TOPライフスタイルメンタル・心理学禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで#654 人生を考える...独りで生きるとは?②15:06 10月7日 244再生 問題を報告する 再生する シェアする 引き続き、夢窓国師の生涯を手掛かりに、「孤独」と「孤高」「孤立」について考えます。AI目次無双国師の生涯から見る「独り」孤高の生き方と「人の助け」の真実大勢を導く「宿命」と逃れられない責務「共に生きる」ことの必然性と厳しさ人生の終わりに「感謝」できるか?AI文字起こし(β版) # 初めのあいさつ おはようございます。 山梨県の甲州市、武田信玄公の母大寺、衛林寺の留宿を務めております、古川周券と申します。 きょうもどうぞよろしくお願いいたします。 # 孤高の人生 今日は、昨日に引き続き、人生を考えるということで、「一人で生きるとは?」というお話の続きをしたいと思います。 昨日もお話ししましたが、一人で生きるというこのテーマ、今回はですね、無双国志の生涯から振り返っての見方になります。 物事を考える時には、どこを起点にして、どこに向かって考えていくかということがとても大事なんですね。 その場合に、例えば、私たちが自分の足元から考えるということもできるんですよ。 例えば、一人で生きるとは?というのは、自分自身の生涯、自分自身の人生の中から考えることもできます。 自分にとっての、まあ、越し方と育成ですよね。 自分はどんな場所に生まれて、どんな人生を今送っていて、どうなりたいかって。 その時に、みんなと一緒に生きていける部分、それから、自分じゃなければどうにもならない部分ってあるじゃないですか。 そこの切り分けをしながら、両方を重ね合わせながら考えていくって、そういうやり方がありますよね。 これは、いつも基本的に私たちはそういう風になるんです。 と、同時に、今度は、自分がすごいなと思う人、とても面白いけどこんな人にはなれないなと思うような人、 でも、どっかこの人のように生きたいなと思うような理想の人生、理想、憧れの生き方をしている人を手本にして、 その人は一体どんな人であって、どんな生き方をしていて、その人がどんな風にして仲間と共に生き、そしてどんな風にして自分の道を行ったかって。 自分から当てが届かないけれども、その人の全く違う価値観、全く違う考え方なんだけれども、 その人の生きている姿を見ることによって、まあ、真似なんかできません。 そんな境地なんかならないんだけど、でも、自分自身、足元、自分の足元を見つめた時に、 ああ、こういう生き方チャレンジでもいいな、こういう考え方に向かって自分を広げていくって大事なことだなって、 そうやって学ぶことはできるんですね。 そんな風にする。 だから今回は、あえて故郷の生き方をされたムスゴクシの人生から振り返ってみるということをしているんです。 ムスゴクシというのは故郷の方です。 私はもうずっとこうして、ムスゴクシはカイさんのお茶の住所を越していますので、 ムスゴクシの言葉に触れる機会も多いんですけれども、もうこの方は徹底的に故郷の方です。 禅僧というのは、そういう人が比較的多いですね。 もちろん、前回もお話しましても、誰もが最後は一人。 親が生まれてくる時は一人です。 そして死ぬ時も一人。 自分の人生は自分でしか歩めないから、誰もが一人なんです。 そういう意味では、誰もが孤独の道を歩く。 だけど、誰もが人の助けをもらわなければ生きていけないし、 誰もが人と共に生きていく。 でも、人と共に生き、人の助けを共に生きながら、なおかつその人は、 自分の人生を全うするために、あえて自分一人で、あえて歩く。 あえて生き方を選ぶ。 そしてその生き方が、周りの人から見ると、 自分を突き放して、一人で歩いていってしまうように見えてくる。 それは宿命なんですね。やむを得ないことです。 何も一人になりたいわけじゃないですよ。 もちろん、修行というのは一人でやった方がいいというところもあるから、 なりたいんだろうけど、でも、そんな時に、一人じゃ生きていけない。 国語の修行をしていたって、食べながら生きていかなければならない。 着物も着る。 大都国主は、肩あって傷ということなく、口あって食らわずに大人しく言っておられますから、 要は、服も着るし、ご飯も食べるわけですよ。 そんな一匹狼の虎みたいな、獣みたいに、たった一人で生きることなんかできない。 それは、ちゃんと本庄主義までわかっておられるんです。 孤独で、孤高に生きる人であっても、そこを忘れたら、道を踏み外してしまうんですね。 人間というのは、自分の道を行くために、どうしても一人にならざるを得ない。 だけど、それは、どこかで人の助けを得ながら生きているということを、絶対に忘れてはいけないんです。 それを忘れないからこそ、孤高の生き方ができるわけですね。 無双国主もそうです。 もう、前回もお話ししましたけど、縁起の生きてはいれるように、 一人で修行したい人、一人でずっと生きたい人だったんだけれども、 でも、自分の修行を支えてくれた人もいる。 