第2118回「木に学ぶ」2026/10/25
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■管長日記「木に学ぶ」
https://www.engakuji.or.jp/blog/40896/
■YouTube
https://youtu.be/yQl-EXHYw1g
■note
https://note.com/engakuji/n/n7000024e640e
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
-------------------------------------------------
先日、アメリカのウパーヤ禅センターのハリファックス老師ご一行がお越しくださり、さまざまなお話をさせてもらいました。
いろいろな質問をいただいて、自由にお答えしていました。
こんな質問がありました。
「アメリカで禅の修行している者として、一つお尋ねしたいことがあります。
私たちは、お寺に来て禅堂で坐禅をします。
そして、修行が終わると、お寺の門を出て、日常生活の世界に戻っていきます。
またお寺に来て修行をし、再び外の世界に戻るということを繰り返しています。
このように、禅堂の中で修行しているときと、門を出て日常生活に戻るときとの間で、どのように心を切り替えればよいのでしょうか。
老師は、お寺の門を一歩外に出るとき、どのようなお気持ちでいらっしゃるのでしょうか。」
という質問でありました。
「何か特別な心構えが必要なのでしょうか」と聞かれましたので、私は「何も考えません。外に出る時は、ただ、外に出ていくだけです。
そして、帰ってきたら、また門から入るだけです。
それだけのことです。
特別に何かが変わるわけではありません。」
と申し上げました。
特別に心構えをしようとすると、門の中と外という区別がより一層強くなるように思います。
そこに門があるだけであって、門のこちら側を内側、向こう側を外側と言っているだけだと思うのです。
なにもはからうことなく、出入りするのがよいと思っています。
環境破壊の問題についても問われました。
やはり禅の修行をなされる方々は、自分のことだけでなく、環境の問題にも関心を持っていらっしゃるのだと察します。
「今、世界では環境破壊が進んでいます。
自然環境が失われ、地球全体にさまざまな問題が起こっています。
このような状況の中で、私たちは、禅のような精神的な修行と、実際に社会に働きかける行動とを、どのように結びつけていけばよいのでしょうか。」
という問いでありました。
私は「毎日の暮らしの中で、環境に対して丁寧に、敬意を持って生きていきたいと思っています。
まず、自分の目の前にある生活を大切にすることだと思います。」と答えました。
環境というと、とても大きな問題のように感じます。
しかし、自分にできることは、目の前のことに尽きるのです。
目の前のこと、身の回りのものに丁寧に接していくことに尽きるのです。
さらに「環境破壊が進み、自然が失われていくことに対して、私たちは深い悲しみを感じます。
一方で、老師は自然や環境に対して敬意を持って生きることが大切だとおっしゃいました。
この悲しみと敬意という二つの感情は、どのような関係にあるのでしょうか。
自然が失われていくことを嘆き悲しむことと、自然を尊重して日々を生きることは、どのようにつながっているのでしょうか。」と問われました。
これも大事な問いであります。
私は「たしかに、環境が破壊されていく現象を目の当たりにすると、嘆き悲しむ気持ちが起こってまいります。
それは当然のことだと思います。
その嘆き悲しむ気持ちが、環境を大事にしようという心の原動力となると思います。
環境が破壊されていくことを悲しむからこそ、自分自身の今の生活を、より一層見直すことができるのではないかと思うのです。
その悲しみがあるからこそ、自然を大切にしようという思いも深まります。
そして、日々の暮らしを、これまで以上に丁寧に生きようという気持ちにもなるのです。
ですから、嘆き悲しむことと、今を大切に、まわりのことに丁寧に接して生きることは、決して矛盾するものではないと思っています。
そんなことをお伝えしました。
円覚寺の修行僧からハリファックス老師への質問もなされました。
ハリファックス老師は、刑務所にいる方々や、死を迎えようとしている方々など、さまざまな苦しみを抱えた人々と関わっていらっしゃいます。
一方で、仏教の立場からすれば、苦しんでいる人々を特別な存在として見るのではなく、誰もが同じように尊い存在であり、特別に区別する必要はないという考え方もあると思います。
苦しみの中にある人々に積極的に関わることと、その人々を特別視しないということ、この二つの姿勢を、老師はどのように受け止め、両立させていらっしゃるのでしょうかという問いがありました。
