TOPエンタメ映画・本鳥井弘文の旅と読書とコミュニティ僕らは、いつまで喪に服せばいいのかわからない。09:02 8月5日 281再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次災害後の「自粛」と日常維持の葛藤寄付行為と「喪失」への向き合い方現代における弔いの区切りの喪失儀式が持つ「時間を揃える」本質儀式なき時代の喪失と向き合う道AI文字起こし(β版) # チャプター 1 こんにちは。鳥井博文です。 働くをテーマにした台場型オンラインコミュニティ和製サロンを運営しています。 さて、本日のお題は 僕らはいつまでもにふくせばいいのかがわからないというテーマでお話ししてみたいと思います。 今日も昨日ブログに書いた内容です。 それでは早速本題に入っていきますね。 先日、ラフルの中村さんとVoicyのプレミアム配信で対談をしていたときに 災害が起きた後の自粛について話す機会がありました。 きっかけは今回の熊本地震です。 一般的に語られるのは自粛をしたからといって被災地の状況が直接良くなるわけではない。 経済を止めるよりも普段通り仕事をして売り上げの一部を寄付した方が 具体的な支援にもつながることだってあるはずだと。 東日本大震災やコロナ禍を社会全体で経験をしてきた僕らは 自粛しすぎることの弊害をもう十分に知っているはずなんです。 だからこそ今はこんな時こそ日常を続けようという考え方の方が 以前よりも広く共有されるようになりました。 それ自体はきっと良い変化だったんだというふうに思います。 ただその一方で震度7の地震が起きたにも関わらず 何事もなかったかのように日常が流れていく光景にも 僕はどこか違和感を覚えてしまいます。 僕らが10代の頃は震度5強ぐらいの地震が起きたと聞けば 社会全体がしばらくざわざわしていた記憶があります。 それが今は震度7が起きても翌日にはもう当たり前のように日常へと戻っていく。 自粛しても違和感があるし、かといって平常運転を貫いても違和感がある。 じゃあ僕は一体どうなれば納得するんだろうというふうに 対談をしながらずっと考えていました。 そして話している途中でふと気が付いたんです。 これはもしかすると自粛するべきかどうかという話ではなくて もっと根本的な弔いの話なんじゃないかと。 僕らは今どうすれば模倣したことになるのかが 分からなくなっているんじゃないのかなって。 今日はその気づきについて改めてこの通常配信の中でも 整理して語り残しておきたいなというふうに思います。 この点、災害が起きたとき僕らにできる最も分かりやすい行動の一つは 寄付だというふうに思うんです。 もちろん寄付はとても尊い行為です。 何もせずに心配しているだけよりもまず具体的に行動をした方がいい。 その意見は本当にその通りだというふうに思うし それを咎める気は一切ありません。 ただ寄付についても少しだけ気になってしまうことがあって それというのはお金を払うという行為が支援であると同時に 自分の中の後ろめたさを断ち切る行為にも なり得てしまうということなんです。 どこかで大きな災害が起きたら寄付をして、はい次。 また別の災害が起きたら寄付をして、はい次。 その繰り返しで本当にいいんだっけって思うことが なんだか一気に増えました。 もちろんお金を出した上で その被災地のことを忘れずにいることもできるというふうに思うんです。 寄付と記憶は決して矛盾するものではないです。 それでも今の社会は何か一つ具体的な行動をしたことによって その出来事について考え続ける時間まで一緒に 終了させやすくなっているようにも思うんです。 その点自粛というのは不思議な行為であって 自粛している間は少なくとも完全には日常へ戻っていないわけです。 その出来事がまだ終わっていないということを 自分の行動によって表現し続けることになる。 だから自粛の方が正しいというふうに言いたいわけでもないんですが ただしそこにはすぐには断ち切らないという役割も 確かにあったような気がするんですよね。 じゃあ僕らはいつまで断ち切らずにいればいいのか いつまで立ち止まっていつから日常に戻ればいいのか その境界線が僕らにはもう分からなくなっている。 ここにこそ現代のややこしさというか 課題や問題点が見え隠れしているように思うんです。 この点僕は昭和63年生まれたんですが ちょうどその翌年昭和64年の1月7日に昭和天皇が崩御されて 時代は平成へと変わりました。 当時の僕はまだ一切にもなっていないので その時の社会の空気を直接は覚えていないんですが 世の中が一気に真っ暗になったって話はよく聞きます。 でもそんな当時でさえ全ての人が 同じ深さで悲しんでいたわけではなかったと思うんですよね。 すぐ次の時代へ進みたかった人もいれば 昭和が終わってしまうことをなかなか受け入れられなかった人もいるはずなんです。 それでも社会全体が一度みんなで一斉に立ち止まった そうやって一斉に模擬服したからこそ逆説的なんですが 平成の夜がちゃんと明けたんじゃないかって今思うんですよね。 当然なんですが人それぞれに悲しむ速度は違います。 翌日から仕事に戻れる人もいれば 何年経っても気持ちが戻ってこない人もいる。 どちらが正しいという話ではなくて 人の心っていうのは本来それほど簡単には揃わないものなんだというふうに思います。 でもだからこそ昔の人たちは心を揃える代わりに 時間の方を揃えようとしたんじゃないかっていうふうに思うんです。 儀式っていうのは人々の気持ちを同じにするためのものではなくて 揃うはずのない心を持った人々のそんな時計の方を 一度だけ合わせるためのものだったんじゃないのかなっていうふうに思うんですよね。 