TOPライフスタイル子育て対話の本棚(旧:特別支援の本棚)#1318 障害は親が「受容」するものなのか?16:55 8月31日 473再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次親の「障害受容」の言葉への疑問子どもの人生と親の感情の境界線「受容」は絡んだ糸を解きほぐす作業社会構造と子どもの主体性を見失う危惧「多様性を受け入れる」言葉の無意識の前提AI文字起こし(β版) # チャプター 1 おはようございます、沙織です。このチャンネルは日々の暮らしや子育て、障害児育児やシングルマザーの経験を通して感じたこと、私なりの言葉でお話をしております。 今日はですね、親の障害需要についてお話をしていきたいと思います。 まずこの障害需要、何なのかですけども、これはですね、身体的、精神的、知的どれでもいいんですけども、 障害を負った本人が、その現実を内面から受け止めて、障害と共に生きる、障害のある自分を受け止める、 この新しい価値観や人生を構築していく、心理的プロセスのことなんですね。 けれど、この障害需要、その障害のある本人に向けた言葉なんですけども、障害者の親をしていると、障害需要という言葉に結構出会ってきます。 それは単的に、親が自分の子供の障害を受け止めるっていうものなんですけど、これはね、いい言葉として結構使われるんですよ。 例えば、お母さん、お子さんの障害を受け止めてらっしゃるんですね、需要されてらっしゃるんですね、とか、乗り越えられたんですね、って形を変えて言われることもあります。 けれど、私自身ね、この言葉にずっと引っ掛かりがあったんですよね。 なぜかというと、私はですね、需要できたかできてないかと言われたら、需要できていなくて子供の障害があることに慣れたっていう表現をよく使っています。 もっと言うと、その需要、親の障害需要って言葉にすごい違和感を感じるんですね。 なぜかというと、その需要する主体って親なんだろうかって思うんですね。 なぜかというと、こんなにもまだ子供のことを理解できていない、知らないことがたくさんある中で、日々彼のことを見続けていないといけない。 この子は何を考えているんだろう、この子は今どうしたいんだろう、どこまで成長したんだろう、何が私を超えているんだろうって考える中で、うまくいかないことがいっぱいあるんですよ。 そんな中で、こんなにもうまく受け止められていない私が障害需要みたいな気持ちがすごいあります。 そんな中で、先日あるXのポストを読んで、この違和感の正体が少し言語化された気がしたんですね。 なので、今日はそのポストを深掘りしながら、需要という言葉についてじっくり考えてみたいと思います。 はい、そして放送に入る前に一つお知らせです。 今週の水曜日、9月2日の21時から、岡田太郎先生、ボイシーパーソナリティの岡田太郎先生の放送にお邪魔させていただきます。 これはコラボ放送というよりは、私とボイシーパーソナリティで小学校教育をされている恩次まりさんとで月一やっているスキアララジオというのがあるんですけども、 このスキアララジオの恩次まりさんと私、2人で岡田太郎先生の放送に乗り込んでいくという形です。 もしよかったら、後で放送URLいただきましたら貼っておきますので、こちらに遊びに来てくださるととても嬉しいです。 はい、というわけで早速本題に入っていくんですけども、Xのポストはこんな内容でした。 出だしはですね、親の障害需要ということがずっとよくわからないから始まるんですよ。 少し飛ばして先の文章を読ませていただきますね。 障害があるのは子どもであって、その障害とともに生きるのも子ども本人。 親と子は別人格である。一方で障害のある子を育てる中で、親自身に起きることは親自身の問題として分けて考える必要がある。 それが元々自分が持っていた価値観との摩擦なのか、想像していた子育てとのギャップなのか、 親としての自家像の揺らぎなのか、ケアある生活の負担なのか、将来を支える制度がないことへの不安なのか、 原因が違えば当然向き合い方も必要な解決策も違うはずなのに、 それを全部まとめて、まだ障害を需要できていないの一言にしてしまうと、そこで思考が止まってしまう。 