176.作品は独立で評価!道徳を持ち込むな!本居宣長が譲らぬ点
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タイトルコール
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金曜日は日本古典の名言の日。今日は #これだけは譲れない にちなんで、本居宣長さんが譲れなかったポリシーをご紹介。排蘆小船より。
- 06:163.
「行跡の善し悪し、心の邪生美悪はその道その道にて褒貶議論すべきことなり」という本居宣長さんの語りは、ポリコレが重視される今、作品と演者、作家をもう少し切り離して考えるべきではないかという、私の個人的な思いとつながりました。
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明日は #どこで暮らし働くか に合わせたフリートークを予定しています。
コメント

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私も裕子さんと同じ考えです。
昔、「あなたは詩人なのだからもう少し言動に気をつけて」と言われた時、
「え、では与謝野晶子や太宰治の作品は、本人の素行を理由に唾棄されるもの、とお考えですか? 」
と反論したら謝られた、ということがありました。
反発してわざわざ素行悪くしたり、反社会的な芸術家に憧れてそのように振る舞ったりする必要はないですが、
「詩人だから」「女優だから」
などを理由に聖人君主的なふるまいを求める消費者の圧力はどうなのか、と思います。
宣長の生きた時代は江戸時代ですから、おそらく和歌は二条派が主流だと思います。
二条派和歌であれば、僧侶の詠を含む恋歌のほとんどは題詠であるはず。
題詠は本人の体験の有無や実感、思想を脇に置いてなされるもの。
恋歌を残した僧侶が恋をしたうえで恋歌を残したのだ、という前提の質問をする時点で、お弟子さん、勉強不足が過ぎるだろう、
と思ってしまいました。
あとは、出家前の在俗時代に詠んだ恋の実詠歌が、出家後の名前で伝わっている、というケースもありますね。
こんな論理が展開されます。
①人は恋愛の情が誰でもある
②僧侶も人間だから恋愛の情がある
③思ったことを詠むのが和歌である
④僧侶に恋の和歌があってもよい
⑤僧侶は禁じられている分、切実な恋情を抱いているから良い歌ができる
質問でお弟子さんが挙げていた例は僧正遍昭でした。
確かに!
もしも、演者(タレント等)が、公的な罪や、私情を挟んだ罪を犯してしまったのならば、諌められるべきだと存じます。
しかし、現在進進行形の作品ならばいざ知らず、過去の実績(人を貶めたもの以外)は、評価されるべきと感じながら、今日の裕子さんの講義を噛み締めながら拝聴しました。
ありがとう存じます。
ちなみに、明日のテーマの前フリについてですが、私にも、非現実的な「夢と希望」があります。