TOPトーク専門家細野豪志の今日も元気に!阪神淡路大震災から30年。石破政権は日本の防災体制を根本から変えようとしています!20:54 2025年1月17日 7,019再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次阪神淡路大震災の記憶と私の決意ボランティア活動から得た教訓とは石破政権と防災体制改革の展望防災庁設立の必要性と課題未来への防災対策、国民と共にAI文字起こし(β版) # 阪神淡路大震災での私の経験は↓ 細野剛史の今日も元気に。 今日は1月17日ということで、阪神淡路大震災からちょうど30年という節目を迎えました。 私は関西出身で、1995年は大学4年生でした。 従って阪神淡路大震災というのは、ものすごく身近で起きた大災害だったんですね。 おそらく東日本大震災の時に、どこで何をやっていたかということは、多くの方が記憶されていると思うんですよね。 西日本に住んでいた方は、おそらく30年も前の阪神淡路大震災も、何をしていたか、どこにおられたか、それをほとんどの方は覚えておられるのではないでしょうか。 あの地震はですね、私自身が政治家を目指す大きなきっかけともなったものでした。 今日は当時を振り返りながらですね、今石場政権が防災政策という意味で何に取り組もうとしているのか、そこを皆様にぜひ聞いていただきたいというふうに思います。 # 阪神淡路大震災のボランティアとして感じたこと 30年前の私はですね、京都で学生生活、卒業式がもうすぐ来るということで、 もうほぼ勉強も終わってですね、そして最後、学生生活、何をやって過ごそうかな、みたいな時期にですね、地震に見舞われたんですね。 5時46分でしたので、まだ私寝てました。 寝室にですね、自分の下宿にいたんですけど、寝ていた部屋ですね、そのベッドの横に本棚を置いてたんですよ。 当時結構私、本たくさん持ってたので、この地震で飛び起きたらですね、その本棚がまさにベッドの方に倒れてきそうになっていて、 これはまずいっていうことでですね、飛び起きて、その本棚を押さえて何とか倒れてくるのをですね、押さえた、そんな記憶があります。 大きな揺れだったので、何か起こってんじゃないかということで、外を見たりですね、あとはテレビをつけたりしたんですけども、全く情報がなくてですね、 大したことないのかなというので、一旦6時ごろ、寝床に入ったんですよね。 それからおそらく30分か40分経った頃だと思うんですけども、じゃんじゃんですね、電話が入るようになりまして、 親戚であるとか、あとは東京の友達とかですね、学生時代の、大丈夫かということで連絡が入るようになって、事態の深刻さに気が付きました。 ただですね、当時私1回の学生でしたので、大変なことが起こったということは分かったんだけれども、何もやる手立てがないなと思ってですね、悶々として2日ほど時間を過ごしたわけですね。 そうしましたら3日目にですね、友人が海外に行っていて、大阪に帰ってくると、そして神戸の実家までですね、荷物を運ぶのに一緒に行ってくれないか、こういう問い合わせが来たんですね。 学生でも私自身卒業決めてましたし、時間もありましたので、これは体力がある私がやるべきことだろうということで、その話に応じまして、当時結構私アウトドアやってましたのでリュックを持ってたんで、一番大きいリュックを持ってですね、その友人とともに神戸に入るということをしました。 一番不足をすると言われていたのが水だったので、このリュックの底にですね、水ですよね、一番大きな容器の水、これを一番下に置きまして、その上にいろんな食品なんかを背負ってですね、行ったわけですね。 当時あれは阪急だったと思うんですけども、西宮北口までは電車通ってたんですけど、そっから歩いたんですよね。 ですから長くまで歩きましたので、30キロぐらい歩いたんですけどもね、その時の記憶はね、ほんと今でも頭にこびりついて離れないですね。 電車通ってませんでしたので、多くの方々が歩いて移動していたんですけれども、まだそれこそ結構ですね、焼け落ちたような、くすぶったような家もありましたし、あとはそれこそね、ガスみたいなのがボーッと出ているような感じもして、これもしかしたら戦争の後ってこんな感じだったのかなというふうに思いながら歩きましたね。 ただ一方で、みんな非常に助け合って歩いていたのが非常に印象的で、大変なことが起こっているんだけれども、一定の秩序が保たれているなということが印象に残りました。 おそらく30キロか40キロぐらいの荷物を背負って行ったと思うんですけど、とにかく30キロ歩いて、その友人の家までそれを届けてですね、そしたらもう全部空になるじゃないですか。