TOPエンタメ映画・本鳥井弘文の旅と読書とコミュニティ映画「ちいかわ」の光と影。09:47 8月8日 461再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次「ちいかわ」単行本から感じた「ケア」の正体映画版「ちいかわ」が描く「罪と罰」「ちいかわ」が示す「苦の肯定」というケア月の光が示す「厚愛三昧」の現代的意味「ちいかわ」に託された現代の慈悲の形AI文字起こし(β版) # チャプター 1 こんにちは、鳥井博文です。 働くをテーマにした台場型オンラインコミュニティ 和製サロンを運営しています。 さて本日のお題は、映画「ちいかわの光と影」というテーマでお話ししてみたいと思います。 今日も昨日ブログに書いた内容です。 それでは早速本題に入っていきますね。 数年前、ちいかわが世間で流行り始めて、 一体何が受けている原因なんだろうというふうに思って、 それが知りたくて、ちいかわの単行本を初めて読んだ時の衝撃って、 今でもなぜだか全然忘れられません。 僕が最初に思ったのは、なんだかずっとお互いのことを ケアし合っている物語だなーってふうに思ったんですよね。 笑いとか一切ない、あるとしても非常にシュールなんです。 それよりも、この生きにくい世の中を共に生き抜いていこうという意志みたいなものが 本当に強く伝わってきたし、 それが現代で流行る理由でもあるんだろうなーっていうふうに その時に強く思ったんですよね。 ところが、今話題の映画版を映画館に直接見に行ってみたら、 映画版の方は少し冷たかったんです。 この辺りから映画のネタバレも含んでくるので、 ネタバレを恐れる方は見終わった後にぜひ聞いて欲しいんですが、 映画版を見終わって僕の頭の中に真っ先に浮かんだのは、意外にも罪と罰でした。 この映画には色のないその他大勢のモブキャラがたくさん出てきます。 僕ら観客は当然のように彼らを背景として処理するわけです。 名前も色もある主人公、つまりチーカオのキャラクターたちにはちゃんと個性がある一方で、 モブキャラの側にはそれがないというふうに無意識に思い込まされている。 ところが映画版の物語はその僕らの思い込みみたいなものを上手に逆手に取って、 見事に終盤でひっくり返してきます。 モブにしか見えなかった存在にも当然ながらそれぞれの事情があるんだと。 過去があり、大切な誰かがいて、恐怖があり、 そして人には決して言えない影があるんだっていうふうにです。 また大事なのは彼らに途中から人格が生まれたわけではないということなんです。 最初からあったのにこちらが見ていなかっただけ。 つまり色のないモブキャラっていうのは色彩のあるインフルエンサーではなくて、 色のない匿名アカウントみたいなものであって、 つまりそれっていうのは読者であり観客の僕ら一人一人のことを指しているんだなって。 そして映画は途中からそのモブの影を、 つまり誰かを思うがゆえに犯してしまった罪の方を真正面から描いていきます。 で、驚くのはここからなんです。 その色のないモブの罪、つまり影は、 知川側には完全にバレているという設定というか構造なんですよね。 でも知川は罪を知りながら、裁きもせずに救いもせず、 しかも戒心すら求めないって感じなんです。 相手の課題には決して踏み込まない。 他者の課題っていうふうに割り切り突き放すような態度。 初めて単行本を読んだ時に、あれほどケアの物語だっていうふうに感じた作品が、 なぜ映画版ではここまで冷たいのか。 僕はしばらくこの矛盾みたいなものが解けませんでした。 でも実はこれこそが知川流のケアであり、 現代に響く圧倒的な優しさなんだろうなっていうふうに思ったんですよね。 この点、僕らが一般的に優しさっていうふうに呼んでいるものは、 大体の場合相手を理解し寄り添うこと。 そして相手にもし何か罪や影があれば、 その改善を促し救ってあげることを指すというふうに思うんです。 他人の生き方に圧倒的な善意から、 よくも悪くも手を差し伸べて同時に口も出すような態度です。 それが一般的な救済というものだし、 道徳的な態度だというふうに僕らは幼い頃から教わってきました。 でもこれは言ってみれば、太陽的な優しさなんです。 強い光で相手の全体を照らし出し、影の部分を見つけて、 その影を一生懸命に消し去ろうとするようなタイプの強い光です。 でも太陽には避けられない性質があるわけですよね。 それは光が強ければ強いほど、 逆説的に影は濃くなってしまうということです。 正義の側の声が大きい時代ほど、 人は自分の影を必死で隠すようになる。 良かれと思って照らされるような光も、照らされる側からすれば、 影を持っていること自体が許されないというふうに思わされるような、 そんな世界性になっていくわけです。 でも嫌悪なく人は影を抱えてしまうわけですよね。 それというのは、これだけ社会の界隈化が進み、 匿名化が進み、共同体もぶっ壊れて、 自分の力だけで生きていかなければいけない状態においては、 なおのことだというふうに思うんです。 一般論で語られるような奇麗事だけでは済まされないような世の中です。 みんなそれぞれに何かしらの後ろめたさみたいなものを抱えながら生きている。 でもそれはクリーンな社会の中では、 存在しないことにしなければいけないわけですよね。 表の顔と裏の顔を切り離す必要があって、そこにこそ苦しみが生まれている。 北風と太陽の偶和で言えば、 太陽でさえも現代を生きる僕らにはちょっと重たいわけですよね。 今僕らが生きているのは、まさにそういうものすごく息苦しい時代なんだというふうに思います。 そう考えてみたときに、映画の冷たさの見え方みたいなものが一気に反転をしました。 繰り返しになるんですが、チーカーは罪を知らないんではありません。 ちゃんと全部を知っている。そこにある傷のことも、影のことも、そして罪のことも、誰よりもちゃんと深く理解している。 全部チーカーには見えてるし、見えちゃってるんです。 