#285「オタク化する社会と代表なき民主主義」大澤真幸先生講義レポート 九州部落解放・人権大学公開講座
18:19
138再生
今回は、九州部落解放・人権大学の公開講座として行われた、社会学者・大澤真幸先生の講義「地球規模の社会的不平等の問題」のレポートをお届けします。
ㅤ
大澤先生の専門は理論社会学・比較社会学で、社会システム論を出発点としながら、ナショナリズム論、資本主義論、宗教(キリスト教)論、世界史の哲学、戦後日本の精神史といった幅広いテーマを横断して論じ続けてきた思想家です。
目の前の社会現象(ナショナリズム、資本主義、格差、ポピュリズムなど)を、宗教や哲学、文学、歴史といったより大きな知の枠組みと結びつけながら読み解いていくのが、大澤先生の一貫した仕事のスタイルです。
今回の講演で語られた「代表されていない感覚」「推し活」「陰謀論」といった一見身近なテーマも、こうした大きな文脈の中に位置づけて論じられました。
ㅤ
ㅤ
■九州部落解放・人権大学
九州部落解放・人権大学は、部落解放運動および人権に関わる活動の次世代の担い手を育成することを目的とした講座です。
もともとは運動や活動の中核を担う一部の受講生を対象とした講座として始まりましたが、現在は対象を一般にも広げ、部落解放運動の関係者に限らず、広く市民が社会の様々な人権課題について学べる公開講座として開かれています。
今回の演題は「地球規模の社会的不平等」だが、今日は直接的には日本の、とりわけ高市政権からはじめる。ただし政権そのものというより、そこに現れている構造そのものを問題にしたい。
不平等や社会の分断といった同じ問題が、形を変えて日本だけでなく世界中にも現れている、ということを具体例を通じて理解してもらいたい、とはじまりました。
ㅤ
ㅤ
■民主主義における「代表されていない」という感覚
議会制民主主義という十分に機能するはずの制度がありながら、多くの、ときにはほとんどの人が「自分は誰にも代表されていない」という感覚を持っているのはなぜか。
もし本当に多くの人が既存政党に代表されていないと感じているなら、その声を拾う政党が出てきて支持を集めればよいはずですが、実際にはそうなりません。
「どの政党も自分たちを代表していない」という気分は広く共有されているのに、なぜかそれをうまく言葉にできない、というのが実情ではないか。
ㅤ
例として、フランスで数年前に起きた「黄色いベスト運動」。発端はガソリン価格の値上げ(環境対策に関連した増税)でしたが、運動は数か月にわたってフランス全土に広がり、当初の争点とは釣り合わないほどの規模になりました。
政府側が具体的な譲歩(最低賃金の引き上げなど)を示しても、運動側の不満は解消されなかった。争点そのものよりも、「自分たちは何かに対して不満なのだ」といううまく言語化できない感覚が、運動の実質だったのではないか。
ㅤ
ㅤ
■「曖昧な弱者」という概念
中間階級・中間層に属する人々を指す言葉で、人数としては人口の多くを占める層でありながら、リベラルが想定する「弱者リスト」(障害の有無、マイノリティなど、明確な属性に基づく支援対象)には入りません。
そのため、リベラルな政治や運動が救済しようとする対象から漏れてしまい、自分たちも本当は苦しい立場にあるのに、誰からも「救済すべき対象」として認識されない、という宙ぶらりんな位置に置かれています。
ㅤ
具体例として、生活保護バッシング。生活保護受給者は明確に「弱者リスト」に含まれる存在ですが、バッシングをする側の人々もまた、実は生活が苦しい「曖昧な弱者」であることが多いとされます。
彼らは「自分たちも助けてほしい」と直接訴えるのではなく、既に弱者として認定されている人々への反発というかたちで、自分の満たされなさを表現してしまいます。SNS上で定期的に起きる炎上も、こうした満たされなさが噴き出したものではないか。
「曖昧な弱者」と「代表されていないと感じる人々」は近い概念ではあるが、同一ではない。
