TOPビジネス経営・マネジメント価値観の凝りをほぐすアート思考ラジオ#738 だんじり祭り批判に考える、祭りの機能とその存続20:57 10月15日 337再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次だんじり事故とSNSの批判論祭り本来の機能、コンプライアンスとの衝突日常からの逸脱、カオスとカタルシス祭りの裏にある問題、被害者を生む構造伝統の再定義、アップデートで未来へAI文字起こし(β版) # はじめのご挨拶 こんにちは。価値観のこりぐさと志向ラジオ。この番組は既存の価値観にとらわれずに、自分らしい価値を作るヒントをお届けします。 # だんじり祭りで事故のニュース こんにちは。トシコーラジオです。 今日はですね、ちょっと気になるニュースというか、 大阪の断じり祭りでですね、ちょっと事故が、横転事故が起こりまして、 お二方が死亡されるという痛ましい事故がありまして、 これに対してですね、賛否というか、結構批判も出ていて、 断じり祭りはやめた方がいいんじゃないか、みたいな論がSNSでは飛び交っているんですけれども、 ちょっとそれについてですね、考えたことというか、考えたいことをお話をしてみようかなと思います。 # だんじり祭りの存続について考える はい、断じり祭りでの事故でですね、事故そのものというよりも、祭りの在り方だったり、その存続についてというところで、いろいろ賛否が起こっていたりしていて、 自分なりにどう考えるかというお話をしようと思うんですが、まず大前提としてですね、今回事故でお亡くなりになった方、あと怪我をされた方がいるということは本当に痛ましいことで、 事故自体についてはですね、いろいろ原因というか問題点みたいなのがあったかとは思うんですが、僕は当時の現場の状況とかもわからないので、 事故については本当に痛ましいことでありましたということしかないんですが、その後ですね、やっぱりSNSで批判の議論が起こって、断じり祭りなんかやめちゃえばいいんだみたいな話が出ていてですね、 これからの存続のことで言うと、これは事故が起こったことを軽視するということではなくてなんですが、僕自身はですね、祭りっていうものの存在意義というか、機能みたいなことを考えたときにですね、 今回のことを受けて改善したほうがいいことっていうのは明らかにあると思うんですが、祭りのリスクとかをですね、いわゆる現代的なコンプライアンスとかですね、 リスクマネジメントっていう側面からだけ言って批判してしまったり、これで中止になってしまうということが本当にいいことなのかというと、僕自身はあまりそう思わないですというところがあります。 ここに一つ記事をですね、東洋経済の記事を貼っておきますが、これ真部敦史さんというですね、評論家、著述家の方が書かれた記事だそうでして、事故そのものというよりですね、 祭りっていうことの意義とか、今後の継続みたいなところについて、割と僕、近い感覚の記事が、大体の記事では事故があったよっていうところを切り取って、こんな危ないことみたいな、割とですね、ちょっと戦場的な記事も多い中で言うと、 ちょっと切り口が異なる記事という意味でも、よかったらぜひ読んでみていただきたいんですけれども、この記事とですね、僕も共通したというか見解を持っているのが、 そもそもの祭りとか儀礼っていうことをですね、日常的な意味での規範とかコンプライアンスで図るっていうこと自体が、あんまり適さないのではないかなというふうに思っています。 # 日常の規範からの逸脱 祭りとかですね、儀礼っていうのは、ある種、日常生活とは切り離されたところでですね、通常のルールを超えたようなものっていうのが、 頻繁にはやられるわけではなくて非日常なのでですね、年に1回とかっていうのをされて、 その時には通常の日常のルールを逸脱したことが行われるっていうのは基本的に祭りですと。 神社とか寺院とか教会とか、宗教的なところに紐づいているものもあれば、そうでなくて、 トマト祭りみたいな、トマト投げ合うみたいなのも、あれをフードロスでとかっていうふうに、 極めて日常的な規範の中から批判することはできると思うんですけれども、 祭りっていうこと自体がですね、日常からの逸脱をするっていうことで、ある種の社会のバランスというかですね、 人間の性のバランスをとっているっていうふうに僕は捉えています。 これやっぱり世界中のですね、いろんな文化、国の中に祭りっていう機能が組み込まれていて、 その開放の仕方はそれぞれなんですけれども、やっぱり日常生活、社会的なルールの中で、 人と合わせたりとかですね、していくことの中には、ある種の抑圧がありますと。 