その上でチーカーは、太陽になることを積極的に拒否しているんですよね。 裁かないし、激詰めしないし、もちろん改善さえも促さない。 ただ、まあ生きていれば色々あるよねという態度で、隣に共にいることを示す。 そして、その一言さえも決して口にはしないわけです。 いつまでも耐えることなく友達でいようというふうに歌うだけ。 それは救済というよりも圧倒的な苦の肯定なわけです。 これっていうのは、無関心とは似ているようでいて、全く逆の態度だなというふうに思うんです。 無関心というのは、あなたの事情など知らない。 たとえ知っていても、私には関係がない。それはあなたの課題だという話なんですが、 ここで描かれているのは、あなたに事情があることはよくわかった。 でも、その先を私が決めることはできないという態度ですから、 ものすごくこれというのは神一人でありつつも、ここには本当に運命の差があるなというふうに思います。 まさに月とすっぽんみたいな話です。 大事なことなので、何度でも繰り返し伝えたいんですが、 クソみたいな現代に生きていれば、人間誰しも陰や罪が少しはあるというふうに思うんです。 そのことに対して、仕方ないよね、苦しいよね、つらいよねという苦の肯定がまずあって、 その上で苦を抜き去り、楽を与えようとするのが、知河的態度なわけですよね。 つまり、それが知河的なバックやら苦だということです。 単行本の中で受け取ったあのケアと、映画で感じたあの冷たさというのは、何一つ矛盾していなかったということです。 完全に同じものの別の顔の部分だったんだろうなというふうに思います。 むしろあの冷たさこそが、ケアの最も成熟した形だというふうに受け止められている感じさえあるし、 だからこそ現代の若い子たちは、無意識レベルで知河にここまで反応しているんだろうなというふうに感じます。 ちょうど映画を見終えた翌日に、NHKの100分で名著の診断協業診症の会を見ていて、そこで初めて知った言葉があるんです。 それが、厚愛三昧という言葉です。 神様が深い罪の意識に沈み込む、苦しむ、そんな人を癒すために入ったとされる、月の光のように優しく穏やかな慈悲の瞑想のことだそうです。 その光ってのは太陽ではなくて月なんですよね。 罪を太陽の光で照らし出して暴こうとするわけじゃなくて、月の光のように静かに影を影のままにして包み込むような態度です。 全てを知っていて、全てを見ていて、それでも暴かない慈悲の心が、この厚愛三昧という言葉の中に込められている。 千井川の倫理というのは、どちらかといえばこの厚愛の方なんだというふうに思います。 ここまで語ると、いかにも観念的な話に聞こえてしまうかもしれません。 でも僕は、この厚愛三昧みたいな態度が、現代で確かに求められている現場を実際に自分の目で見たような気がしたんですよね。 それが映画館のグッズ売り場のあのにぎわいだったんです。 千井川のどのキャラのぬいぐるみを買おうかと、真剣に悩んでいる若い子たちが映画館にはたくさんいました。 その顔をぼんやり眺めていて、ふと思ったんです。 これってのは、好きな仏像を選ぶ時の顔に非常によく似ているんだろうなって。 棚に並んだキャラクターたちのそのぬいぐるみが、僕には菩薩が並んでいるように見えました。 だとすれば、あの子たちが選んでいたのは、単なるキャラクターグッズではないのかもしれません。 自分を裁かず、激詰めもしてこず、かけごと受け止めてくれて、ただただ黙って隣にいてくれるような存在。 それを自分の手で一つだけ選び抜いて、ぬいかつ的に鞄につけたいというふうに願うのは、至極当然のことだよなというふうに思ってしまいます。 人間が求めている慈愛や慈悲の形っていうのは、実は昔からほとんど変わっていないんだろうなっていうふうに思うんです。 変わったのはその器だけってことなんでしょうね。 かつては仏像の中に並んでいたものが、今は映画館のグッズ売り場の棚に並んでいる。 そして今実際に機能しているこちらこそが、現代の救済の姿であり、 幕僚や楽の真の姿になっているんじゃないかっていうふうに、割と本気で思ってしまいます。 さらにそこに今AIが突然現れて、本当に文字通りいくらでもめくられるわけですよね。 罪の部分や影の部分が明確に存在自体が許されないものになりつつあります。 だからこそ逆説的に、影を影のままにしてくれる月の光を人々は物語の中に強く求めているんだろうなというふうに思うんです。 そして何よりすごいのは、地域化作者の永野さんがこうしたことを、ただの一度も正面から説明していないということです。 あくまでご本人も匿名キャラを貫いて、メッセージとして語らずに、教訓としても掲げず、 物語の中のその態度として、キャラクター造形として月愛を描き続けている。 まさに現代に生きる仏像を彫るような物資だなというふうに思うんです。 この倫理というのはものすごく日本的だし、その方が若い子たちにとっても本物に感じてしまう理由なんかも当然あるんだろうなというふうに思うし、 その感覚というのはなんだかよくわかるなと。 本当にとても学びになる映画体験でした。 時代ごとに人気になる作品というのは、必ずそれ相応の理由があるんだろうなというふうに改めて強く思います。 気になる方がいれば、ぜひ映画館で実際に映画地域化を体験してみてください。 さて、今日のお話は以上となります。 いつもこのボーイシーを聞いてくださっている皆さんにとっても、 今日のこのお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。 それでは今日はこの辺で。また明日。 もっと見る鳥井弘文の旅と読書とコミュニティプレミアム放送配信中!09:471.チャプター 1コメントプレミアムリスナーになるとコメント欄に参加することができます プレミアムリスナーに参加する
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