ㅤ
ㅤ
■高市政権誕生をめぐる分析
今年2月の総選挙は、「歴史的な大勝利」でありながら、なぜそれほどの結果が出たのか、はっきりした説明がされていない選挙だった。
通常、選挙で勝つということは、掲げた政策や公約が有権者の支持を集めたということを意味するはず。しかし今回、実質的な争点になったのは消費税をめぐる議論くらいで、世論調査を見る限り、消費税廃止を掲げる野党側の政策のほうが有権者からの人気は高かった。
にもかかわらず、実際に票が野党に流れることはなく、消費税減税に消極的で、なおかつ憲法改正など右寄りの立場をとる高市氏側が圧勝した。意識調査だけを見れば、日本人の多数派はむしろリベラルな立場(たとえば憲法9条改正への反対など)に近いのに、右寄りの政治家・政党が支持を集めてしまう、という矛盾。
ㅤ
この「よくわからない」結果は今回に限らず、近年の東京都知事選、兵庫県知事選(不祥事を抱えながらの再選)、国民民主党・玉木氏の急激な支持拡大、参政党の躍進など、既存の左右の対立軸では説明のつかない選挙結果が続けて起きている現象の延長線上にある。
これらは、「自分は代表されていない」と感じている有権者が、既存の政党の政策内容そのものよりも、「この人(政党)なら自分を代表してくれるかもしれない」という感覚に反応して投票行動をとった結果であり、客観的に見れば高市氏が有権者の意見や気持ちを正確に代表しているわけではない、いわば一種の幻想に近いものだ。
こうした構造は日本だけのローカルな現象ではなく、アメリカにおけるトランプ現象などとも共通する、より広い世界的な動きの一部だと位置づけられました。
ㅤ
ㅤ
■「推し活」というもう一つの手がかり
浅井リョウのベストセラー小説『ザメガチャージ』(3人の主人公によるオムニバス形式で、それぞれの視点から「推し活」に関わっていく構成の作品)を手がかりにしてみる。
とりわけ注目したのは、もともとは社会問題や政治、環境問題などに強い関心を持つ真面目な学生だった登場人物・武藤澄香が、あるきっかけをへて熱心な「推し活」に没頭していく過程です。
社会問題について「学んで視野が広がった」という満足感は得られるものの、それが実際の行動や社会への働きかけには結びつきにくいという若者像が指摘されました。
そうした宙ぶらりんな社会関心のエネルギーが、結果として推し活やオタク的な熱中へと横滑りしていく構造が読み取られています。
ㅤ
ㅤ
■新人類・オタク文化の系譜
推し活・オタク文化の歴史的背景として、1980年代に登場した「新人類」という世代論が挙げられました。
学生運動や政治的コミットメントに象徴される「団塊の世代」に対し、新人類世代は特定の重いイデオロギーにこだわらず、流行を軽やかに取り入れていくことを「開放的」なものとして受け止めた世代。この「重いものにこだわらない」姿勢が、のちのオタク文化とも地続きのものである、という見立てです。
ㅤ
ㅤ
■情報密度と意味の密度
オタク的な関心を特徴づける概念として「情報の密度」と「意味の密度」という対比がある。
鉄道やアニメなど特定の対象については、驚くほど詳細で高密度な情報を蓄積しているにもかかわらず、それがより広い文脈・意味には接続されません。むしろ、そうした広い文脈へと接続すること自体が、意識的・無意識的に避けられている。
対比として、かつてのマルクス主義的な議論のあり方が挙げられました。マルクスのテキストの細部をどう解釈するかという議論が、資本主義や人間、革命といった、より大きな世界の見方そのものの違いに直結していた時代があった、という例です。
オタク的な関心のあり方は、対象へのこだわりの深さでは匹敵しつつも、「より大きな世界とのつながり」を持たない、あるいは持つことを拒んでいる点で対照的だとされます。
ㅤ
ㅤ
■「世界からの呼びかけ」の喪失
かつての世代は、自分自身の最も切実な問題を突き詰めて考えることが、そのまま世界全体の問題につながっているという感覚を持っていた。
