#458 【非主観 その1】唯識?空?「自分」から始めない東洋哲学的な考え方とは 58分・9月16日・ 3再生AI目次「自分」から始めない東洋哲学の視点「無我」の思想:馬車の例が示す実体ナーガールジュナの「空」:一切皆空の世界唯識が解き明かすリアリティと荒屋識「非主観」世界での自己と他者の意味
#457 【レヴィナス雑談】弟の悩み相談。哲学を伝えるとは?身体的な理解とは? 1時間1分・9月13日・ 3再生AI目次レビナス哲学と「身体的理解」の壁自己の「身体性」欠如がもたらす問題「求める」と「捧げる」関係性の本質外部依存と真の信頼構築の難しさ宮沢賢治「本当の幸い」から見えるもの
#456 複数の「顔」が集まるとルールが必要?レヴィナスが考える自分と社会 57分・9月9日・ 4再生AI目次他者への無限責任が突きつける倫理的問い複数の「顔」が示す有限責任とルールの必然国家がもたらす責任の有限化と対称性合理的な国家システムがもたらす暴力性国家の中での「顔」への応答と倫理的実践
#455 「顔」の言いなりにならないとダメ?レヴィナスの「倫理」と無限責任 45分・9月6日・ 3再生AI目次他者の出現と自己世界への問い対等な関係性の否定:レヴィナスの倫理観「顔」の懇願と弱者への応答他者への無限責任という問い自己犠牲からの脱却?社会と複数者の倫理へ
#454 「顔」はハイキューの日向翔陽?レヴィナスの世界観における他者との関係 46分・9月2日・ 3再生AI目次存在の根源「イリア」と現実からの逃避自己中心的な世界観と他者への誤解予測不能な「顔」としての他者の登場「顔」の呼びかけと絶対的応答責任理解不能な他者との新たな倫理的関係
#453 逃避ではなく逃走せよ!レヴィナスが考え抜いた「存在」とは? 48分・8月30日・ 5再生AI目次世界を「享受」する自己中心的な王様あらゆる存在を消し去った先の「イリア」逃れられない「存在」の重圧と「逃走」「存在」を巡る従来の哲学の盲点自己の袋小路から見出す「他者」の活路
#452 師匠を乗り越えろ!レヴィナスがフッサールとハイデガーに感じた違和感 37分・8月26日・ 2再生AI目次レビナスが見抜いた師の哲学の課題フッサール現象学と他者認識の限界「知り尽くす」ことの暴力性とはハイデガー存在論がはらむ闇の深さ他者との倫理的関係が哲学の出発点
#451 自分が他人を理解するのは「暴力」?20世紀の哲学者レヴィナス 45分・8月23日・ 2再生AI目次レヴィナス哲学の衝撃:他者理解の危険性師ハイデガー思想とナチス構造の連関第一哲学としての倫理:その驚くべき概念他者を「理解」する行為の倫理的暴力性理解を拒む「顔」が求める倫理的応答
#450 【メルロ・ポンティ雑談】AIで作曲?/意味の有効化/荘子の「遊ぶ」、ホワイトヘッドの「創る」 1時間7分・8月19日・ 3再生AI目次メルロ・ポンティ再考:深遠な世界AI作曲体験、意味を問う創造AIとの対話「意味の有効化」荘子とホワイトヘッド「遊」と「創」次回予告:レヴィナスの断絶
#435 【分人 その2】個性とは?愛とは?分人ならではの感覚に触れてみる 46分・6月28日・ 11再生AI目次文人の多様なグラデーション「個性」は文人の構成比なのか自己は文人との相互作用で立ち上がる愛とは「特定の自分」を愛すること「殺人」の多層的な罪を考察
#434 【分人 その1】本当の自分はどこへ行った?個人から分人という在り方へ 41分・6月24日・ 9再生AI目次「個人」概念の再考とその西洋的ルーツ「本当の自分」という概念が生む葛藤「分人」概念:複数の自分が「本物」である理由「分人」モデルが拓く新しい自己受容の形関係性で変化する「分人」:愛と自分とは?
#443 デカルトの心身二元論を乗り越えろ!20世紀哲学の巨人、メルロ・ポンティ 44分・7月26日・ 8再生AI目次デカルト二元論への挑戦盟友サルトルとの深き対立現象学を深化させた知の探求世界観を疑う『疑似問題』とはデカルトと向き合った哲学の結末
#444 人間はなぜ機械と違うのか?当時の常識に挑んだメルロ・ポンティの人間観 1時間1分・7月29日・ 6再生AI目次当時の常識「人間=機械」への挑戦脳科学から見えた身体の不思議な振る舞い全体は部分を超える?ゲシュタルト概念行動を紐解く「3つの秩序」の相互作用世界を「生きる」哲学と実体験の探求
#453 逃避ではなく逃走せよ!レヴィナスが考え抜いた「存在」とは? 48分・8月30日・ 5再生AI目次世界を「享受」する自己中心的な王様あらゆる存在を消し去った先の「イリア」逃れられない「存在」の重圧と「逃走」「存在」を巡る従来の哲学の盲点自己の袋小路から見出す「他者」の活路
私は、言語のことを事象を他者と共有するために記述する手段だと捉えています。
事象を記述した時点で、事象を観測するための切り口上でしか論じる事が出来なくなります。
つまり、事象を言語と言う側面で切り込む事で、記述出来なかった部分を捨ててしまうと思ってます。
記述したことで主語とか術語の概念が生まれてしまって、矛盾や欠落を孕んでしまうのかなーと。
事象そのものを記述無しで共有出来ればよいのですが、、
次も楽しみにしています。