TOPライフスタイルメンタル・心理学禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで#657 本気で修行と向き合うために③~夢窓国師『夢中問答集』を読む(50)「無用心の用心」③15:16 昨日 140再生 問題を報告する 再生する シェアする 引き続き、「無用心の用心」について考えます。AI目次「無用心の用心」:意識を超えた心の深層意識に囚われぬ「無心」へのパラドックス無心に至る試行錯誤と覚悟の道のり「やってつき刀折れ」経験の重要性真の道へ:失敗リスクを恐れぬ本気の修行AI文字起こし(β版) # 初めのあいさつ おはようございます。 山梨県の甲州市、武田信玄公の御大事、衛林寺の住職を務っております、古川周玄と申します。 今日もどうぞよろしくお願いいたします。 # 心は「意識」される部分だけではない 今日は、昨日に引き続き、本気で修行と向き合うために、 ということで、むすこくしの無中門道書を読むの第50章目 無用心の用心という場所の3回目のお話になります。 無用心の用心というタイトルの付き方というのは、 この章の一番最後の部分にあるんですね。 むすこくしごふにとられます。 三蘇太子の曰く 心を持って心を持ち得るは大いなる誤りなり 孤独の曰く 無用心の所これ諸仏用心の所なりと云々 要するに三蘇太子、相参観知という人ですね。 ダルマさんから3番目の相参観知という人が残した 新人名というよく読まれるテキストなんですが、この新人名の中にこの部分があるんですね。 心を持って心を持ち得るのは間違いだというのは原文では言ってないんですけども、 そういうふうにむすこくしが引っ張ってこられているんですね。 新人名から心を使って心をコントロールする これは心というのは私たちが意識するよりももっと深い 私たちが意識する以前に動いてるんですね。 私たちは意識して手を動かしたり歩いたり立ったり座ったり何でも意識して行うことができるから 心って常に意識によって動くんだって勘違いしてます。 もちろん心は意識によっても動くんだけど意識によって動く以前にすでに動いてるっていうところに気持ちはいかない。 私たちが気がつかないうちに動いているところっていうのは何かが起きないと気がつかないんですよ。 だから例えば腹が立っちゃったりとか泣いたり笑ったりいろんな感情があふれてくるときには大きな 大きい心が動くので気がつかないところで心が動いても結果として涙が止まらなかったり悲しみが収まらなかったり怒りが 大きく心が動くと自分の気がつかないところで動いていると意識するけどそうじゃなくて心が比較的穏やかで意識で私たちが意識して何かをしているときに心がその意識よりもっと弱く動いているときは全然気がつかないんですね。 だけど心って気がついているときも気がついていないときも特にここで動いてますから そこを理解するならば心ってのは実は自分で思い通りできないぞって じゃあ自分で意識して何でも解決できるうち あれしたいこれしたいああすればこうなるこうすればなりって思って意識して意識がコントロールできてるうちはいいんだけど 例えば悟るとか気がつくとか自分の意識して動いているままではその行き詰まっちゃって煮詰まっちゃってもうちょっと気持ちの切り替えをしたり 物事の見方や考え方を変えたり自分が無意識に採用しているフレームを大きく作り変えたいというときには意識してもどうにもならないんじゃないですか で修行っていうのは自分を変えるためなんですよ 努力を積み重ねて自分を変えることができるならば修行なんか必要ないですよねトレーニングすればいい 技の方の修行をやればいいでも行の仕様を行う方の仕様というのは技の修行を意識する 行がどうにもならんときに自分自身を作り変えて壁を突破するためにあるときには むしろ心を意図して動かすことをやめて 今までの自分を超えるような何かに心が向かうように仕向けながらなんですよね だから心を使うなって だから無用心のところ無意識の意識みたいなところ その自分の博大を教えてっていうのはいつもやればいいってもんじゃないんですよ というよりもむしろいつもそれは心というふうに動いてるじゃないですか だからその心がいつも動いてるっていうその心の方の賢さ 意識してやることなんて氷山の上の方しかないわけだから