TOPエンタメ映画・本鳥井弘文の旅と読書とコミュニティ哲学は武器にならない。いとをかしはエモいじゃない。09:21 8月6日 243再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次メタ視点とドローン視点の本質的な違い人間の理想を技術に合わせる落とし穴古典を現代に引き寄せる解釈の限界哲学が「武器」にならない真の理由自己の前提を問い直す教養の可能性AI文字起こし(β版) # チャプター 1 こんにちは。鳥居 博文です。 働くをテーマにした台場型オンラインコミュニティ 和製サロンを運営しています。 さて本日のお題は、哲学は武器にはならない 意図お菓子はエモいじゃないというテーマでお話ししてみたいと思います。 今日も昨日ブログに書いた内容です。それでは早速本題に入っていきますね。 最近メタ認知が大事だという話の延長で、メタ視点が大事だみたいなことがよく語られるようになったなあというふうに思います。 そしてそれをドローン視点という言葉で例える人が何だか増えたなというふうに思っています。 地上に立っていると目の前のものしか見えない。でもドローンを飛ばして上空から眺めれば全体のその配置がよくわかるんだと。 確かに俯瞰的な視点という意味ではわかりやすい例えなのかもしれません。 でも僕はどうしてもこの例えに違和感があるんです。 メタ視点というのは本当にドローン視点のことなんだろうかと。 今日はそんなお話を少しだけこのボイシーの中でも語り残しておきたいなというふうに思います。 ドローンというのは地上よりも高い位置から広い範囲を見ることができるということだというふうに思うんです。 ただそれというのは結局のところ視点の位置を高くしただけなんですよね。 主観を押せてより高い場所に正解の視点を一つ置いただけというふうにも言えそうです。 じゃあ本来のメタ視点とは一体何なのか。 僕はドラゴンボールの悟空のあの瞬間移動みたいな話だなあというふうに思っています。 最低でも3点ぐらいを瞬時に行ったり来たりできること。 そしてどこか一つに正しい視点として行き着かないこと。 ゼアミの言う利剣の剣の話なんかもまさにこの話ですよね。 つまり視点というのは高さではなくてその視点の往復や全体の気配、 その人間的な直感における察知の問題であり、そこにこそ意識を抜けろということだというふうに思うんですよね。 じゃあなぜ僕らはメタ視点をドローン視点みたいなふうに説明したくなってしまうのか。 そこには新しい技術が生まれてくると、人間もその技術のようになるべきだというふうに考えてしまう思考の癖みたいなものがあるからだというふうに思うんです。 言い換えるとドローンが上空から全体を見られるようになったから、人間の俯瞰能力もドローンのように説明されるし、それが非常に便利なわけですよね。 そして今AIが複数の立場を並べられるようになったから、人間にもAIのような多角的な思考なんかも同時に求められる。 このようにその技術が新しく獲得した一点こそが、昔の人や古典が説いていたものだったんだみたいなふうに遡って現代で語られてしまうよなというふうに思うんです。 でも僕はそれこそが一番の落とし穴だというふうに思うんですよね。 なぜなら人間の理想を技術ができることに合わせて定義をしてしまったら、最後には必ずじゃあお前はもういらないっていうふうになるわけですから、 全体を漏れることなく見ることならドローンの方が上手に決まっています。 膨大な情報を整理をして複数の立場を並べることならAIの方がずっと得意で早いわけです。 だったらもうドローンかけるAIでいいよっていうふうになってしまう。 だからこそ技術にできることの中にではなくて、技術にはできないことの中にこそ本当の目指し点を探した方がいいんだろうなって。 ここからが今日一番語りたかったことなんですが、これと全く同じような構造の話が現代における古典の紹介のされ方にもあるよなというふうに思っています。 例えば清少納言は現代のインフルエンサーみたいなものとか、枕草子は平安時代のSNSで、糸お菓子は今でいうエモいみたいなやつです。 現代の若者にも古典に興味を持ってもらいたい。なるべく間口を広くして身近に感じてもらいたいという気持ちはとてもよくわかります。 それが入り口としては有効な場合もあるし、僕自身もついそういう言葉を使ってしまうことがあります。 でもそれをやりすぎてしまうと本末転倒だなというふうに思うんです。 なぜなら、それというのは古典の方を現代まで連れてきて、自分の知っているカテゴリーの中に格納してしまうことだからです。 古典との距離を縮めているようでいて、実際には今の自分の立場から一歩も動いていないような状況です。 言い換えると、これというのは現代という一点にいついたまま過去を眺める、そんな時間軸のドローンしているわけですよね。 わかりやすく例えるなら、ドラえもんのタイムマシンに乗って、安全な観光客の立場から物見湯山的に過去を見物しに行くような感覚です。 昔の人も私たちと同じように悩んでいたんですね、みたいなふうに安心して帰ってくるような感覚です。 でも本来、古典を読む価値というのはその真逆にあるはずなんですよね。 過去を現代へ連れて帰ってくることではなくて、現代に無意識にいついてしまっている自分の方を過去の世界へと移動させること。 客体として眺めるんじゃなくて、自分がそちら側の人間の中に入ってみること。 相手を自分の中にくぐらせて、同時に自分も相手の中をくぐってみること。 そしてなぜ当時の彼女たちはその風景をお菓子というふうに感じたのか。 