TOPライフスタイルメンタル・心理学僧侶邦元の「すわらない坐禅」修行したいけど、🧘何をしたら良いのかな?そんな方は聞いてみて12:32 2024年10月8日 139再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次修行の真髄とは何か?24時間すべてが修行?自分自身と向き合うとは?供養の意味を問い直す日常生活を修行にするとは?AI文字起こし(β版) # 初めのあいさつ 僧侶方言の座らない座禅。私は縁通寺住職方言と申します。 この番組は身近な生活の中の仏教や禅についてお話ししている番組です。 教育についてもお話ししています。 今日は修行についての話をしようと思います。 # 修行とはなにか 今日は修行についてお話ししようと思っています。 修行と言うとですね、皆さん何を思うかわからないですが、滝に撃たれたりとか、 断食みたいなことをしたりとか、長時間座禅を組み続けるとか、苦しいものを乗り越えたその先に何かあるんじゃないかというような、 そういうイメージで修行というふうに思っていられるんじゃないかなというふうに思います。 それは実は、修行道場に行っても同じような感覚でいらっしゃる方もある。 そういうお寺もあるのも事実です。 普通ですね、修行というのは、24時間全部が修行ですなんて言われるんですね、道場に行くと。 1個2個上の先輩が、1年とか2年先に入った先輩からそういうふうに言われるわけです。 全部が修行だからと厳しくされるわけですけれども、 なんで24時間全部が修行というふうに言うかというと、そこについてはあまり説明がないわけですよね。 でも本来はですね、自分自身のありよう、自分の体のある環境で、 自分って一体どういう存在なのかどうなっているのかということと向き合うという意味で、24時間修行であるというふうに言うわけです。 一つ言えるのはですね、自分でやらないと意味がないということが一つ言えますよね。 修行というのは自分でやらないと自分のためにならない。 これはなんとなくわかるんじゃないかなと思います。 もう一つ言うとですね、例えば法事とかあるじゃないですか、お葬式とか供養と言われている部分ですね。 そういうお葬式とか法事とかの供養と言われる部分について、人にやってもらうものだというふうに思っている人が結構いらっしゃるんじゃないかなと思います。 お坊さんに頼んでお経をあげてもらうというふうに思っているんじゃないかなと思うんですね。 それも一部間違いじゃないんですけれども、修行って供養のことという、我々は修行とも言うわけですね。修行するというんですね。 お経を唱えることを修行するというふうに表現したりします。 そうするとですね、例えば頼まれて我々が法事とかお葬式などの供養をするわけですけれども、その時にそれを修行するということはですね、その頼んだ方も一緒に修行していただくということになるわけです。 私のところの縁通寺ではですね、昔から一緒に度経をするというのが基本になっていて、法事、葬儀の時もできる限りという感じですけれども、一緒に唱えていただくということになっています。 難しいお経なんかはなかなかやっていただくということはないんですけれども、比較的読みやすいお経とかというのは一緒に読んでいただくんですね。 要するに、自分自身の様子としっかりと向き合っていただくということですね。 お葬行するという行もあるわけですけれども、お葬行するというのは時間で言ったらそんなに長い時間じゃないですよね。 例えば法事が20分あったとしたらそのうちのほんのちょっとの時間になってしまう。 せっかくだから一緒に度経をしていただいて、その時間できる限り自分自身の様子と向き合っていただくということで修行していただくわけです。 それがイコール供養になるという風に考えていただけるといいのかなという風に思います。 人がやったのでは自分がやったことにはならない。 人が修行をしても自分の修行にはならない。 供養も同じで、人にやってもらったのでは自分がやったことにはならない。 というのがやっぱり基本ですよね。 人が手を合わせたり、人が線香をあげたり、人が花を供えたりしても自分がしたことにはならないじゃないですか。 これは道元禅師が中国に渡った時に、「他はこれ我にあらず」という言葉を耳にして聞いて、その言葉にドキッとしたというエピソードがあるわけですけれども、 本当にその通りですね。 自分がその立場になったらやる。 役職を与えられたらそれを全うする。 それは人がやったんじゃ意味がない。 やっぱり自分が最後まで責任を持ってできる限りやるということがすごい大事なんだよなというふうに思います。 この供養というのも同じ。 ですから、本当に縁通寺であげる方はお経をあげてあげるダントの方、それから樹木草を購入された方の方で一緒にお経を唱えましょうと言うと、皆さん声を出して一生懸命唱えてくださるんですね。 これが本当に亡くなられた個人のためにもなっているでしょうし、 その個人のためと思って一生懸命唱えているその姿が、結局は巡り巡って自分自身のためにもなっているというかですね。 