TOPエンタメ映画・本荒木博行のbook cafe『不寛容論』森本あんり126:27 2022年6月3日 11,369再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次「不寛容なしに寛容なし」森本あんりの深層アメリカが辿った「寛容のパラドックス」ジョン・ロック『市民政府論』が語る自由現代社会における民主主義の「輪郭」を問う幸福の二元論「上昇」と「充足」のバランスAI文字起こし(β版) # タイトルコール あらきる浮きのブックカフェ。この番組は、自分の頭で考える読書の執筆者であり、書籍予約サービスフライヤーのアドバイザーを務めるあらきる浮きがマスターとなり、本からの学びを楽しむカフェです。 # 初めのあいさつ はい、みなさんおはようございます。6月3日、金曜日の朝になりました。 今日はですね、不寛容論という本をお届けしたいと思います。 アメリカが生んだ共存の哲学ということで、森本安里さん、新朝鮮書ですね。 森本安里さんは反知性主義、同じく新朝鮮書でしたけども、これがとても売れましたね。 私はですね、この不寛容さということが、次回のですね、超相対性理論のテーマでもあったので、 ちょっとその寛容ってなんだっけ、ということで、この本。 あとボルテールとかも手に取りましたし、他にも寛容について、宗教的寛容ですね。 語っている本って結構いっぱいありまして、まあ人類の永遠の悩みですよね。 違う宗教の人を認めることができるのか。 まあ、日本の中だと必ずしも宗教じゃないんですけど、違うこう、 イデオロギーだとか、まあ違うね、こう思想を持っている人に対して、 どれだけ寛容でいられるのかっていうのって、まあ昨今、とてもすごい問題になっているわけじゃないですか。 まあそんなことをね、超相対性理論では話してるんですけれども、 まあちょっとそれに先立ちましてね、この僕が予習に使ったこの不寛容論、 これをちょっとね、私なりの理解をお届けできればというふうに思います。 では行きましょう。本編スタートです。 # この放送は『IT/Web業界に強い 転職サイトGreen』の提供でお届けしています この放送は、ついに金曜日、今週も最後まで頑張るあなたは投資する転職サイトグリーンの提供でお届けしています。 # 不寛容があるからこそ寛容がある さて、それでは俯瞰要論を聞きたいと思います。 何回かに分けてお話することになると思いますけれども、 これアメリカの宗教的な歴史が書かれておりますので、 歴史の話ですね。なので皆さんに直接関係ない部分が出てくるかもしれませんが、 できるだけ今日的な私たちにとって意味あるような形で解釈をしていきたいというふうに思います。 皆さんはアメリカという国が寛容な国だと思いますか? そして日本、ひるがえて日本という国が寛容な国、社会であると思いますか? ということですね。まあこれらの質問に答えるのは結構難しいわけなんですけど、 まずはそのアメリカを見るときにですね、その宗教的な歴史を見ていく必要があるということですね。 まあアメリカはその意味でその寛容と不寛容、このしがらみの中から今の社会を形成しているということなので、 その歴史をひるがえてみようということですね。 歴史を作った、まず最初のイギリスから住み渡ったこのピューリタンということです。 ピューリタンというのは何かというと、ピュアにするというですね、そういう意味に由来するということが書かれています。 じゃあ、純化するということですね。じゃあ何を純化するのかというと、それは国家と教会が一つになったイギリスの国教会体制であるということです。 要するに宗教改革が始まったんですけれども、ヨーロッパはカトリックとプロテスタントに分断されたんですが、イギリスはその中道行くアングリカン体制を取ったと。 つまり半分だけがプロテスタントになったということですね。 そうすると宗教的な熱心な人たちはですね、それを徹底的に純化させたいという願いが強くなる。これがピューリタンの由来であるということなんですね。 だからもっとピュアな社会を作ろうということで、そしてその時にアメリカ大陸というのが、イギリスがちょうど植民事業を始めたばかりのアメリカ大陸というものがあって、そこがですね、ちょっと自分たちがその純化した社会を作るピュアな、そんな社会なのではないか。 そのピューリタンというのは何かというとですね、結構自由を重んじる、宗教の自由を重んじるそういう人たちなんですね。 