支援が必要な制度の話まで、親個人の心の課題にすり替わってしまうとあって、その先もまだまだ続くんですけれども、 このポストが一番強く指摘していたのは、 親の障害需要という物語の中に子ども本人が生まれてしまうことということでした。 親が困っていることと、本人が困っていることは同じではない。 本人には本人の課題があり、関心があり、望みがあり、人生がある。 そういうことだったんですよね。 このポストが、私がこれまで4年間くらい、 あの手この手で障害者の親の話をしてきたんですけど、 全てが詰まっていると思いました。 私ね、よく障害児育児について、質問を受けることもインタビューを受けることもこれまで何回もあったんですけども、 その中でよくある質問で結構困っていたのが、 お子さんはどんなことで困っているんですか?って聞かれるんですけど、 正直ね、分かんないんですよ。 私が子どもの困り感を話してみても、それが合っているのかどうか分かんない。 なぜかというと、だって子どもの困り感なんですもん。 それを全部私が分かっているかどうか分かんない。 私から見えた視点でしかないんですよね。 だから私はよく、子どもがどういうケアが必要なのかというよりは、 自閉症児ってどんなものなのかっていうのは、私も分かんない。 ずっと育ててきてるけど分かんない。 私から見えた視点はお話できるんだけど、それは分かんない。 でも私は何を発信しているのかというと、 障害者の親の困り感、そして親に支援が足らないことっていうのは、いくらでも話せます。 N1の意見なんですけども、 いっぱい話せますってことで発信をしてきているんですよね。 でもそれを時折、その言葉のごとく分かってくださる方もいるんですけども、 お母さんはたくさんのことを需要していらっしゃるんですね。 障害を需要していらっしゃるんですね。 お子さんのことを受け止めていらっしゃるんですねって言われるんですけど、 でもそれに対してはすごい違和感があって、 だからすごい今回のこのポストが全てを語ってくれているなって思いました。 自分の中にあった違和感が、初めてちゃんと言葉に誰か別の人にしてもらえた気がしました。 あと時折、自由をできていますかって聞かれることもあるんですよね。 そのまま聞かれるわけじゃないんですけど、 形、言葉を変えてどういうふうに乗り越えられてこられたんですかとかって聞かれる時あるんですよ。 でもその言葉自体が何となく私が試されている感覚があって、 それはなぜかというと、そういうつもり相手はないと思うんですよね。 私はどんなふうにでも受け止めてしまうのかというと、 まるで私が合格点を取ればいい母親で、取れなければまだ自由をできていない未熟な母って言われているかのような気がしていたんです。 でもよく考えたら、それ自体がおかしいことで、 障害があるのは私の子どもたち、子どもの人生を生きるのも子どもたち、 それなのに私自身が子どもの障害というものを丸ごと引き受けて消化しなければならないかのような構図が、 皆さんの、もしくはインタビューする方の質問者の頭の中にあって、 いつの間にか私はそういう立場に立たされていた、 そういう状態にずっと混乱し続けていたような気がしています。 だからその社会の在り方に、自由をできていない自分を責める気持ちと、 ともにもっと言うと心の奥底には、そもそもなぜ私が主体として主軸となって自由をしなければいけないんだろう、みたいな違和感が同時にあったんですよね。 自分を責める気持ち、そしてなぜ私がという気持ちがずっと心の中にありました。 これ実は前々回のところでプレミアム放送でお話ししたバウンダリーの話とすごくつながっていると思います。 そのプレミアム放送の中で話したのは、ざっくり言うとこういうことでした。 それは一般的な人間関係のバウンダリーは、新しく出会った人との間でゼロから引き直していくものなんですよね。 この人はこういう人で、だけど私はここで線を引きます、相手も引きましょうね、みたいな引き直しの話なんですよね。 