もう帰り30キロ、40キロ一人で歩いて帰ったんですけど、もうほんと羽が生えたみたいな形でですね、いや、こんなに荷物がないのは楽なのかと思って帰ったことを今でもよく覚えています。 考えてみれば、やっぱり体力があったんですよね。30キロ歩いて、40キロ近く歩いたのかもしれませんが、またその日のうちに、もちろん泊まる場所もありませんので、そのまま帰ってきてですね、そして西富山北口から京都の下宿にまた帰るということになったわけですね。 その1回こっきりで、あと何かできないかなと思っていたらですね、その数日後に、当時私あるNPOでですね、ボランティアでちょっといろんな活動をお手伝いしていただくことがあって、その団体の事務局の人から連絡がありましてね、現地のボランティアセンターを立ち上げたんだけども、常駐するスタッフがいないから、一番あんた暇そうだから行ってくれないかということで連絡をもらったんですね。 私は2つ返事で引き受けました。正直家庭教師のバイトなんかもしてたので、一瞬ね、受験生である家庭教師のこのことが気になったんですけども、ここはね、もう1月になっていたし、もうやれることはやったし、そこはもう自分の身はそこに預けようということで、もうお詫びをして、そして現地に入ったことをよく覚えてます。 約2ヶ月ですね、家庭教師の子がいたので、1回2回は確か帰ったと思うんですけど、その他の期間はずっと神戸にいてですね、ボランティアの役割を担うことになったんですね。 私が担ったのは、当初は例えばいろんなお手伝いをするということで、お家の片付けをしたりとかですね、あとは物資を届けたりするようなことをやってたんですけども、これ個人でやっても拉致が開かないということで、そのボランティアセンターを民間で作ってですね、そして神戸の市役所なんかと交渉することもしました。 きちっと被災者に物を配るから、この市役所の中に置いといてもですね、もう来れる人限られてるから、もっと分散した方がいいでしょうって言ったんですけど、なかなか行政の方は民間のボランティア団体に渡せませんからっていう。 今から考えればちょっと考えられないんですけど、当時はNPOっていうと若干反政府的な組織みたいな風に見られた時期でもあったんですよね。 ボランティアがんねんということで、当時その交渉自体に非常に苦労したことを今でも覚えてます。 あとはですね、神戸市の場合は政令指定市なもんだから、この行政の役割は兵庫県なのか神戸市なのかということでずいぶん混乱していたこともよく覚えてます。 私自身は2ヶ月現地にいましたので、ボランティアのコーディネーターみたいな役になりましてね、途中からは私自身が動くというよりは入ってくるボランティアの方々に役割分担をしていただいて、全体を統括するような役をやらせていただいたんですね。 ありがたかったのは、それこそ民間企業の皆さんなんか、ソニーの方なんか、ずっと継続して人を派遣をしていただいてたんですけれども、その方々がですね、1週間後退ぐらいで来られる有能な方々だったんだけど、 あの団体に保存というのがいるから、そのもとでやってくれという申し送りまでしていただいてね、本当に能力を発揮をしていただいてやっていただいたと。そんなことを2ヶ月やったんですね。 いろいろ見えてきたことがありました。一つはやはり政治の重要性ですね。自衛隊がものすごく大きな役割を果たしてたんだけれども、やっぱり一瞬出動が遅れたということが、神戸市民の中でいうと非常に痛恨の記憶として残ってましたね。 お風呂のサービスの提供なんかも途中から自衛隊がやり出しまして、ものすごく感謝されてたんですけれども、最初の段階では当時自衛隊に対するやや冷めた目みたいなのもおそらくあったんだと思うんですね。当時、村山政権だったんですけど、自社裁政権ですね。 その時の判断、もう少し早ければ消火作業なんかももっとうまくいったんではないかというのは、私の気持ちの中ではありました。やっぱり政治家だと。こういう機会の時にですね、しっかりと政治家が判断できないと国民が不幸になるというのが、一つの私が当時得た教訓。 もう一つの教訓はですね、日本人というのは本当に個人個人の能力は高いし、あとは自分を立する能力も高いと。私が目にした中でいうと、暴動みたいなものは起こっていませんでしたし、被災者の皆さんはですね、本当に厳しい中で避難所生活をされているにもかかわらずですね、皆さんちゃんと秩序あって並んで物を受け取っておられたわけですね。 ボランティアに来る皆さんもですね、何十人かはずっと継続して受け入れていたんですけれども、中には中で物資を仕分けするみたいなものすごく地味な仕事もあるわけですよね。