例えば言論の自由って今でも言われますけれども、この発端はですね、このピューリタンにあるということなんですね。 どういうことかというと、信仰の話、自分の信ずる通りに信仰の話をすることができる。 政治的な圧迫を受けたりすることなく信じる通り信仰の話をすることができる。これはですね、当時は許されたことではなかったんです。 国家とか教会が認めた特定の人だけが説教することが許されていたということだったんですけど、これに真っ向から反対して自由を求めたのがピューリタンなのであると。 我々は信教の自由があり、いろんなことを話せる。国に支配を受けない。自分たちが直接神とつながって、そして自由なことをしゃべれる、そういう存在であると。 そういう立ち位置ですよね。だからそういう自由でピュアな信教、そういう社会を作ろうと思っていたピューリタンたちなんですけれども、ここで不寛容な社会が生まれるということなんです。 ピュアであるがゆえの不寛容さが出てくるということですね。 つまりどういうことかというと、私たちは自分たちの宗教的自由を求めてアメリカへ渡ってきた。 万人にその自由を保証するつもりはない。ここは我々が作る国だから、我々の流儀でやってもらいたい。それが嫌なら出てってくれ。 ということでピュアなだけに、そのピュアさを受け入れない者は出てけという、そういうね。だからイギリスではですね、イギリス本国では英国教会から迫害を受けてたんですよピューリタンって。 あのめんどくさいこと言うピューリタン、ピュアな奴らみたいな。 迫害を受けて、じゃあ俺ら出てくぜって出て行った先で、今度はバプテストとかクウェーカーとかそういう人たちを迫害するというですね。 このねここに寛容のパラドックスというものが起きるということなんです。どういうことかというと 寛容の押し付けをするってことなんですね。 つまり寛容を強制するっていう不寛容が起きるわけなんですね。だからあの 我々はこういう寛容な社会であると。 だから寛容にしたまえっていう まあこれすごい難しい問題ですよね。だから バプテストとかクウェーカーとかそういう ある意味でそのまた不寛容さみたいなものを打ち出している かなり熱心な宗教たちに対してもっと寛容にしろお前らみたいな。そうしないと迫害するぞみたいな。 そうすると自分たちが知らないうちに不寛容になってしまっているみたいな そういうですね攻めぎ合いが起きる起きたというのがこのアメリカの歴史なわけなんです。 この本はですねその不寛容さと不寛容さの中で すごいこう 社会をこの矛盾にですね どうやってアメリカが社会を作っていったかということでその中心人物ともなったロジャーウィリアムス というね人物に焦点を当てながら 彼が何をやったかということが描かれているわけなんです はいまぁちょっとそのあの歴史的な話は一旦置いておくとしてちょっと今日考えたい のはですねこの寛容のパラドクスという話なんです これは結構難しい問題じゃないかなというふうに思います はい 森本さんがですねこのような ちょっとすごい深みのある言葉を書かれているんですけれども ちょっと読みますねもう少しもう少し踏み込んで言えば不寛容にある不寛容にもある程度の 正当性や普遍性があるということである 不寛容を擁護するとは何事だかという批判が飛んできそうだが人間誰しも万事にわたって 常に寛容であることはできない 時と場合によりどうしても不寛容にならざるを得ないことはあるだろう ここにも寛容のパラドックスの一つが存在している 寛容は不寛容によってのみ成り立っている 寛容はその輪郭を不寛容によって定められてこそ寛容たり得るのである 不寛容なしに寛容はない というですね そういう下りがあるんです 不寛容なしに寛容はないこれすごいそうその通りですよね 不自由なくして自由はなしみたいな話 だしね まさに この 我々が意味嫌うものが存在するからこそ理想が存在するみたいなまあそういうこう パラドックスがあるわけなんです つまり不寛容さを認めない限り寛容というのはありえないわけなんですけれども しかしその滅多ない意味での寛容さだからそれを認めようよ っていう寛容さは不寛容になってしまうという すごい滅多な構造なんですよねちょっと意味伝わるかどうかわからないですけど 寛容を強制してしまうという話ですよ ねだから ちょっと自分の結論めいた話を言うと自分の中に不寛容 な部分があるということを認めるからこそ寛容でいられるっていう部分が確保できるん じゃないかなっていうふうに思うわけなんです