TOPトーク専門家横山瑞法のお寺の縁側ラジオ【初月無料!】結果にコミットしない。道を歩むということ。(2026/8/20)【#1194】19:13 8月20日 80再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次「悟りを開かぬ」宣告の真意結果ばかりを追う現代人の落とし穴道の途中で育む「死無量心」とは「今」を変える「意図」とカルマの法則「始め、中ほど、終わり」美しい道の歩み方AI文字起こし(β版) # 仏道というくらいだから、途中の過程がある。過程の中に結果がある。 はい、おはようございます。岡山です。今日もよろしくお願いします。 ということで、夏季休暇から戻ってまいりました。 はい、ということで、またね、始めていきたいと思います。 今日はですね、少しですね、海外の仏教メディアで発信されていた、配信されていた記事を紹介しながら話をしていきたいと思います。 トルコの仏教のですね、指導者、お坊さんみたいな立場の人の立場の人の記事でですね、結構ですね、出だしがですね、結構衝撃的というか、すごいことから、言葉から始まるんですね。 で、その彼はですね、自分の弟子を持っていて、もう何十年とですね、そういった弟子たちと一緒に修行したり、弟子の指導をしたり、一緒に修行したりしているような方だそうですね。 で、ある日ですね、この記事を書いた師匠の人はですね、こういうんですね、おそらくあなた方は悟りを開くことはないでしょうというふうに、自分の弟子たちに言ってしまうんですね。 これはですね、生徒にはですね、3年学んだものも5年学んだものも、10年その人についている人もいるというような生徒の前で、弟子の前で言ったということで、それを言った途端ですね、部屋が静まり返ったというふうに書いてありますよね。 まあそれはそうですよね。じゃあ、なのためにね、これまで自分たちをやってきたというふうに弟子の人たちは思うんですね。 でですね、まあでもこの師匠先生が言ったのは、悟りなんてものはないとかそういうことではなくてですね、悟りという到達点だけを修行することの価値にしてしまうと、その道を歩くこと自体が苦しくなってしまうというようなことがあるわけで、 それをですね、あまりに悟りという到達点ばかりに注目してしまうことに対して釘を刺したというようなことがこの言葉だったんですね。 考えてみればですね、僕らもですね、仏教とは言いますけども、やっぱ仏道という言い方をしますよね。道なんですね、仏の道なんですよね。 道というからにはですね、必ずそれには過程、途中の間があるわけなんですよね。 まあ登山で言えば山頂だけが登山ではないですよね。登り始めて、登って行って登って行って息が上がってね、休んでとかね、景色を見たりとか振り返ったりとか、体が慣れてきたりとか、 そういったことを繰り返しながらまた少しずつ登って行って山頂を目指していくということが登山であってですね、山頂に立ったそれだけがですね、それをしなければ登山ではないというようなことですよね。 同じようにですね、悟りだけが仏道なのではなくて、そこに向かって自分自身が変わっていく、心が少しずつ変わっていく、その過程そのものが仏道なんじゃないかというか、仏道なんだろうというふうに思うわけなんですね。 記事の中にもですね、面白い表現があってですね、何年も学びながら目標に届かない人っていうのは小さな子供のようなじれったさであの問いを発するようになると。 あの問いっていうのは何かというと、「ねえ、まだ着かないの?」みたいなね、僕もおとといか、昨日おとといとですね、子供を連れてちょっと旅行に出ましたけれども、いつになったら着くの?みたいなことはですね、後ろの座席から常に聞こえてくるわけなんですね。 私たちっていうのはですね、到達点に行ったかどうかばかり気になってしまったり、そればっかりを価値基準にしてしまいがちですよね。これは当然修行に限った話ではなくて、資格を取ったとか、目標の売り上げに届いたとか、昇進したとか、体重が減った、ダイエットが成功して何キロ減ったとか。 結果をもって全てを採点する、自分を採点するということに慣れ切ってしまっているというか、そういった価値観に飼い慣らされてしまっているというような感じがあるかなというふうに思うわけですよね、僕自身もね。 