そういった仕事もですね、全く不平を言わずに皆さんやってくれたと。 その姿を見ていて、日本人の個人としての支出は非常に高いなと思ったわけです。一方で組織ということになると、まさに政府がそうだし、あとは市役所や県庁ということもあるんだけれども、なかなか機能的に動かないということも見て取れたわけですね。そしてそれを変えるんだということで、私自身が政治家を目指すという決断をしたのが、今からちょうど30年前ということになりました。 # 防災を最優先課題に掲げる石破政権が取り組んでいること 30年前の記憶を久しぶりに辿って話をさせていただきました。 その阪神淡路地大震災の経験がなければ、おそらく私は政治家にはなってなかったと思いますね。 その前から政治というものには関心を持っていたんだけれども、そこで自分のスイッチが入ったという感じがしています。 そしてその後、4月から三和総研で働くことになりまして、4年半ほどシンクタンクで研究員をすることになったわけですけれども、 それでも思いは捨てがたく、その5年後、1999年の秋から政治家になるということで、伊豆半島で活動を始めるということになりました。 原点はそこでしたから、やっぱり危機に強い政府でありたい。 そしてその時に逃げずに、しっかりと被災者に向き合うような政治家でありたい。 そしてそれを機能させる政府を作りたいという思いがありまして、 2011年の東日本大震災の時、当時菅直人政権でしたけれども、私が総理の補佐官をやっていたというのは、 私は偶然とは思えなかったんですよね。 正直言って、見ていると腰がひけた人もいたんですけれども、 私はここは、私がなんかならなきゃならないということで、官邸で菅総理の近くでですね、 お手伝いをするというか、とにかく情報を集めて総理の判断を求めるということをやっていたら、 お前が原発事故の対応をしろということで、指名されて補佐官として活動するということになりました。 その閣僚も経験することになったわけですけれども、 あの時からですね、私にとって政治家として震災対応ということでですね、 一つの大きな仕事が、これ目の前に出てきたなということで取り組んできたという歴史なんですよね。 東日本大震災の時の記憶は、教訓がたくさんあるんですけども、 今日はそれはちょっと置かせていただいて、 石破政権が誕生したことによって、今政府が何をやろうとしているのかということについて、 もう少し話をしたいというふうに思います。 私、石破さんの総裁選挙を手伝った時にですね、 これはやりたいなと思ったのが防災庁だったんですね。 春頃から石破さんの勉強会に出るようになってましてね、去年ね。 その中で最初に石破さんが話していたのが、これが防災の問題だったんですね。 今の石破政権にもこれは連なる話なんですけども、 TKBという話を石破さんがしていました。 TKBですよ。Tというのはトイレですね。 Kはキッチン。そしてBはベッド。 もう一つ加えるならば、Bが二つあってバス、すなわちお風呂ですね。 これをしっかりと被災者の皆さんに提供するべきなんだと。 未だに体育館で雑魚寝ってこれどうなんだと。 石破さんの言葉を借りればですね、関東大震災の時代から変わっていない。 私の直接の体験で言うならば、阪神淡路大震災の時から全く変わってない。 体育館で雑魚寝をして、これはもうそれこそベッドはないわけですよね。 そしてトイレは断水で、大変な皆さんですね、不自由な生活を送ると。 そしてキッチンはありませんから、どうなっているかというと炊き出しなんですね。 炊き出しが出てくるまでは何があるかというと、 まあそれこそありあわせのおにぎりとかですね、あとはパンなんかが来てそれを食べると。 まあこれじゃ体調を壊す人がいるのは当然ですよね。 何度も大きな災害を経験したわけです。阪神淡路大震災はもちろん大きな災害でした。 そしてその後もですね、中越地震ですか、中越沖地震もありましたね。 当時私も政治家になっていましたので現地に行きましたけれども、本当に同じような光景がずっと広がっていました。 そして2011年の阪神淡路大震災、他にも北海道にも地震がありましたし、 そしてその後はそれこそ熊本でも地震がありましたし、そして野田半島でも今回地震があった。 繰り返し繰り返し日本は大きな災害に見舞われているにも関わらず、同じようなことが繰り返されているのは一体何なんだと。 それはひとえに政府がやるのではなくて自治体に任せているからということなんですよね。 自治体はそれぞれ初めて経験するわけですね。同じところで同じような災害が起こるということはありませんから。 