そういう行になっているわけですね。 なんか素晴らしいなというふうに思います。 この宗教というテーマで話してますけれども、 例えばですね、お風呂に入るその時の一つ一つの動作、顔を洗うとか体を洗うとか、 髪はないですけど、頭を洗うとかね、背中を洗うとかね、そういうのも一つ一つが行なんですよね。 どこに気持ちを持っていっているのかというのはすごい大事ですね。 考え事をしながらそれをやっていたらそのことにはならない。 喋りながら料理をしていたら、喋ることに夢中になっていて料理に本当の意味の料理にはなっていない。 ここの感覚って分かりますかね。聞いている方はどうでしょう。 本当の意味でそれになるということはですね、一つのことしか人はできていないということなんですね。 同時に二つのことをやっているようでいて、どこかおろそかになっていて、 それって結局のところ一つのことしかできていない。 もしくは二等ものは一等も得ずということでですね、 二つのことをやろうとしているんだけど、両方ともが中途半端になって、 それになっていないということがあるんじゃないかなって思うんです。 どうでしょうか。 本当の意味で目の前のそのことになりきるときは、 本当に人間で一つのことだけになるんですね。 例えば近くに救急車がピーポーピーポーと通った。 そのときにその音になりきってしまうというか、 そのこと以外には何も考えない瞬間が数秒間ある。 皆さんそうなんじゃないかなと思う。 テレビを見ているときにはテレビの画面の縁の様子だとか、 周りの景色だとか一切関係なくそれに入り込んでいる様子があったり。 映画でもそうですけれども。 隣にいる人のことを気にしているようで言って、 その話に夢中になっているときは、 もうそれになりきっているということがあるんじゃないでしょうか。 スポーツをやっていてもそうです。 私も昔、剣道とかやってましたけど、 そういうふうに敵と相手と向き合ってやっているときには、 もうその様子しかないですよね。 それ以外のこと。 今日の夕飯何かなとか、そんなの考えている場合じゃない。 そういうことが、それになりきるということがあるんじゃないでしょうか。 # 終わりのあいさつ 今申し上げていました、成り切るということです。 これが、すなわち修行ということです。 土俵するときも、お経を読むということになり切る。 お花をあげたときには、お花をあげるということになり切る。 線香をあげるときは、線香。 あげている様子。 お水を備えているときは、お水を備えている。 そのように、私たちの24時間の生活が、そうなっているかどうかというのは、 それになり切っているかどうかということが大事なんですね。 どうでしょうか。 皆さん、地に足ついているかどうかというのは、それになり切っているかどうかということです。 地に足ついていないで、フラフラとですね、 自分で思い描いている、想像の世界を行ったり来たりしているようでは、 それは、お化けのような様子ですよね。 足のないお化けのように、フラフラとしている様子になってしまいます。 そうならないために、しっかり私たち日本は足がありますから、 地に足をつけてですね、 足のない方もいらっしゃるかもしれない。 そしたら、その方は気持ちの上では、しっかりと地に足をつけてですね、 やっていただけたらいいのかなというふうに思います。 どうでしょうか。 なり切る。なり切っていますでしょうか。 どうでしょう。 ぜひですね、自分を見つめる。 見つめるというと、またちょっとずれがあるんですけれども、 自分の様子をまず意識してみる。 どうなっているのかなということは、すごく大事なことですので、 修行というのはね、どういうことなのかなということを、 もう一度、もう一度というかね、 皆さんにとっては、聞いている方は、もしかして初めて聞いている方もいらっしゃるかもしれませんが、 そういうことなんだなということで、 苦しいことを耐え抜くとかね、その先に救いがあるとか、 そういうことじゃないんだよということ。 目の前のことになり切るということが、すごく大事な救いにつながるんですよ。 これなんで救いにつながるの?そこはちょっと疑問かもしれません。 それはまた次の機会とかね、 ご質問などいただけたらですね、 もうちょっと深く話せるかなと思いますので、よろしくお願いいたします。 それでは今日も聞いていただきまして、ありがとうございます。 この話、興味を持っていただけた方はですね、 いいね、そしてフォローなど、ぜひしていただけると嬉しいです。 それではまた次回お会いしましょう。さようなら。 もっと見る #禅 #仏教 #法事 #読経 #修行とはなにか 僧侶邦元の「すわらない坐禅」プレミアム放送配信中!00:241.初めのあいさつ09:332.修行とはなにか02:373.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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