第2085回「鶴岡八幡宮へ」2026/9/22
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■管長日記「鶴岡八幡宮へ」
https://www.engakuji.or.jp/blog/40781/
■YouTube
https://youtu.be/zNNZbjIy_xY
■note
https://note.com/engakuji/n/nbad4723cd987
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
-------------------------------------------------
九月十五日は、鶴岡八幡宮の例大祭であります。
昨年は参列できなかったので、二年ぶりにお詣りさせていただきました。
一昨年はとても暑かったことを覚えています。
今年は連日の雨模様で、例大祭の日も雨の予報でありました。
傘を持って鎌倉駅まで電車で行ってそこからは歩いたのですが、さいわいに雨に降られることはありませんでした。
久しぶりに大階段を上がります。
大階段の脇には、銀杏の木がございます。
十六年前にここにあった大銀杏が倒れたのでありました。
そこからひこばえが出ていて、そのひこばえがかなりの太さに育っています。
この銀杏がきっと将来大樹となって鎌倉の象徴となっていくのだろうと思って見ていました。
受付を済ませて、本殿の脇にある席に坐っていました。
このところの暑さをお考えくださって、空調が整っています。
有り難いことだと思って時間まで静かに待っていました。
八幡宮はなんといっても鎌倉の中心でありますので、その例大祭には鎌倉の名士が参列なされます。
最前列には、総代さんたちがお坐りになります。
それから地元の国会議員や県会議員、鎌倉市議会の方がお坐りであります。
私などは、観光協会の方などとご一緒に参列させていただきました。
例大祭は宮司様が神前に一拝なされて始まります。
そして神殿の扉が開かれます。
そこに神饌という、神様へのお供え物が供えられてゆきます。
それから宮司様が厳かに祝詞を奏上なされます。
私たちも頭を下げて拝聴し共に祈りを捧げます。
それから玉串を捧げます。
はじめに宮司様が捧げます。
それから総代さんたち、国会議員や県会議員の方々、そして江島神社をはじめ各神社の宮司様方が玉串を捧げます。
そのあと観光協会の方と共に私も玉串を捧げてお祈りしていました。
鶴岡八幡宮というと、源頼朝公がお建てになったと思われますが、『広辞苑』で調べてみると、
「鎌倉市雪ノ下にある元国幣中社。祭神は応神天皇・比売神(ひめがみ)・神功皇后。一〇六三年(康平六)源頼義が石清水八幡宮の分霊を鎌倉の由比郷鶴岡に勧請し、一一八〇年(治承四)源頼朝が今の地に移して旧名をうけついだ。源氏の氏神として尊崇された。鎌倉八幡宮。」
と書かれています。
頼朝公以前に石清水八幡宮から勧請されていたことが分かります。
八幡神について岩波書店の『仏教辞典』には、
「八幡神〈八幡大菩薩〉〈八幡大明神〉ともいう。古来、広く信仰されてきた神。九州宇佐氏の氏神にはじまり、大和朝廷からみた辺境の守護神とも考えられるが、起源については諸説ある。豊前国宇佐の宇佐八幡宮を総本宮とする。穀霊神・銅産の神としてあがめられ、かつ鍛冶とも関係。八幡の示験は欽明天皇のころとされ、この伝承では応神天皇の垂迹神、応神降誕のとき八流の幡が産屋をおおった、赤幡八流が虚空になびいたことにもとづき〈八幡〉というとするから、もとは〈やはた〉と読んだであろう。応神天皇・神功皇后・比売神の三神を基本的神格とし,若宮を加える。」
と書かれています。
「応神天皇」というのは「記紀に記された天皇。五世紀前後に比定。名は誉田別(ほむたわけ)。仲哀天皇の第四皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。」と『広辞苑』に書かれています。
八幡大菩薩とも称されるように、古くから神仏習合の中で信仰されてきた神様でもあります。
