TOPライフスタイルメンタル・心理学僧侶邦元の「すわらない坐禅」コラボ放送。ラジオパーソナリティ「さとうりか」さんとのお話し29:41 2024年8月21日 168再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次佐藤理香さんとコラボ対談座禅の新たな境地とは?自分自身への気づきと考察固定観念からの解放、自由へありのままの自分を受け入れるAI文字起こし(β版) # 初めのあいさつ 僧侶方言の座らない座禅。 今日の放送は、ラジオパーソナリティの佐藤理香さんとの対談というのかな、コラボ放送になっております。 先日お寺の方に来ていただきまして、お話しさせていただきました。 その時の様子を放送させていただきます。 どうぞお聴きください。 # お話し1 よろしくお願いします。 もうたくさんお話ししているので、さっき話していた内容を撮っておけばよかったなとすごく思っているんですけど。 ご本尊、手を合わせることができましてありがとうございました。 法官釈迦如来様ですよね。 私たぶん、実物で法官釈迦如来様を見たのは初めてだった気がします。 ラホツじゃなくて、髪の毛を結び上げていて、法官をかぶっていて、だけど上院をしていて、釈迦如来様なんですよね。 ラホツだとばっかり思っていました。 結構お寺の方って意外とそうだったりしますよね。 大丈夫か。ステッカー作ったのはラホツになっているかなと思ったけど、なっていなかったですね。 ラホツではないですね。大丈夫ですね。 かわいい。お寺のステッカー。 ありがとうございます。これオリジナルですか? オリジナルです。 ちゃんとご本尊様がモチーフになっている。 この法官が印象的ですもんね。 そうなんですよ。ちょっと嘘なんですけど。 確かに。装飾が片方、実物は片方なかったんですけど。 これデザインって? デザインは知り合いの方にお願いして。 すごいかわいいです。 これってお寺に足を運んだらいい? そうですね。基本は公式のLINEがあって、お友達登録した人にプレゼントというのをやっているのは今このピンクの方のやつで。 水色の方は来たら片方に渡しているという感じで。 ピンクの方ちょっとだけ違いますもんね。 かわいい。 私も後ほどLINE登録しますので。 ありがとうございます。 ちょっと私はボイシーパーソナリティの方にお会いするのが本当に久しぶり。 本当に大昔ボイシーを始めた頃にはお会いしたことがあったんですけど、嬉しいです。 ありがとうございます。そんなパーソナリティっていう感じでもないですけど。 私よりたくさん回数上げてるから。 私はもう本当にぼっちぼっちなんで。 続けるの大事ですからね。 ご本尊様に手を合わせた時におっしゃっていたので、すごく印象的だったのが、手を合わせる時に、 ご本尊に手を合わせているけど、自分自身に手を合わせているという話をおっしゃっていましたよね。 自分自身に手を合わせるようにお参りができるといいですよという妄想があったということなんですけど、 結局対象物として、お墓にしろご本尊様にしろ仏壇でもなんでもいいんですけど、 対象物として手を合わせるということをすると、お願い事をしたりだとか、 近況報告とかもいいんでしょうけど、 相手が前にいるような形になってしまうということなんだけれども、 仏道は真理を求めているので、本当の自分というものは一体何なのかなというのが一番大事で、 本当の自分というのは結局、今見えている目の前の様子も自分自身の様子なんですよ。 これはちょっとわからなくなってくると思うんですけど、 例えば今、僕には障子と桜の木が見えてとか言葉で言うとそういうことになるんだけれども、 この見えている様子って誰の様子かと言ったら自分自身の様子。 もうちょっとつまんない言い方をすれば、自分の目で見ている様子じゃないですか、全てが。 これ人のことじゃなくて全部自分ごととも言える。 そうするとご本尊様をお参りするところも同じように結局対象じゃなくて、 これは自分自身の様子、ご本尊様ということすらないぐらい、そこに距離がない。 すべて全部自分。 というような形で自分自身にお参りしているというような、手を合わせているというような、 そういうつもりでできると一番いいよねという風に。 ちょっと仏像を見ると、北海上院という院を結んで座っているんですけど、 この手が、僕ら座禅するときは右手が下で左手が上になっていて、 あれ逆になっているじゃないですか。知っていられるかもしれないですけど。 