まあそういう共存は人間の中でできるんだと思うんですけれども 自分は寛容な人間であるって思い込んでしまうと 寛容でいられなくなっちゃうんですよね他者に対してね だから不寛容と寛容が共存している人間バランスの取れてない 人間であるという自覚があるからこそ他人に対してもそういうふうな ことを認められるし社会に対し社会がそういう不寛容さがあるということも寛容で いられるっていうそんなことなんじゃないかな つまり社会である前にこのミクロの中の寛容と不寛容の共存を認めるみたいなそんなことが 必要になってくるんじゃないかなということを読みながら感じた次第です はいさて皆さんは寛容な人間でしょうかそして この社会は寛容であると思うでしょうかまあその辺をすごい深い問いなんですけど皆さんは どう考えましたかそして寛容のパラドクスどう乗り越えようと思いますか そんなことをぜひ考えてみてください # 『市民政府論』 それでは今日のフライヤーのコーナーです。 今日は市民政府論ということで、著者はジョン・ロックですね。 1632年から1704年のイギリスの哲学者、思想家、イギリス経験論の父とも呼ばれるということで。 ご存知、ジョン・ロックですけれども。 えっと、僕これまだ読んでないなぁ。 これね、えっと、その前に。 古文社ですね、古典新約文庫。 2011年8月に出ております。 これ、この手の17世紀だとか、18世紀における統治のあり方とか、自由のあり方、民主主義のあり方みたいな、そんなことが描かれたものですね。 これね、やっぱり、以前もお話したと思うんですけど。 今の我々の、ある意味、輪郭を失った民主主義みたいな言葉だったりね、資本主義だったり。 そういう言葉を、源流をやっぱり考えなきゃいけないと思うんですよ。 民主主義って、ある意味で空気みたいなもんじゃないですか。 空気に縁取りできないんですよね、私たちは。 空気じゃないものを知らないから。 あって当然、生まれながらにしてあるものっていうのは、その存在そのものを疑うことができない、批判することができない。 批判っていうのは何かっていうと、輪郭を作るってことですね。 それができないわけなんですよ。 しかし、この当時における民主主義っていうのは、強烈なアンチテイズだから、そういう意味でですね。 違いが、その縁取りが明確なんです。 だからこそ、今わけわかんなくなっちゃっているっていう、そういう状態において、この時代の古典を読むことっていうのはむちゃくちゃ大事なわけなんです。 自由とは何かって言われたときに、今の時代って、その自由とは何かってすごい語りづらいというか、 少なくとも当時の自由とは全然意味が違うわけなんですよね。 他者に支配されている。 王によって、絶対君主制によって支配されている中での、自由主義民主主義っていうカウンターとしての存在。 これは、一人の王を倒すことによって我々が自由になり、そして我々が意思を尊重して決めることができるっていう意味において、 自由と民主主義はほぼイコールの関係なんですけれども、 今、絶対君主制というものがリアルでなくなった現在、自由と民主主義っていうのは必ずしも一致しないわけなんですよね。 だからこそ、自由民主主義っていう言葉には全く意味がわからないわけなんです。 いや、自由と民主主義って違うじゃん。民主主義であればあるほど、自由じゃなくなるって側面はあるよね。 そんな感覚ってあったりするわけです。 ところが、当時は絶対君主制に対するアンチテーゼだからね。このジョン・ロックのここで書かれていることは。 そういう意味においての自由って何を意味してたんだみたいな。 そもそも同じ言葉使っていいのかみたいな話もあるよね。当時の自由と今の自由ね。 いろんな言葉の輪郭を考える上で、このルーツに戻るととても大事なことだと思います。 民主主義を考える上でとても大事な本ですよね。 ということで、今日のフライヤーは市民・政府論でした。 # コメント返し はいそれではコメント返していきます。今日は石渡さんのニューヨーク留学だより うさぎさんですね。ちょっとうさぎのアイコンの名前書かれてないうさぎさんなんですけど こんにちは荒木真さんのこの番組を知ったのは自分の考えが正しいと思い込んでいる上司から受けた一方的なマネジメントが心理的負担で体調を崩したときにこの気持ちは 私が弱いからだろうかと悩みいろんな情報に触れていた時でした。荒木真さんや荒木真さんの周りにいる方たちの考え方が人に寄り添うお優しいものでとても救われました。 