの感謝の表れではないかと述べられています。
阪急電車の最初の車両は、川崎重工業(当時は川崎造船という名称だった可能性あり)製でした。当時、造船業が中心だった川崎重工が鉄道車両の製造にも進出したことは、同社の発展においても大きな転機となりました。
阪急の路線延伸や宅地開発においては、常に先行して広告が積極的に展開されました。資金調達は、小林一三の銀行員時代の知識も活かし、月賦払いを導入することで実現されました。自らニュータウンを開発することで、通勤・通学の固定客を創出し、安定的な収益を確保するビジネスモデルは、非常に合理的だったと評価されています。
初期の電力供給のため、阪急は三国に石炭火力発電所を設置しました。また、一庫ダム周辺には水力発電所も一部あったようです。宅地には電線がセットで引かれ、当時まだ一般的ではなかった電気を供給しました。電気メーターがない時代には、電灯の数に応じて料金が課金され、阪急自身が電球を販売する事業も行っていたそうです。
太田様は、1時間半の講演内容を短時間で全て伝えることは難しいとしつつも、非常に興味深い内容だったと語っています。今後、ノートを見返しながら内容をさらに掘り下げていきたいと考えているようです。
最後に、戦後の沿線開発を含め、阪急電車、ひいては小林一三が関西圏の街づくりに果たした役割の大きさを改めて認識したと述べられています。また、企業が利益を追求するだけでなく、地域住民への還元を考えることの重要性についても触れ、学ぶべき点が多いと感じたと締めくくられています。
わりと何でも屋な人が発信するch
太田祐介@農作業サポート&キャリアコンサルタント
- 10:041.
オープニング
- 14:162.
小林一三に学ぶ「まちづくり」その1
- 04:443.
エンディング
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