そして、人間というのは、そうやって、一人ではやっていけないことがわかっているからこそ、 あえて、教団をきちっと維持して、自分の弟子を育てて、 そして、自分が死んだ後のことまで、細々きちっと、一生懸命育て上げてきた弟子たちが、 ちゃんと修行をやっていけるように、本当に細やかに細やかに、 何月何日に暮らしようなんてことを言うぐらい、その時には、どんなお経を読んで、 そんな、もういいよっていうぐらい、弟子はみんなわかっているよっていうぐらい、 細やかに細やかに、ルールを決めて終われる。 その上で、自分の道を行くって。 責任を渡しながら、恩返し、自分がここの修行ができる恩返しをしながら、 ちゃんとみんなのことを考えて、その上で、ここの道を行くんですね。 # 人とおもに生きるとは その上で、国王ということの意味をまた考えると、これは私たちとは全く違う次元の高い話ですけれども、 人を惹きつける魅力があって、大きな影響力があったら、そういう立場には誰もがなれるわけじゃないんです。 悟りを開く、自分自身の人生の束縛から自分自身を解放する、解脱する。 そして、自分が何のたまに生まれて、何のたまに生きていて、何を成すべきかということを、本当に骨の隅から、腹の底からわかる。 そういう意味での悟りというのは、誰もができるし、誰もがそこを目指すべきなんです。 ただ、その結果として、自分の人生を貫いて歩いていくときに、それが大勢の人の道標になったり、大勢の人の人生を照らしたり、 そんな風にして、大勢の人の照らしがない生き方、これは誰もができるわけではないんです。 これは、どこかでそういう人生を歩めよって、そういう風に運命から呼び出された、そんな風にして生まれついた、 そんな風にして、責任を担うべく生まれついた人がいるんですね。 誰がそういう風に選ばれるかわからない。 客観的に見れば、そういう風に選ばれるということは、華やかでいいように見えるけど違います。とっても辛いことですよ。 やっぱり、私道場で行って、分かりましたけれども、修行道場って辛いですよ。 辛いけど、最後は自分一人のことだから、どこかで、もういいやって投げられるんですよ。諦めることはできるんです。 もういいやって、断念できるんですよ。もういいや、こんな辛いんだったらいいやって。 だけど、弟子たちの顔が浮かび、家族の顔が浮かび、人によっては違いますよね。 息子くんは弟子たちの顔が浮かび、自分の師匠の顔が浮かび、そして自分が修行した結果、だるま大師や、お釈迦様やって、自分が尊敬するお坊さんたちの顔が浮かぶんですよ。 その人のおかげで自分が仏教を学ぶことができた、禅を学ぶことができた、その人に恩返しなきゃ。 だから自分の身体は自分の未卒じゃないって。だから、もういいやって、思えないんですよ。 死んでも死にきれん。諦めても諦めきれん。 それだけ光を放って、大手の人から慕われて、大手の人を導くってことは、自分の身を身の丈を越えてしまうものを背負って歩くってことなんですよね。 だから引き換えなんです。逃げちゃいけない。逃げられないんですよね。国師はそういう方です。 だから、こまごまこまごまとやったって。 でも、前回も話しましたように、その時に、お釈迦様のように、お釈迦様にとっての仮想僧侶のように、何にも言わなくても、晩年に説法台でピュッと一輪の花を捧げたら、その瞬間ににっこり笑って、後はお任せくださいって。 そういう弟子がいればよかったんだけど、息子の場合は違った。 すごい弟子はいっぱいいた。だけど、後ができる人ではなかったんです。 これは弟子が悪かったわけじゃないんですよ。偉大だから告げるわけでもないんです。 その時、その人でなければならんってことなんですよ。ここは勘違いしちゃいけないです。 偉大であれば、巨大な存在で大きければ、後がつけるかって言ったら違うんですよ。 武蔵国師に負けないぐらい偉大な弟子はいたと思いますよ。でも、後がつけるかって違うんです。 そういう意味で、誰もが自分の道を行くだけだけど、そのポストについて人を導けるのはその人しかいない適所適材と言うんだけど、リーダーも適所適材なんですよ。 それがいなかったって。それは武蔵国師の人生の凄さであり厳しさであり辛さである。 そういう人がいるっていう、お釈迦様もすごいけど、だるまさんもそういう人いたんですよね。 だけど、武蔵国師はそういう人がいなかったって。そこをあえて歩まれたって。 だから、そんな故郷の生き方でも色んな故郷があるんだけど、武蔵国師は適面に故郷だったんですよね。 だるま大師もお釈迦様も故郷ですよ。だって、だるま大師の後を継ぐ人はいたけど、だるま大師の代わりはできない。 自分の生き方で人を導かなければならない。 お釈迦様の後を継いだ人はいっぱいいたんですよね。 マカカショウって人が正式に後を継がれたんだけど、でもマカカショウはお釈迦様のコピーではないんです。 自分の生き方で貫くしかなかった。 ただ、任せるぞと言った人はいたっていう点では、お釈迦様と武蔵国師は違う。武蔵国師はいなかったんです。 さあ、これとっても大事なことなんですよね。誰もがたった一人。 だから、孤独ということは間違いがない。 この孤独というのは、こいつとは違うんです。 人と共に生きるということは、人間に課されていることです。 人間というのは一人で生きていけないから、絶対に、苦手な人もいるのはわかります。 苦手な人もいるのはわかるんだけど、それでも骨折って骨折って、共に生きるということは絶対に諦めちゃいけないんですよね。 そこを貫いていく。 