2026年10月
便所の落書きに、プロレベルの編集が入る時代
09:44
# 「便所の落書き」にプロの編集者がついた時代(AIで内容を文書化した記事)
最近、X(旧Twitter)に、妙に文章の整った長文の投稿が増えたように思う。
私はこのところ、Xにあまり投稿しなくなった。学生が論文を発表したときに宣伝する程度で、あとは気が向いたときに何かを書くくらいである。それでも、ニュースや世の中の動きを知るために、タイムラインはときどき眺めている。
相変わらず言い争いは多い。個人同士の喧嘩がいつの間にか裁判沙汰にまで発展しそうになっていたりして、見ているだけでうんざりすることもある。もっとも、そういうものも含めて、つい覗いてしまうのがSNSというものなのだろう。
ただ、最近気になっているのは、そうした言い争いとは別のことである。
社会問題や政治、教育、仕事の話などについて、匿名のアカウントが延々と長い文章を投稿している。これがまた、実によくできている。文法は正確で、誤字脱字もなく、論理展開もそれなりに整っている。最後には、何やら教訓めいた結論までついている。
昔なら、ちょっとしたライターが時間をかけて書いていたような文章である。
おそらく、かなりのものが生成AIを使って書かれているのだろう。もちろん、見た目だけでAI製だと断定することはできない。しかし、こうした文章が急に増えた背景に、生成AIの普及があることは想像に難くない。
ところが、これがどうにも落ち着かないのである。
昔、インターネットの掲示板は「便所の落書き」などと呼ばれていた。あまり上品な表現ではないが、言い得て妙なところがあった。
そこには、誤字脱字だらけの文章もあれば、何を言いたいのかよく分からない書き込みもあった。思いついたことを勢いで書き、途中で脱線し、言葉が足りないまま投稿してしまう。そういう雑然とした場所だった。
Twitterも、もともとはその延長線上にあったように思う。
ところが今は、その便所の落書きに、プロの編集者がついているような状態になっている。思いつきの感想にまで立派な構成が与えられ、きれいな結論が添えられる。落書きだったはずのものが、いつの間にか模範的な小論文になっているのである。
考えてみれば、奇妙な話ではないか。
もっとも、私自身も生成AIを日常的に使っている。
大学で仕事をしていると、さまざまな書類を書かなければならない。学生の評価書、学内の申請書、形式的な理由書など、その種類は実に多い。学生の推薦書のように慎重に言葉を選ぶ必要があるものもあれば、正直なところ、これを本当に誰かが読むのだろうかと思うような書類もある。
そうした文章では、何を書くべきかを自分で決めたうえで、AIに体裁を整えてもらうことがある。内容についての責任はもちろん私が負うが、いわば「よそ行き」の文章に仕上げる仕事は、AIがなかなか上手にやってくれる。
研究指導でも同じである。以前は、学生の書いてきた英語論文の草稿があまりに読みにくく、まず文章の意味を理解するだけで苦労することがあった。最近はAIのおかげで、少なくとも文法的には整った文章が出てくる。科学的な内容の確認は別問題だが、何を主張しようとしているのかは、ずいぶん把握しやすくなった。
だから、AIによる文章作成そのものを否定するつもりはない。
ただ、SNSで読みたい文章は、少し違うのである。
私が知りたいのは、その人が何を見て、何に腹を立て、何を面白いと思い、どう考えたのかということだ。文章が多少不器用でも、考えが途中で揺れ動いていても構わない。むしろ、そうした不完全さの中に、その人自身の姿が現れることもある。
ところが、どの投稿も妙に整っていると、誰の文章を読んでいるのか分からなくなってくる。
もちろん、AIで推敲された文章にも、その人自身の思想や感情は込められているだろう。しかし、書き手の癖や言葉の選び方、考えながら書いているときの迷いまで均されてしまうと、何か大事なものが失われるようにも感じる。
もう一つ、興味深い変化がある。
ほんの数年前まで、文法的に正しく、論理的に整った長文を書けるという能力は、その人の知的な能力を示す一つの目安になっていたのではないか。
