TOPエンタメ映画・本鳥井弘文の旅と読書とコミュニティ「余人を持って代えがたい」の認識が、なぜ私に多幸感をもたらすのか。09:39 2024年1月29日 595再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次「余人をもって代えがたい」存在との出会い多幸感に繋がる「結びつき」の深層絶対の他者との触れ合いがもたらすもの他者を通して知る「自分自身」の発見理解を超えた繋がりと多幸感の源泉AI文字起こし(β版) # チャプター 1 こんにちは。鳥井博文です。 働くをテーマにした、対話型オンラインコミュニティ、和製サロンを運営しています。 さて、本日のお題は、余人をもって変えがたいの認識が、なぜ私に多好感をもたらすのか、というテーマでお話ししてみたいと思います。 今日も昨日、ブログに書いた内容です。 それでは早速、本題に入ってきますね。 人生にはいろいろな瞬間があるけれど、僕がこれまで数々の体験をしてきて、今強く思うのは、 あなたは余人をもって変えがたいということを丁寧に言語化をしながら、それを相手に伝えること。 この瞬間が一番多好感あふれる瞬間だなと。 それは言われた自分が、ではなくて、それを言っている自分自身にです。 もちろんこの時は、言葉だけではなく、態度でもそれをしっかりと示して、 この世に存在してくれていてありがとう、私はそのことにとても助けられているし、本当に心から嬉しいです、ということを いかに相手に対して精神、誠意、伝えるかが重要になってくると思うんですよね。 そのことにおいて、どう伝えるのかを苦心している時が、何よりも身遣いにおいて多好感があるなというふうに思うんです。 ここで重要なことは、自らが苦心している時ということなんですよね。 スルスルと建前としての言葉が出てきてしまう時ではないはずです。 感情が先立ち、言葉にならない言葉をどうにかして、相手に対し祈るように伝える時、 このタイミングにおける多好感というのは、他には一切存在しないタイプの多好感みたいなものを与えてくれるなというふうに思います。 人を褒めるってことと、神一人だと思われるはずなんですが、それとは全く異なる感覚です。 これが本当に不思議で仕方ないなと。しかもこれは、どんな相手に対してもそうなんですよね。 つまり、相手の素質や肩書き、立場とか一切関係なくて、自分自身が覚悟を決めたなら、必ずそうなってしまうから不思議です。 じゃあ、なぜそうなるのか。それを今一度この場で考えてみたいなと。 まず、チャットGPTに聞いてみたところ、以下のような回答が書いてきました。 それは、相手を深く理解し尊重し、その存在そのものを価値あるものとして認める行為です。 このプロセスは、相手だけではなく伝える側にも深い満足感をもたらします。 なぜなら、このような言葉や態度を通じて、私たちは自分自身の感情や思考を表現し、共感や結びつきを築くことができるからです。 なるほど、言われてみれば確かにこれは本当にその通りですよね。 そして僕は、この結びつきという部分になんだかとてもハッとさせられてしまいました。 というのも、すでに何度かご紹介してきた、豊弘さんのスマートな悪という本の中に、結ぶに関連する話が書かれてあったからです。 これがなんだかとても美しいお話で、非常に強く印象に残っています。 もしかしたら、今日の内容にも関連してくるのかなというふうに思うので、少しここでご紹介してみたいと思います。 本書は、結ぶという言葉を慎重に選択している。結ぶということは、二つのものを同化させることではない。 何かと何かを結ぶということは、結ばれるもの同士がその再生を持ったまま結合することであるからだ。 例えば、草に紐を結ぶとき、草と紐は結合する。 しかしそれは、草と紐が一つに解け合い、もはや草でも紐でもないものになるということを意味するわけではない。 草と紐は、たとえ結ばれているのとしても、依然として草と紐である。 つまり、そこで結ばれているもの同士の再生が維持されている。 ここに結ぶということの特徴が表れている。 さて、いかがでしょう。つまり、相手自身を嗅いでしまうわけでもなく、吸収するわけでもなく、同化してしまっているわけでもない。 その再生を保ったまま結合することが結ぶの意味だとしたら、 両者がそのように、紐を保ったまま繋がることによって、何か別のすごいことが起きているのかもしれないなと。 じゃあ一体その時に何が起きているのか。 