TOPエンタメ映画・本鳥井弘文の旅と読書とコミュニティAI時代は、魂を売って続けるよりも、魂を残したまま凍結しておく。09:55 14時間前 176再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次ウェブメディアの生と死魂を売る「形だけの延命」AIが眠れる魂を蘇らせる「凍結」は「弔い」と矛盾か未完の可能性を未来へ手渡すAI文字起こし(β版) # チャプター 1 こんにちは。鳥井博文です。 働くをテーマにした対話型オンラインコミュニティ、和製サロンを運営しています。 さて、本日のお題は AI時代は魂を売って続けるよりも、魂を残したまま凍結しておくというテーマでお話ししてみたいと思います。 今日も昨日ブログに書いた内容です。 それでは早速本題に入っていきますね。 先日、ギズモードジャパンに掲載された ウェブメディアって何年で消えちゃうの?30年分の生き死にを並べてみたらという記事を読みました。 長谷川健人さんが抱えた記事です。 1995年から2026年までに生まれた日本のウェブメディア1549媒体の創刊と終了を一つの年表にまとめたお話です。 閉じた媒体の寿命は中央地でだいたい5年程度。 始まりは花々しいのに終わりはとても静かで、多くはいつの間にか更新が止まりフェードアウトしていくんだと。 僕自身もこの年表に載っている東大元暮らしというウェブメディアを自社で運営していた側にいたので、読みながら本当にいろいろなことを思い出しました。 中でも引っかかったのが、記事で紹介されていた生きてるのか死んでるのかわからないメディアというような言葉です。 放置されたメディアを指した言葉なんですが、僕にはむしろ逆側にこそ当てはまるように思えたんですよね。 具体的には更新は続いているし、媒体名もあるんだけれども、じゃあ何のためにメディアを始めたのかが、もう外からは全く見えなくなってしまっているようなメディアです。 更新されていればそれは本当に生きているというふうに言えるのかと。 今日はそんな問いから出発をして、お蔵入りや更新停止こそAI時代には蘇る可能性を秘めているんじゃないかみたいな、 そんな少し逆説的な変なお話を語ってみたいなというふうに思うんです。 そもそもウェブメディアは始めるのは簡単であっても続けるのは本当に難しいわけです。 最初はみんな会いに行きたい人や届けたい言葉があったはずなんですよね。 でも運営を続けるには数字が必要になる。 それは先日のラフル中村さんの話でもご紹介した通りです。 アルゴリズムや流行が変わるたびにテーマや言葉選びを今通用するものへと少しずつ寄せていく必要が出てくるわけですよね。 そのための一つ一つの妥協にはちゃんと理由があるし、僕自身全く他人事でもありませんでした。 ただ、その積み重ねの果てに媒体名だけが残り、最初に作りたかったものからは遠く離れてしまうみたいなジレンマもあるなというふうに思うんです。 生き残るための選択を重ねた結果、生かしたかったものの方を失ってしまうことって往々にしてあるというふうに思うんですよね。 僕が魂を売るというふうに呼びたくなるのは、こういう形だけの延命のことなんです。 悪意ではなくて何とか続けようとした善意の果てに、それは静かに起きてしまうことだというふうに思うんですよね。 そして年表の上ではそれでも現存の欄に入り続けるわけです。つまり今も続いているんだと。 この点、東大元暮らしで届けたかったのは、これからの暮らしを体現しようとしている主にローカルで暮らす人々の一人一人の生の声でした。 当時、地方創生の文脈で光が当たりやすいのは地域の仕掛け人や経営者ばかりだったんです。 そこで暮らす人たちはまるで映画のエキストラのように背景として扱われていたんですよね。 でも実際に現地を訪ねて、そんな方々のお話を直接聞くと、どの人にもその人にしか語れない暮らしみたいなものはちゃんとあったんです。 そこに光を当てたかった。それが僕らにとっての魂だったんだというふうに思います。 続けるために何を変えればいいのかはずっと考えていました。正直収益化の道なんかもいくらでもあったというふうに思うんです。 でもある一線を越えてしまうと、東大元暮らし自体が東大元暮らしじゃなくなってしまう。その感覚だけは当時からずっとはっきりとありました。 そしてコロナ禍にメディアの更新自体は止まってしまったんです。 当時から何かを見通していたわけではないんですよね。あれでよかったのかというふうに自分でもずっとわからないままでもいました。 それでも今は結果論として、魂を売ってまで続ける選択肢を取らなくて本当によかったなというふうに思っています。 なぜならそう思えるようになったごく最近の小さな体験みたいなものがあったからです。 サロン内ではすでに共有をしたんですが、2023年に撮ったある動画の素材がありました。 これは残したいというふうに思って夢中で撮ったものの、編集する技術も時間もなく一度も形にならないままフォルダの奥底で眠っていたものです。 それが最近AIに編集を手伝ってもらったことで3年越しに人々様に見せられるような動画になったんですよね。 最近配信をしたエフタさんとのボイシンのプレミアム配信の中でもお話ししたんですが、 見返した時のその感覚というのは、便利な時代になったなという驚きとは少し違ったものだったんです。 あの時自分はこんなにもいいことをしていたんだみたいなふうに、3年前の自分に初めて教えてもらったような感覚だったんですよね。 つまりあの動画というのは価値がなかったから送られるようしたわけではなかったんだというふうに思うんです。 形にできる条件がまだそのタイミングでは揃っていなかっただけだったのかもしれないなって眠っていた記憶がAIによみがえった恒例なんですよね。 