2026年11月
What is your nature?
21:48
映画「羊たちの沈黙」を観て、自分の行動の核となっているものは何なのかを考えたことをつらつらとお話ししています!
今日も「お時間のある時に良ければ聞いてね」回です!
+ + + + + + + + + + +
気持ちいいことが好きで、誘惑にも積極的に乗っていく。酒を飲む。遊ぶ。恋をする。うまいものには目がない。面白そうな話があれば、深く考える前に乗ってしまう。そういう享楽的な人間は、一見すると依存に陥りやすそうに見える。
しかし、依存と享楽は、同じように快楽へ手を伸ばしながら、その方向が逆なのである。
依存は生からの退避であり、享楽は生への接近である。
依存する人間は、現実から離れるために快楽を使う。
享楽する人間は、現実をもっと味わうために快楽を求める。
一方は「ここから逃れたい」と快楽に手を伸ばし、もう一方は「もっと面白いものがあるはずだ」と快楽に手を伸ばす。
外から見れば同じ酒、同じ遊び、同じ恋愛でも、その内側で起きていることは全く違う。
依存に落ちていく人の心の底には、生の不安がある。
何もしていないと落ち着かない。
一人になると不安になる。
明日のことを考えると気が重い。
自分が何者なのか分からない。
このままでいいのかという焦りが消えない。
現実の中に、そのまま居続けることがつらい。
そこで快楽が必要になる。
酒を飲んでいる間は考えなくていい。
ゲームをしている間は別の世界にいられる。
賭けている間は目の前の勝負だけを考えればいい。
誰かに夢中になっている間は、自分自身のことを考えなくて済む。
快楽が楽しみではなく、逃避になる。
だから依存における快楽は、単純な「気持ちよさ」ではない。
むしろ、苦痛を感じなくて済む麻酔薬なのである。
楽しいから繰り返すのではない。やめたときに戻ってくるものがつらいから繰り返す。
享楽は違う。
うまそうだから食べる。
面白そうだから行く。
気持ちよさそうだから試す。
魅力的だから近づく。
楽しそうだから誘いに乗る。
快楽を通じて、世界に手を伸ばしていく。
その根底にあるのは、生への不安よりも、生への楽天性である。
明日も何かあるだろう。ここが駄目でも、別の面白いものがあるだろう。失敗したら、そのとき考えればいい。
そこには「この現実から逃れたい」という否定ではなく、「この世界にはまだ面白いものがある」という肯定がある。
だから享楽家の欲望は、一つの対象にとどまらない。
酒もうまいが、飯もうまい。恋愛もいいが、一人の夜も悪くない。旅行も楽しいが、家で寝ているのも気持ちいい。
「あれもいい、これもいい」と、欲望があちこちへ伸びていく。
依存は逆である。「これだけが自分を楽にしてくれる」「これを失ったら何もない」と、一つの快楽が特別になっていく。
世界との接点が減り、最後には一本の太い回路だけが残る。
依存している人間は快楽が多すぎるように見えて、実際には少ない。一つしか効かないのだ。
享楽家は百の快楽に誘惑され、依存者は一つの快楽に支配される。
この違いを生んでいるのも、生に対する姿勢なのだろう。
享楽家は、世界の側にまだ何かあると思っている。酒がなければ飯がある。恋愛が駄目なら友人がいる。仕事がつまらなければ休日がある。今日は駄目でも、明日は何かあるかもしれない。
一つの快楽に人生を預けるには、世界に好きなものが多すぎる。
もちろん、享楽家と依存者がまったく別の人種というわけではない。
むしろ紙一重なのだろう。
同じ人間が、人生のある時期には享楽家であり、別の時期には依存者になることもある。
人生が面白いうちは、快楽は世界への入口になる。
人生そのものが苦痛になれば、同じ快楽が世界からの出口になる。
依存が「これがなければ、生きていられない」だとすれば、享楽は「生きていれば、まだ何かあるだろう」である。
同じように快楽へ手を伸ばしながら、一方は世界から遠ざかり、もう一方は世界の中へ入っていく。
秘密結社+M (@freakscafe)さんのXより
https://x.com/freakscafe/status/2114572822332985653?ref_src=twsrc%5Etfw
今日も「お時間のある時に良ければ聞いてね」回です!
