第2084回「言われたことをやろうとすると」2026/9/21
13:26
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■管長日記「言われたことをやろうとすると」
https://www.engakuji.or.jp/blog/40780/
■YouTube
https://youtu.be/CrBQYuLSLs4
■note
https://note.com/engakuji/n/n11cc3fb60c89
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
-------------------------------------------------
先日は佐々木奘堂さんにお越しいただいて、坐禅についての講座を行ってもらいました。
いつも御元気な奘堂さんであります。
お目にかかってまず言われたことが、比べることは悪くないということでした。
その頃に管長日記で比べることについて書いていたのでした。
比べるのは当然であって悪くないというのです。
たしかに比べることは生きる上で避けることはできません。
意識するとしないとに関わらず比べて生きているのが実際であります。
ただ比べることによって、人を見下してしまうようになると高慢になります。
また比べてしまうことで、自分を卑下してやる気を失ってしまうのも問題になります。
奘堂さんのように、比べる世界の中にあっても活発に生きることができればそれに超したことはありません。
ただ比べることから苦しみが生じるのも事実であります。
奘堂さんとは違って、私は比べる世界よりも比べない世界を求めて生きていたのだと感じました。
ただ自分に対して異を唱えてくださるのは有り難いことであります。
こちらの高慢な思いを消してくれます。
比べるというと、奘堂さんからは毎回のように、フィディアスのディオニソス像に比べれば、私の姿勢などは全くなっていないといつも厳しく指摘されます。
このディオニソス像が、どうして姿勢がよいのか、講座を受けている修行僧達も多くは理解できていないようです。
私も理解できたとは言えません。
それでも自分の姿勢の悪さを指摘してくださるのが有り難いと思うのです。
私などは石でできたディオニソスはディオニソス、私は私だと思うのですが、それを比べるところに奘堂さんの強い思いがあるのです。
こんなことでは駄目だと自らをふるい起たせる原動力になっているのです。
はじめに奘堂さんはご自身の今までの歩みを語ってくださいました。
奘堂さんが修行に入られた大きな理由の一つは、「自信を持って生きたい」という思いでした。
勉強ができる、仕事ができる、社会的な地位を得る、人から尊敬されるというような、そういうものを手に入れれば自信が持てるのかというと、どうも違うように思われました。
会社をつくって成功し、莫大な資産を築いたとしても、それだけで本当の自信が得られるとは思えなかったのでした。
そこで奘堂さんは、真実の道を求めて禅の修行に入ったのでした。
坐禅だけは誰にも負けないほどやろうと思って、一生懸命取り組みまれました。
ところが、いくら坐っても分からない。
不安はなくなりませんでしたと率直に仰っていました。
師匠からは呼吸を見つめるように言われ、何をしている時でも全身全霊で呼吸を感じるように努めたそうです。
また「丹田を鍛えろ、鍛えろ」と毎日のように言われていたのでした。
しかし、丹田を鍛えるとはどういうことなのか、禅定に入るとはどういうことなのか、分かりませんでしたと奘堂さんは仰います。
丹田を鍛える、禅定に入る、姿勢を正す、公案に参究するという、その四つを言われ続けながらもどれもできないという状態を、奘堂さんはまさに四重苦のような状態だったと言われていました。
やがて師匠が亡くなったあとも、ずっとこの問題を抱えてきたのでした。
しかし今になって、奘堂さんはようやく自信を持ってお伝えできることがあるというのです。
それは、外にある理想の形を追い求めるのではなく、自分の全身を充実させることだというのです。
そこで、高野山の金剛峯寺にある快慶作の執金剛神像の画像を示しながら話してくださいました。
奘堂さんはお像をご覧になった時、その足に目を奪われたそうです。
着地している足は大地をしっかり捉え、浮いている足も、いつでも力強く踏み出せるような躍動感に満ちています。
足の指先まで気力がみなぎっていることに感動されたのでした。
そこで奘堂さんが坐禅で追求してきたことも、結局ここに行き着いたと仰いました。