残っていないものはどんなAIでもよみがえらせることはできません。 お蔵入りはでもよみがえりうるんですよね。 消去してしまったものはもう一生よみがえらないけど、そのまま残っていればそれはよみがえる可能性がAIによって出てきたということです。 だから僕はAI時代には魂を残したまま凍結をしお蔵入りにしておくことこそが本当の意味で生き残る道なんじゃないかというふうに最近考えるようになりました。 当然続けること自体を否定したいわけでもないんです。 僕自身ブログ自体は13年間毎日のように書き続けています。 問題は続けるために何を差し出してしまうのかということの方です。 そして下手に加工なんかをしてしまうと逆に使い物にならなくなってしまう。 以前エフタさんとAIと一緒に作った教作の小説について話したときに、 僕は蒸留する前の水にどれだけ自分の魂を含めさせることができるのか、それが大事になるみたいな話をしました。 AIはとても優秀な蒸留機能なものだというふうに最近つくづく思います。 でも薄められてしまって何か混ぜ物をされた水から当時の魂を取り出すことは本当に難しい。 最もらしい再現はいくらでも作れてもそれは当時の言葉や関係そのものではないからなんですよね。 未来の可能性を今の正解に合わせて潰してしまわないこと。 そのためにあえて立ち止まるという選択肢もあるんだというふうに思うんです。 ただしここまで語ってきて個人的にひとつ引っかかっていることもあります。 凍結をして蘇りを待つというのも見方によっては終わりを認めない延命の一種に見えてしまうんだろうなというふうに思うんです。 前半で批判をした形だけの延命がそのまま自分自身にも返ってくるわけです。 つまり弔いという僕がこのボイスの中で何度も言及してきている第一にしてきたそんな概念と ここまで語ってきた内容はバッティングするというか矛盾するようにも思えてしまうということなんですよね。 ただ矛盾はしないだろうなというふうにも思っているんです。 東大元倉氏という営みはすでに終わったわけなんです。 あの頃の編集部もあの時期の人間関係なんかも同じ形で戻ることはもう二度とありません。 それは覆ることがない圧倒的な事実です。 ただそれでもあの土地で人に会い言葉を交わし何かを残そうとしたそんな仕事まで なかったことにはならないというふうに思っています。 言い換えると終わったということと無価値になったということは違うということです。 だからまず言っておきたいのはたとえ二度と蘇らなくてもあの仕事をした意味自体は失われないということなんですよね。 その上でAIによって思いがけず続きを持つ可能性までが今突如見えてきた。 それが今ただただ嬉しいことだなというふうに思うしここに大きな可能性があるなというふうに思うんです。 この順番さえ間違いなければよみがえりは過去の価値を証明するためのそんな条件ではなくて 大切にしていたものからもう一度何かを受け取れるかもしれないそんな出来事に変わってくるわけです。 つまり僕の言う凍結っていうのは終わりを認めたくなくていつか同じ姿に戻すためのそんな保存をしておくための手段ではないんです。 終わりはちゃんと受け入れるでも消さずに残してそれが未来でどう受け取られるかまでは決まらないし決められないということです。 元の媒体名が残らなくてもちゃんと受け取った誰かの文章や仕事の仕方に かつてのまなざしみたいなものがふと入り込む瞬間なんかもありえるなっていうふうに思うし 面影が受け継がれていくってのはきっとそういうことなんだろうなって思います。 お蔵入りや死蔵という言葉っていうのは以前の僕にとっては可能性が完全に閉じてしまったことを意味していました。 だから少し寂しい言葉だったんですよね。 でもAI時代の今は全く違って聞こえてきます。 あの営みはあの時確かに終わった。 ただそこで生まれたものの行き先までが完全に終わったわけではないってことなんですよね。 撮ったあの日には何一つ形にならなかったような動画がAIの力を経由して 突如3年ぶりに舞い戻ってきたようなんです。 東大元暮らしで出会った人たちの声なんかも あの時届けたかった誰かに想像もしなかった形で また新たに届くのかもしれないなっていうふうに思うんですよね。 AIの力によってです。 つまりそれがドキュメンタリー形式じゃなくて もしかしたら物語形式になるかもしれないし アニメだったりとか映画だったりとか 全く違う媒体だったりメディアに変わる可能性を秘めているってことです。 そう考えると本当に今からとっても楽しみだなっていうふうに思います。 皆さんの手元にもきっと途中で止まってしまっているブログや 撮ったまま見返してない写真や動画がきっとたくさんあるというふうに思うんです。 それらを今の正解に合わせて加工し尽くしてしまう前に きちんと終わりを受け入れて 魂ごとそっと残しておいて 未来へと手渡していく そんな選択肢がきっとあってもいいはずです。 僕自身もそこを踏まえて これからはコンテンツを中心に 日々の言葉やそんな素材なんかを 魂を残したまま丁寧に刻んで残していきたいなというふうに思っています。 さて、今日のお話は以上となります。 いつもこのボイシーを聞いてくださっている皆さんにとっても 今日のこのお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。 それでは今日はこのへんで また明日。 もっと見る鳥井弘文の旅と読書とコミュニティプレミアム放送配信中!09:551.チャプター 1コメントプレミアムリスナーになるとコメント欄に参加することができます プレミアムリスナーに参加する
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