手が逆になっているんですよ、ご本尊様って。 ちょっとまた後で拝見します。 もう知っていられるかなと。 手が逆になっていて、結局それってある意味鏡になっている。 鏡に映したら右と左が反対になるじゃないですか。 そういう様子になっている、もうすでに。 あれはもう自分自身の様子ですよという形の表しされている。 そういう風に思うと納得いくんじゃないかなと思うんですけど。 僕はお参り来た方にはそういうお参りの仕方ができるといいですねという風に言うんですけど、 なかなか説明が長くなっちゃうので難しいです。 難しいですけどね。どうしてもお願い事をしたくなっちゃうかもしれない。 別にしちゃいけないという事もないですよ。 舌が舌で自分にお願い事をしているという事だけで誰かにしているんじゃないよという事ですね。 私はここ数年は健康だけ祈っています。 後は頑張りますからという気持ちで出会わせる事がすごく多いですけど。 今の話を自分と自身にと言ってもらってすごく納得がいったのが、 同じお寺の同じ仏像にお参りに行った時に、同じはずなのに違って感じたりとか、 何か今日はちょっと怒ってらっしゃいますかみたいな時とか、 あ、笑ってくれてますよねみたいな何とも説明しがたい気持ちになる時があって、 見えないんですよ。同じですよもちろん。 同じなんですけど、何となく感じる時があって、 でもそれってふと考えてみるとちょっと怒って見える時って自分が何か後ろめたいというか、 具体的に何って事はなくても何か自分がおが違うんじゃないかなという時があって、 でも相対しているのが自分だと考えるとすごく納得、腹落ちって感じです。 そうですね。自分その時の同じ仏像だっていうのも実はそこもフィルターかかってるっていう。 同じ仏像なんだけれども、だけど時間っていう区切りで見ると今っていう瞬間は今しかなくて、 また違う時に見た仏像はその1秒前の仏像ではないじゃないですか。 同じように見えるけれども。同じだと思って見てるけれども、 それはその時のその仏像であって。 そう見えてるかどうかっていうのは自分自身のフィルターかかってた見方してるから怒っても見えるし、 そう思えるという働きがどうしても自分の都合で差し挟まってるから、そう見えてるけれども。 それはその時そう思えたってことで、それは嘘でもないし。 それはそう思えて、その時のそう思えたという事実として、そう思えたってことですね。 他の方が見て同じように見えたかどうかわからないですけど。 自分が今日この瞬間にそう見えた。それ以上でもそれ以下でもない。 何かもうその話を聞いていて、わかるって言いたいんですけど、わかるような、わからないようなっていうところなんですよね。 そこが難しさだなと思うんですけど、次もまた引き続きお話を伺います。 # お話し2 今ちょっとチャプターの切り替わりの間に、なんかちょっと私、いい話をしてしまった。 ですけど私たち、私の気づきの話をしてしまった気がするんですけど、 これ多分収録あるあるですよね。 ああ、そうなのかもしれないですね。 間で。 間で。 いやあ、そうですよね、なんて話を一旦しちゃった。 余計なこと喋んないほうがいいんだよ。 すぐ、すぐボタン押せばよかった。すぐ行ったほうがいいですね。 いや、でもそういうものなんだよな、きっと。 いろいろ話を伺いたいことはあるんですけれども、座禅についてもちょっと伺いたいなと思ってて、 私、昔座禅を体験したことがあって、たださっきね、ちょっとお話を伺ってたら、 多分宗派が違う。私は臨済宗の座禅を体験したことがあって、やっぱりちょっとやり方も少しずつ違うんでしょうね、きっと。 そうですね、僕ちょっと臨済宗の座禅を体験したことがないんで、 その違いが具体的にどういうことがあるのかってわかんないんですけど、 座る向きが違うっていうのは聞いたことがあって、 相当宗では面壁、壁の方を向く。臨済宗は向かい側に座っている方と相対して座るという形で。 やっていることは変わらないと思うんですけど。 相対して座りました。 そういう違いがあるということで、相当宗の面壁っていう座り方は、 結局、物が見えたり動いている物が見えるとそっちに気を取られるというか、 そっちの方に意識が向いてしまう、そこから離れていってしまう、座っている様子からというか。 