TOPエンタメ映画・本鳥井弘文の旅と読書とコミュニティインターネットに居場所がないひとたち。09:41 10月8日 270再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次現代文学がSNSを後追いする理由インターネットに訪れた主従の逆転とはなぜ今ネットに居場所がない人々が増える影響力なしに繋がれないデジタル社会誠実な出会いの場はどこに残るのかAI文字起こし(β版) # チャプター 1 こんにちは。鳥井博文です。 働くをテーマにした対話型オンラインコミュニティ 和製サロンを運営しています。 さて、本日のお題は インターネットに居場所がない人たち というテーマでお話ししてみたいと思います。 今日も昨日ブログに書いた内容です。 それでは早速本題に入っていきますね。 先日、Xジョーでこんな議論を見かけました。 韓国人のある方が 自分は本当に文章を読むのが好きなのに なぜか現代の韓国文学にはうまくついていけない その理由は分かっていて 自分がツイッターやネットコミュニティの中毒者で そこで語られている話はもうほとんど知っているからなんだと 最近の文学はそこから出てきた話をそのままやっているように見えて 読んでいると恥ずかしくなってしまう みたいな趣旨の投稿をされていました。 それを受けて日本文学にも同じ傾向がある という日本人の声もバズっていたんですよね。 社会問題を題材にして 論点の勘どころを抑えた架空の世界を作り 試行実験をして程よい落としどころを見つけるようなイメージです。 よくできているし評論もしやすいんだけども 結局は予想の範囲内に収まってしまうのだと それが村田沙耶香さんや浅井涼さんの小説にありがちな傾向だと書かれていました。 この話は言いたいことは分からなくもないんです。 でも同時にそもそも文学ってそういうものだろうと思ってしまいました。 例えば人それぞれの多様性を尊重しましょうなんて みんながすでに知っていることだと思います。 でもその言葉を本当の意味で 自分自身が引き受けられるかどうかはまた別の話ですよね。 物語という形において 誰かの人生に何百ページも付き合ってみて 初めて負に落ちることもあるはずなんです。 もちろんその登場人物が SNSのありきたりな主張を代弁するためだけに動いていたら 違和感を覚えるのもよくわかります。 とはいえ何百ページもかけて描かれた誰かの人生を あ、SNSで見たあの論点ねみたいな風に回収してしまうとき 予想の範囲内に収めているのは作品の側なのか それとも読む側なのか そこは丁寧に考えたいなって思うんです。 僕がさらに面白いなって思ったのはここからで この批判自体が成立してしまうことなんですよね。 文学がSNSの後追いをしている かつてはむしろ逆のことが言われてきたはずなんですよね。 インターネットは本や雑誌やテレビで語られてきたことが 後から好き勝手に語り直されている場所であると あくまで二次的な場所として見られていたはずなんです。 ネットの話なんて所詮は現実の後追いであって カウンターカルチャーでしょみたいな風に言われる側だったわけですよね。 それがいつの間にかSNSで語られることの方が 本編になりメインカルチャーとなっているわけです。 逆に紙の本である小説の方が それもうタイムラインで見たよっていう風に 言われる側に回ってしまっている。 現実社会とインターネットの主従みたいなものが すっかりと逆転してしまっているんだっていう風に思います。 だとすれば今日本や韓国で現代文学が読まれ 読書や読書会そしてブッククラブが ちょっとしたブームになっているのも メインカルチャーになったSNSに対する そんなカウンターカルチャーとしての動きなんだろうなという風に思うんです。 そしてこの主従の逆転なんかは もう一つ別の大きな変化も引き起こしているように思うんです。 そもそも20年ぐらい前のインターネットには 現実社会に自分の居場所がなかった人たちが 集まってきたっていうそんな側面があったという風に思うんですよね。 学校や職場や地元で話の合う人が見つからない人たちです。 自分の関心事を口にしても誰にも拾ってもらえないから そういう人たちが画面の向こうに ここなら話が通じる相手がいるっていう風に 見つけた場所がインターネットだったわけです。 僕自身2010年代の前半頃にブログを書き始めて あの頃のインターネットに居場所をもらった側の人間なんです。 先に来た側の一人といった方が正確なのかもしれません。 だからここから語ることは決して他人事ではないんです。 この点先日佐々木俊男さんが リベラルづかれという本をボーイシューの中でご紹介されていました。 リベラルはなぜいつも自分たちが正しいことを前提に語るのか なぜいつも起こっているのか その問いに対してリベラルの内側にいる人が 誠実に答えた本なのだそうです。 その話を聞きながら僕が思ったのは インターネットの羊とリベラルな考え方との相性みたいなものが あまりにも良すぎたんだろうなってことでした。 既存の規範を問い直し 排除されてきた側の自由や尊厳なんかを求めるような態度です。 その思想っていうのは 現実社会に居場所がなかった人たちにとって 自分たちに都合の良い物語そのものだったはずなんですよね。 ところがその場所がそのまま今は社会の中心になってしまった。 先に来て影響力を持った人たちを頂点に置いたままなんです。 するとかつての既存の規範に意義を唱えていた側が 今度は正しさを示す側に回ることになってしまうわけです。 これっていうのはリベラルという思想自体が悪いという話ではなくて どんな理念のもとに作られた場所であっても そこが中心となればその外側の方に終焉が生まれてしまう そういう構造の話なんだというふうに思うんですよね。 その結果として2026年現在の今は 逆にインターネットに居場所がない人たちが たくさん生まれているんだっていうふうに僕は思うんです。 