どういう暮らしと身分秩序があり、どういう光や音や季節の気配の中でその言葉が立ち上がってきたのか。 それを糸お菓子という感覚が成立する世界の重力の中にこそ一度自分の身体を置きながら考えてみることが大事だなというふうに思うんです。 当時は当時の価値観の中でうごめいていたものが確かにあったはずですからね。 そちら側に対して目一杯耳を澄ますことこそが古典を読むことの一番の価値であるはずなんです。 そしてこの現代の〇〇みたいな最も露骨な形が武器になる哲学とかビジネスに効く教養みたいな発想だというふうに思っています。 哲学を知っていればビジネスの交渉の現場で勝てて、古典を引用すれば説得力が増すし、教養によって他人よりも有意な地位に立てるんだと。 哲学者のあずまひろきさんがビジネスツールとしての教養って実はあまり意味がないっていうふうに一貫して批判をしてくれていますが、 僕も以前からその話題に対してとても共感をしながら眺めていました。 ではなぜ教養っていうのは武器にならないのか。武器っていうのは目的が先に決まっているものだからなんです。 目の前の敵を倒すとか競争に打ち勝つとか状況を自分に有利にするために用いるものですよね。 言い換えると自分の目的っていうのは最初から固定をされていて、知識はそのための外付けの装備に過ぎないわけです。 つまり武器としての教養みたいな話っていうのは、今の自分という座標に居着いたまま装備だけを強化していくような発想なんですよね。 しかも知識を装備として使うだけだったら今や検索とかAIの方がずっと早くて正確なわけです。 武器としての教養っていうのは真っ先にAIに代替されてしまうような教養でもあるわけですよね。 ここでもやっぱりじゃあもうお前いらないっていうふうになってしまうわけです。 でも教養が本当に自分の体の中に入った時に起きることっていうのはその真逆のことが起きるはずなんです。 そもそも何をビジネスの目的にするのかとか、誰を自分の敵だと思ってしまっていたのかとか、 自分は本当は何を望んでいたのか、その大前提までを含めて本当にガラッと変えられてしまう可能性を秘めているわけですよね。 つまり教養というのは外側の装備ではなくて自分の内面から身体の一部になっていくものであるはずなんです。 だからこそ単なる道具にはできないことなんだろうなって思うんですよね。 本来古典や歴史から受け取るべきなのは、昔の人にも現代と変わらない人間性があったという安心感の方ではなくて、 むしろその逆の感覚だというふうに思っています。 もしその時代に自分自身が生まれていたら、自分も大阪本願寺を絶対に焼き尽くしていただろうなとか、 当時のアメリカに生まれていたら自分も日本に原爆を落とすことを指示していただろうなとか、 そういう感覚の方が本当は大事だなって思うんです。 誤解のないように語っておくと、これは当時は仕方なかったというふうに過去の加害性を免罪するための話ではないんです。 むしろその正反対で、自分だけは歴史の外側に立てるんだという、そんな思い上がりを壊すための創造性こそが大事だって話が僕はしたいんです。 過去に何度もご紹介をしてきた信頼の言葉、人はいかなる強弁に催されていかなる振る舞いをするのかわからない、 あの感覚なんかもまさにこれですよね。 悪を行う人間と善良な自分が最初から別の種類の人間として存在しているわけではないんです。 生まれた場所や時代、恐怖心や正義感、そうした条件が変われば自分も簡単にそちら側へと傾いてしまう。 その可能性を自分の内側に見つけること、信頼はそれをちゃんと今示してくれているわけですよね。 そして現代の価値観だけで過去を裁くキャンセルカルチャーの危うさなんかもまさにここにあるんだというふうに思います。 一見すると高いところから歴史を俯瞰しているように見える。 でもそれっていうのは実際には現代こそが歴史の終着点であり、 最も進歩した正解の位置なんだっていうそういう一点に完全に居ついてしまっている状態にもあるわけですよね。 高いところから見ているつもりで一つの座標から全く動けていない。 現代を生きる自分には簡単に理解できない世界の切り分け方が同じ時代のすぐ隣にも存在していたかもしれない。 それを認めてそちら側の立場に対しても目一杯耳を澄ましてみることです。 それが多様性という言葉の本来の意味や価値でもあったはずなんだっていうふうに僕は思うんですよね。 最後に入り口がわかりやすくなることも動機がビジネス界における社会的成功のような俗っぽいものであったとしてもそれ自体は全く否定しません。 うすも方便ですからね。 むしろ最初の入り口としては大変素晴らしいことだというふうに思います。 ただそこから先へ進んでいって初めて裏の裏っていうふうに呼べるような場所に到達することができるんだろうなというふうにも同時に思うんです。 だからこそちゃんとそこまでを共に歩んでいけるような継続的なつながりを作りたいなというふうに僕は思いますし、 和製サロンという場がそんなふうに活用してもらうことができたら僕としては本当に本望だなというふうに思っています。 さて今日のお話は以上となります。 いつもこのボイスを聞いてくださっている皆さんにとっても今日のこのお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。 それでは今日はこの辺でまた明日。 もっと見る鳥井弘文の旅と読書とコミュニティプレミアム放送配信中!09:211.チャプター 1コメントプレミアムリスナーになるとコメント欄に参加することができます プレミアムリスナーに参加する
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