自分の抱える悩みが、実は多くの人々に共有された社会的な問題であり、自分は世界から必要とされ、呼びかけられている存在だという実感です。
ところが、1989年前後を境に、この「世界が自分に呼びかけている」という感覚が失われていった、とされます。
世界は自分に対して関心を持っていない、という感覚が、その後の世代に広がっていった。
ㅤ
ㅤ
■バーチャルな世界への置き換えと陰謀論
この「世界から見捨てられている」という感覚を埋め合わせるかたちで生まれるのが、アニメや鉄道といった特定の対象を「自分だけの世界」として設定し、そこで「自分はこの世界に選ばれている」「必要とされている」という感覚を得る、という心の動きです。
現実の世界の代わりに、バーチャルな世界を経由して「呼びかけ」の感覚を回復しようとする試み。
この構造は陰謀論とも地続きです。現実の世界から見捨てられていると感じる人々が、「本当は何者かが自分たちを騙している」という物語を通じて、再び自分が世界に対して重要な役割を持っているという感覚を得ようとする、というもの。
ㅤ
外国人に対して厳しい態度をとることで「自分(たち)だけが愛されている」という感覚を得ようとする排他的なナショナリズムの心理構造。「みんなを愛する」という言い方では実感が持てず、「あなただけを愛する」という排他性を伴ってはじめて「愛されている」という実感が持てる。
この点については、自分にも思い当たるところがありすぎて、聞いていて少ししんどく感じる部分もありました。
ㅤ
ㅤ
■貧困からアイデンティティ・承認の問題へ
欧米における左派・リベラルの歴史的な変化にも触れられました。かつて左派の中心的な関心は労働者の貧困問題でしたが、冷戦後、次第に貧困そのものよりもアイデンティティの承認をめぐる問題に軸足が移っていった。
これはマズローの欲求段階説になぞらえて、「パンの問題」がある程度解決された社会では、次に「尊厳」や自己実現の問題が浮上する、という理解とも重ねられます。
ㅤ
ただし大澤先生は、この「承認」の問題を単なる貧困後の贅沢な悩みとして片づけることはできず、むしろリベラル自身がこれまで十分に視野に入れてこなかった、より根深い問題だという立場を示しています。
ㅤ
■非暴力の市民的抵抗運動の研究、そして日本の特異性
非暴力の抵抗運動(市民的レジスタンス)についてある研究者が、20世紀以降の世界各地の抵抗運動を千件以上にわたって調査したところ、暴力的な革命よりも非暴力の運動のほうが成功率が高いという結果が示されました。
こうした運動の件数自体が、21世紀に入って急増している。
世界的な抗議運動の広がりの中で、日本だけが際立って運動が少ない。それは日本人が客観的に見て特に恵まれているからではなく、むしろ同じように「世界から見捨てられている」という感覚を抱えながらも、それを現実の抗議行動には向けず、バーチャルな世界(オタク的な趣味の世界)への没入によって処理してしまう傾向が強いのではないか。
■「カラマーゾフの兄弟」と、信じることの構造
終盤では、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に触れながら、「神を信じる」という行為の構造が引き合いに出されました。
神が実在するかどうかという理屈の問題ではなく、信じているならばそれにふさわしい行動が自然にとれているはず。
環境問題などの重要性を頭では理解していても、それに本当にコミットする行動が伴わない、という状態は、いわば「信じているとは言えない」状態に近いのではないか。その埋め合わせとして人は、確実にコミットできる代わりの対象(推し活の対象など)に自分の情熱を注ぎ込んでしまう。
■現実にコミットするということ
最終的には、どうすれば人が「現実の世界」に対して本当にコミットできるのか、その回路をどう取り戻すかという問いに収れんしていきました。
ㅤ