ハリファックス老師は、「私の答えは、とても簡単なものです。
私は、いつも人生のすべてから学ぶ一人の生徒でありたいと思ってきました。
実際に、刑務所にいる方々や、死を迎えようとしている方々から、私は多くのことを学んできたのです。
人はそれぞれ、さまざまな立場に置かれています。
会社で責任ある立場にいる人もいれば、刑務所で働いている人もいます。
また、刑務所に収容されている人もいます。
私は、そうした人々を、何かを教えてあげる対象として見ているのではありません。
むしろ、私自身が何かを学ぶことのできる場所に出向き、そこで人々と関わってきたのです。
私は、人生を学ぶ一人の生徒として、この世界に関わっているのです。」とお答えになっていました。
どんな人からも学ぶのだというハリファックス老師の姿勢には、私も心打たれました。
それからこんな質問もいただきました。
「このお寺には、長い歴史を持つ立派な古木がたくさんあります。
こうした木々を、修行僧への指導に用いられることがあるのでしょうか。
古い木々を通じて、修行僧たちに何かを教えたり、伝えたりすることはありますか。」という問いでした。
私はすぐに「それは、木が教えてくれています。」と答えました。
するとさらに「もう少し具体的にお尋ねします。
たとえば、ある修行者の頭の中に、さまざまな考えが次々と浮かんできて、思考がぐるぐると回り、どうしても止まらなくなっているとします。
そのような修行者に対して、老師はこの古木とどのように向き合うように指導されるのでしょうか。
木と共にあることによって、乱れた心をどのように落ち着かせることができるのでしょうか。」と問われました。
私は「無理に落ち着かせようとしても、落ち着かせることはできないと思います。
心が落ち着くまで、ただ待つのです。
そうすると、木が語りかけてくれます。」と申し上げました。
ずっとこういうところで坐禅の修行をしていると、草や木が語りかけてくれるのを感じることができるようになるものです。
坂村真民先生も、「木に学び、草に習え」と仰っています。
ハリファックス老師の仰る、常に学ぶ心を忘れず、木にも草にも学ぶ姿勢を大切にしたいものです。
横田南嶺
https://www.engakuji.or.jp/blog/40896/
■YouTube
https://youtu.be/yQl-EXHYw1g
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https://note.com/engakuji/n/n7000024e640e
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
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先日、アメリカのウパーヤ禅センターのハリファックス老師ご一行がお越しくださり、さまざまなお話をさせてもらいました。
いろいろな質問をいただいて、自由にお答えしていました。
こんな質問がありました。
「アメリカで禅の修行している者として、一つお尋ねしたいことがあります。
私たちは、お寺に来て禅堂で坐禅をします。
そして、修行が終わると、お寺の門を出て、日常生活の世界に戻っていきます。
またお寺に来て修行をし、再び外の世界に戻るということを繰り返しています。
このように、禅堂の中で修行しているときと、門を出て日常生活に戻るときとの間で、どのように心を切り替えればよいのでしょうか。
老師は、お寺の門を一歩外に出るとき、どのようなお気持ちでいらっしゃるのでしょうか。」
という質問でありました。
「何か特別な心構えが必要なのでしょうか」と聞かれましたので、私は「何も考えません。外に出る時は、ただ、外に出ていくだけです。
そして、帰ってきたら、また門から入るだけです。
それだけのことです。
特別に何かが変わるわけではありません。」
と申し上げました。
特別に心構えをしようとすると、門の中と外という区別がより一層強くなるように思います。
そこに門があるだけであって、門のこちら側を内側、向こう側を外側と言っているだけだと思うのです。
なにもはからうことなく、出入りするのがよいと思っています。
環境破壊の問題についても問われました。
やはり禅の修行をなされる方々は、自分のことだけでなく、環境の問題にも関心を持っていらっしゃるのだと察します。
「今、世界では環境破壊が進んでいます。
自然環境が失われ、地球全体にさまざまな問題が起こっています。
このような状況の中で、私たちは、禅のような精神的な修行と、実際に社会に働きかける行動とを、どのように結びつけていけばよいのでしょうか。」
という問いでありました。
私は「毎日の暮らしの中で、環境に対して丁寧に、敬意を持って生きていきたいと思っています。