大きな存在であればあるほど、共に生きるということは骨折らないといけないです。 弟子が3人しかいなかったら、命も生きとどくし、いいじゃないですか。 でも、1,000人いたら、1,000人分命を配る。 弟子は1万人と言われていますから、1万人に命を配っていなかったら、ついてこらないですよ。 そういう意味で、骨折って骨折って生きるということ。 でも、それは生きるということに必然性のあることです。 人と共に生きるというのは、息を吸うのと同じくらい生きることと必然性なんですよね。 必然性があることなんです。 # 最期に、感謝ができるか その上で結果的にどうなるかというと 自分自身は自分でしかできない仕事をする 自分自身がこれをすべきだということを貫いて生きていく その結果として 孤高となっていく あるいはその結果として孤独になっていくってそれは起こることです でもそこで全てはいけないし俺はすごいんだって思っちゃいけないし やっぱり誰もが孤独 そしてそういう意味では自分の道を貫くのは みんな一緒なんです でも使命として孤高の道を行かなきゃならない人がいる 孤高の高いってどういう意味かというとたった一人で誰もわかんないぐらい高いって まあそういう部分もありますよ でも誰もがその人しかわかんない世界がある むそこくしな弟子たちにわかんないむそこくしの深い世界がある お釈迦様もダルマさんも弟子が追いつくことができないような深さがあるけど そんな深くないかもしれないけど私たち一人一人誰だって他の人にはわかんないんですよ 普通の人だってその人の孤独の憶測なんてじゃあむそこくしが誰のこともわかるかって わかんない お釈迦様なんてわかんない誰だって人にはわからない自分だけの世界があるんです そういう意味では一緒なんですよそういう意味では孤独という点では誰もが一緒 じゃあどうして孤高という言葉が生まれるか それはその人が自分の孤独の自分の道を連ねる結果 わからなくてもマルスにとってはわからなくても何か光を放って何かすごいなって何か人に働くものがあってその結果多くの人に力を与える それが孤高になっていくって結果的に孤高になっていくその孤高っていうのは私たちがそれを目指して生きていこう そこからたくさんのことを学べるって そういうものを孤高と呼んでいるんです でもそんな孤高の存在になりたくてなるわけじゃないしなろうと思ってなれるわけではない それは選ばれたもの ただ私たち一人一人ができることは自分の使命自分の分を一生懸命生きること 結果として孤高になる人はいるけれどそんなことはどうでもいいんです 私たちは自分の分を生きるということ 一人で生きるということを貫く 一人で生きることを貫いて人に頼らず依存せず生きるということ気持ちの上ですよ それができて初めて人と共に生きることができてそれが生きることができて初めて 人に頼ることができる どういうことかっていう的に言うと自分の足で歩くということです 絶対に最後の一歩まで自分の足で歩く絶対歩いてみせる ダメでもダメでもダメでもいかんくても自分の足で歩く 歩くことができなかったら歩く 歩くことができなかったら目で前を見つめ続ける 最後の一呼吸まで自分で自分のことをやり続けるそれは絶対にしてない その気持ちさえあれば苦しい時に助けてくださいって言える 辛い時に助けてくださいって言える どうぞって言われた時にありがとうって言えるって 自分の道を行くからこそ人の助けもありがとうって言えるんですね まず最初に自分の道を行くってこれだけは忘れないようにいきたい 誤解しそうしくないのはそれができない弱ってしまって一時的に人の助けをかかる人が いけないって言ってるんじゃないんですよ それでいいんです誰もが助け合って生きていくんだけど自分の力取り戻したらやっぱり 最後の一呼吸まで私たちは自分の道を自分で行くのは自分のことなんだって そこだけは大事にしたい それを最後まで気持ちさえその気持ちさえ持ってるならば自分の道を貫くことができたって 胸を張っていいと思う 肉体は儚く脆いからやろうと思ってもできることがいっぱいあるんですよ 結果的にできるかできるかではないんです 自分の気持ち自分の道を行くという気持ちさえ最後までしてないでいくって そうやって歩み通した時に今度は結果的に人に助けられてありだとしても 変なプライドが気付くことはないですよ自分の気持ちさえちゃんとあればありがとうって言えるってことです 最後の見極めはそこですね さんざん人に世話になるんだけど最後にありがとうって言えるかどうかは自分の道を歩こうとしているかどうか決めるんですね 感謝できるかどうかは自分が決めるってことそこを大事にしたいなと思います # 終わりのあいさつ さて、今日もお聞きいただきまして、誠にありがとうございました。 どうぞ、良い一日をお過ごしください。 もっと見る #夢窓国師 #人生を考える #独りで生きるとは 禅僧と考える...日々の暮らしから人生までプレミアム放送配信中!00:151.初めのあいさつ05:022.孤高の人生05:203.人とおもに生きるとは04:224.最期に、感謝ができるか00:095.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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