それじゃなくて奥底で動いている地位っていうものをもう一回この生かすためにはその氷山の頭のとこだけ アダコアダコでやるんじゃなくて氷山の頭のところ一回目を背けて反らして見ないようにして 水面下にある心の大きな働きに耳を澄ませる それはやらなさいっていうような意味ですよね だからそれを言うために無用心のところって そこに至るために心を使って心を用いる 全部意識するということ自覚的に何かをするということで心を埋め尽くすことをやめなさいって まあそういうことですよね心を持って心を用いるの間違いだ もう一つ後半部分の引用は孤独曰くって まあまず最初に曹三漢地という人の新人名を引いてから孤独曰くっていうことで別な人 これは私調べたんですけど 糞臭の無謀という人の言葉のようですね 一生死ぬまで莫妄想 妄想するな 妄想するなって唱え続けた夢のお坊さんなんですけど その人が亡くなる時にやった節字っていうかな 遊戯語みたいな言葉があるんだけど その中に空というのを我が物として心に何も当たらないように 心に何も浮かばないようにしろってこれが悟った人処仏 処仏用心のところなりって何じら努めてこれを行うぜよって 常に空を自覚して空を得得して心に何も当たらないようにしろって これが本当にやるべき用心のところだっていうふうにおっしゃってますね そんな風にして無心のところに至るように用心しろって 普通は無心に至るようじゃなくて目につくもの 心に浮かぶものについて用心しろって言うんだけどそうじゃなくて無心になるように用心しろ 心に何かが引っかからないように用心しろってそういうふうに言ってる その2ヶ所を引いて今お話ししたように意識主義設計主義 すべてを設計しようすべてを意識しようすべてを自覚的に思い通りにしようとする 意識主義設計主義から出るんだって それが無用心のところだっていうのがこの部分の趣旨なんですね # どうスレ絵ば良いのか 今お話したところは、この本気で修行と向き合うためにというところで繰り返し繰り返し言ってますから、もうわかったわかったと何回も繰り返すなって言われちゃうかもしれません。 そのどころか、夢中問答集の基本的なテーマであるから、もうわかったわかったっておっしゃる方がいるかもしれませんけど、繰り返し繰り返しここでお話をするのは、そういうふうに自覚的に理解しても、なかなかそうはいかないっていうことです。 無心とはどういうことかというとこういうことなんですけども、まあわかった気になっても、つい油断すると普通に何も思わなければいいなみたいな、心がすべてから解放されたらいいなみたいなこと思うんだけど、そんなふうに思ってたら、頭で理解していても、その理解の内容は間違いじゃないけど、そういう理解をなんとなくしているうちは無心のところへは到達できないんです。 やっぱり一回は心を用いて用いて用いて、用いているところが破れるというその過程が、プロセスが必要だから、だから繰り返しお話しているわけですね。 どうしたらそういう境地に行けるか。もう前回お話しました通り、徹底的に自分の行に極めて極めて極めて用心用心用心して、用心を極めて、今日お話しているような心を持って、心をコントロールするなという教えとは正反対に、まずは一挙一動行事を徹することによって、もう心が用心するところがもう気がついたら抜き落ちてしまう。 もう用心しているということを忘れてしまうぐらい、その用心に徹するという、そこを一回突破しなければならないんですね。 やっつき刀折れって前回言いましたけども、その意欲するところが壊れてしまうってこと。 その瞬間にハッとするところですよね。そのハッとした瞬間にあって、自分がこうやって用心していた、この持ち方は自分を縛るだけだったんだって。 で、ハッと気づくときってのは、その縛ることが破れて、パッと一瞬、無用心の用心のところが、垣間見た瞬間に、ああ自分は捕らわれていたって気づくってことですよね。 そこを通るってことが大事なわけじゃないですか。 でも、これも前回お話したんだけど、そういうところに至るかどうかっていうことは、南へ向かって真っ直ぐ行けば南に到達する。 50歩歩いたら50歩南。西へ向かって100歩歩く。西へ向かって100歩歩くって、そういうこととは違いますよね。 