もっとも鶴岡八幡宮は、明治のはじめまでは『鶴岡八幡宮寺』とも称され、神仏習合の宮寺でありました。
八幡宮の北側に二十五坊跡が残っています。
二十五坊というのは、鶴岡八幡宮に奉仕する僧侶を供僧といい、その二十五の坊舎と、宮寺を統轄する別当の坊があった跡のことです。
この二十五坊も明治三年(一八七〇)の神仏分離以後はすべて廃絶してしまいました。
昭和三十五年頃から鎌倉では宅地開発が盛んになり、鶴岡八幡宮の裏山にある二十五坊跡にも開発の波が迫りました。
この開発を懸念した一般市民、学者、僧侶などが中心となり反対運動を展開されました。
多くの署名が集まり、募金運動へと広がっていきました。
そして昭和三十九年神奈川県を交えた約一年間にわたる話し合いの末、事業者が開発を断念したのでした。
鎌倉風致保存会によって残された土地が買収され、この反対運動は終結しました。
こうした鎌倉での保存運動は全国的にも大きな影響を与え、昭和四十一年には『古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(古都保存法)』が制定されたのでした。
明治初年の神仏分離とそれに伴う廃仏毀釈によって、鶴岡八幡宮寺にあった薬師堂・護摩堂・大塔・経蔵・鐘堂・仁王門などは撤去されてしまいました。
大塔は十間四面という大きな塔でしたが、取り壊され、堂塔の材木は古材として売却されたと伝えられています。
徳川家光が寄進したとされる梵鐘も鋳つぶされたとされています。
このように長い歴史の中でさまざまな変遷を経てきた八幡宮でありますが、今は静かに多くの方が参拝されています。
私もいろいろのことを思いながら、鎌倉に住まわせてもらっていることに感謝し、そして世の中が平穏でありますようにとお祈りして参りました。
帰り道も幸に雨に降られることはありませんでした。
横田南嶺
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最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
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九月十五日は、鶴岡八幡宮の例大祭であります。
昨年は参列できなかったので、二年ぶりにお詣りさせていただきました。
一昨年はとても暑かったことを覚えています。
今年は連日の雨模様で、例大祭の日も雨の予報でありました。
傘を持って鎌倉駅まで電車で行ってそこからは歩いたのですが、さいわいに雨に降られることはありませんでした。
久しぶりに大階段を上がります。
大階段の脇には、銀杏の木がございます。
十六年前にここにあった大銀杏が倒れたのでありました。
そこからひこばえが出ていて、そのひこばえがかなりの太さに育っています。
この銀杏がきっと将来大樹となって鎌倉の象徴となっていくのだろうと思って見ていました。
受付を済ませて、本殿の脇にある席に坐っていました。
このところの暑さをお考えくださって、空調が整っています。
有り難いことだと思って時間まで静かに待っていました。
八幡宮はなんといっても鎌倉の中心でありますので、その例大祭には鎌倉の名士が参列なされます。
最前列には、総代さんたちがお坐りになります。
それから地元の国会議員や県会議員、鎌倉市議会の方がお坐りであります。
私などは、観光協会の方などとご一緒に参列させていただきました。
例大祭は宮司様が神前に一拝なされて始まります。
そして神殿の扉が開かれます。
そこに神饌という、神様へのお供え物が供えられてゆきます。
それから宮司様が厳かに祝詞を奏上なされます。
私たちも頭を下げて拝聴し共に祈りを捧げます。
それから玉串を捧げます。
はじめに宮司様が捧げます。
それから総代さんたち、国会議員や県会議員の方々、そして江島神社をはじめ各神社の宮司様方が玉串を捧げます。
そのあと観光協会の方と共に私も玉串を捧げてお祈りしていました。
鶴岡八幡宮というと、源頼朝公がお建てになったと思われますが、『広辞苑』で調べてみると、