でも親子のバウンダリーは全然違います。 もともと自分のお腹から出てきていて、そしてその子が何もできない状態でおんぶに抱っこ、そして食事を食べておっぱいをあげるところから始まる。 だからもともと解け合った関係の中から少しずつ別れていかなければいけない。 それには技術と努力が必要で、その過程には当然痛みもトラブルも起きる、そういう話をさせていただきました。 ちょっとチャプター変えますね。 # チャプター 2 障害需要も同じ構造をしていると思うんです。 子どもの障害と、私自身の感情と価値観、そして心の状態というものは、本来別のものなんですよね。 でも親子って、もともと強化栓が溶け合っているから、強化栓がぐちゃぐちゃな状態から始まっている関係だからこそ、 子どもの障害と私の動揺がぐちゃぐちゃに絡み合ったまま、そこにあるんですよね。 ぐちゃぐちゃに絡み合っているのに、この糸を解かないといけないのに、引っ張り合うかどうかにまた時間が進んでいくんです。 だから受容するというのは、本当は感情のスイッチを切り替えることじゃなくて、絡み合ったものを1本ずつ丁寧に解いていく作業なんだと思うんですよね。 具体的に言うと、これは私の課題、これはあなたの課題、これは制度の問題、これは私が勝手に想像していた人生と現実のギャップ、 そういうものをそれぞれの箱に分別していくかのようにする作業が受容に行き着くまでのものだと思うんですよ。 だから当然時間がかかるし、時間がかかるのはなぜかというと、痛みが伴うから。 そんなすごい作業にもかかわらず、受容できているかできていないかの二択で測ろうとすること自体が、そもそもすごい無理があったんだろうなって思います。 ここでもう一度、ポストが指摘していたもう一つの点に戻っていきたいんですけれども、 親の障害受容という言葉じゃないですよね、そういう物語、ストーリーみたいなものが一人歩きすると、 二つのことが見えなくなるなって思いました。 一つは社会の構造です。 それはですね、親が疲れ切っているのは、使える制度がない、担い手が足りていないからかもしれません。 けれどもそれなのに、社会では親がまだ受容できていないから辛そうに見えるで片付けてしまうと、 本来、社会が担うべき責任が親個人の心理の問題に、心の状態の問題にすり替わってしまっているように感じています。 もう一つ何かというと、子ども本人の存在なんですよね。 これ何かというと、親の障害受容の物語が主役になってしまうと、 そこに子ども自身、障害のある子ども自身の意思だとか興味とか望みとか願いとかね、 そういうものがすべて置き去りになってしまう危険があると私は思っています。 私の子どもたちはですね、時々私の受容のプロセスの登場人物にされてしまうことがあるんですけれども、 彼らは彼らで自分自身の人生の主人公を生きているんですよね。 そういうふうに考えると、親の障害受容というテーマ設定そのものが、誰が主語であるべきかをすごいすり替えてしまっているんですよね。 親の障害受容、そもそも障害受容って障害者のものだよね。障害ある人のものだよね。 親は親の話があるんだよねって。でもごっちゃに社会はなってるよねっていうものだなって私は思っています。 伝わりますかね。伝わってない気もするんですけど、ちょっとうまくできない中でもう一つ私がね、 あのポストの中でハッとした部分があったので、それもお話をしていきたいと思います。 ポストの中に多様性を受け入れるっていう考えも置いてあったんですけれども、 これよく聞きますよね。多様性を受け入れるっていう言葉。 私ね、この多様性って言葉すごい大事だと思ってるんですけど、 多様性を受け入れるっていう、付属されている受け入れるっていう言葉がつながってはいけないと思ってるんですよね。 なぜかというと、受け入れるっていうとマジョリティ側が受け入れてあげるよって、 上から少し目線じゃないですか。少し上から目線。だからそういうものの中にも同じ構造があるって思っています。 これはポストでも指摘されていたんですけれども、障害のある人を含めて、 多様な人たち、ここでいうマイノリティの人たちは最初から社会の中にいるんですよね。 