もちろん、文章が上手だからといって、その人が賢いとは限らない。それでも、筋道の通った文章を何千字も書くには、それなりの知識と訓練、そして時間が必要だった。
ところが今は、AIに一言二言指示するだけで、数千字どころか、一万字近い文章まで簡単に生成できる。
文章を書くコストが、劇的に下がったのである。
困ったことに、読むコストはそれほど下がっていない。
AIなら数秒で長文を作れるが、読む側は生身の人間である。中身があるのか、論理が正しいのか、読む価値があるのかを判断するには、結局それなりの時間がかかる。私自身、AIが大量に生成した文章を読みながら、仕事が楽になっているのか、それとも読む仕事を増やされているのか、分からなくなることがある。
そして、文章の生産コストが極端に下がったことで、もう一つの逆転が起き始めているようにも思う。
かつては、整った長文を書ける人を見ると、何となく知的な印象を受けた。ところが今では、SNSにあまりにも立派な長文が流れてくると、むしろ「またAIに書かせたのだろうか」と思ってしまう。
賢そうに見せるための文章が、かえってその逆の印象を与えてしまうのである。
少々意地の悪い見方かもしれない。しかし、これも生成AIがもたらした変化の一つなのだろう。
私は、文章を書くのが苦手な人がAIの力を借りて自分の考えを表現できるようになることは、素晴らしい進歩だと思っている。文章の巧拙によって、表現する機会が制限される必要はない。
ただ、文章の見事さと、その背後にある思考の深さは、以前にも増して区別しなければならなくなった。
これからは、きれいな文章を書けること自体には、あまり価値がなくなるのかもしれない。何を考え、何を発見し、何を伝えようとしているのか。結局、問われるのはそこなのだろう。
そんなことを考えながら、今日もXのタイムラインを眺めている。
また、立派すぎる長文が流れてきた。
やれやれと思いながらも、たまには面白いことが書いてあるので、つい最後まで読んでしまう。
便所の落書きにプロの編集者がついた時代というのも、なかなか厄介なものである。
最近、X(旧Twitter)に、妙に文章の整った長文の投稿が増えたように思う。
私はこのところ、Xにあまり投稿しなくなった。学生が論文を発表したときに宣伝する程度で、あとは気が向いたときに何かを書くくらいである。それでも、ニュースや世の中の動きを知るために、タイムラインはときどき眺めている。
相変わらず言い争いは多い。個人同士の喧嘩がいつの間にか裁判沙汰にまで発展しそうになっていたりして、見ているだけでうんざりすることもある。もっとも、そういうものも含めて、つい覗いてしまうのがSNSというものなのだろう。
ただ、最近気になっているのは、そうした言い争いとは別のことである。
社会問題や政治、教育、仕事の話などについて、匿名のアカウントが延々と長い文章を投稿している。これがまた、実によくできている。文法は正確で、誤字脱字もなく、論理展開もそれなりに整っている。最後には、何やら教訓めいた結論までついている。
昔なら、ちょっとしたライターが時間をかけて書いていたような文章である。
おそらく、かなりのものが生成AIを使って書かれているのだろう。もちろん、見た目だけでAI製だと断定することはできない。しかし、こうした文章が急に増えた背景に、生成AIの普及があることは想像に難くない。
ところが、これがどうにも落ち着かないのである。
昔、インターネットの掲示板は「便所の落書き」などと呼ばれていた。あまり上品な表現ではないが、言い得て妙なところがあった。
そこには、誤字脱字だらけの文章もあれば、何を言いたいのかよく分からない書き込みもあった。思いついたことを勢いで書き、途中で脱線し、言葉が足りないまま投稿してしまう。そういう雑然とした場所だった。
Twitterも、もともとはその延長線上にあったように思う。
ところが今は、その便所の落書きに、プロの編集者がついているような状態になっている。思いつきの感想にまで立派な構成が与えられ、きれいな結論が添えられる。落書きだったはずのものが、いつの間にか模範的な小論文になっているのである。
考えてみれば、奇妙な話ではないか。