他の方のような上手なコメントは残せませんがお礼が痛くてコメントしました。ありがとうございます。 ここにもしそういう今までコメントをあげていなくてもそういう居場所を感じていただけたのであればとても嬉しく思います。 別に決して優しいわけではないんですけど優しいって言われると困っちゃいますけれども ただねそのマネジメントの一方的なマネジメントっていう言葉ありますけれども まあわかります。そしてかつて自分自身もそういうことをやってたからこそ その立場の気持ちもなんとなくわかる気がする。 難しいですね。 だから今日の寛容論じゃないけど不寛容論じゃないけど 自分の中に不寛容な部分があるという認識を持つっていう そこから始めているっていうのが僕かもしれないですね。 そうあろうとしているということなのかな。 ありがとうございます。引き続きよろしくお願いします。 さて翌日です。幸福はなぜ哲学の問題になるのか。 初日ですね。イタルさんです。 上昇と重則の2タイプに分けるとどちらかという考え方になりますね。 興味深いです。 よく聞くのはハピネスとミーニングの対比で 前者が重則のニュアンスで後者は様々でその中に上昇なども含まれます。 そして両方を得ることが大切と言われてますね。 ある意味で重則は自己肯定にもつながるのでしょうけれども 自己満足で終わらないためには何らかのより良い上昇がいるのかなと。 ただマスターがおっしゃるように上昇に借り立てられ続けて 満たされないのは不幸ですね。不可想な本ですね。 まあ2者択一じゃなくてね。両方なんでしょうけど。 だからこの本でもバランスだと書いているわけなんですけど。 バランスを取るのが難しいということなんですね。 上昇圧が強いからね。 波に乗り続けるみたいな感じかもしれないね。 バランスを取ってるんだけどやっぱり意識抜けちゃうと落ちちゃうからね。 サンドイッチあって腐ったみかんさん。 それは良くねえだろ。 幸福とは何かを定義する。 幸せは自己申告だと気分によって幸福とは左右されてしまう。 どのように幸せになるかではなく何が本当の幸せなのかを定義できてからが本当に幸せが見えてくるのだなと思いました。 上昇型は承認欲求が高い人。 充足型は他人の人生に左右されずに自分の人生を生ききれる人のイメージだなと思いました。 上昇っていうのはやっぱり他者性みたいなものが出てきますよね。 どうしてもね。 そこに承認みたいなものっていうのは入り込んできてしまう。 その感覚はその通りかなというふうに思います。 腐ったみかんはちょっと怖いですね。 気をつけて。 高育さん。 上昇対充足という二個対立の構造に見えてグイグイ引き込まれました。 幸福とは個人がより大事にしている価値観に適合した生活ができているかどうかではないかと思います。 その価値観が個人で全く異なるのでなんだか分かりにくいのではと考えました。 自立性が尊重される生活ができて充足を喜ぶ人もいれば、 探求結果が評価されポジションを得て上昇を喜び同時に承認による充足を得る人もいます。 幸福は他に個人にとって重要な価値観の発見から語られたりしないのかなと思いました。 これは難しい問題ですね。 もし無人島に一人で行った時に充足だけで幸せな感覚を得られるだろうか。 そこにはやっぱり他者が必要なのではないか。 そして他者がいた瞬間上昇ということは出てくるのではないか。 こういろいろ考えますよね。 極端な場面をイメージすると本質が見えてくるような気がします。 すすさん。 上昇と重色って言いにくいんだよな。 面白い二項対立の言葉ですね。 設定だと下がっていくイメージがあり、社会で生きる上で上昇が必須です。 一方で充足がないと心が落ち着かず生きづらくなる。 上昇と重色のバランスを意識することは確かに大切だなと思いました。 自分の場合、充足は子供に読み聞かせる時と大型書店で戦勝している時、 そして時間を忘れて喫茶店で読書している時です。 ノーブックノーライフです。 これは僕も一緒だな本当に。 まさにそれこそが充足だな。 ノーブックノーライフだよ本当に。 その通り。 げんさん、もしかしたら哲学はなぜ幸福の問題になるのかと主語を入れ替えて考えると他者との会話が弾むかもしれません。 幸せになるために生まれてきたというのをメイクビリーブすることは宗教の素晴らしい機能だというのが私の意見ですが、 もう幸せは機能とソフトウェアのようにもなっている時代だと思うので意味のレイヤーが多い。 根本的な生きる上での本能でさえも多様化した価値観や世界の中で提出させられるのかもしれない。 