「鎌倉市雪ノ下にある元国幣中社。祭神は応神天皇・比売神(ひめがみ)・神功皇后。一〇六三年(康平六)源頼義が石清水八幡宮の分霊を鎌倉の由比郷鶴岡に勧請し、一一八〇年(治承四)源頼朝が今の地に移して旧名をうけついだ。源氏の氏神として尊崇された。鎌倉八幡宮。」
と書かれています。
頼朝公以前に石清水八幡宮から勧請されていたことが分かります。
八幡神について岩波書店の『仏教辞典』には、
「八幡神〈八幡大菩薩〉〈八幡大明神〉ともいう。古来、広く信仰されてきた神。九州宇佐氏の氏神にはじまり、大和朝廷からみた辺境の守護神とも考えられるが、起源については諸説ある。豊前国宇佐の宇佐八幡宮を総本宮とする。穀霊神・銅産の神としてあがめられ、かつ鍛冶とも関係。八幡の示験は欽明天皇のころとされ、この伝承では応神天皇の垂迹神、応神降誕のとき八流の幡が産屋をおおった、赤幡八流が虚空になびいたことにもとづき〈八幡〉というとするから、もとは〈やはた〉と読んだであろう。応神天皇・神功皇后・比売神の三神を基本的神格とし,若宮を加える。」
と書かれています。
「応神天皇」というのは「記紀に記された天皇。五世紀前後に比定。名は誉田別(ほむたわけ)。仲哀天皇の第四皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。」と『広辞苑』に書かれています。
八幡大菩薩とも称されるように、古くから神仏習合の中で信仰されてきた神様でもあります。
もっとも鶴岡八幡宮は、明治のはじめまでは『鶴岡八幡宮寺』とも称され、神仏習合の宮寺でありました。
八幡宮の北側に二十五坊跡が残っています。
二十五坊というのは、鶴岡八幡宮に奉仕する僧侶を供僧といい、その二十五の坊舎と、宮寺を統轄する別当の坊があった跡のことです。
この二十五坊も明治三年(一八七〇)の神仏分離以後はすべて廃絶してしまいました。
昭和三十五年頃から鎌倉では宅地開発が盛んになり、鶴岡八幡宮の裏山にある二十五坊跡にも開発の波が迫りました。
この開発を懸念した一般市民、学者、僧侶などが中心となり反対運動を展開されました。
多くの署名が集まり、募金運動へと広がっていきました。
そして昭和三十九年神奈川県を交えた約一年間にわたる話し合いの末、事業者が開発を断念したのでした。
鎌倉風致保存会によって残された土地が買収され、この反対運動は終結しました。
こうした鎌倉での保存運動は全国的にも大きな影響を与え、昭和四十一年には『古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(古都保存法)』が制定されたのでした。
明治初年の神仏分離とそれに伴う廃仏毀釈によって、鶴岡八幡宮寺にあった薬師堂・護摩堂・大塔・経蔵・鐘堂・仁王門などは撤去されてしまいました。
大塔は十間四面という大きな塔でしたが、取り壊され、堂塔の材木は古材として売却されたと伝えられています。
徳川家光が寄進したとされる梵鐘も鋳つぶされたとされています。
このように長い歴史の中でさまざまな変遷を経てきた八幡宮でありますが、今は静かに多くの方が参拝されています。
私もいろいろのことを思いながら、鎌倉に住まわせてもらっていることに感謝し、そして世の中が平穏でありますようにとお祈りして参りました。
帰り道も幸に雨に降られることはありませんでした。
横田南嶺
【鎌倉円覚寺】毎日の管長日記と呼吸瞑想
臨済宗大本山円覚寺
- 12:191.
鶴岡八幡宮へ
コメント

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鎌倉の移り変わりを大銀杏の木は見てきたんですね〜ひこばえがちゃんと育っていて良かった〜🌱✨
いつか鎌倉に暮らしたいです!
今朝のお話で、廃仏毀釈で神仏習合されていた時の貴重な文化財が失われたことは残念と思いました。しかし、昭和30年代に鎌倉二十五坊跡が、多くの方々の活動で開発が阻止され残ったのは良かったと思いました。
それにしても鶴岡八幡宮の銀杏の木は倒れてからもう16年経つのですね。