もっとも、私自身も生成AIを日常的に使っている。
大学で仕事をしていると、さまざまな書類を書かなければならない。学生の評価書、学内の申請書、形式的な理由書など、その種類は実に多い。学生の推薦書のように慎重に言葉を選ぶ必要があるものもあれば、正直なところ、これを本当に誰かが読むのだろうかと思うような書類もある。
そうした文章では、何を書くべきかを自分で決めたうえで、AIに体裁を整えてもらうことがある。内容についての責任はもちろん私が負うが、いわば「よそ行き」の文章に仕上げる仕事は、AIがなかなか上手にやってくれる。
研究指導でも同じである。以前は、学生の書いてきた英語論文の草稿があまりに読みにくく、まず文章の意味を理解するだけで苦労することがあった。最近はAIのおかげで、少なくとも文法的には整った文章が出てくる。科学的な内容の確認は別問題だが、何を主張しようとしているのかは、ずいぶん把握しやすくなった。
だから、AIによる文章作成そのものを否定するつもりはない。
ただ、SNSで読みたい文章は、少し違うのである。
私が知りたいのは、その人が何を見て、何に腹を立て、何を面白いと思い、どう考えたのかということだ。文章が多少不器用でも、考えが途中で揺れ動いていても構わない。むしろ、そうした不完全さの中に、その人自身の姿が現れることもある。
ところが、どの投稿も妙に整っていると、誰の文章を読んでいるのか分からなくなってくる。
もちろん、AIで推敲された文章にも、その人自身の思想や感情は込められているだろう。しかし、書き手の癖や言葉の選び方、考えながら書いているときの迷いまで均されてしまうと、何か大事なものが失われるようにも感じる。
もう一つ、興味深い変化がある。
ほんの数年前まで、文法的に正しく、論理的に整った長文を書けるという能力は、その人の知的な能力を示す一つの目安になっていたのではないか。
もちろん、文章が上手だからといって、その人が賢いとは限らない。それでも、筋道の通った文章を何千字も書くには、それなりの知識と訓練、そして時間が必要だった。
ところが今は、AIに一言二言指示するだけで、数千字どころか、一万字近い文章まで簡単に生成できる。
文章を書くコストが、劇的に下がったのである。
困ったことに、読むコストはそれほど下がっていない。
AIなら数秒で長文を作れるが、読む側は生身の人間である。中身があるのか、論理が正しいのか、読む価値があるのかを判断するには、結局それなりの時間がかかる。私自身、AIが大量に生成した文章を読みながら、仕事が楽になっているのか、それとも読む仕事を増やされているのか、分からなくなることがある。
そして、文章の生産コストが極端に下がったことで、もう一つの逆転が起き始めているようにも思う。
かつては、整った長文を書ける人を見ると、何となく知的な印象を受けた。ところが今では、SNSにあまりにも立派な長文が流れてくると、むしろ「またAIに書かせたのだろうか」と思ってしまう。
賢そうに見せるための文章が、かえってその逆の印象を与えてしまうのである。
少々意地の悪い見方かもしれない。しかし、これも生成AIがもたらした変化の一つなのだろう。
私は、文章を書くのが苦手な人がAIの力を借りて自分の考えを表現できるようになることは、素晴らしい進歩だと思っている。文章の巧拙によって、表現する機会が制限される必要はない。
ただ、文章の見事さと、その背後にある思考の深さは、以前にも増して区別しなければならなくなった。
これからは、きれいな文章を書けること自体には、あまり価値がなくなるのかもしれない。何を考え、何を発見し、何を伝えようとしているのか。結局、問われるのはそこなのだろう。
そんなことを考えながら、今日もXのタイムラインを眺めている。
また、立派すぎる長文が流れてきた。
やれやれと思いながらも、たまには面白いことが書いてあるので、つい最後まで読んでしまう。
便所の落書きにプロの編集者がついた時代というのも、なかなか厄介なものである。
中島淳一の天文屋日記
中島淳一/在中国日本人天文学者
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