#652 夢窓国師の命日に③夢窓国師の遺戒
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我に三等の弟子有り。所謂、猛烈に諸縁を放下し、専一に己事を窮明する、是れを上等と為す。修行純ならず、駁雑にして学を好む、之を中等と謂う。自ら己が霊の光輝を昧まし、只だ仏祖の涎唾を嗜む、此れを下等と名づく。
如し其の心を外書に酔わせ、業を文筆に立つるが如き者は、此れ是れ剃頭の俗人なり。以て下等と作すに足らず。矧んや飽食安眠し、放逸に時を過ぐる者、之を緇流と謂わんや。古人、喚んで衣架飯嚢と作す。既に是れ僧に非ざれば、我が弟子と称して寺中及び塔頭に出入するを許さず。暫時の出入すら尚お以て容れず。何ぞ況んや来たりて掛搭を求むるをや。
老僧、是の如き説を作すを、博愛の慈を缺くと言うこと莫れ。只だ他の非を知り過ちを改め、祖門の種草と為るに堪えんことを要するのみ。
私には三種類の弟子がいる。
あらゆる関わりやとらわれを徹底して手放し、ひたすら自己自身の根本問題を究明する者を、上等とする。
修行が純一ではなく、さまざまなものが入り交じり、学問を好む者を、中等という。
自分自身の霊妙なはたらきの光を自ら見失い、ただ仏や祖師の言葉のおこぼれを好んで求める者を、下等と名づける。
仏教以外の書物に心を奪われ、文章を書くことで身を立てようとする者は、頭を剃った俗人である。下等の弟子とするにも足りない。
まして、満腹になるまで食べ、安楽に眠り、気ままに時を過ごす者を、僧と呼べるだろうか。昔の人は、そのような者を「衣を掛ける台、飯を入れる袋」と呼んだ。
すでに僧とはいえないのだから、私の弟子を名乗って寺や塔頭に出入りすることを許さない。短時間の出入りさえ認めないのだから、住み込んで修行するための掛搭を求めて来ることは、なおさら認めない。
私がこう言うのを、広く人を慈しむ心に欠けると言ってはならない。ただ、その者が誤りを知って過ちを改め、祖師の教えを継ぐ芽となってほしいのである。
如し其の心を外書に酔わせ、業を文筆に立つるが如き者は、此れ是れ剃頭の俗人なり。以て下等と作すに足らず。矧んや飽食安眠し、放逸に時を過ぐる者、之を緇流と謂わんや。古人、喚んで衣架飯嚢と作す。既に是れ僧に非ざれば、我が弟子と称して寺中及び塔頭に出入するを許さず。暫時の出入すら尚お以て容れず。何ぞ況んや来たりて掛搭を求むるをや。
老僧、是の如き説を作すを、博愛の慈を缺くと言うこと莫れ。只だ他の非を知り過ちを改め、祖門の種草と為るに堪えんことを要するのみ。
私には三種類の弟子がいる。
あらゆる関わりやとらわれを徹底して手放し、ひたすら自己自身の根本問題を究明する者を、上等とする。
修行が純一ではなく、さまざまなものが入り交じり、学問を好む者を、中等という。
自分自身の霊妙なはたらきの光を自ら見失い、ただ仏や祖師の言葉のおこぼれを好んで求める者を、下等と名づける。
仏教以外の書物に心を奪われ、文章を書くことで身を立てようとする者は、頭を剃った俗人である。下等の弟子とするにも足りない。
まして、満腹になるまで食べ、安楽に眠り、気ままに時を過ごす者を、僧と呼べるだろうか。昔の人は、そのような者を「衣を掛ける台、飯を入れる袋」と呼んだ。
すでに僧とはいえないのだから、私の弟子を名乗って寺や塔頭に出入りすることを許さない。短時間の出入りさえ認めないのだから、住み込んで修行するための掛搭を求めて来ることは、なおさら認めない。
私がこう言うのを、広く人を慈しむ心に欠けると言ってはならない。ただ、その者が誤りを知って過ちを改め、祖師の教えを継ぐ芽となってほしいのである。
禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで
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- 00:161.
初めのあいさつ
- 03:022.
我に三等の弟子有り...
- 04:423.
「三等の弟子」とは...
- 05:404.
修行だけが「報恩」
- 00:095.
終わりのあいさつ
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