坐って足を組んでいても、足首をねじって足を殺してしまってはいけません。
地面についていても、ついていなくても、いつでも大地を踏みしめられるような足でいることが大事だと説いてくださいます。
手も同じです。
転びそうになった時、とっさに大地をしっかり受け止められるような手のひらでいることです。
手のひら、足の裏、そして頭のてっぺんから足の指先まで、全身の隅々に気力が行き渡っていることです。
外に何かを求めるのではありません。
今ここにある自分の身体を、隅々まで目覚めさせ、充実させていく、そのことをひたすら貫いていくのだと仰っていました。
これが長い修行を経て、今の私が自信を持ってお勧めできる一つの道なのだとお示しくださったのでした。
それから「坐禅は一切諸道に通ず。八百万の神悉く皆身中に鎮坐す。此の如く鎮坐の諸神を祭祀せんと欲せば、脊梁骨を竪起し、気を丹田に充し、正身端坐せよ。この故に道元禅師曰く、勤むべきの一日は貴ぶべきの一日なり。勤めざるの百年は恨むべきの百年なり。ああ恐るべし慎むべし。」
「元気をして一身の中に充塞せしめ、三百六十の骨節、八万四千の毛竅[毛穴]、一毫髪[ほんのおずかばかり]も欠缺の処なからしめんことを要す。これ生を養う至要なることを知るべし。」
という白隠禅師の言葉を皆で唱和して実習に移りました。
大腿骨の付け根、股の付け根で立つようにして坐ることを、五体投地や蹲踞の姿勢を通じて学びました。
これまた元気をいただいて、姿勢も一層調ったのでした。
終わりに控え室で奘堂さんが仰ったことばが印象に残っています。
人は言われたことをやろうとするとだめになるということです。
言われてその通りにしようと作意をもってやれば、だいたい間違ってしまいます。
形を模倣するのではなく、なにが本質なのかを絶えず求めていくことが大事なのです。
横田南嶺
https://www.engakuji.or.jp/blog/40780/
■YouTube
https://youtu.be/CrBQYuLSLs4
■note
https://note.com/engakuji/n/n11cc3fb60c89
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
-------------------------------------------------
先日は佐々木奘堂さんにお越しいただいて、坐禅についての講座を行ってもらいました。
いつも御元気な奘堂さんであります。
お目にかかってまず言われたことが、比べることは悪くないということでした。
その頃に管長日記で比べることについて書いていたのでした。
比べるのは当然であって悪くないというのです。
たしかに比べることは生きる上で避けることはできません。
意識するとしないとに関わらず比べて生きているのが実際であります。
ただ比べることによって、人を見下してしまうようになると高慢になります。
また比べてしまうことで、自分を卑下してやる気を失ってしまうのも問題になります。
奘堂さんのように、比べる世界の中にあっても活発に生きることができればそれに超したことはありません。
ただ比べることから苦しみが生じるのも事実であります。
奘堂さんとは違って、私は比べる世界よりも比べない世界を求めて生きていたのだと感じました。
ただ自分に対して異を唱えてくださるのは有り難いことであります。
こちらの高慢な思いを消してくれます。
比べるというと、奘堂さんからは毎回のように、フィディアスのディオニソス像に比べれば、私の姿勢などは全くなっていないといつも厳しく指摘されます。
このディオニソス像が、どうして姿勢がよいのか、講座を受けている修行僧達も多くは理解できていないようです。
私も理解できたとは言えません。
それでも自分の姿勢の悪さを指摘してくださるのが有り難いと思うのです。
私などは石でできたディオニソスはディオニソス、私は私だと思うのですが、それを比べるところに奘堂さんの強い思いがあるのです。
こんなことでは駄目だと自らをふるい起たせる原動力になっているのです。
はじめに奘堂さんはご自身の今までの歩みを語ってくださいました。
奘堂さんが修行に入られた大きな理由の一つは、「自信を持って生きたい」という思いでした。
勉強ができる、仕事ができる、社会的な地位を得る、人から尊敬されるというような、そういうものを手に入れれば自信が持てるのかというと、どうも違うように思われました。
会社をつくって成功し、莫大な資産を築いたとしても、それだけで本当の自信が得られるとは思えなかったのでした。
そこで奘堂さんは、真実の道を求めて禅の修行に入ったのでした。