だから、修行をしてもですね、何年やったら何が得られるのかとか、これをやったらどうなれるんですかということをですね、言ってくる人も多いですよね。 この記事に出てくる先生はですね、長く修行している人が、一生懸命やっているのにうまく言いませんと、私はこの道に向いていないかもしれませんと言いに来たとき、こういうふうに聞き返すとですね、 あなたが最初に道を踏み出したとき、その最初の時に抱えていた悩みですね、その生活の中であなたを悩ませていたことを覚えていますかというようなことを聞くと。 例えば、怒りっぽかったとか、人の言葉にすぐ傷ついたとか、普段集中力がなかったとか、身近な人への振る舞いに自分自身が満足できるような良い振る舞いができていなかったとか、 そういったですね、悩みを抱えながら仏教に触れるという人が多いと思いますよね。 で、それは今どうなってますかというふうにさらに聞くとですね、大体多くの人は言うんですよね。 まあ変わりましたと、確かに最初に思っていた悩みとか、そういったものはに関しては変わった。 しかし、まだ自分が行きたい到達点には達していないというふうに言うわけですね、多くの人はね。 まあしかしその変わりましたということこそ道を歩いた証拠であると思うんですね。 ただ目的として最後に理想としている場所に届いていないだけで、もう道の途中にいるわけで、そこに向かった道中に向かっている道中にいるわけなんですね。 なのでその先生はですね、そういった返答があったときに、あなたはですね、この景色を楽しんでいますかというふうに加えて聞くそうなんですね。 到達点にはいないけれども、道の途中のこの景色、変わっている自分自身の心のありようとか、それによって変わってくる周りの様子とかを楽しんでいますかということですよね。 登山というところの風景を楽しむとか、例えば一緒に登っている人がいればね、その人たちとの話を楽しむとか、感想をシェアして楽しむとか、新しい発見を楽しむとか、今まで見たことのない景色を楽しんでいる。 それは到達点ではなくても、そういった景色を楽しむとか、きれいな空気を楽しむとか、まあそういうことですよね。 しかしまあ私たちというのは、結果にコミットしようとかね、一時期言ってましたけども、何でしたっけそれ。 そういったもので測っていくことに、そういったものだけで測ることに慣れているけれども、そういったものでは測れない、そういったもの指しだけでは測れないもので測っていかなきゃいけないんじゃないかということですね。 歩いている途中のですね、道中のありようを何で測ればいいのかということで、記事ではですね、ここで死無量心というものを持ち出すんですね。 慈悲、喜、謝、慈は慈しみ、悲は悲しみという字ですね。喜は喜ぶ、謝は捨てる。 まあこの4つの心を使って、今の自分自身のことを測るということで、まあよそも詳しく説明すると長くなるので、まあ簡単に言うと、慈っていうのは他者の幸福を願う心ですね。 慈っていうのは他者の苦しみに心を寄せる心、まあ共感するということですね。相手の苦しみと自分の苦しみを隔てている壁が薄くなって少なくなっていくことというふうに記事では書かれてますね。 喜は他の人の幸福を一緒に喜べる心。相手の成功は自分の失敗ではない。 今の私たちどうですかね、SNSとか見てね、他人の成功をねだんだりしてないですかね。相手の心の平安は自分の取り分から奪われたものではないということですね。 謝はですね、偏見のない偏りのない心ですね。 まあ一応岩波の仏教辞典の内容もご紹介しておきましょうかね。この記事の内容のほかに、岩波の仏教辞典にはですね、 慈は生きとし生けるものに楽を与えること。喜は苦を抜くこと。喜は他者の楽を妬まないこと。謝とは好き嫌いによって差別をしないことですね。 まあこれらをするということですね。差別をしない偏りのない心ですね。 この中でですね、この記事にちょっと鋭いことが書いてあって、謝がなければ私たちの慈悲さえまだ自己関心で動いているかもしれないということですね。 あなたの苦しみが私を痛ませる。だから私は自分の痛みから解放させるためにそれを終わらせたい。 