特に近代的なところになってきたときにですね、それを日常生活のためには、全部ルール違反してたら大変なことなので、 日常は結構規範とか秩序のために、みんなの共通了解のもとにやめましょうみたいなことをやってるわけですけれども、 その中でですね、でも人間の本来の性ですね、生命の性っていうのは、ルールに収まらないところもあるわけですよね。 そういうのがずっと鬱屈されてしまうと、例えば犯罪とか、そういういろんなところに社会的な病理として出るのを、 祭りである種のカタルシスをするっていうのは、これ社会的なというか、心理学的な機能として僕はあるんじゃないかなと思っています。 この記事の中ではですね、ビクター・ターナーっていう人のリミナリティ、境界状態と訳されてますが、 そういうことですね。この伝統的な祝祭の本質は、日常の規範や安全な秩序から一時的に脱出し、カオスの中へと身を投じるということにあるという説とかですね。 あと、ロジェ・カイオワっていう遊びの哲学というか、遊びについての研究がよく知られているカイオワでいうと、 祝祭は過酷な身体制や時に死のリスクすらも消費することで、平坦な日常を突破し、生を再起動させる装置ということで、脱放気っていう言葉が紹介されていますけれども、 この一時的に逸脱をすることで、社会の鬱屈したものをある種解放というか、溜まっていくわけですよね。いろんなフラストレーション。 ガス抜きのようにバッて。ガス抜きというと、ちょっとひっきんすぎる言い方かもしれないんですが、そういう機能があると。 僕もニーチェを研究していたときに、ニーチェでいうとディオニソス的なものって、これアートの根源とニーチェがしているものなんですが、 これもディオニソスっていうのは酒の神で、その中でも乱チキ騒ぎをするような祭りですね。その中の糖水っていう概念があるんですけれども、それも通じるところがあるかなと思います。 ニーチェは特に性のもともとのあり方、根源的なありようというのはカオスで、そこの中に人間が後付けでルールとして規範とか秩序っていうのをもたらしたと。 規範とか秩序がないとずっと不安定なままで怖いので、それはそれで生きていく方便というか術として必要ではあるんだけれども、それに合わせすぎてしまうと、その性のもともとのカオスを忘れてしまって、性の根本原理から離れてしまうみたいなところも言っていたりしますし、 結構ニーチェは仏教とか東洋哲学から影響を受けているのもあるんですけれども、例えば仏教でいうと下達みたいなのっていうのは、個人の性、生きることに固執するのではなくて、 もっとある種宇宙的な生命原理とつながった関係として捉えていくみたいなので、要は今の性とか生活に固執しすぎてしまうと、それは仏教的には苦であって、そこに執着していても良くないというところから下達みたいなのがあるわけですが、 普通の下達とか、修行してやるとかでない人の場合に、日常の規範にやりすぎ、囚われて生きるのではなくて、そこからカオスの状態に身を置くっていうことで、性の根源的な身分化の状態というか、ニーチェでいうと個体化の原理っていう言葉があって、 要は一人一人自分の個体があって、その個体の保存のために努力していたりするわけですけれども、でも人間っていつかは死ぬわけですよね。それを大きな目で見れば、生成留天していくとか、 何て言うかな、その個体のというより、それの生死が連なっていく中で、種だったり宇宙的な生命としては繋がっていくみたいなところがあるので、 人の命が軽んじるっていうわけではなくて、それをちょっと超えたしざみたいなところで言うと、祭りとか、ある種の陶酔とか、ライブとかレイブとかもそうかもしれないんですけれども、 そこに行ってるときに、自分が個体を超えて、もっと大きなものと繋がるみたいな感覚って覚えたことがある方もいるんじゃないかと思うんですけれども、これって日常の規範とか秩序っていうのは、線を引いて区切っていくものを、 区切って、そこで押し込められている生の本当の荒々しさというか、カオスっぷりを解放するっていうのが祭りだと思っているので、祭りに関して日常的な規範とか秩序から批判するっていうこと自体が割とカテゴリーエラーというか、 それをしてもしょうがないんじゃないかなっていうのを思っているところはあります。 # 被害者がいる構造は改善しよう これ、ちょっと伝わり方はあれだと思うんですけど、これも切り取られたらね、祭りのそういう日常規範を逸脱しているのを肯定しているとかっていう風に、肯定というか、僕はそういうあり方もあった方がいいっていう派なんですけども、 別に何でもかんでもね、無法地帯になればいいって言ってるわけではなくて、日常の規範秩序っていうのは大事ですと。