北へ向かって進むために、北に向かって行くんでは、北がわからないし、歩いてる方向は北と思い込んでたら、本当に北に向かってなくても気づかない。 だから、歩いてみて、結果として、ああ違った。歩いてみて、また結果として、ああ違った。歩いてみて、結果として、ああこれが北かって行かないと。最初から北がわからないとき。 最初から北という方角がわからないときは、歩いてみて違った。違った。違った。ああこれだって。 一発でこれだって言う人もいるけれども、ずっと間違い続けて何十年も、で、その結果としてこれだって言う人もいるって。 だからやってみて、やってみて、手間暇をしまず、無駄をしまず、やってみてっていうところしか道はないんですね。ないんです。だからこの難しさがあるわけど。 でもそれって、その、まあある意味では、その自分の人生を、ぼーっとルーレットに委ねると、違う意味で、歩いてみて、歩いてみて、歩いてみてって、真剣にルーレットに委ねるって。 どこが違うかって。委ねて、まあいいやと思っちゃうんじゃなくて、委ねて、正しいか、正しいか、正しいかって吟味する。 またがっかりする。だからみんな嫌になっちゃうんだけど、委ねて吟味して気づくっていうプロセスを繰り返し繰り返しやるってことが、もう大事だっていうことになるわけです。 この無用心のところに至るためには、この繰り返しが必要なんですね。だから無用心に至るための用心とは、やってみて違ってた、やってみて違ってた、やってみて違ってたって、 むしろ自分自身がこれだと思うところに至るまで、やっぱりこれでいいのかな、これでいいのかなって吟味し続ける姿勢のことを指すというふうに考えた方がいいんですね。 # 本当に道に入るためには 誰もが無駄なことをしたくないから、こうが正しいんだってことが分かるまでは、どうしても本気になりきれない。 で、正しいってのは分かんなかったら、いつまでもずっと分かんなかったら、やってみて、やってみてなんて無駄な吟味したくないじゃないですか。 だからまず最初一生懸命、賢く賢く賢く調べて、これが正しいってのは確保しようとするんですよね。 で、まあ良さげなものがあったり、誰かがこれが正しいって言ったら、闇雲に従っちゃうんですよ。 でも誰かにとって正しいことは、別に正しくないかもしれない。 結局、やってみてこれだと思うまで、無駄を覚悟で繰り返すしかないのに、そこの手間を惜しんじゃうから、結局やってもやっても、やったことの努力の積み重ねが自分のためにならないんですよ。 そんなのより、自分がこれだと思うことを、網羅的に、総当たり的に、無駄を覚悟で積み重ねる意味がないのに、それに徹してくることができないから、やることが全部、生きてこないわけですよね。 無駄を覚悟で全部やるから生きてくるんであって、最初から無駄を省くために、正しげな良さげな言葉を、ああだこだ探すってのは一番いけないことなんですよ。 人生を歩むときに、最初から道がどっちのどの道が正しいか分からないときには、まあ、人間、話半分になるんですよ。ゴールが見えた瞬間に一生懸命になれるけど、ゴールが見えないうちって、人間どっか本気になりきれないから、どっか真剣味が足りないんですよね。 むしろ、学校の中で追い詰められて初めて、正しくなくても苦しいから必死でやるっていうのがあるんだけど、そうじゃない限り、人間って、これ行けば正しいって、インセンティブはいいものがないと頑張らないし、インセンティブの量によって努力量って変わっちゃうんですよ。そんなのは真剣にやってるとは言わないんです。 ともかく、がむしろにやるってことが大事だけど、人間って、正しい道だと思わないとがむしろにならないじゃないですか。そこそこ、どっかで、生乗りいけたなんとなくやってるって。 そういうふうに生乗りでやってれば、間違ってたとわかったとしても、まあいいかって思えるんですよね。いい加減に生きてりゃ害は少ないんですよ。間違えてたらなんだってするじゃないですか。一生懸命やってて、間違ってたとわかった証拠にがっかりしちゃう。いい加減なら害が少ないですよね。 まあもちろん、いい加減でも何かすれば何かを得ることがあるから。でもそれって何が起きるかというと、いい加減なり気楽になりやっていて、真剣味がなくてもやってれば何かを得るし。何でもそうだけど、若いうちは特にそうですけど、のびしろが大きいうちは比較的いいことがあるわけですよ。 