そういう浪味だとですね、行いは他人に共感してやっているとしても、やはり内側にはですね、自分の苦しみを抜くということによったですね、隠れた報酬が残っているわけで、 やはり偏らない心、自分の好き嫌いとか自分が感じられるとかじゃなくて、偏らない心を持って物事に接するということですね。 他人の痛みをはっきりと見るためにそれを自分の心の苦しみに変える必要はないということを言っているんですね、この記事でね。 目覚めた心の慈悲は海のようなものだと言ってますけども、存在たちの苦しみを、なんていうの、溺れることなく運ぶということですかね。 海に浸かっているように慈悲というのは広大なものであるから、自分に寄せることなくありのまま、そのまま広く施していくということですかね。 この自費者がどういうふうに自分の周りで働いているかということですね。 それをもうちょっと分かりやすく自分に引き寄せて考えられることとして、説明してみるとですね、測り方として、 自分の周りの人たちは私のそばで安全な心持ち、心境で安心していられますかということですね。 はい。 以前よりですね、自分の周りの人が自分のそばで安心して心を安らかにいられるようになっているだろうかというようなことですね。 そういったことに注目してみる。今のね、今ここの。 これは坊さんの僕にとってはなかなか改めて考えてみなきゃいけないことだなと思って。 僕は20年くらい坊さんになってね、お経がうまくなったりとか、法話が慣れてきたとか、知識が増えたとか、そういうことはあるかもしれないけども、 自分の周りの人が昔より自分の周りで心安らかにいれているかというようなことの方がですね、 確かに自分の坊さんとしての私に触れた人が心安らかになっているかということの方がですね、 いくらお経がうまいとか、法話がこなれてきたとか、知識が増えたとかいうことよりもはるかに大事で、なかなか厳しいものさせたなというふうに思うわけなんですね。 こういった形で今のことをちょっと判断してみるということですね。 そういった家庭の毎日の小さな実践の積み重ねに意味があるというようなことなんですよね。 記事はですね、カルマの話を説明しているんですけども、 業というと何かしたら何か報いが返ってくるという理解がされがちですけども、 仏教でいう業とは、その入り口は意図なんですね。心の動きですね。 大事なのは、意図は未来を作る前にそれが起きた、その瞬間の自分を作っているということ。 意図が起きた瞬間ですね。もう心は動いているんですよね。 例えばですね、怒りに任せて誰かを怒られば、次はほんの少し怒られやすくなると。 嘘をつけばですね、次の嘘への抵抗が少し下がると。 最初に感じて嫌な感じがすると言ってしまうと、私たちはそれを普通のことに慣れてしまうということですよね。 逆も同じで、一度怒りをこないという言葉を選ぶと、次のですね、怒りが湧いてきた時も、そういうふうな行動が取れるようになると。 一度人の成功をそのように喜んでみると、一度困っている人に手を貸すと、次はですね、それが少しずつやりやすい自分になっていくということですね。 良い行いは良い行いを読んでいって、善意は次の善意を読んでいくと。 だからなんていうか、問いの立て方ですよね。 この行いが後に自分に何をくれるかではなく、この行いが今、ここで私をどう変えるのかと。 ちょっとこれは難しいですかね。 後から何か報酬として、分かりやすい結果として何が来るかということよりも、今、この行いが私をどう変えるか、次の瞬間の私をどう変えるかということに注目するのが大事であるということですよね。 お釈迦様はですね、仏法は、始めが美しく、中ほどが美しく、終わりが美しいものであると説いたんですね。 記事の中にはですね、こういう例えが出てくるんですね。 深く借金を抱えてもどうしていいかわからないという時、そこへ賢く慈悲深い友人が現れて、抜け道がある、抜け出す、そこからですね、抜け出す道があることを示してくれるということですね。 で、ここが始めですよね。 もう苦しい借金を抱えているけれども、友人が来て抜け出す道があるということですね、きっかけですね。 え、そんなのあるの?ということですね。そういう道があるんだということが、もう分かるということですね。 