2026年10月
#089 『無門関』を読む...067:無門曰く(第22則)
25:21
無門曰く、
若し者裏(しゃり)に向って一轉語を下し得て親切ならば、
便ち、靈山(りょうぜん)の一會(いちえ)、儼然(げんぜん)として未だ散せざるを見ん。
其れ或いは未だ然らずんば、毘婆尸佛(びばしぶつ)、早く心を留むるも、直(た)だ、而今(いま)に至るまで妙を得ず。
わたくし、無門が言おう、
迦葉尊者と阿難尊者、この二人の問答がどのようなことを言わんとしているのか、そこがしっかりと会得できて、ピタリとした言葉で的確にものを言うことができるならば、霊鷲山で行われた釈尊の説法は、今もなお、厳然とここで続いているいるのだとわかるはずだ。
そこまでの境地に達していないのであるならば、釈尊の生まれる遙か昔に修行に志した毘婆尸佛も、やはり今に到るまで悟ることができないままになってしまうではないか。
若し者裏(しゃり)に向って一轉語を下し得て親切ならば、
便ち、靈山(りょうぜん)の一會(いちえ)、儼然(げんぜん)として未だ散せざるを見ん。
其れ或いは未だ然らずんば、毘婆尸佛(びばしぶつ)、早く心を留むるも、直(た)だ、而今(いま)に至るまで妙を得ず。
わたくし、無門が言おう、
迦葉尊者と阿難尊者、この二人の問答がどのようなことを言わんとしているのか、そこがしっかりと会得できて、ピタリとした言葉で的確にものを言うことができるならば、霊鷲山で行われた釈尊の説法は、今もなお、厳然とここで続いているいるのだとわかるはずだ。
そこまでの境地に達していないのであるならば、釈尊の生まれる遙か昔に修行に志した毘婆尸佛も、やはり今に到るまで悟ることができないままになってしまうではないか。
禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで
恵林寺 古川周賢
- 00:151.
初めのあいさつ
- 00:362.
チャプター 2
- 06:353.
「法を伝える」ということ
- 08:194.
霊鷲山の釈尊の説法が今も続くとは
- 09:285.
本来の自分になり切ること
- 00:106.
終わりのあいさつ
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