そうすると、のびしろが大きいところでみんなが頑張って正解出ました。頑張って正解出ました。頑張るってのはそういうことだって思っちゃうんですよ。でもだんだんだんだん人生が成熟してきて、プロフェッショナルの世界がわかってきて、もう厳しくなってくると、のびしろが減ってくるから、やってもやっても正解が出ないから、いいやってなっちゃうんですね。 だから誰もが最初のビギナーズアトラックののびしろのところを使い切っちゃったら、真剣に生きるってことをしなくなっちゃうんですよ。それを突破しようと思ったら本気でやらなきゃダメです。でも本気でやろうとしても、結果がこれがやれば正しいと言ったらわかんないもんだから、本気でやるならがっかりして、本気でやったならがっかりしてって。 そこを繰り返すってことが必要なんだけど、どうしても失敗したときの無駄。ダメージが大きいから頑張りきれないんですよ。でもそれしなかったらただ流されていくだけの人生なんですよね。ダメージが少ないってことはどうってことないからですよ。 失敗した結果どうってことない人生って、実はうまくいってものびしろ使ってるだけです。本当に正しかったかどうかって、やっぱりわかんないんですよ。本気にならないと何にもわかんないってこと。それが人生の恐ろしさですよね。 だから、ああ損したって思うぐらいぶつかってみるっていうことを当たり前のように自分の瞬間に取り入れなかったら、結局大きめで見ればその人って棚からボタン持ち回ってるだけです。結局のびしろだけうまく利用してる人って、そんなのびしろみたいなものは運でしかないから、一見得してるように見えるけどその人って流されているだけの人生なんですよ。 ダメージが少ないから得してるように見えるけど、ダメージが少なくらいは得してるなんていうのは、今お話したようにのびしろの分だけなんです。そうじゃなくて流されるだけじゃない。棚からボタン持ちじゃない。そういう人生を送ろうと思ったら、やっぱり失敗リスクを恐れちゃいけない。ああ、しまったって。もう悔しいけどそれを繰り返す。そういうふうに思っている人間だけが道に入ることができるっていうことですよね。 それが本気で修行するときの大事な心がけ、修行に入るためのパラドックスです。本気でやってボキンと折れて痛い目に合わなければ本当の道には入らないんですよね。 # 終わりのあいさつ さて、今日もお聞きいただきまして、本当にありがとうございました。 どうぞ良い一日をお過ごしください。 もっと見る #夢窓国師 #夢中問答集 #夢中問答集を読む #無用心の用心 #本気で修行と向き合うために 禅僧と考える...日々の暮らしから人生までプレミアム放送配信中!00:161.初めのあいさつ06:022.心は「意識」される部分だけではない04:013.どうスレ絵ば良いのか04:514.本当に道に入るためには00:095.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
#658 修行に向かう人に:覚え書き 15分・12時間前・ 85再生AI目次修行の本質:損得を超えた覚悟とは「技の修業」と「人生の修行」の深い関係性修行現場の鉄則:明確な指示と沈黙の教え語られない「悟り」と個々の体験の価値本気の失敗が導く『自分に正直』な道
#657 本気で修行と向き合うために③~夢窓国師『夢中問答集』を読む(50)「無用心の用心」③ 16分・昨日・ 140再生AI目次「無用心の用心」:意識を超えた心の深層意識に囚われぬ「無心」へのパラドックス無心に至る試行錯誤と覚悟の道のり「やってつき刀折れ」経験の重要性真の道へ:失敗リスクを恐れぬ本気の修行
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#655 本気で修行と向き合うために①~夢窓国師『夢中問答集』を読む(50)「無用心の用心」① 16分・10月8日・ 216再生AI目次「行は心でやらない」夢窓国師の教え修行を妨げる「自分都合の心」「無用心の用心」とは何か?欲望と執着を超えた「無心」の境地保証なき修行に「本気で向き合う」覚悟
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