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気持ちいいことが好きで、誘惑にも積極的に乗っていく。酒を飲む。遊ぶ。恋をする。うまいものには目がない。面白そうな話があれば、深く考える前に乗ってしまう。そういう享楽的な人間は、一見すると依存に陥りやすそうに見える。
しかし、依存と享楽は、同じように快楽へ手を伸ばしながら、その方向が逆なのである。
依存は生からの退避であり、享楽は生への接近である。
依存する人間は、現実から離れるために快楽を使う。
享楽する人間は、現実をもっと味わうために快楽を求める。
一方は「ここから逃れたい」と快楽に手を伸ばし、もう一方は「もっと面白いものがあるはずだ」と快楽に手を伸ばす。
外から見れば同じ酒、同じ遊び、同じ恋愛でも、その内側で起きていることは全く違う。
依存に落ちていく人の心の底には、生の不安がある。
何もしていないと落ち着かない。
一人になると不安になる。
明日のことを考えると気が重い。
自分が何者なのか分からない。
このままでいいのかという焦りが消えない。
現実の中に、そのまま居続けることがつらい。
そこで快楽が必要になる。
酒を飲んでいる間は考えなくていい。
ゲームをしている間は別の世界にいられる。
賭けている間は目の前の勝負だけを考えればいい。
誰かに夢中になっている間は、自分自身のことを考えなくて済む。
快楽が楽しみではなく、逃避になる。
だから依存における快楽は、単純な「気持ちよさ」ではない。
むしろ、苦痛を感じなくて済む麻酔薬なのである。
楽しいから繰り返すのではない。やめたときに戻ってくるものがつらいから繰り返す。
享楽は違う。
うまそうだから食べる。
面白そうだから行く。
気持ちよさそうだから試す。
魅力的だから近づく。
楽しそうだから誘いに乗る。
快楽を通じて、世界に手を伸ばしていく。
その根底にあるのは、生への不安よりも、生への楽天性である。
明日も何かあるだろう。ここが駄目でも、別の面白いものがあるだろう。失敗したら、そのとき考えればいい。
そこには「この現実から逃れたい」という否定ではなく、「この世界にはまだ面白いものがある」という肯定がある。
だから享楽家の欲望は、一つの対象にとどまらない。
酒もうまいが、飯もうまい。恋愛もいいが、一人の夜も悪くない。旅行も楽しいが、家で寝ているのも気持ちいい。
「あれもいい、これもいい」と、欲望があちこちへ伸びていく。
依存は逆である。「これだけが自分を楽にしてくれる」「これを失ったら何もない」と、一つの快楽が特別になっていく。
世界との接点が減り、最後には一本の太い回路だけが残る。
依存している人間は快楽が多すぎるように見えて、実際には少ない。一つしか効かないのだ。
享楽家は百の快楽に誘惑され、依存者は一つの快楽に支配される。
この違いを生んでいるのも、生に対する姿勢なのだろう。
享楽家は、世界の側にまだ何かあると思っている。酒がなければ飯がある。恋愛が駄目なら友人がいる。仕事がつまらなければ休日がある。今日は駄目でも、明日は何かあるかもしれない。
一つの快楽に人生を預けるには、世界に好きなものが多すぎる。
もちろん、享楽家と依存者がまったく別の人種というわけではない。
むしろ紙一重なのだろう。
同じ人間が、人生のある時期には享楽家であり、別の時期には依存者になることもある。
人生が面白いうちは、快楽は世界への入口になる。
人生そのものが苦痛になれば、同じ快楽が世界からの出口になる。
依存が「これがなければ、生きていられない」だとすれば、享楽は「生きていれば、まだ何かあるだろう」である。
同じように快楽へ手を伸ばしながら、一方は世界から遠ざかり、もう一方は世界の中へ入っていく。
秘密結社+M (@freakscafe)さんのXより
https://x.com/freakscafe/status/2114572822332985653?ref_src=twsrc%5Etfw
発音トレーナーまやの英会話
英語発音トレーナーまや
- 06:051.
羊たちの沈黙を久々に観ました。
- 05:032.
快楽と享楽
- 09:323.
What is your nature?
- 01:094.
ではまた!
コメント
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