まだ借金は1円も返していないし、何の結果も出ていないけれども、それでもそういった道が見えるということは、大きな始まりですよね。 で、中程が美しい。そういった言われた通りの方法をやっていると、みるみるうちにですね、どんどんどんどん借金が減っていって、返していけているわけですよね。 で、終わりが美しい。最後にまたそれを続けていくことで、最後の借金が終わっていくというようなことです。 まあこういった、もうちょっと何でさっきの例になっちゃったか分からないですけども、中でね、夫妻とかそういう言葉が使われているので、そういう例になっちゃったんですけども、 まあ始めが美しく、中程が美しく、終わりが美しい。もう始まりからきっかけで目が覚めるようなことがあって、それを続けていく中頃も成果が、小さいけども積み重ねの業がね、 カルマがよく積み重なっていって、それを続けていくことで終わりがですね、結果が最終的に美しい結果が出るということですね。 だから苦しみというものはですね、救いのない、もう閉ざされて抜け出せない部屋とか、そういったものではなくてですね、そこから抜け出す扉があったと。 それが始め。でもまだ自由ではないけども、自由があることは見たと。そこから出ていけることを知った。だから始めが美しい。そこから実践をするですね。 そういった扉を出てですね、良いという行いを続けていくこと、そういうふうなことを続けていくことで中程が美しいと。 そしてそれを続けていくことで最終的に借金返し終わるという終わりも美しいというようなことなんですね。 日々一瞬一瞬の変化というのはとっても小さくてですね、過程というのは時につまらないんですけども、しかしですね、決して目的地に届いていないからといって、 終わりが見えていないからといって、そのやっていることにですね、価値はなくてですね、やっぱり積み重ねの中でしか到達できないものというのはあるとですね、 結果が出なくても腐らずにですね、良いと言われている良い道をですね、良いことをですね、続けていくということですね。 今日どんな一歩を歩いたか、そういったことはですね、やっぱり最初の頃と比べてみると、やはり何かね、続けていれば必ず変化はあるわけで、その変化もある種、 細切れにしていくことが結果ですよね。大きな一個の結果を見るんじゃなくて、日々日々の小さな結果を見ながらやっていく。 そういった中で途中の景色を楽しみながら歩くこと、そういったことが何事にも大事なことであるようだと思いますので、 何というかね、何か大きい結果が出ないと価値がないとかいうふうなことにとらわれずにですね、日々日々道を歩く中の景色を楽しみながら生きていきましょうということですね。 ですから、よく僕は例えると、車に乗るよりも自転車、自転車で行くよりも歩くということ、速度はゆっくりだけども、その景色を楽しむためにはですね、やっぱりゆっくり歩くということが大事なわけなので、 早く行くことだけが価値じゃなくて、その道自体に価値があるということをね、思いながらですね、ゆっくり行くことも悪くないんじゃないかなというふうに思っているわけであります。 ということで、結果にとらわれずにその景色を楽しみながら、過程を楽しみながら生きていきましょうということが言いたかったというわけですね。 あまりに結果、到達点に執着してしまうと、かえってですね、その結果が遠ざかってしまったり、到達点に対する執着が道のりを邪魔することがあるということをですね、 今日はお話ししたかったわけであります。ということで、皆さん良い1日を、今日1日をですね、小さな一歩を楽しんで過ごしていただければと思っております。 ということで、また。 もっと見る #仏道 横山瑞法のお寺の縁側ラジオ【初月無料!】プレミアム放送配信中!19:131.仏道というくらいだから、途中の過程がある。過程の中に結果がある。コメント感想・質問・応援メッセージを書こう FA8月20日考え方一つでで苦しいだけの道とは限らないとは、なるほどなるほど。ついつい苦しい方向に考えがちですが道とはそのような考え方もあるのですね。3返信 横山瑞法(Yokoyama Zuiho)8月20日道そのものが楽しめるようになるといいですよね。2
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