大澤先生の専門は理論社会学・比較社会学で、社会システム論を出発点としながら、ナショナリズム論、資本主義論、宗教(キリスト教)論、世界史の哲学、戦後日本の精神史といった幅広いテーマを横断して論じ続けてきた思想家です。
目の前の社会現象(ナショナリズム、資本主義、格差、ポピュリズムなど)を、宗教や哲学、文学、歴史といったより大きな知の枠組みと結びつけながら読み解いていくのが、大澤先生の一貫した仕事のスタイルです。
今回の講演で語られた「代表されていない感覚」「推し活」「陰謀論」といった一見身近なテーマも、こうした大きな文脈の中に位置づけて論じられました。
ㅤ
ㅤ
■九州部落解放・人権大学
九州部落解放・人権大学は、部落解放運動および人権に関わる活動の次世代の担い手を育成することを目的とした講座です。
もともとは運動や活動の中核を担う一部の受講生を対象とした講座として始まりましたが、現在は対象を一般にも広げ、部落解放運動の関係者に限らず、広く市民が社会の様々な人権課題について学べる公開講座として開かれています。
今回の演題は「地球規模の社会的不平等」だが、今日は直接的には日本の、とりわけ高市政権からはじめる。ただし政権そのものというより、そこに現れている構造そのものを問題にしたい。
不平等や社会の分断といった同じ問題が、形を変えて日本だけでなく世界中にも現れている、ということを具体例を通じて理解してもらいたい、とはじまりました。
ㅤ
ㅤ
■民主主義における「代表されていない」という感覚
議会制民主主義という十分に機能するはずの制度がありながら、多くの、ときにはほとんどの人が「自分は誰にも代表されていない」という感覚を持っているのはなぜか。
もし本当に多くの人が既存政党に代表されていないと感じているなら、その声を拾う政党が出てきて支持を集めればよいはずですが、実際にはそうなりません。
「どの政党も自分たちを代表していない」という気分は広く共有されているのに、なぜかそれをうまく言葉にできない、というのが実情ではないか。
ㅤ
例として、フランスで数年前に起きた「黄色いベスト運動」。発端はガソリン価格の値上げ(環境対策に関連した増税)でしたが、運動は数か月にわたってフランス全土に広がり、当初の争点とは釣り合わないほどの規模になりました。
政府側が具体的な譲歩(最低賃金の引き上げなど)を示しても、運動側の不満は解消されなかった。争点そのものよりも、「自分たちは何かに対して不満なのだ」といううまく言語化できない感覚が、運動の実質だったのではないか。
ㅤ
ㅤ
■「曖昧な弱者」という概念
中間階級・中間層に属する人々を指す言葉で、人数としては人口の多くを占める層でありながら、リベラルが想定する「弱者リスト」(障害の有無、マイノリティなど、明確な属性に基づく支援対象)には入りません。
そのため、リベラルな政治や運動が救済しようとする対象から漏れてしまい、自分たちも本当は苦しい立場にあるのに、誰からも「救済すべき対象」として認識されない、という宙ぶらりんな位置に置かれています。
ㅤ
具体例として、生活保護バッシング。生活保護受給者は明確に「弱者リスト」に含まれる存在ですが、バッシングをする側の人々もまた、実は生活が苦しい「曖昧な弱者」であることが多いとされます。
彼らは「自分たちも助けてほしい」と直接訴えるのではなく、既に弱者として認定されている人々への反発というかたちで、自分の満たされなさを表現してしまいます。SNS上で定期的に起きる炎上も、こうした満たされなさが噴き出したものではないか。
「曖昧な弱者」と「代表されていないと感じる人々」は近い概念ではあるが、同一ではない。
ㅤ
ㅤ
■高市政権誕生をめぐる分析
今年2月の総選挙は、「歴史的な大勝利」でありながら、なぜそれほどの結果が出たのか、はっきりした説明がされていない選挙だった。
通常、選挙で勝つということは、掲げた政策や公約が有権者の支持を集めたということを意味するはず。しかし今回、実質的な争点になったのは消費税をめぐる議論くらいで、世論調査を見る限り、消費税廃止を掲げる野党側の政策のほうが有権者からの人気は高かった。