まず、自分の目の前にある生活を大切にすることだと思います。」と答えました。
環境というと、とても大きな問題のように感じます。
しかし、自分にできることは、目の前のことに尽きるのです。
目の前のこと、身の回りのものに丁寧に接していくことに尽きるのです。
さらに「環境破壊が進み、自然が失われていくことに対して、私たちは深い悲しみを感じます。
一方で、老師は自然や環境に対して敬意を持って生きることが大切だとおっしゃいました。
この悲しみと敬意という二つの感情は、どのような関係にあるのでしょうか。
自然が失われていくことを嘆き悲しむことと、自然を尊重して日々を生きることは、どのようにつながっているのでしょうか。」と問われました。
これも大事な問いであります。
私は「たしかに、環境が破壊されていく現象を目の当たりにすると、嘆き悲しむ気持ちが起こってまいります。
それは当然のことだと思います。
その嘆き悲しむ気持ちが、環境を大事にしようという心の原動力となると思います。
環境が破壊されていくことを悲しむからこそ、自分自身の今の生活を、より一層見直すことができるのではないかと思うのです。
その悲しみがあるからこそ、自然を大切にしようという思いも深まります。
そして、日々の暮らしを、これまで以上に丁寧に生きようという気持ちにもなるのです。
ですから、嘆き悲しむことと、今を大切に、まわりのことに丁寧に接して生きることは、決して矛盾するものではないと思っています。
そんなことをお伝えしました。
円覚寺の修行僧からハリファックス老師への質問もなされました。
ハリファックス老師は、刑務所にいる方々や、死を迎えようとしている方々など、さまざまな苦しみを抱えた人々と関わっていらっしゃいます。
一方で、仏教の立場からすれば、苦しんでいる人々を特別な存在として見るのではなく、誰もが同じように尊い存在であり、特別に区別する必要はないという考え方もあると思います。
苦しみの中にある人々に積極的に関わることと、その人々を特別視しないということ、この二つの姿勢を、老師はどのように受け止め、両立させていらっしゃるのでしょうかという問いがありました。
ハリファックス老師は、「私の答えは、とても簡単なものです。
私は、いつも人生のすべてから学ぶ一人の生徒でありたいと思ってきました。
実際に、刑務所にいる方々や、死を迎えようとしている方々から、私は多くのことを学んできたのです。
人はそれぞれ、さまざまな立場に置かれています。
会社で責任ある立場にいる人もいれば、刑務所で働いている人もいます。
また、刑務所に収容されている人もいます。
私は、そうした人々を、何かを教えてあげる対象として見ているのではありません。
むしろ、私自身が何かを学ぶことのできる場所に出向き、そこで人々と関わってきたのです。
私は、人生を学ぶ一人の生徒として、この世界に関わっているのです。」とお答えになっていました。
どんな人からも学ぶのだというハリファックス老師の姿勢には、私も心打たれました。
それからこんな質問もいただきました。
「このお寺には、長い歴史を持つ立派な古木がたくさんあります。
こうした木々を、修行僧への指導に用いられることがあるのでしょうか。
古い木々を通じて、修行僧たちに何かを教えたり、伝えたりすることはありますか。」という問いでした。
私はすぐに「それは、木が教えてくれています。」と答えました。
するとさらに「もう少し具体的にお尋ねします。
たとえば、ある修行者の頭の中に、さまざまな考えが次々と浮かんできて、思考がぐるぐると回り、どうしても止まらなくなっているとします。
そのような修行者に対して、老師はこの古木とどのように向き合うように指導されるのでしょうか。
木と共にあることによって、乱れた心をどのように落ち着かせることができるのでしょうか。」と問われました。
私は「無理に落ち着かせようとしても、落ち着かせることはできないと思います。
心が落ち着くまで、ただ待つのです。
そうすると、木が語りかけてくれます。」と申し上げました。
ずっとこういうところで坐禅の修行をしていると、草や木が語りかけてくれるのを感じることができるようになるものです。
坂村真民先生も、「木に学び、草に習え」と仰っています。
ハリファックス老師の仰る、常に学ぶ心を忘れず、木にも草にも学ぶ姿勢を大切にしたいものです。
横田南嶺
【鎌倉円覚寺】毎日の管長日記と呼吸瞑想
臨済宗大本山円覚寺
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→寺でなくても、お世話をしていると、植物や小動物とコミュニケーションできるようになると思います。自分は幼い時から父母の影響で植物や小動物のお世話もして来て、いろいろ学んできたように思います。
お写真の仙人のような風貌の方が齢90歳の通訳された棚橋老師でしょうか。この場で問答に参加してみたかったです。😀