ここから少し哲学的な話になってくるんですが、 以前もこの母医師の中でご紹介したことのある、今を生きる思想、西田喜太郎という本の中で語られていた 哲学者西田喜太郎の思想にそのヒントがあるなというふうに思っています。 以下でまた本書から少しだけ引用してみたいと思います。 西田によれば、私たちはそれぞれの底に絶対の他を認め、それを通して私と汝が相触れるという、 私とあなたとは絶対の他として隔てられているけれど、それを通して私とあなたはお互いを知る。 私たちは互いに絶対の他であるので、お互いを完全に理解することはできない。 しかしだからこそ、私たちは言葉を尽くして話し合うのだ。 言葉を通して応答し合い、それが相手にとって反響となる。 そのような関係を通して私はあなたを、あなたは私を知ることになるのだ。 さて、いかがでしょう。 ここでの肝の部分というのは、僕らはお互いを絶対の他の存在として認識し認め合うことによって、 僕らは相手のことを初めてちゃんと知ることができるということなんですよね。 もしそのタイミングにおいて、余人をもっていくらでも変えられるというふうに思い込んでしまっていたとしたら、 ただただ相手に自分の思い込みを押し付けることになってしまって、 それは相手のことを真に理解することには繋がらないんです。 ここで絶対の他であるという、余人をもって変えがたい存在として愛を触れることによって、 相手のことを真の意味で理解できるようになるんじゃないでしょうか。 そしてさらにその相手だけではなくて、自分自身さえも知ることができるということが実はもっと大事なことなのかもしれません。 それは一体どういうことなのか。本書では以下のように続いていました。 また西田は次のようにも書いている。 応答によって私が汝を知り、汝が私を知ると考えられるとともに、汝の応答をなくして私は私自身を知ることはできない。 また私の応答をなくして汝は汝自身を知ることはできないということができる。 つまり私とあなたが応答し合うということは、ただ相手を知るだけではなく、自分自身を知ることでもある。 私とあなたが応答し合う関係、あなたにあなたと言ってもらえるような関係を通じて私は私自身を知ることができる。 この時あなたは私を映し出す鏡となっているのである。 さていかがでしょう。本当にこれだというふうに僕は思うんですよね。 ここが今日一番強調したいポイントでもあります。 他者を通して本当の意味で私という存在を知ることができるんだと。 つまり他者の関心ごとに関心を寄せることの重要性、その余人を持ってかえがたい存在と認識することの意味はまさにここにあるんだと僕は思います。 この点少し話は添えてしまうんですが、以前100分でめっちゃのコキンワカシューの回で講師の方がおっしゃっていて本当にその通りだなというふうに思ったことがあります。 それが何なのかといえば、僕らは分かり合いなさを通じてそれでも言葉にしようと伝えようとしているからそこに面白みが生まれてくるんだというような話です。 分かり合えている者同士、例えば付き合い立てのカップルの話なんかを方から聞いていても何にも面白くないと。 なぜならそこには言葉なんか必要ないからだというふうに語られていました。 でも分かり合えないから言葉を尽くして相手に伝えようとするわけですよね。 さらにコキンワカシューに集められているような和歌の場合、その凄さというのはそのような他者の絶対の他をさらに飛躍をさせて自らの感情を自然の情景描写と結びつけているところでもあるのかなって。 つまり自然描写の表現を通して今の私には自然がそう感じられたってことを表現してその自らの気持ちを必死で相手にも伝えようとしているわけですよね。 これは一体何をしているのかっていうふうに言えば、本来であれば何も変わらないはずのその自然をこの情景を切り取りたいっていうふうに思うほど自分自身が変わってしまったんだってことでもあるんだと思います。 端的に言うと自然が変わって見えてしまったんです。 養老さんのよく言う、余命宣言された人間は去年までの桜が全く違って見えるっていうあの話と一緒です。 それは他でもなく自分自身が変わったからなんだと。 他者を知り、私を知り、その結果として自然の見え方さえも変わってくる。 ここまでの一連の流れをあの短い文字数の中で行ってしまうから和歌とは本当にすごい文化だなっていうふうに思ってしまいます。 さて話を元に戻すと、この感覚を得られる気持ち良さが他のものとは全く異なる多好感を生み出すっていうのは、ある意味では当然のことなんだろうなっていうふうに思うんです。 他ではこんな体験っていうのはなかなかできない。 ただ、もしこれが同じ他者であっても、蠢の種となってしまうと話が全く変わってくるかと思います。 