大事なんだけど、そればっかりになってしまうっていうのは、 昨今ね、結構監視型社会になったりするのって息苦しさ感じてらっしゃる方もいると思うんですけれども、それはそれで別のところに病理が出てきてしまうと思うので、 祭りっていう、ある種日常規範を離れた、脱法規的な場があるっていうのは、僕はもうそれが社会的な機能だという風に思います。 ただ、今回事故が起こったこととか、安全性をあんまり気にしすぎて、ある種の精神をかけるようなことだって、これ祭りのときにはですよ。 日常規範からしたら、そんなの安全にやったほうがいいってなると思うんですが、祭りの機能からすると、日常規範を逸脱するっていうことそのものが機能なので、 これはあんまりコンプライアンス的なリスクマネジメントとかして、ただの観光のやつになっちゃってもしょうがないんじゃないかなと、僕は思っている派です。 これは一意見ですが、とはいえ、今まで通りで断じりがいいかっていうと、そうも思っていません。 ツイッターとかで、今回の断じりの嫌悪が出たときに、わーって噴出してきたのは、断じり祭りっていうのの陰で行われていた、さまざまな搾取みたいなこととかが行われていると。 それを、例えば中学生ぐらいの女子にお酒を飲ませて、痴漢とか性暴力をするみたいなことがありましたとか、祭りっていうときに、祭りって結構荒々しくて男臭だったり、 何だったら、昔でいうと地元のヤクザさんが仕切ってるみたいなところがあったりするときに、強制的に、これ祭りっていうものは、さっき言ったように大事だと思うんですけど、 共同体とかの中で合意されて、そこに参加したいっていう人は参加したらいいと思うんですけれども、強制されているとか、そこでとにかく暴力振るわれているとかっていうのは、祭りのときはいいと思うんですけど、祭りの練習とか、事前事後って祭りじゃないところにも、 その論理を適用して、結局、ものすごい我慢している被害者みたいな人がたくさんいるんだよねっていうのが、Twitterでバーって出ていて、これを全部肯定することはできないなと思います。祭りの機能を考えたときに、祭りの脱法規的なとか、日常の規範を超えたっていうのは、 肯定しつつも、その前後の運用とかみたいなところ、特にその中で声を出せずに、被害を我慢していたような人がいるっていうところは、直していったほうがいいと思います。 祭り自体を安全に運行するんじゃなくて、それ以外の部分でやりたくもない人は、これは賛否あるかもしれないです。そういうことを言ったら、誰もやりたい人いなくなるんだっていうのもあるかもしれないですけど、本当に誰もやりたい人いなくなるんだったらしょうがないかなっていうのは、僕は思うんですが、 多分そうはならなくて、祭りっていうのを求めるのは、人間本性とか社会的機能としてあると思うので続いていくと思うんですが、伝統っていうのは変えないっていうことではないっていうのをいつも言っていて、伝統って変わることで受け継がれていくものなので、伝統の名を虎の医のように借りて、 実体はその中の、さっきの痴漢したり、聖火害したりみたいなことっていうのは伝統と関係ないですよね。昔は祭りのときは予備とかみたいなのがあったりとかっていうふうにはありますけど、それは被害者がいるところはやっぱりダメだと思うんですよね。 祭りを傘に着て何でもやっていいかって言ったら、祭りの機能じゃなくて、個人の欲求をするために祭りの名を借りるっていうことはしちゃいけないと思うので、伝統はさっきも言ったように、変えながら受け継いでいくことで長く続くっていうのは間違いないので、今回、もうやめるとかゼロイチの議論ではなくて、どう変えながら受け継ぐべきなのかと。 そのとき、ただし祭りのリスクっていうことではなくて、その根幹に日常の規範っていうのを超えるっていう、そこの中のある種の非合理的な活動というか、体験が祭りだよって、この根本を抜いてしまったら、もう骨抜きになってしまうので、 そこはちゃんとコアは大事にしながら、でもそれ以外で変な被害者が生まれるみたいな構造は変えていくっていう、そういうちょっと建設的な議論が、どうしてもこういう事故とか起こると、ほら、見たことかと。 リスクリスクっていうので、全部漂白したように、青年図書とかもそうですけど、なんか一件出ると全部ダメっていうふうになるのは、僕はそれだと文化がやっぱり死んでしまうと思います。