この逆説こそに儀式の本来の役割があったんじゃないか。 そんなことに気づいた時なんだか僕はものすごくハッとしました。 考えてみれば儀式には不合理なことがたくさんあります。 なぜ四十九日なのかとかどうして礼服を着るのかとかです。 一つ一つになぜというふうに問い続けていけば 全ての人が納得できるような合理的な理由なんかきっと見つかりません。 でもだからこそ意味があったのかもしれないなと。 というのも悲しみの深さや期間を一人一人が話し合って決めようとしてみても 絶対に最初から折り合いはつかないからなんです。 ある人がもう十分悲しんだだろうというふうに言えば 別の人はいやまだ全然足りないんだというふうに必ず言います。 それぞれが自分の心を基準にする限り客観的な正解には 絶対にたどり着けないような事柄なんです。 だから昔の社会ってのはそういうもんだからという答えを 先に社会の中に明確に置いたんだというふうに思うんです。 つまり儀式があるから僕らは弔うんじゃない。 折り合いをつくはずのない弔いという行為を 半ば強制的に成立させるためにこそ儀式というものは発明されたんじゃないかと。 儀式の不合理さは未熟な時代のスピリチュアル的な名残なんかでは全くなくて 合理的には決着しない個々人の心の問題を社会的に決着させるための 人類の英知であり知恵なんだというふうに思うんです。 もちろん葬儀を終えたからといって人々の心が本当に整理されるわけではありません。 大切な人を失った悲しみというのはそんなに都合よくは消えてくれないですからね。 儀式をすればきれいに立ち直れるなんてことは絶対にないはずなんです。 でもそれでもなぜ儀式を行うのか。 それというのは社会の中の既成事実をつくるためだったんじゃないのかなと僕は思うんです。 例えば卒業式を終えれば本人の気持ちがまだ学生のままであったとしても その人は卒業生になるわけです。 それと同じように葬儀を終えれば気持ちの方はまだ全然受け入れられなくても その人がもう生きて戻ってこないというその事実だけは 社会の側で引き受けたことになるわけです。 これというのは一見少し冷たい仕組みにも思えます。 儀式を終えたことでもう終わったことだからという風に 強制的にまだ悲しんでいる人に言えてしまうわけですからね。 ただその一方で誰か一人の悲しみに社会全体が永遠に引っ張られ続けてしまうと 残された人たちの生活というのは成り立たなくなってしまう。 人の気持ちは完全に救うことはできないし それでも一方で社会が動かさなければいけない。 儀式というのはそのどうしようもない矛盾みたいなものを ずっと引き受けてくれていたんだという風に思うんですよね。 儀式は足を引っ張るものだという風に思われがちなんだけども 実はその真逆であってちゃんと弔って 社会や共同体として再出発するための加速装置だったという風にも言えそうです。 まさに急がば回れみたいな話なんです。 とはいえ昔の儀式の中には窮屈さなんかもたくさんありました。 だからこそ僕らはそうしたしがらみを 封建的でクソめんどくさいものとして少しずつ壊してきたわけですよね。 それというのは間違いなく社会において大切な前進だったという風に思います。 僕自身昔の窮屈な共同体とかその儀式に戻りたいわけでもないです。 ただその代償として儀式から全部自由になったことで 僕らは悲しみ方もそして区切りのつけ方も日常に戻るタイミングなんかも 全部自分一人で決めなければいけなくなった。 しかも厄介なことは自分のことだけでは済まないということです。 共通の決まりがなくなると僕らは他人の振る舞いの方が異様に気になり始めてしまいます。 こんな時に楽しそうな投稿をするなんて不謹慎だとか 自粛を他人に要請するなみたいな風に それぞれの言い分にはそれぞれの正しさがあるから いつまで経っても絶対に折り合いがつかない。 SNS上では毎日そんな水かけ論争みたいなものが行われてますよね。 そういうものだからという共通の絶対に覆せない決まりさえあれば 相手の内面までいちいち確認する必要がないわけです。 形式っていうのは心がこもってないっていう風に批判されがちなんですが でも他人の心を完全に理解することなんてできないからこそ 僕らには必然的に形式が必要だったんじゃないかっていう風に思っているというような話です。 結局のところ自粛をした方がいいのか普段通り日常を続けた方がいいのか その答えっていうのは未だに僕にも全くわかりません。 ただ大きな震災が起きるたびに起きるようなその自粛の話っていうのは 自粛の問題ではなくて共同体における弔いの問題なんだ。 喪失の模に服すというそういう話なんだってことを 今回の中村さんとの対談を通して少しだけわかったような気がしました。 このあたりの弔いの話っていうのは僕にとってもとても大きなテーマの一つなので これからも折に触れてずっと考え続けていきたいなっていう風に思っています。 さて今日のお話は以上となります。 いつもこのボイシーを聞いてくださっている皆さんにとっても 今日のこのお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。 それでは今日はこの辺で。また明日。 もっと見る鳥井弘文の旅と読書とコミュニティプレミアム放送配信中!09:021.チャプター 1コメントプレミアムリスナーになるとコメント欄に参加することができます プレミアムリスナーに参加する
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