TOPエンタメ映画・本鳥井弘文の旅と読書とコミュニティ物語に出会うタイミングには、必ず意味がある。09:52 10時間前 161再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次『オデュッセイア』と自己の問いの重なり『かぐや姫』が秘める、帰還の切なさ羽衣とハスの花:記憶を消す装置忘却が問いかける、真の自己とは物語が変える「受け取る自分」の現在地AI文字起こし(β版) # チャプター 1 こんにちは、鳥井博文です。 働くをテーマにした対話型オンラインコミュニティ、和製サロンを運営しています。 さて本日のお題は、物語に出会うタイミングには必ず意味があるというテーマでお話ししてみたいと思います。 今日も昨日ブログに書いた内容です。 それでは早速本題に入ってきますね。 先日、今公開中の映画オディス聖夜を見てきました。 見てから数日が経つのに未だに興奮が冷めません。 もう一度映画館に見に行こうというふうに決心をしましたし、 なんなら本物のアイマックスのためだけに池袋までに行っちゃいそうです。 これぞ映画、これぞリアル、そしてクリストファーノーラ、マジですげえなというふうに思います。 こんな興奮の中でここ数日のことを振り返っていたら、 この映画を今見たことがなんだかとても不思議に、そして必然的にも感じられました。 というのも僕はちょうどこのボイシーの中で、 罪や苦しみについて考えていたタイミングだったんですよね。 苦しみからはできることなら解放されたい。 でもその苦しみの中で出会った人や、そこで生きてきた自分までなかったことにはしたくない。 そんなことをうまく言葉にならないまま、2日間続けて連続でボイシーでもお話ししました。 まさにその直後にオディス聖夜に出会ってしまったんですよね。 今日はこの重なりが自分にとってどうしてこんなにも大きく大切なものになったのか、 それを改めて丁寧に考えてみたいなというふうに思います。 まず先日の和製サロンの読書会の中では、 ファンタジーに秘められた宗教という本を読みながら、 皆さんと罪や苦しみについてお話をしました。 でもまあそれが全然うまく言葉にならなかったんですよね。 知っているはずの言葉なのに、自分の実感として語ろうとすると、 途端に訳がわからなくなってしまう。 その時間を経てボイシーでも語ったのが、 罪や苦しみこそが人間の言葉に重みを与えている、という内容でした。 何かをしてしまった自分として、その後の人生も生きていく。 後悔を抱えて誰かと関わっているうちに、 昔から知っていたような言葉でも、それを受け取る自分の方が ガラッと変わってしまうことがあるんだろうな、みたいな話です。 そしてその続きを考えながら思い浮かべたのが、 高畑勲監督の『かぐや姫の物語』の作品です。 悲しみも悩みもない月へ帰れることは救いのはずなんです。 それなのにどうして、あの結末というのは、 あんなにも姫にとって悲しく切なく感じてしまうのか。 自らの苦しみがなくなることを願っていたはずなのに、 そのために手放すことになるものを知ると、 すぐには頷けなくなってしまう。 僕はちょうどその観点に引っかかっていたわけです。 そんな自分にとってオデュッセイヤを見た時の 帰りたいという願いみたいなものは、とても印象的なものだったんですよね。 この映画というのは、トロイア戦争を終えたオデュッセウスが 長い苦難の旅を経て、故郷へ帰ろうとするような物語です。 ここで原点の話なんかも少し重ねると、 彼を自分の島に留めている女神カリプソが 不死を持ちかける場面があるんです。 自分の元にいればあなたは不老不死になれる。 故郷へ向かえば、まだまだ苦しいことが待っている。 それでも妻の元へ帰りたいのかと問うんです。 オデュッセイヤは、妻ペネロペが女神のように美しくもなく、 そして不死でもない生身の人間であることを重々承知しています。 それでも故郷に帰りたいと願うし、答えるんですよね。 もちろん帰ることを妨げられる彼にとって、 カリプソの島みたいなものは既に苦しみの場所でもあるんだというふうに思うんです。 だからそのままかぐや姫の物語に出てくる 月と同じ世界だという気はありません。 でも不死になれるという条件を与えられても、 それだけでは満たされない願いがあって、 そのことが今の自分にとってはすごく大きく感じられる みたいな感覚は一緒だというふうに思うんです。 つまりかぐや姫はこの世界から離れたくないし、 今いる世界へと帰りたいというふうに願うわけなんです。 向かう方向みたいなものは真逆なのに、 僕にはその願いがとても近いものに思えてしまったんですよね。 生きられる時間がどれだけ長くても、 そこに自分が今会いたいというふうに思う人がいなければ、 それってのはどうなんだろうかと。 別の場所でもっと恵まれた生活ができると言われても、 それで自分の願いは叶うんだろうかと。 そう考えると帰りたいという短い言葉の中には、 そしてこの2つの物語には、 もう1つとても気になるような重なりがあるんです。 かぐや姫が月に帰る時に着せられる羽衣と、 今回の映画の中で描かれているオデュッセウスが食べているハスの花です。 かぐや姫の物語においては、 月へ帰る姫に着せられるその羽衣というのは、 地上での記憶を失わせるものでしたよね。 一方で、このノーランの映画の中でもかなりそれは似ていて、 カリプソがオデュッセウスにハスの花を食べさせて、 故郷や家族の記憶を忘れさせようとするわけです。 この2つを並べてみると僕には、 単に記憶がなくなるということ以上のものがあるように思えてくるんですよね。 それというのは、忘れてさえしまえば、 あの人たちと生きたいという願いそのものまでが 失われてしまうのか、みたいな話です。 会えないことが苦しいのは、会いたい人がいるからですよね。 