誰かに受け止めてもらって、受け入れてもらって、そこで初めて存在が確認されるわけじゃないんですよね。 それなのに、受け入れるっていう言葉を使った瞬間、受け入れる側がいつの間にか標準の位置に立ってしまっているんですよね。 そう、なんかこっちおいでよみたいな、ユートピアみたいな場所にされてしまっている。 だけど、障害学のことなんかが書かれている書籍を読んだり記事を読んだりすると、これは社会モデルという考え方で説明されていることが多いです。 多いですというか、そればっかりです。障害はその人の体の中にあるんじゃなくて、 社会側の多様な人を前提に作られていないことから生まれているという視点ですよね。 これ何かというと、社会には車椅子の人もいるし、バギーで歩いている人もいる。 それなのに階段しかないと、そこで障害のある人が生まれてしまうという、 社会を基準モデルですよね。その人基準じゃなくて、社会基準モデルで障害者が生まれてしまうという基準ですよね。 これをもってして私が何を思うのかというと、私も含めてそうなんですけども、 自分からすごく遠いところにある障害なら多様性は大事だよねって簡単に言えるんですけども、 でもそれが自分の子供のことになった瞬間、自分の家族のことになった瞬間、 受け入れられないに変わってしまうことってあると思うんです。 その揺れ幅の中に自分は当然障害のない側にいるという無意識の前提が、 なんとなく透けて見えるなぁと思っていました。 だからこれはポストを読んでいて、一番自分ごととして刺さった部分だったなぁと思っています。 だから今日ちょっと暑くなってしまって、話がいつも以上にとっちらかっているかもしれないんですけども、 最後に皆さんに質問をしてみたいんですよね。 一緒に考えてもらいたいことがあります。 それは何かというと、もし私が時間をかけて自分の子供たちの障害を受容できましたと言えるようになったとして、 それは称えられるべきことなんでしょうか? すごいね、お母さん偉いねって言われるべきことなんでしょうか? どう思いますか? 私は全然そんな風には思えません。 それは社会の支援が足りない中で、マンパワーが足りない中で、 親が個人的に痛みを伴いながら、時間をかけてバウンダリーを引き直したという、 本当に一人の人が一人で抱えるべき責任じゃないものを抱えたという悲しいストーリーが美談に書き換えられただけだと思うんですよね。 もっと言うと、そんな悲しい結果の一つに過ぎないと思っています。 だから、じゃあ何を称えればいいんだよって思うかもしれないんですけど、 私が思う本当に称えられるべきは、そこに至るまで一人で頑張った親とかではなくて、 そもそもそんなに一人で頑張らなくても済む社会なんじゃないかって思っています。 だからまとめておきますね。 障害は私は親が受容するものじゃないと思っています。 子供の人生は子供のもの。 私にできるのは、私自身の感情と子供たちの人生、障害のある子供たちの人生と社会課題を一つずつ丁寧に振り分けて、 ボックス分けして見つめていくこと、そこから考えていくことだけなんだと思っております。 何かしら伝わっていると本当に嬉しいです。 はい、月曜日からちょっと重たくなってしまったんですけども、 今日は月曜日、いい1日にしていきましょう。さようなら。 もっと見る対話の本棚(旧:特別支援の本棚)プレミアム放送配信中!08:581.チャプター 107:572.チャプター 2コメント感想・質問・応援メッセージを書こう こんな夜更けにオハナかよ🍌めめ✏️note更新中9月2日さおりさんの思考の深さ。自分が言い表せなかった言葉が綴られています。自分が福祉現場で働いていた時に当たり前のように語られていた障害受容ということば。凸凹のある子の親になってから、その言葉をぶつけられると、とてつもない違和感を感じます。上から押し付けられているような。当たり前に使われてきたその言葉を、ひっくり返して本当にそうなのだろうかと、裏から表から斜めから、見ることの大切さに改めて気付かされます。