幸せについて安易な回答を出すのではなく、健全にもやもやしながら他者と考えないとなと思いました。 これは答えが出る話じゃないですよね。本当に。 そういう意味ではすっきりしたいんだけどね。 何がバランスなの? その話でもなかったりもしますからね。難しいんですよね。 上昇と充足、変異と適応、成長率GとROIC。 今日のお話はあらゆるシステムにアナロジーとして発生していると思います。 冒頭に挙げたのは幸福の切り口、生態系の切り口、資本主義の切り口です。 片側だけでは弱く壊れてしまう。 こう考えるとなぜこのパターンが繰り返されるのだろうという問いが生まれてきました。 本来のテーマから勝手に逸脱してしまいました。 人間はバランスを取り続ける生き物なのかもしれないですよね。 常に変化が必要であるけど、変化に対する恐れもある。 変化を義務付けられているみたいな側面もあるのかもしれません。 かいさん、はじめにだけでめちゃくちゃ面白いですね。 私のベースは完全に上昇なのですが、ふとした瞬間に重速の判断をしている時があるなと感じました。 今、耳の周りにある価値を最低限して、その価値に対する解像度がクリアになるだけでもふと心が楽になる瞬間を感じます。 マスターの表現をお借りすると、本を読んだ数を追い求めるのが上昇で、 本なんて一日にえげつない量が作られているんだから、読んだ本の数に大した差はないよ、が重速っぽいです。 それでいくと、一冊を本当に丁寧に読むというのが重速じゃないですかね。 血肉にしていく。量を追い求める。量と質みたいな感じになるかもしれません。 泉龍太郎さん、放送を聞きながらだと重速が良いなと思いますが、 ひるがえって日々の仕事ではどうかと変えりみると、そこそこ上昇圧に駆られているなとも感じます。 上昇と重速、一方が突き出ると他方が引っ込むトレードオフ的関係なのか、 それとも衛生要因と動機づけ要因のように各々独立した変数なのか、 前者と考えれば上昇レースから降りて重速にリソースを振り向けるみたいに考えられそうですが、 後者だとすると、どっちも重要だぜと言えそうで、有無着地せず時数到達です。 これもあるね。確かにね。 トレードオフの関係なのか、トレードオンなのか、面白い問いの立て方。どっちなんでしょうね。 幸福の総量みたいな話とかもあるかもしれないしね。 幸福は総量ではなくて色であると。 何型の幸福なのか。やっぱりこれは沼だなと思いました。 コメント返し以上です。皆さんありがとうございます。 # 終わりのあいさつ はい、ということで、今日、不寛容論をお届けしましたが、いかがでしょうか。 はい、皆さんも、自分は寛容な人間なのかどうか、そんなことをね、ちょっと考えていただけるといいんじゃないかなと思います。 今日はここまで。また明日。 もっと見る荒木博行のbook cafeプレミアム放送配信中!00:121.タイトルコール01:422.初めのあいさつ00:073.この放送は『IT/Web業界に強い 転職サイトGreen』の提供でお届けしていますhttps://www.green-japan.com/09:584.不寛容があるからこそ寛容があるhttps://amzn.to/3lXWjvg04:225.『市民政府論』09:506.コメント返し00:197.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう 人、本、旅、あまのっち2022年6月4日話を聞いていて思い出したのは、子育てにおける"放任主義"問題です。パパは子供に対して、"寛容で優しいお父さん"だと自画自賛してるのに、ママからすると、「あなたは放任主義の無関心よ」となるやつです。寛容であるとは、相手を理解した上で受け入れるということであり、相手の言い分を分かろうとする態度を省略してしまうと、無関心になったり、不寛容と対立したりするのではないか。妻が昔、私に投げつけた言葉から考えてみました。返信 Gen2022年6月3日あっという間の金曜日です。マスターのMashupCuration痺れます⚡️全ての対話は、個人の価値観や成熟度合いの反映とも言えるかもしれず、不寛容前提の寛容のようなものとなる。対話コストはホントは常に手間暇が要る。凸凹感のある組織にはつきものの現象かと。