それも座っている様子といえば様子なんですけど、 そのままにしておけないで掴みやすくなってしまうっていうようなことが出てくるということで、 壁の方を向いていると刺激が少ないので、 そういう作法になっているんですけど、 実際僕も対面で座ったこともあるし、景色とかオープンなところを見ながら座るっていう、 それこそ公園で座るとか、そういうこともやったことありますけど、 確かに掴みやすくなると思いますね。 目の前で起きた現象を掴んで、そこから思いの… 意識が派生していってしまいますよね。 どんどん、次から次へと掴んでいって、結局考え事の世界に入っていっちゃうみたいな。 例えば牛乳屋さんの何かが通って、 ああ、牛乳屋さんだな、そういえば家の牛乳切らしてたな、子供牛乳飲まないんだよな、みたいな感じですかね。 気づいたら全く座禅と違うことをしてたっていうか。 座禅って無になるみたいなイメージがすごくあって、 でも体験したときに一回、全く無になる必要はなくてって話をされたのがちょっと印象に残ってるんですけど、 それは手派が違っても一緒ですか? 同じだと思いますね。そこの中身は同じだと思いますね。 結局その無っていうのが、何も無っていう、字が無いっていう、空もそうですけど、空っぽとか何も無いっていう風にイメージしてしまうんですけど、 実際はそうじゃなくて、結局禅定って言って心があるがままって最近よく言いますけど、 その時そう思えたっていう働きが、さっきほど牛乳屋さんが通ったとしたら、 牛乳屋さんが通ったと言語化するかどうかは別にして、そういう様子が目の前に起きる。 そういう思いがふわっと、もやなのか不和か分かんないけど、なんかもわっと来るじゃないですか。 そういう働きがあるのを、そのままにしておける状態を無とか禅定とか言うわけですね。 心が落ち着いてるって言っても何も思わないのが落ち着いてるじゃなくて、その様子のままでいれる。 それにお手つきをしないっていう状態が一番落ち着いてるわけですね。 よく走ったら、はぁはぁ、息が上がって心臓の速さがドクドク速くなったり、 それも自然な行為、何て言うか、自然な行い現象で起きるわけですけれども、 結局それに対してこれは落ち着いてないって思い込んでる。 頭があると早く落ち着かせなきゃいけないとか、深呼吸をしてどうにかとかっていう、 自分の能動的な働きかけが出ちゃうと思うんですけど、そういうことじゃなくて、 走ったら走ったように何のか自然な呼吸だし、だから心の部分も同じで、 その時そう思えたらそれが遥かままの様子。 ただやっちゃいけないのはその思いのトッピング。 さっきのお子さん牛乳嫌いだなとか、そういう付け足し。 そこからまた飲まないの、私がとかになっちゃうとそれが完全にトッピングですよね。 悩みの種になりがちですよね、分かりやすく言うと。 そういうトッピングをしないという状態で座るっていうことが大事で、 座禅だから座るっていうのを座禅だから地の如く座るんですけど、 座れなきゃいけないかっていうのもあって、 よく足、この間も中学生の子がおすぐっとって膝痛くて座れないって言って、 その子は椅子で座ってましたけど、別に椅子だから座禅にならないのかって言ったらそんなことはないし、 じゃあ極端なこと言ったら足のない方はどうなのとか、 じゃあ寝たきりの方は悟りから離れちゃうのとか、救われないのとかって言ったら、 それってなんか違うじゃないですか。寝たきりでも救われる。 どんな姿勢でもいいわけで。 大事なのはやっぱり姿勢とか形、向き合ってるか壁向いてるかじゃなくて、 心の状態がどうかってことが一番大事で。 本当の座禅っていうのは心が善情であるかどうかってことが一番大事だと思いますね。 だからそこを大事にしたいですよね。 絶対ジャッジしてる自分がいるんですよ。 今、今日の座禅は集中できたとか、短く感じたとか、 なんかすごいいい座禅ができた気がするとか、 そういうのって全部自分の勝手な価値評価じゃないですか。 そういうものじゃなくて、それは勝手な自分の思い込みによる良し悪しじゃなくて、 そうじゃなくて、本当に今目の前の妖精になりきって座れてるっていう、 それがいいってわけでもないし。 でもそれが一番あるがままの様子ですよね。 話が逸れちゃうから。 今ここまでってあくまでも座禅の話からスタートして、 座禅の話としてお話くださってますけど、 普段もそうですよね。 そうです。それが座禅の時だけで終わってしまったら、 仏教は救いのない仏教になっちゃうんで、 やっぱり普段の生活と座禅が切れたものじゃなくて、 繋がっていて、常にそういう生活、生き方ができるっていうのは、 仏教の救いの本質というか、だと思います。 座禅って、そういう生き方ができるようにするための入り口みたいなものなんですか? 