文化には合理性だけで測れないものっていうのはいっぱいあると思っているので、 変えていくべきところ、その被害に遭っている、それを我慢していたみたいなことは、祭りの本質と関係ないところは変えたらいいと思いますし、祭りの本質である日常からの逸脱みたいなのは、それに合意して了承している参加者の方の危険性を周りの人があんまり言っても、正義のもとに言っても、ちょっとそれは違うのかなと思うので、 そういう議論がされて、アップデートというか受け継がれながら、また断じりが続いていくといいなと個人的には思っております。いろんなご意見があると思いますので、コメントでもし、ちょっと自分は違うっていうのは書きづらいかもしれないんですけど、ご意見ありましたら聞かせていただけましたら嬉しいです。 はい、といったわけで、今日はこの辺で。今日もあなたの1日がユニークでありますように。では、また明日。 もっと見る #アート #祭り #ニーチェ #だんじり祭り 価値観の凝りをほぐすアート思考ラジオ若宮和男@起業家/アート思考著者/福岡女子大客員教授00:081.はじめのご挨拶00:562.だんじり祭りで事故のニュース03:533.だんじり祭りの存続について考えるhttps://toyokeizai.net/articles/-/96091808:324.日常の規範からの逸脱07:305.被害者がいる構造は改善しようコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
#739 「自力」「他力」より「we力」 16分・10月20日・ 347再生AI目次「we力」が組織にもたらす新たな働き方他者任せが招くチーム停滞の落とし穴「自分だけ」という意識が招く孤立の危険IとWe、一人称がチームにもたらす影響自と他を超え「We」を育む組織の秘訣
#738 だんじり祭り批判に考える、祭りの機能とその存続 21分・10月15日・ 337再生AI目次だんじり事故とSNSの批判論祭り本来の機能、コンプライアンスとの衝突日常からの逸脱、カオスとカタルシス祭りの裏にある問題、被害者を生む構造伝統の再定義、アップデートで未来へ
#737 カップヌードルミュージアムで安藤百福さんの「発明力」のすさまじさに驚いた話 31分・10月10日・ 473再生AI目次安藤百福の多角的な「発明」常識を覆す製法アイデアの真髄未開拓市場へのマーケティング戦略「時代を変える」戦略的思考術偉大なひらめきの源泉「執念」
#736 10年前のDeNA時代振り返り #2016年の私 27分・10月8日・ 437再生AI目次DeNAで挑戦した新規事業:ネイルアプリの舞台裏大企業における新規事業の現実と課題事業化への苦闘:支えと転機、新部門発足Web 2.0の知見:師との出会いと学び過去の経験が導く「創造の民主化」
#735 歳をとってから大学に行くのはいいこと?悪いこと? 19分・9月27日・ 383再生AI目次高齢者の大学入学は若者の席を奪うのか編入経験者が語る「学び直し」の価値「学びたい時が学び時」の真意と2つの条件高等教育機関としての大学の役割とはAI時代における大学教育のアップデート
#734 公的空間のスルー力 〜嫉妬とルサンチマン 17分・9月22日・ 381再生AI目次SNS時代の嫉妬とルサンチマン属性への攻撃:スルー力の必要性誰も不快にさせない社会の息苦しさ公的空間をより良くするスルー術嫉妬の連鎖を断ち、幸せな社会へ
#733 多様性と特権 〜エンジニア界隈のジェンダー議論の3つの問題点 23分・9月21日・ 482再生AI目次エンジニア界隈、ジェンダー議論の背景なぜマイノリティの集まりが必要か男女対立に陥る議論の罠属性でなく個人で考える視点コミュニティの私物化が招く未来
#732 AIで人間の創造性は次のフェーズに 〜衝動と感性 24分・9月10日・ 566再生AI目次AI時代、創造性の新たなフェーズAIは人間の仕事を奪うのか?写真とAI:創造性解放の歴史AIの閉ループから逸脱する「熱」身体的感性と内なる衝動の力
#731 IPについて考える① 消費するか、受け継ぐか 19分・9月6日・ 314再生AI目次IPの核心に迫る問いかけビジネスを巡るIPの多角的解釈文化遺産としてのIPの永続性IPの安易な消費が招く結末次世代へIPを継承する知恵
#730 【メ】#私の居場所 とアバターカルチャー 25分・8月29日・ 440再生AI目次アバター文化に見る「私の居場所」VRChatとRoblox、異なるアバター像アバターを四象限で読み解く視点強制される同一性と選べる複数性アバターが生む「私」の新たな姿とは