帰れないことがつらいのは、自分にとって帰りたい場所、 そんな故郷が明確にあるからでもあります。 忘れる前に願っていたものを、 もう願うことさえできなくなってしまうのか、 ここが僕はどうしても引っかかるんですよね。 ハゴロモというのは、姫を地上から連れ去る時に着せられて、 ハスの花はオデュッセウスを 故郷へ帰らせないために与えられるわけです。 どちらも、以前の世界の中で誰かと生きてきた そんな記憶を失わせることで、 その人たちが離れた状態を本人に受け入れさせてしまうものです。 前回、「自分が忘れればそれで済むんだろうか?」 みたいな話をしたと思うのですが、 忘れた自分がもう苦しんでいないとしても、 忘れる前の自分が守りたかったものは どうなってしまうんだろうかと思うのです。 ハゴロモとハスの花を重ねると、 その問い自体が一層誠実なものに感じられてくるから、 本当に不思議です。 そう考えると、なぜ記憶を操るような小道具が 古典的な物語の中に共通して出てくるのか ということも気になってきます。 前の2本のボイシーを話しながら、 僕はずっとその苦しみについて考えているようなつもりでした。 でも、こうして物語を重ねてみると、 気になっていることが少しずつ具体的になってきたような気もします。 それというのは、自分は誰とどんな自分として 生き続けたいのだろうか、 苦しみをなくしたいという願いのさらに先にあるような話です。 苦しかったこと自体を良かったことに変える必要はないし、 それというのは間違いないことだと思うんです。 でも、その時間を生きてきた他でもない この自分としてこれからどう関わるのかということは まだ終わっていないわけなんですよね。 僕にはオデュッセイアの中の故郷に帰るということも そんな風に見えてしまいました。 長い時間を過ごした後では、自分自身も、そして故郷で待っていた人たちも 出発した時と全く同じではいられないはずなんですよね。 お互いに相手の知らない時間をすでに生きてしまっていて 完全に変わってしまっている。 それでもその人の元へ行きたいという風に願う。 そういう願いの切実さが今僕が考えていることと 深く重なるなという風に思うんです。 ここまで考えていて、自分が先日のボイスの最後にお話をした 一文みたいなものに改めてなんだか目が止まってしまいました。 それというのは、これから同じ物語を読んだ時 以前とは違う言葉の前で足が止まりそうな気がしています。 自分でブログの中にこんなことを書いていたということに 今触れながら気づいたんですよね。 その後にオディスセイヤーを見て、まさに今こうして何度も立ち返りながら 考えてしまっているなという風に思うんです。 そこで書いた受け取る自分が変わるということの意味を 自分自身のそういう感傷体験みたいなものを通じて もう一度考えていることになっているのが 何とも不思議な感覚だなという風に思うんです。 もしあの読書会の前にこのオディスセイヤーという作品を見ていたら 自分はどうだったんだろうかと。 実際にそのタイミングで既に日本でも公開されていたので 決してありえない話ではないんです。 もちろんそれでもすごい映画だなという風に思ったはずなんです。 でも帰りたいという願いや不思議であることだけでは満たされないという そういう人間の姿みたいなものを今と同じように 受け取っていたんだろうかという風に思うんですよね。 それというのは全く分からないなという風に思うんです。 日本のブログを書いた後に分からないまま考えていたことが 物語のある願いみたいなものにずっと引っかかってしまったわけです。 出会ったタイミングというのは偶然であっても その物語を受け取る自分にはそこまで生きてきた時間があったから 僕は今こんなにも強い衝撃を受けているんだろうなという風に思うんですよね。 僕が今回奇遇だなという風に感じながら どこかでこの映画を見たその瞬間が 必然のようにも感じてしまうのは このあたりが原因なのかもしれません。 何かに出会う前からその意味を知っていることはできない。 振り返るとあの時考えていたことが ここに繋がってしまうのかという風に自分自身で驚いてしまう。 あの読書会の中ですぐにきれいな答えが出なくて 逆に良かったのかもしれないなとさえ思います。 分からなさみたいなものが自分の中にちゃんと残っていたから その続きを映画を見た後もというか 映画の中で考えさせられたわけですから。 公開期間中に必ず今回の映画をもう一度見に行こうという風に思っています。 こうして改めてボイスの中でもその感想を話してみたことによって 次に映画館に座る時の自分自身は 最初に見た時はまた少しだけ違っているはずなんですよね。 同じ川に二度入ることはできないというのは本当によく言ったものです。 次回見る時は今自分が気になっていることが もっと強く心に残るかもしれないし 逆に今回ここで語ったこととは全く別の 言葉や表情の前で大きく気持ちを揺さぶられてしまうのかもしれません。 それを含めてもう一度改めて 見てみたいなという風に思うんですよね。 このオジスセイヤという作品であえて本当に良かったなという風に思っています。 皆さんにもぜひ映画館で見てほしい大傑作です。 さて今日のお話は以上となります。 いつもこのボイスを聞いてくださっている皆さんにとっても 今日のこのお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。 それでは今日はこの辺で。また明日。 もっと見る鳥井弘文の旅と読書とコミュニティプレミアム放送配信中!09:521.チャプター 1コメントプレミアムリスナーになるとコメント欄に参加することができます プレミアムリスナーに参加する
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