TOPエンタメ映画・本鳥井弘文の旅と読書とコミュニティ「人間らしさ」を排除し続けた結果訪れた「退屈さ」とどう向き合うのか?09:25 2024年1月15日 562再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次退屈な現代社会と「人間らしさ」「人間らしさ」の排除と不感症漫画『フリーレン』が示唆するものヨバイの風習から考える共同体退屈の先にあるものとは?AI文字起こし(β版) # チャプター 1 こんにちは。鳥居 博文です。 働くをテーマにした対話型オンラインコミュニティ、和製サロンを運営しています。 さて、本日のお題は、人間らしさを排除し続けた結果、訪れてしまった退屈さとどう向き合うのかというテーマでお話ししてみたいと思います。 今日も昨日ブログに書いた内容です。 それでは早速本題に入っていきますね。 昨日、和製サロンの中で開催されたトークイベントの中で、日曜の中における退屈さのような話題になりました。 話題の意味は、最初の頃は楽しかったけれど、次第に飽き始めていることについてという話です。 話を聞きながら、間違いなく僕にもこの感覚というのは存在していて、それが慢性化してきて、完全に不感症みたいになってきているなというふうに感じます。 そしてこれというのは、今多くの日本人に共通する課題でもあり、もはや国民病みたいなところでもあるような気がしています。 これは漫画ソウソウのフリーレンが今アニメも含めて大ヒットしている理由にもつながるんだろうなと。 最近の主人公というのは基本的に、そんな退屈を感じていることを主体にして描かれていることが非常に多いなというふうに感じます。 ある程度欲しいものは手に入ったんだけれども、とはいえ何かが自分の中で満たされたわけでもなく、その漠然とした状態に退屈さみたいなものを感じているというような。 一方で悪役の方がいつだってみずみずしくて、ものすごく人間臭く欲望を持った存在として描かれています。 フリーレンで言えば、魔族の方がよっぽど人間らしいと思える好奇心なんかを持ち合わせているわけですよね。 そしてあの漫画の秀逸なところは、魔族に明確な悪意があるわけではなく、ある種の無邪気さのようなものとしてその人間らしさが描かれている点です。 それが本当に素晴らしいなと。人間なら誰しもが当たり前のように持ってしまう欲望、その欲望だけに忠実で、世間、つまり人間世界を完全に無視し、そのサイコパスみたいな状態を本当に上手に描いているなというふうに思われます。 一方でそれが悪役じゃない描かれ方だとすれば、現代で人間らしい純粋な欲望を持って許されている存在として描かれるのは素直な子供のキャラクターです。 だからスパイファミリーも今こんなに流行ってるんだろうなと。そしてアニメ版のフリーレンとアーニャが同じ声優さんであることは本当に偶然ではないというふうに感じます。 アーニャが年齢を重ねればきっとそのままフリーレンになっていく。全く両極端のキャラクターだろうっていうふうに思われるかもしれないんですけども、それは人間世界に染まった結果としての変化であって、 実は同一平面上というか間違いなく両キャラクターっていうのは今日性のあるキャラクターとしてお互いがその延長線上に存在しているなというふうに僕は思います。 逆にその対立軸にいるのはかぐや姫の物語のかぐや姫のような存在です。 でもそんな彼女はわがままだっていうふうに評価されてしまって、彼女自身も人間社会に嫌気がさして月に帰ってしまうっていう展開です。 さて話をここで元に戻すと、悪役が一定の人気があって一部の読者からは強く好まれている理由みたいなものもここにあるんだろうなというふうに思うんです。 だって非常に彼らっていうのは人間臭い存在だからです。なんというかその大衆みたいなものがきっと強いんでしょうね。 倫理やポリコレでデオドラントされていない存在として登場している場合が非常に多い。 逆に言うとあまりにも強い倫理観を受けて、その倫理観に当てられてしまって不感症になった存在が退屈さとともに主人公になりがちなのが現代の漫画や小説の潮流でもあるなと。 なぜなら現代人というものがまさにそうだからです。退屈な人間からすると人間の欲望をそのまま露呈させてしまっている状態の存在っていうのは悪臭のようなものであって、そこに悪のレッテルが張られてしまうのが現代の特殊性ってことなんでしょうね。 近年の政治や芸能などありとあらゆるゴシップニュースが基本的には全てこの構造だと思います。 で、果たしてこの人間臭さっていうのは必ずしも排除しなければいけないものなんでしょうか。 そうしないと共同体というのは本当に成立しないのかっていう点においてこれは問題になってくるんだろうなと。 この点、例えば日本の農村集落にあったヨバイの風習の話なんかは非常に面白いなっていうふうにいつも思ってしまいます。 かなり極端な話ではあるんだけれども、僕はジブリの鈴木敏夫さんが時折ラジオでも語られるこのお話にいつもハッとさせられます。 鈴木敏夫さんの書籍、独書道楽という本からこのお話の部分を少しだけ引用してみたいと思います。 面白かった民族学者が赤松圭介なんです。ヨバイの民族学という本を書いているんだけどこれにも驚かされた。 ちょっと中略して、村によってヨバイのルールは微妙に違うんだけれど、基本的なところは同じで、まず男は童貞でなきゃいけないんですよ。 