にもかかわらず、実際に票が野党に流れることはなく、消費税減税に消極的で、なおかつ憲法改正など右寄りの立場をとる高市氏側が圧勝した。意識調査だけを見れば、日本人の多数派はむしろリベラルな立場(たとえば憲法9条改正への反対など)に近いのに、右寄りの政治家・政党が支持を集めてしまう、という矛盾。
ㅤ
この「よくわからない」結果は今回に限らず、近年の東京都知事選、兵庫県知事選(不祥事を抱えながらの再選)、国民民主党・玉木氏の急激な支持拡大、参政党の躍進など、既存の左右の対立軸では説明のつかない選挙結果が続けて起きている現象の延長線上にある。
これらは、「自分は代表されていない」と感じている有権者が、既存の政党の政策内容そのものよりも、「この人(政党)なら自分を代表してくれるかもしれない」という感覚に反応して投票行動をとった結果であり、客観的に見れば高市氏が有権者の意見や気持ちを正確に代表しているわけではない、いわば一種の幻想に近いものだ。
こうした構造は日本だけのローカルな現象ではなく、アメリカにおけるトランプ現象などとも共通する、より広い世界的な動きの一部だと位置づけられました。
ㅤ
ㅤ
■「推し活」というもう一つの手がかり
浅井リョウのベストセラー小説『ザメガチャージ』(3人の主人公によるオムニバス形式で、それぞれの視点から「推し活」に関わっていく構成の作品)を手がかりにしてみる。
とりわけ注目したのは、もともとは社会問題や政治、環境問題などに強い関心を持つ真面目な学生だった登場人物・武藤澄香が、あるきっかけをへて熱心な「推し活」に没頭していく過程です。
社会問題について「学んで視野が広がった」という満足感は得られるものの、それが実際の行動や社会への働きかけには結びつきにくいという若者像が指摘されました。
そうした宙ぶらりんな社会関心のエネルギーが、結果として推し活やオタク的な熱中へと横滑りしていく構造が読み取られています。
ㅤ
ㅤ
■新人類・オタク文化の系譜
推し活・オタク文化の歴史的背景として、1980年代に登場した「新人類」という世代論が挙げられました。
学生運動や政治的コミットメントに象徴される「団塊の世代」に対し、新人類世代は特定の重いイデオロギーにこだわらず、流行を軽やかに取り入れていくことを「開放的」なものとして受け止めた世代。この「重いものにこだわらない」姿勢が、のちのオタク文化とも地続きのものである、という見立てです。
ㅤ
ㅤ
■情報密度と意味の密度
オタク的な関心を特徴づける概念として「情報の密度」と「意味の密度」という対比がある。
鉄道やアニメなど特定の対象については、驚くほど詳細で高密度な情報を蓄積しているにもかかわらず、それがより広い文脈・意味には接続されません。むしろ、そうした広い文脈へと接続すること自体が、意識的・無意識的に避けられている。
対比として、かつてのマルクス主義的な議論のあり方が挙げられました。マルクスのテキストの細部をどう解釈するかという議論が、資本主義や人間、革命といった、より大きな世界の見方そのものの違いに直結していた時代があった、という例です。
オタク的な関心のあり方は、対象へのこだわりの深さでは匹敵しつつも、「より大きな世界とのつながり」を持たない、あるいは持つことを拒んでいる点で対照的だとされます。
ㅤ
ㅤ
■「世界からの呼びかけ」の喪失
かつての世代は、自分自身の最も切実な問題を突き詰めて考えることが、そのまま世界全体の問題につながっているという感覚を持っていた。
自分の抱える悩みが、実は多くの人々に共有された社会的な問題であり、自分は世界から必要とされ、呼びかけられている存在だという実感です。
ところが、1989年前後を境に、この「世界が自分に呼びかけている」という感覚が失われていった、とされます。
世界は自分に対して関心を持っていない、という感覚が、その後の世代に広がっていった。
ㅤ
ㅤ