卑近な例で言えば、全責任を指示するメンバーシップ型雇用の業務命令は、それがエッセンシャルワークであるほど個人をシビアに追い込んでいる他者との入れ替わり可能性に寛容でいたいなと思いつつ答えのでない問いに、なぜかGUNSや311を聴きました🎸返信 泉 龍太郎2022年6月3日『不寛容論』1寛容のパラドクスに関係しそうな論考を、『東大理系教授が考える道徳のメカニズム』 という本で読みました。曰く、「仲間を傷付けない」は、古今東西に通ずる道徳の原理。他方、「非仲間」には道徳が適用されない。寛容に置き換えても然りだなと。寛容を発揮するには、寛容を適用する対象の条件・範囲を定める作業から逃れられず、必然的に条件外・範囲外を生む。…と考えると、寛容を押し広げているようでいて、その実、境界・閾値の引き直しに過ぎないこともありそうだと思いました。1返信 近藤弱始(よわし)2022年6月3日『寛容を強制する不寛容』報道の「不寛容」に息苦しさを感じています。芸能人の不倫、公務員や政治家や有名企業経営者のスキャンダルに対する過度な報道追及。もしくは情報発信者の上げ足取りの炎上。枚挙に暇がありません。これらの事象に対して、良い/悪いを俯瞰する視点として「寛容」の可能性を感じていたのですが、この「寛容」すら、「寛容を強要する不寛容」を孕んでいることに気付かされました。これを抽象化する上位概念があるのか?もしくは具体の分解が足りないのか?俯瞰・統合・深化が必要ですね。1返信 ぐるぐるすずき2022年6月3日不寛容だから寛容、言い換えると、排他的だから、優しくなれる?僕は、傷つけられたくないところを傷つけられると、ムカっとしてしまいます。今日のお話を聞いて、そういうところが僕にあるから、他の方の良いところ、認められるのだなと思いました。話をズらすと、自己肯定感がある方が、他人を認めやすいと言えるでしょうか?とはいえ、肯定感を持ちすぎると、嫉妬心が強くなる気がするので、難しいです。具体的には、研究ですね。俺の方がすごい!とマウンティングだらけでした涙。ありがとうございました。1返信 もっと見る
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パパは子供に対して、"寛容で優しいお父さん"だと自画自賛してるのに、ママからすると、「あなたは放任主義の無関心よ」となるやつです。
寛容であるとは、相手を理解した上で受け入れるということであり、相手の言い分を分かろうとする態度を省略してしまうと、無関心になったり、不寛容と対立したりするのではないか。
妻が昔、私に投げつけた言葉から考えてみました。
全ての対話は、個人の価値観や成熟度合いの反映とも言えるかもしれず、不寛容前提の寛容のようなものとなる。対話コストはホントは常に手間暇が要る。
凸凹感のある組織にはつきものの現象かと。
卑近な例で言えば、全責任を指示するメンバーシップ型雇用の業務命令は、それがエッセンシャルワークであるほど個人をシビアに追い込んでいる
他者との入れ替わり可能性に寛容でいたいなと思いつつ答えのでない問いに、なぜかGUNSや311を聴きました🎸
寛容のパラドクスに関係しそうな論考を、
『東大理系教授が考える道徳のメカニズム』
という本で読みました。
曰く、「仲間を傷付けない」は、古今東西に通ずる道徳の原理。
他方、「非仲間」には道徳が適用されない。
寛容に置き換えても然りだなと。
寛容を発揮するには、
寛容を適用する対象の条件・範囲を定める作業から逃れられず、
必然的に条件外・範囲外を生む。
…と考えると、寛容を押し広げているようでいて、
その実、境界・閾値の引き直しに過ぎないこともありそうだと思いました。
報道の「不寛容」に息苦しさを感じています。芸能人の不倫、公務員や政治家や有名企業経営者のスキャンダルに対する過度な報道追及。もしくは情報発信者の上げ足取りの炎上。枚挙に暇がありません。
これらの事象に対して、良い/悪いを俯瞰する視点として「寛容」の可能性を感じていたのですが、この「寛容」すら、「寛容を強要する不寛容」を孕んでいることに気付かされました。
これを抽象化する上位概念があるのか?もしくは具体の分解が足りないのか?俯瞰・統合・深化が必要ですね。
僕は、傷つけられたくないところを傷つけられると、ムカっとしてしまいます。
今日のお話を聞いて、そういうところが僕にあるから、他の方の良いところ、認められるのだなと思いました。
話をズらすと、自己肯定感がある方が、他人を認めやすいと言えるでしょうか?とはいえ、肯定感を持ちすぎると、嫉妬心が強くなる気がするので、難しいです。
具体的には、研究ですね。俺の方がすごい!とマウンティングだらけでした涙。
ありがとうございました。