立ち位置的に、座禅ってどうなんですか? そうなんでしょうね。 座禅を組まなくても実際はいいと思うんです。 座禅をしてなくても悟り、救いに繋がるってことはあると思うんですけど、 やっぱり刺激が多いので、普段生活していると、 流されやすくなると思うんですよね。 そうすると、やっぱり邪魔されないで、静かな環境を作って、 どっしり、今ここになりきれるっていうのは、 座禅が一番いいんじゃないですかね。 そういう時間を作る、環境を作るっていう意味では。 あっという間に10分近くなりましたので、一旦ここで聞きます。 # お話し3 チャプターンの3つ目になりますけど、なんかその刺激多いですよね。 刺激多いですね。 本当に多いですよね。 なんかその、なんだろう、私はこの立場だからこうあらねばならないみたいなのに、自分でも気がつかないうちに擦り込まれていて、 なんか変な感じするなって言うと大抵それにぶつかっている時だったりして、 私の場合は結構子育てを始めてから気がつくことが多くて、 母親ってそういうの分かりやすいというか、ねばならないが、 私正直あんまり縛られずに生きてきた方だと思ってるんですけれども、 あまり真ん中の道を通ってこなかったっていう自負があって、 寄り道いろいろしてきたので、 だからこそ、あんまり一般的な子なければいけないというところからは、 自分はちょっと離れてるんじゃないかなって思って生きてきた私ですら、 いや、これで生きてないじゃん、私母親なのにって思った瞬間、はっ!ってして、 いや、なんかもう、いやいや、いかんいかんって思うんですけど、 やっぱり自分の肩書みたいなもの、お母さんとか、僕だったらお坊さんとか先生とか、 そういう肩書があると、やっぱりそれのイメージを自分で作り上げてて、 こうじゃなきゃいけないとかって思い込んで生活してると、やっぱ苦しいですよね。 やっぱりそんな、やっぱり人間だから、そんな完璧じゃないし、 それが本当に完璧な姿かどうか、正解かどうかもわからないのに、 いや、そうはないですよね。 勝手にそう思い込んで、自分のイメージするその謎のゾーンに、自分自ら自分を締め付けてとか、 重い鎧を着て生きていくみたいな、そういう、僕もそういう知識があったので、 本当にそういうのは何もないよっていう、自由な、本当裸で生まれてきてるじゃんっていう自分たち。 それなのに、こう生活していく中で、自分で勝手に重い鎧を自ら着て、 風邪にして、何か辛い思いをわざわざしてるっていう。 初めから裸なんだから、自由なんだよって。 自由っていうのはわがままでいいっていう意味じゃなくて、 もう、何ていうか、選択肢も様々ある。 僕なんかお寺に生まれたからお坊さんにならなきゃいけないって思ってきたけど、 そんなことはない。 結果になって良かったなって思うんですけど、 でもずっとそう思い込んで、苦しんで、無駄に苦しんできたし。 本当に自由に。 善悪っていうのは基本人間が作った、作り事でしかないから、 あそこに縛られる必要はないですよね。 そうなんですよね。 それこそ、私が持ってた母親像なんてものも、 どこから拾ってきたのかなっていう母親像を、 ちょっと継ぎはぎしたものを自分の中に勝手にこしらえちゃってて、 ちょっとびっくりしましたね。自分自身に。 そう思ってる自分自身に。 それ気づけると一歩進めるっていうか、 気づいたら思い鎧を脱ごうってできるじゃないですか。 気づかないでいるときが一番辛いのかなって。 周りからいろいろ言われても、そんなのいいよって言われてもたぶん、 いやいやいや、そんなわけはないっていう、 なんですかね、より厚木するみたいな。 最後の取り入れじゃないですけど、 人から言われることよりも自分が思っていることの方が 意外とやっぱり鉄壁のガードってありますよね。 そうなんですよね。本当そうなんですよね。 しかも始末が悪いのが、人から何か言われてるんじゃないか、 っていう格好してません?その壁って。 自分なのに思ってるの。 そうなんですよね。 実際はすごい弱い、鎧着てるような感じなんですけど、 弱い皮膚というか、それこそもう赤く皮むけちゃって、 ヒリヒリしてるような、そういう状態でもある一方で、 人に言われると結構それ気にしてたりとか。 だからそういう鎧も何も、実は何もなかったっていう。 本当は、それこそお坊さんの世界って言ったら、 生まれながらに仏、仏さんだったっていうこと。 