■バーチャルな世界への置き換えと陰謀論
この「世界から見捨てられている」という感覚を埋め合わせるかたちで生まれるのが、アニメや鉄道といった特定の対象を「自分だけの世界」として設定し、そこで「自分はこの世界に選ばれている」「必要とされている」という感覚を得る、という心の動きです。
現実の世界の代わりに、バーチャルな世界を経由して「呼びかけ」の感覚を回復しようとする試み。
この構造は陰謀論とも地続きです。現実の世界から見捨てられていると感じる人々が、「本当は何者かが自分たちを騙している」という物語を通じて、再び自分が世界に対して重要な役割を持っているという感覚を得ようとする、というもの。
ㅤ
外国人に対して厳しい態度をとることで「自分(たち)だけが愛されている」という感覚を得ようとする排他的なナショナリズムの心理構造。「みんなを愛する」という言い方では実感が持てず、「あなただけを愛する」という排他性を伴ってはじめて「愛されている」という実感が持てる。
この点については、自分にも思い当たるところがありすぎて、聞いていて少ししんどく感じる部分もありました。
ㅤ
ㅤ
■貧困からアイデンティティ・承認の問題へ
欧米における左派・リベラルの歴史的な変化にも触れられました。かつて左派の中心的な関心は労働者の貧困問題でしたが、冷戦後、次第に貧困そのものよりもアイデンティティの承認をめぐる問題に軸足が移っていった。
これはマズローの欲求段階説になぞらえて、「パンの問題」がある程度解決された社会では、次に「尊厳」や自己実現の問題が浮上する、という理解とも重ねられます。
ㅤ
ただし大澤先生は、この「承認」の問題を単なる貧困後の贅沢な悩みとして片づけることはできず、むしろリベラル自身がこれまで十分に視野に入れてこなかった、より根深い問題だという立場を示しています。
ㅤ
■非暴力の市民的抵抗運動の研究、そして日本の特異性
非暴力の抵抗運動(市民的レジスタンス)についてある研究者が、20世紀以降の世界各地の抵抗運動を千件以上にわたって調査したところ、暴力的な革命よりも非暴力の運動のほうが成功率が高いという結果が示されました。
こうした運動の件数自体が、21世紀に入って急増している。
世界的な抗議運動の広がりの中で、日本だけが際立って運動が少ない。それは日本人が客観的に見て特に恵まれているからではなく、むしろ同じように「世界から見捨てられている」という感覚を抱えながらも、それを現実の抗議行動には向けず、バーチャルな世界(オタク的な趣味の世界)への没入によって処理してしまう傾向が強いのではないか。
■「カラマーゾフの兄弟」と、信じることの構造
終盤では、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に触れながら、「神を信じる」という行為の構造が引き合いに出されました。
神が実在するかどうかという理屈の問題ではなく、信じているならばそれにふさわしい行動が自然にとれているはず。
環境問題などの重要性を頭では理解していても、それに本当にコミットする行動が伴わない、という状態は、いわば「信じているとは言えない」状態に近いのではないか。その埋め合わせとして人は、確実にコミットできる代わりの対象(推し活の対象など)に自分の情熱を注ぎ込んでしまう。
■現実にコミットするということ
最終的には、どうすれば人が「現実の世界」に対して本当にコミットできるのか、その回路をどう取り戻すかという問いに収れんしていきました。
昼スナママ・フィッシュ明子の役にたたなくてもいいラジオ
フィッシュ 明子
- 00:161.
タイトルコール
- 09:482.
バーチャルな世界への置き換えと陰謀論
- 08:163.
現実にコミットするということ
コメント

感想・質問・応援メッセージを書こう
大澤先生が超絶わかりやすくお伝えくださるので、私はそれをまとめただけなのですが、自分の興味関心にドストライクだったこともあり、熱の入ったレポートになりました。