いつかさおりさんと語り合いたいです☺️✨1返信 たんぽぽ9月2日娘は、癇癪など目に見えるアクションを起こすのがほぼ家だけのため、まず障害があること自体をなかなか認識してもらえません。助けてほしいと親の私を通して地域や学校、関わる多くの人に伝え続けてやっと、生きることに困難がある〝障害〟ある人なのだと認識していってもらっている毎日です。受容ということばはしっくり来ず、障害ある子の親として現実から逃げない覚悟と、頼れる人や場を開拓し続けるしつこさが身に付いてきた、私にはそれがしっくりきます。😄延々語れそうなテーマですね!2返信 土屋綾乃8月31日正解のないところをぐるぐるする感じ🌀障害の重さや親御さんの感じ方、生きてきた環境…本当様々なことが絡まり合う中で、ご本人にとっても親御さんにとってもよりよい方向を探り続ける感じかな…4返信 ちょっこ8月31日私はずっと親御さん達にお子さんの障害を受け入れて欲しいと思ってきた側です。それは「そこにいるそのままの姿を見て欲しい」気持ちが大きかったと思います。療育センターでは、「我が子の障害を治して、通常級に入れたいので、厳しく指導して下さい」と言われる事が多々ありました。その子が辛くなる未来が見えているのに、支援学校ではなく小学校に送り出した経験もあります。さおりさんの言葉が胸に刺さると同時に、出会ってきた保護者の方にどんな声をかけられたのだろう?と自問自答です。6返信 ちょっこ8月31日ここら辺はじっくりさおりさんと対話してみたいですね🩵3 AZ8月31日📕🧑🤝🧑🎶🏃💓今朝も心に刺さりまくりの内容でした。時間を作って聞き直したい!考えたい!5返信 もっと見る
#1330 素直さってなんだろう? 13分・5時間前・ 148再生AI目次「素直さ」に対する自身の問いと気づき強みと弱みが交錯する「素直さ」の多面性自分を迷わせる「バウンダリー」のバグとは?発信活動に見る「他者軸」と「内向きの素直さ」あなたは「内向き」と「外向き」どちらの素直さ?
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#1326 失ったものを数えてしまいがち 9分・9月9日・ 230再生AI目次人生で失ったものを数える心理笹山さんの不当な降格と5年間の苦悩恨まずにいられた笹山さんの境地過去の苦しみを学びとすり替える危うさ今あるものに目を向け恨みを手放す思考
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自分が言い表せなかった言葉が綴られています。
自分が福祉現場で働いていた時に当たり前のように語られていた障害受容ということば。
凸凹のある子の親になってから、その言葉をぶつけられると、とてつもない違和感を感じます。
上から押し付けられているような。
当たり前に使われてきたその言葉を、ひっくり返して本当にそうなのだろうかと、裏から表から斜めから、見ることの大切さに改めて気付かされます。いつかさおりさんと語り合いたいです☺️✨
助けてほしいと親の私を通して地域や学校、関わる多くの人に伝え続けてやっと、生きることに困難がある〝障害〟ある人なのだと認識していってもらっている毎日です。
受容ということばはしっくり来ず、
障害ある子の親として現実から逃げない覚悟と、
頼れる人や場を開拓し続けるしつこさが身に付いてきた、私にはそれがしっくりきます。😄
延々語れそうなテーマですね!
障害の重さや親御さんの感じ方、生きてきた環境…本当様々なことが絡まり合う中で、ご本人にとっても親御さんにとってもよりよい方向を探り続ける感じかな…
それは「そこにいるそのままの姿を見て欲しい」気持ちが大きかったと思います。
療育センターでは、
「我が子の障害を治して、通常級に入れたいので、厳しく指導して下さい」
と言われる事が多々ありました。
その子が辛くなる未来が見えているのに、支援学校ではなく小学校に送り出した経験もあります。
さおりさんの言葉が胸に刺さると同時に、出会ってきた保護者の方にどんな声をかけられたのだろう?と自問自答です。
今朝も心に刺さりまくりの内容でした。
時間を作って聞き直したい!
考えたい!