つまり、余人をもっていくらでも変えられる顔のない他者になると、そこには絶対の他が存在しなくなり、 常にそれは私にとって不愉快な存在となり、私はその蠢の種を腹にのける対象としてしまうはずなんです。 結果として心を閉ざしてしまう嫌な自分みたいなものもそこに立ち会われてきてしまう。 一人一人、ちゃんと余人をもって変えがたい存在として向き合うことができていれば、もしかしたら全く違う自分と出会えていたかもしれないのにです。 これは完全に余談なんですが、宮崎駿監督の君たちはどう生きるかは、この蠢の種を本当に鳥として描いてしまっていたところが、 マジですごいなというふうに思います。 最後に、だから本当に自分の眼前に広がる人々の数や規模感なんかで判断してはいけないなというふうに僕は思うんです。 それよりも他者と通じて、その絶対の他として相手がそこに存在していることをお互いに認め合うこと。 余人をもって変えがたい存在として、顔のある他者としてお互いに存在を認めると、自分自身を知ることができるからです。 いや、その時はもはや事故なんて枠を越えてしまって、私の背後にある超越的な存在そのものを知ることにもつながるんだと思います。 結果としてその体験自体が多幸感にも通じているんだろうなと、これが僕はすごく面白いことだなというふうに思っています。 最後はもはや宗教性のような話になってしまったので、人によっては変な話に聞こえてしまったかもしれないんですけれども、今後僕はこの辺りを突き詰めていきたいなというふうに思っています。 さて、今日のお話は以上となります。いつもこのボイシーを聞いてくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。 それでは今日はこの辺で。また明日。 もっと見る #西田幾多郎 #今を生きる思想 鳥井弘文の旅と読書とコミュニティプレミアム放送配信中!09:391.チャプター 1コメントプレミアムリスナーになるとコメント欄に参加することができます プレミアムリスナーに参加する
僕らはなぜ、バトンがつながる瞬間に、こんなにも心を動かされるのか。 10分・昨日・ 181再生AI目次松井秀喜監督就任に見る継承の感動AIでは代替できない「物語の続き」日本社会が育む「受け渡しの器」大玉転がしに見る「最後の設計師」「主体的な宿命性」が拓く未来
AI時代の「粋な気遣い」は、ひとりでは学べない。 10分・一昨日・ 216再生AI目次AI時代の「粋な気遣い」の定義サイト構築の裏にある信念とは気遣いが深める人間関係の秘訣信頼のバトンを繋ぐ「通う」時間なぜ「粋」は一人で学べないのか
図書館と体育館裏は、どちらも教室の外だった。 10分・10月23日・ 245再生AI目次守られる図書館、消える体育館裏居場所の価値を決める「大人の物語」スリザリンが示す「放っておく」哲学体育館裏で育む「自分らしさ」の価値図書館派と体育館裏派が対話する未来
ストックフレーズの裏の裏。自分のヴォイスの育み方とは? 10分・10月22日・ 238再生AI目次「言語化力」の正体とボイスの問い借り物の言葉と自己認識のずれ沈黙を破る「相手」の存在意義AIにはない言葉を生む「駆け」AIを活かした「独自のストック」
100回話して、ようやくわかった「一緒に本を読む理由」。ゲスト:F太さん 25分・10月20日・ 223再生AI目次100回を彩ったゲストとの秘話本と映像の中間?オーディオブックの独自性映画と連動?広がるオーディオブック市場AIで登場人物と対話?未来の読書体験他者の視点が物語を深める読書会
売ったら終わりの時代から、手渡して始まる時代へ。 10分・10月19日・ 259再生AI目次AI時代の消費サイクルと「残り続ける」問い飽和コンテンツ社会で変わるべき視点モノと時間が紡ぐ、唯一無二の価値「星の王子様」が語る「飼いならす」意味「手渡し」で始まる、未来のビジネスとは
AI時代、人間がやるべきは「官僚の仕事」ではなく「天皇の仕事」。 10分・10月18日・ 261再生AI目次AI対話の違和感から見えた人間の思考AI時代の「蓄積」。ツールの先にある本質「官僚の仕事」ではない「天皇の仕事」とはAIを導く「憲法」としての理念構築養老孟司が説く「情報化」の真の意味
映画が、物語の「モデルルーム」になる未来。 10分・10月17日・ 209再生AI目次AIが変えるアニメ制作の未来AI映像化が示す文化の隔たり原作への深まる愛情とAIの誘惑映画が変容する未来の鑑賞体験変化する映画ビジネスと観客の欲望