坐禅だけは誰にも負けないほどやろうと思って、一生懸命取り組みまれました。
ところが、いくら坐っても分からない。
不安はなくなりませんでしたと率直に仰っていました。
師匠からは呼吸を見つめるように言われ、何をしている時でも全身全霊で呼吸を感じるように努めたそうです。
また「丹田を鍛えろ、鍛えろ」と毎日のように言われていたのでした。
しかし、丹田を鍛えるとはどういうことなのか、禅定に入るとはどういうことなのか、分かりませんでしたと奘堂さんは仰います。
丹田を鍛える、禅定に入る、姿勢を正す、公案に参究するという、その四つを言われ続けながらもどれもできないという状態を、奘堂さんはまさに四重苦のような状態だったと言われていました。
やがて師匠が亡くなったあとも、ずっとこの問題を抱えてきたのでした。
しかし今になって、奘堂さんはようやく自信を持ってお伝えできることがあるというのです。
それは、外にある理想の形を追い求めるのではなく、自分の全身を充実させることだというのです。
そこで、高野山の金剛峯寺にある快慶作の執金剛神像の画像を示しながら話してくださいました。
奘堂さんはお像をご覧になった時、その足に目を奪われたそうです。
着地している足は大地をしっかり捉え、浮いている足も、いつでも力強く踏み出せるような躍動感に満ちています。
足の指先まで気力がみなぎっていることに感動されたのでした。
そこで奘堂さんが坐禅で追求してきたことも、結局ここに行き着いたと仰いました。
坐って足を組んでいても、足首をねじって足を殺してしまってはいけません。
地面についていても、ついていなくても、いつでも大地を踏みしめられるような足でいることが大事だと説いてくださいます。
手も同じです。
転びそうになった時、とっさに大地をしっかり受け止められるような手のひらでいることです。
手のひら、足の裏、そして頭のてっぺんから足の指先まで、全身の隅々に気力が行き渡っていることです。
外に何かを求めるのではありません。
今ここにある自分の身体を、隅々まで目覚めさせ、充実させていく、そのことをひたすら貫いていくのだと仰っていました。
これが長い修行を経て、今の私が自信を持ってお勧めできる一つの道なのだとお示しくださったのでした。
それから「坐禅は一切諸道に通ず。八百万の神悉く皆身中に鎮坐す。此の如く鎮坐の諸神を祭祀せんと欲せば、脊梁骨を竪起し、気を丹田に充し、正身端坐せよ。この故に道元禅師曰く、勤むべきの一日は貴ぶべきの一日なり。勤めざるの百年は恨むべきの百年なり。ああ恐るべし慎むべし。」
「元気をして一身の中に充塞せしめ、三百六十の骨節、八万四千の毛竅[毛穴]、一毫髪[ほんのおずかばかり]も欠缺の処なからしめんことを要す。これ生を養う至要なることを知るべし。」
という白隠禅師の言葉を皆で唱和して実習に移りました。
大腿骨の付け根、股の付け根で立つようにして坐ることを、五体投地や蹲踞の姿勢を通じて学びました。
これまた元気をいただいて、姿勢も一層調ったのでした。
終わりに控え室で奘堂さんが仰ったことばが印象に残っています。
人は言われたことをやろうとするとだめになるということです。
言われてその通りにしようと作意をもってやれば、だいたい間違ってしまいます。
形を模倣するのではなく、なにが本質なのかを絶えず求めていくことが大事なのです。
横田南嶺
【鎌倉円覚寺】毎日の管長日記と呼吸瞑想
臨済宗大本山円覚寺
- 13:261.
言われたことをやろうとすると
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私も理解できたとは言えません。...私などは石でできたディオニソスはディオニソス、私は私だと思うのですが、それを比べるところに奘堂さんの強い思いがあるのです。」
→YouTubeでの奘堂さんのお話、自分もよく分からないです。でも美術館でこの像に出逢った感動はお話から伝わってきました。快慶の像の足は今度じっくり見てみたいです。
今日関東は台風で大雨の予報。大きな被害がないことを祈っています。
意識するとしないとに関わらず比べて生きているのが実際であります。
ただ比べることによって、人を見下してしまうようになると高慢になります。
また比べてしまうことで、自分を卑下してやる気を失ってしまうのも問題になります。
→確かに小さなことでも比べて生きています。しかし、幼少の時から、かけっこが遅い。喘息の発作がしょっちゅう起きる。早生まれだったからか、何でも遅い。という感じがあったからか、自分は比べないことをなるべく選んできたように思います。