ここで言う居場所がないっていうのは ネットを使っていないとか使いこなせてないとか そういう意味じゃないです。 むしろ毎日SNSを開いているし そこで語られている論点なんかも 一通り理解をしているつもりでもある。 それでもここに自分の居場所があるというふうには どうしても思えないそんな感覚です。 特にXやインスタグラムそしてYouTubeやTikTok上に 自分の居場所がないと感じるような感覚ですよね。 以前なら現実社会で評価をされていなくても そして身近に話の合う人がいなくても インターネット上に書けば誰かと出会うことができたわけです。 ところがインターネットが社会の中心となり そこでの影響力が現実の仕事や評価までを 左右するようになってくると インターネット上の中でも既に注目されている人が ますます強化されていくようになってきます。 欲しいのは別に大きな影響力とかじゃないんですよね。 自分の書いたものを読んでくれる誰かと 話の通じる数人程度がいてくれたら それだけでよかったはずなんです。 なのに今はそのたった数人に届くためにさえも まずは影響力なんかが求められてしまう。 以前だったらインターネットで繋がれたはずの人たちが 繋がれなくなってしまっている状態です。 言い換えると現実社会に居場所がない人たちのための 場所だったはずのインターネットが 今度はそこに居場所がない人たちを 生み出してしまっているわけです。 しかもかつて現実社会に居場所がなかった人が ネット上では強者、つまりインフルエンサーになっていって 本人の中では自分は今でも社会的弱者の側 既存の権力に抗う側だという そういう認識が残り続けている場合があるな というふうに思います。 でも後からやってきた人たちにしてみれば この空間ではお前らこそが強者だろう、ダウト というふうになるわけですよね。 このねじれみたいなものは先に来た側ほど 気づきにくいんだろうなというふうに思いますし 若い人ほどこの違和感というかねじれみたいなものに 敏感だなというふうに思います。 文学フリマの盛り上がりや紙の本や人員を作る人が 増えているように見えることも 僕にはこの流れの中にあるように思えるんです。 そこではフォロワースとは別の経路において 自分の言葉が誰かに届いていくわけですよね。 これをSNSとかデジタルに使えたから アナログに回帰しているというふうに説明してしまうと 大事な部分を取りこぼしてしまうような気がするんです。 以前ならインターネットに向かっていたはずの 書きたいとか誰かと本当の意味で出会いたい というそういう欲求が今は あの文振り会場に向かっているんだろうなって かつてインターネットでできたことのはずのことを 紙の本とリアルな場所でやり直している感じだ というふうに思うんです。 昔ながらのインターネット的な場所みたいなものを 探した結果、紙の本と文学フリマ およびその周辺に広がる読書会空間に たどり着いたんじゃないか そう捉えた方が実感に近いというふうに思うんです。 これはダソくかもしれないんですが 街なんかで考えてみるとわかりやすいような気がするんです。 例えば吉祥寺や中目黒のような街を 思い浮かべてみてほしいんですが あそこっていうのは小さな個人店が 昔は点在していて それぞれのお店の店主や趣味や価値観が 見事ににじんでいた場所の代表格だった というふうに思うんです。 そういうところが好きな人が集まった結果 今度はその街自体がメディアで人気になり メインカルチャー化していったわけですよね。 同じ街なのに気づけば居心地みたいなものが がらっと変わってしまうわけです。 そうするとそこにあったような 小さなお店やつながりなんかを求めて また少し離れた場所へと人々が移っていく 自分が求めているのはそんなに大きく変わっていないのに 居場所の方がずれていくわけです。 今、紙の本や文学フリマに インターネットから向かっている人たちにも きっと似たようなことが起きているんじゃないのかな というふうに思います。 そしてクローズドコミュニティの読書会なんかも その延長線上にあるように僕には思います。 そしてここで冒頭の話に戻るんですが SNS上で同じ論争を毎日のように眺めながら どちらの陣営の言葉にも 自分の実感をうまく預けられなかった人 共感できなかった人にとっては 小説は全く違うものに見えているはずなんです。 口にする前に立場を判定されてしまいそうな 戸惑いや矛盾なんかが 一人の人間の人生として 300ページもそこに書き綴られているわけですから だからこそこの揺り戻し自体を SNSの焼き直しだという否定をしてしまったら それこそ本当に誰も本なんか読まなくなってしまう というふうに思うんです。 このように居場所がない人の居場所というのは 中心が移動するたびに その外側に生まれ直し続けるのかもしれないな というふうに思っています。 インターネットやSNSが社会の中心になった後 その終焉というのは一体どこに生まれるのか 影響力なんかを経由をしなくても 人と人とが素直にそして誠実に出会える場所は どうすれば残していけるのか この問い自体はこれからも僕自身 丁寧に考え続けていきたいな というふうに思っています。 さて、今日のお話は以上となります。 いつもこのボイシーを聞いてくださっている皆さんにとっても 今日のこのお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。 それでは今日はこの辺で。また明日。 もっと見る鳥井弘文の旅と読書とコミュニティプレミアム放送配信中!09:411.チャプター 1コメントプレミアムリスナーになるとコメント欄に参加することができます プレミアムリスナーに参加する
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