「自分がないよね」と言われて、なぜか心がざわついた話
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◾️諸法無我
この世界には、それだけで独立して成り立っている「我」というものはない。
縁によって生かされている存在。
◾️歎異抄 第九章
一 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、 天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願 はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたの もしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくお ぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩 の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候 ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしく おもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの 土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、こと にあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はた のもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそ ぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく 候ひなましと云々。
【現代語訳】
「お念仏を称えていますが、踊りあがるほど嬉しいってわけでもないし、 お浄土に行きたいとも思わないんです。これは、よくないことでしょうか」と親鸞聖人にお聞きしてみたとき、
唯円よ、お前ももそうだったんだ。わたしも同じです。よくよく考えてみれば、ほんとうなら喜ぶはずなのに、それを喜ばないからこそ、お浄土に往生することが間違いない、と思っていいいのではないか。喜ぶべきところを喜べないのは、喜ぶべき心が煩悩で押さえつけられているから。仏さまは、最初からそんなことは分かってるから「煩悩を持ってる凡人たちよ」っておっしゃられてるのであって、まさに「阿弥陀さまのお救いは私たちみたいなもののためにあるんだ」ということが、良く分かる。それに、「お浄土に今すぐ行きたい!」なんて思おうともしないで、ちょっと病気にかかったぐらいで、「死んでしまうかも」って気が小さくなっちゃうのも、煩悩のせいなのです。ずっと昔から今になるまで、生まれ変わり 死に変わりしながら、この世にいつまでも未練があって、まだ行ったことのないお浄土にあこがれないのは、まさに煩悩が燃え上がっているからなのです。 名残惜しいのに、この世との縁が尽きて、いやいやながら今の命を終わらせて、 そのときやっとお浄土に行くことになる。そんなふうに、「今すぐに お浄土に行こう」と思わないようなものを、阿弥陀さまは「かわいそうになぁ」 と特に思ってくださっています。ですから、よりいっそう阿弥陀さまの お慈悲と本願がたのもしくって、お浄土往きも間違いなし、と思える。もし、 「うれしい!はやくお浄土に行きたい!」っていう人を阿弥陀さまが 見たら「あの人は、煩悩がないのか?」と怪しがられるでしょう。と、親鸞さまはおっしゃいました。
🔶 西任暁子・堂宮淳賢・後藤雄太 講演会『つながる』
【日程】2026年2月21日(土)
13時30分 開場
14時 講演開始
16時30分 終了
【会場】Tudoico NAGOYA Sta.EAST
【費用】会場参加 3,000円
オンライン参加(アーカイブあり)
3,000円
講演会の詳細、お申込みはこちらから↓↓
https://tunagaru-nakama.peatix.com/
この世界には、それだけで独立して成り立っている「我」というものはない。
縁によって生かされている存在。
◾️歎異抄 第九章
一 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、 天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願 はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたの もしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくお ぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩 の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候 ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしく おもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの 土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、こと にあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はた のもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそ ぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく 候ひなましと云々。
【現代語訳】
「お念仏を称えていますが、踊りあがるほど嬉しいってわけでもないし、 お浄土に行きたいとも思わないんです。これは、よくないことでしょうか」と親鸞聖人にお聞きしてみたとき、
唯円よ、お前ももそうだったんだ。わたしも同じです。よくよく考えてみれば、ほんとうなら喜ぶはずなのに、それを喜ばないからこそ、お浄土に往生することが間違いない、と思っていいいのではないか。喜ぶべきところを喜べないのは、喜ぶべき心が煩悩で押さえつけられているから。仏さまは、最初からそんなことは分かってるから「煩悩を持ってる凡人たちよ」っておっしゃられてるのであって、まさに「阿弥陀さまのお救いは私たちみたいなもののためにあるんだ」ということが、良く分かる。それに、「お浄土に今すぐ行きたい!」なんて思おうともしないで、ちょっと病気にかかったぐらいで、「死んでしまうかも」って気が小さくなっちゃうのも、煩悩のせいなのです。ずっと昔から今になるまで、生まれ変わり 死に変わりしながら、この世にいつまでも未練があって、まだ行ったことのないお浄土にあこがれないのは、まさに煩悩が燃え上がっているからなのです。 名残惜しいのに、この世との縁が尽きて、いやいやながら今の命を終わらせて、 そのときやっとお浄土に行くことになる。そんなふうに、「今すぐに お浄土に行こう」と思わないようなものを、阿弥陀さまは「かわいそうになぁ」 と特に思ってくださっています。ですから、よりいっそう阿弥陀さまの お慈悲と本願がたのもしくって、お浄土往きも間違いなし、と思える。もし、 「うれしい!はやくお浄土に行きたい!」っていう人を阿弥陀さまが 見たら「あの人は、煩悩がないのか?」と怪しがられるでしょう。と、親鸞さまはおっしゃいました。
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本来ならば喜ぶべきことを、なぜ喜べないのだろうか?
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どんな煩悩(エゴ、執着)にも同じだと言えるために。線を引かない。
あつくん、愚者であれ(^^)!なーんて