一方、女性はベテランでなきゃいけない。だから男がヨバイに行くんだけどリードするのは女性の方なわけ。 ある種の性教育になってるんです。この本の中で描かれた当時の女性って子供を8人から10人産む。 そうするとだいたい5人が弟子の子供で、残りはヨバイでできた子だったりする。 だから村の人たちにとっては生まれた子供を見て相手は誰かというのを当てるのが娯楽になっていたなんていう話も載っている。 そうすると村の中の欠縁関係はものすごく入り組んだ関係になりますよね。 全員が親戚なんです。そういう村では事件は起きない。これは合理的ですよね。 誰がそんな仕組みを考えたんだろうというぐらい。それって共同体としては理想だと思ったんですよね。 さていかがでしょうか。これは現代においては倫理的に絶対に許されないことなんだけれども、 それはそれで当時の時代においては人間が社会や共同体を築いて生き抜いていくための知恵として用いた一つの風習でもあったんだろうなというふうに思います。 それを僕ら現代人は人間くさいとして完全にデオドランとしてしまったわけです。 そういうのは悪であって悪役がやることなんだとして。 繰り返しますが予備自体は極端な事例ですし、それを現代に復活させろなんて1ミリも思わないです。 僕自身も単純にものすごく不快感を感じることではあるんだけれども、 これを不快だというふうに感じるのが現代人の嘘偽らざる潔癖症でもあるんだろうなというふうに思うわけです。 従来はきっとこれはハレとケの問題の話であって、もっと違う文脈で評価される問題だったはずなんです。 少なくとも善悪の倫理観の問題で語られるような話ではなかったはずです。 農村レベルにおいてはきっと間違いなくそうだと思います。 共同体に害悪をもたらしそうな人間くささは全てデオドランとしろというのが現代の倫理観なんですが、 その結果として人々の中で不感症がはびこってしまい、虚勢されたような状態となって、 漠然とした日常を送りながらその退屈さに打ちしがれているフリーレンみたいな人が本当に増えてしまったんだと思います。 このような人間の欲望と共同体の構築、退屈さや不感症にならないための構造を一体どうやってこれからは作っていくのかというところは、 地味に今、喫緊の課題の一つだなというふうに感じます。 最終的には人間としての欲望をあまりにも制御しすぎていて、そのポリコイの言動は果たして偽善なのか、本心から来るものなのかということが、 本人さえも分からなくなってしまっているという場面は本当に最近よく見かけますからね。 そしてカラマーゾフの兄弟や源氏物語のような古典作品を読んで、 え、何これ、全然意味が分からない。何でこんな浄浴に溺れているの?というふうに思っているのは僕ら自身が、 むしろ多分人類史的に言えば、逆に完全に意味が分からない存在になっているということは間違いないかと思います。 お前らこそどうかしているぞ。人間として本当に大丈夫なのかというふうに、遠い空の向こうから思われているんだろうなというふうに感じるんですよね。 現代人が言いがちな、冷静に考えればとか、俯瞰的に考えればとか、そうやって何もかもメタ視点で捉えてしまうような口座がここにもある。 メタ視点で捉えてしまった時点で、既に他者の倫理観を内面化し、倫理で裁く視点が強く事故の欲望の内側にまで介入してきてしまっているわけですからね。 事故を他者と完全に混同してしまうというのはきっとそういうことなんだと思います。 これもまた西洋哲学におけるメタ視点の呪いの一つだなというふうに感じます。 最後に繰り返しになるんですが、フリーレンみたいな世界観は僕も大好きです。だから漫画自体を批判しているわけでは決してない。 むしろ今の気分や空気みたいなものを本当に上手に描写している作品だなというふうに思うがゆえに、今日みたいな話にもつながっていきました。 逆に言えば、これ以外の方法で自分たちの肯定の仕方が現状の僕らにはほとんど存在していないという非常に貧しい状態なんじゃないのかなというふうにも思います。 そしてそれでも最後まで残っているものが魔法という暴力であるということも非常に何だか示唆深いなと。 どれだけ退屈な世界でも暴力だけは絶対に消えない。フリーレン自体も魔法を使うときは嫌々ながらでも一番生き生きしている瞬間でもあるかと思います。 そしてそれは読んでいる読者もそうだと思います。これもまたなかなかに難しい問題だなというふうにいつも感じます。 つまりこの漠然とした退屈さみたいなものを放置し続けてしまった場合、その最終到達地点みたいなものはきっと暴力、つまり戦争なんだろうなというふうにも感じてしまうわけです。 もちろんここには答えは存在しないかと思います。でも分からないからこそ分からないということを今日このボイシーの中でも語ってみました。 さて今日のお話は以上となります。いつもこのボイシーを聞いてくださっている皆さんにとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。 それでは今日はこの辺で。また明日。 もっと見る #鈴木敏夫 #読書道楽 鳥井弘文の旅と読書とコミュニティプレミアム放送配信中!09:251.チャプター 1コメントプレミアムリスナーになるとコメント欄に参加することができます プレミアムリスナーに参加する
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