要するに救われてないと思ってたけど、 救われてたっていうことに気付けるかどうかっていう違いでしかないんですけど、 これが本当に救われてんのってその時は思っちゃうんですよね。 辛い時って。これが本当に救われてる姿なのかって。 さっきの座禅の話じゃないですけど、 座禅中にも聞こえてくる音に対する良し悪しみたいなのを 僕自身すごいつけてた時期があって。 セミの声とか鳥のさえずりとか、そういうのはオッケー。 だけど車がブーンって走る音はバツとか。 オートバイが通る音はバツとか。 だから自分の中でこれは人工的なものだから 良くない音だって決めてた時があって、 そういう時はそういう音がするだけで腹が立っていたんですよ。 僕自分勝手ですよね、相当。 自分のフィルターがかかってるんですよ。 そうですね。車をちょっと、 もうこの時間座禅してるから車通らないって言ってるのと一緒ですもんね。 それぐらいの感じですよね。 人の喋り声が聞こえるとかいうのも許せないし、 座禅中にお客さんがなんで来るんだとか、 そういうふうにすら思ってた時期もある。 すごい行きづらかったですよね、そういう感じになっちゃうと。 ピリピリピリピリ神経使って。 でもそういうのを全部取っ払っちゃうとすごい楽ですよね。 全て許せるから。 いやーでもそっか確かに、 なんか実生活で何か、 なんで今こうなるのって、 同じ状況ですよねきっと。 なんで今私にこれが起こるのかなとか、 今じゃなくてもよくないみたいなのって結局今おっしゃってた、 この時間帯になんで車通るんだみたいな、 俺のエリアにみたいな。 自分の都合ですよね、勝手な。 勝手な都合っていうフィルターを通して物事を見てるから。 それに良し悪しつけてるだけで。 初めからそこに良し悪しなんかないし、 そういうもんだって思って、 思えたら楽ですよね。 実際楽になりましたか? すごく楽ですよね。 だって何やってよと別に許せるわけですから。 自分の周りに起きたこととか、 自分が考えたことを許せないって結構辛い状態ですもんね。 本当は許してるんですけどね、そういう方も。 許してない方も本当は許してるんです。 自分の目の働きとか耳の働きは許し切ってるんです。 目は善悪言わないじゃないですか。 好き嫌いも言わないし。 見えたものを嫌いだったら赤く光るとかないですよね。 全部受け入れてる。 受け入れっぱなしで全部許してるっていう事実があるのに、 思いの上で許してないって思ってる。 そっちを握ってるから辛くなるだけだって。 本当は自分のこの体は全て受け入れて許してるのに、 なんかそこで自我が邪魔するっていうか、 ガーが出てくるんですよ。 ガーが。 ガーはなかなか怖いですからね。 でもそこはちょっと気づくか気づかないか。 知ってるだけでもだいぶ楽になると思います。 そういう働きしてるんだってことを知ってるだけでも、 いらないものは握らなくなるんで、すごい楽になると思います。 握っちゃったとしても、あって手放せますもんね。 はー。 なんかさらにちょっと生きやすくなるような気がします。 私は比較的上手いことやれてるんじゃないかなって気がするんですけど、 それはそれとしてまあいいかって結構思うんですけど、 多分いい性格ですよね、きっと。 いい性格ですよねって自分だと。 いいですよね。楽しく生きられるんですよ。 ありがとうございます。 ありがとうございました。 # 終わりのあいさつ 今日は聞いて頂きましていかがだったでしょうか。 いつもと違うね。いつもだと私一人で喋っている放送なんですけれども、 こういった形で話を聞いてくださる方がいるということで、 どんな感じを受けたのかな。皆さんどうだったでしょうか。 また何かご質問等、ご意見というか感想などお寄せ頂けたら嬉しいです。 フォロー、コメントを是非宜しくお願い致します。 それではまたお会いしましょう。さよなら。 もっと見る #ラジオ #仏教 #仏像 #お坊さん 僧侶邦元の「すわらない坐禅」プレミアム放送配信中!00:321.初めのあいさつhttps://r.voicy.jp/W6mGGaELmyA09:372.お話し1https://www.instagram.com/akirotas?igsh=MXZkbWZ0MHdtY3J1eA==09:213.お話し209:404.お話し300:345.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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