そうなるともう初めての体験ですから、とにかくその場で対応するしかないと。 もうそれこそ被災者の皆さんが集まっていただくのは当然体感しかないということになるわけだし、 そしてそこにベッドを用意するノウハウももちろんないしね。 じゃあキッチンカーがあるかというとそんなものももちろんないしということで、同じことを繰り返されているしてきたわけですね。 これじゃダメなんだと。今石破政権がやろうとしているのは、それを内閣府防災に集約をして、 そしてそれをできるだけ近い将来には防災庁という形で独立をさせてですね、 ノウハウを蓄積をして、そして災害が起こった場合はそのノウハウを中央主導でですね、 現地にしっかりと活かしていくという、これができないかということなんですね。 そして今足元で取り組んでいるのはTKBBなんですよね。 トイレに関しては例えば移動式の下半式のトイレカーみたいなものは、今かなり全国にあるんですけども、 そのリストを政府がしっかりと用意をする。 そしてある地域でそういう災害があった場合には、それを他の地域から運んでくるようなオペレーションが組めないかということで、 もうすでにそれが始まっています。 あとKはですね、これコロナの影響かなりあると思うんですけど、今全国でキッチンカーってむちゃくちゃ増えてるんですよね。 焚き出しってむちゃくちゃ難しいんですよ。大変なんですよ。 だって食材を見つけてきてですね、そして火を起こして器を用意して、人が作って提供するわけでしょ。 当然被災地ではですね、皆さん被災をしてますし、市役所の方も被災をしてるわけですよね。 そうなると自衛隊派遣するかということになるわけですけれども、それ自体はものすごく時間かかりますよね。 これはイタリアの例なんですけども、キッチンカーが登録をされていてですね、 ある地域で地震が起こった場合には違う地域から派遣をされてですね、数日後には美味しい食事を被災者の皆さんに提供することができる。 これだって今の日本でもうやれないことはないんですよね。 そしてベッドです。いや寝る場所がね、もうそれこそしっかりしてないと体力持たないですよ。 我々ぐらいの世代でもね、正直寝る場所が雑魚寝だときついですよ。 ましてやですね、それこそ70代とか80代、90代の方々が雑魚寝を続けるということになればですよ。 そりゃね、大変気の毒なことで、震災関連死みたいなものが増えてくるのはもう当たり前なんですよね。 じゃあそのベッドをどう用意するのかということだってですね、政府がしっかりと対応すればいい。 一部に内閣府にですね、それこそ内閣防災で人数を増やすとか、さらに防災庁を設置することは億上億下みたい批判があったんですが、私はこれは全く当たらないと思います。 しっかりと災害対応の組織をですね、中央主導で作って、そしてそれぞれの自治体にそれを派遣する仕組みを作るべきだと。 あと加えてやらなきゃならないのは人なんですよね。 やはり地元の自治体は役場の方々も被災をします。 その業務をですね、違う地域の人たちが、違うそれこそ行政の方々ですね、地方自治体の方々が来て、丸ごとオペレーションするみたいなことだって、私はやり方をですね、考えればできないことはないと思うんですよね。 そこも含めて、今まさに石破政権がそれに取り組もうとしているということを、皆さんにぜひ知っていただきたいというふうに思います。 思い起こせばね、30年が経ったんですよ。 この月日というのは、防災という意味ではね、歩みが止まった30年になったかもしれない。 私が政治家を目指して30年ということで、その月日の長さを考えればですね、私自身にもその責任の一端は政治家としてあるなというふうに感じています。 過去はね、取り戻すことはできませんけれどもね、石破政権が誕生して、そして私が石破総裁を推し、そして政府のそれこそ後押しをする与党の中で政調会長代理をやっているというのは、ある意味のこれからの大きな責任ということにもなるのかなというふうに思っております。 いろんなことがね、今日はたまに巨大をしますが、思い出に浸っている場合ではありません。記憶に浸っている場合ではありませんので、しっかりと前を向いてですね、防災体制をもう一度確立をする。 それは政府としてしっかり私はやります。そしてできればそれぞれの皆さんも身近なこの防災のですね、取り組みということをもう一度思い起こしていただく。そんな今日は一日になればということでお伝えをさせていただきました。 今日もウィークデーですのでね、30年ということでいろんな思いはありますが、一日充実をして過ごしてまいりましょう。 それでは今日も元気にいってらっしゃい。 もっと見る #東日本大震災 #阪神淡路大震災 #細野豪志 #防災庁 #TKB 細野豪志の今日も元気に!プレミアム放送配信中!01:071.阪神淡路大震災での私の経験は↓https://note.com/hosono_54/n/n2630cbabd5d909:582.阪神淡路大震災のボランティアとして感じたこと09:513.防災を最優先課題に掲げる石破政権が取り組んでいることコメント感想・質問・応援メッセージを書こう Toshiaki Kobayashi2025年1月24日いつも為になるお話ありがとうございます。当時の体験談とても伝わりました。これからの政治の対応に期待するとともに自分も防災対策を家族で考えたいと思います1返信 ノリ チャン2025年1月23日議員にとっては東北の震災もそうでしたね。ゲルの地方防災の視点は非常に大事な事ですね。度重なる地震、毎度季節毎にゲリラ豪雨や台風で河川の氾濫と、最近の治水事業や耐震物の見直しは早急に改善して行かないと思いますね。自衛隊の出動など、防衛と震災復興など2面作戦を展開して行く流れ。自衛隊処遇改善なんては、別手当を手厚く支給等どんどん良い物にして行かないとね✌️1返信 めぐじー2025年1月18日細野さん、おはようございます!阪神淡路大震災からはや30年…当時私は4歳でした。あの日のことは未だ記憶に残っているのでコメントさせていただきます。朝方、ふと目が覚めて窓の外からゴォーという地鳴りがフェーズインするかのように聞こえ、その直後ドーンと強い揺れが襲いました。私達姉妹が寝ていた二段ベッドの傍にあった、ベビー箪笥の上に飾っていた人形やぬいぐるみ達がどんどん落ち、父が飛び起きてその箪笥が私達の方に倒れないように必死に全身で押さえていた光景が脳裏に焼き付いています。幸い家族は皆無事でした返信 あまの2025年1月17日すみません、忙しくてコメントをなかなかできていませんが、私も一票入れさせてください。字面的には細野班かゴージャーズがいいと思いましたが、音はウィルメンバーが好きです。だからウィルメンバーに1票お願いします^_^3返信 ひで112025年1月17日30年前、山口県の職場の先輩が2週間の有給休暇をとって神戸の避難所にボランティアとして入りました。細野さんのお話を聞いて、先輩から聞いた話を思い出しました。避難所に届く衣料品や食料品をどう分配するか、はじめは不満が渦巻く中で、リーダーとして振る舞う人が育ち、けんかもしながら、話し合いを重ねて、弱肉強食ではない避難所のルールができていく体験談を、その先輩から聞きました。「民主主義の原点のようだ」と。あの大震災が細野さんの政治家としての出発点になっていることに納得です。5返信 細野豪志/衆議院議員2025年1月18日神戸で同じ空間を共有したんですね。あれから30年。この国の防災のあり方を本気で変えたいと思います。1 もっと見る
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当時の体験談とても伝わりました。
これからの政治の対応に期待するとともに自分も防災対策を家族で考えたいと思います
ゲルの地方防災の視点は非常に大事な事ですね。
度重なる地震、毎度季節毎にゲリラ豪雨や台風で河川の氾濫と、
最近の治水事業や耐震物の見直しは早急に改善して行かないと思いますね。
自衛隊の出動など、防衛と震災復興など2面作戦を展開して行く流れ。
自衛隊処遇改善なんては、別手当を手厚く支給等どんどん良い物にして行かないとね✌️
阪神淡路大震災からはや30年…当時私は4歳でした。あの日のことは未だ記憶に残っているのでコメントさせていただきます。
朝方、ふと目が覚めて窓の外からゴォーという地鳴りがフェーズインするかのように聞こえ、その直後ドーンと強い揺れが襲いました。私達姉妹が寝ていた二段ベッドの傍にあった、ベビー箪笥の上に飾っていた人形やぬいぐるみ達がどんどん落ち、父が飛び起きてその箪笥が私達の方に倒れないように必死に全身で押さえていた光景が脳裏に焼き付いています。幸い家族は皆無事でした
字面的には細野班かゴージャーズがいいと思いましたが、音はウィルメンバーが好きです。
だからウィルメンバーに1票お願いします^_^
細野さんのお話を聞いて、先輩から聞いた話を思い出しました。
避難所に届く衣料品や食料品をどう分配するか、はじめは不満が渦巻く中で、リーダーとして振る舞う人が育ち、けんかもしながら、話し合い
を重ねて、弱肉強食ではない避難所のルールができていく体験談を、その先輩から聞きました。「民主主義の原点のようだ」と。
あの大震災が細野さんの政治家としての出発点になっていることに納得です。