『新世紀のコミュニズムへ』大澤真幸1
32:10
9,312再生
荒木博行のbook cafe
プレミアム放送配信中!
- 00:141.
タイトルコール
- 00:072.
この放送は「求人サイトGreenが送るVoicyチャンネル、グリテンラジオ」の提供でお送りします
- 01:073.
初めのあいさつ
- 15:414.
なぜ私たちは連帯できないのか?
- 04:585.
『神メモ』
- 09:326.
頂いたコメントへのお返し
- 00:347.
終わりのあいさつ
コメント

感想・質問・応援メッセージを書こう

語る人が持つイメージによって、主義主張が変わる。
それを受け止める際にも、人それぞれ言葉の受容体は違う。
あらためて、言葉の大切さを感じると共に、言葉に対する感覚を研ぎ澄ませていきたいなぁと思いました。
その言葉の定義や、生まれた背景や、内包するイメージはどう変化したのか、といったことを考えていきたいですし、それこそ表現神経を磨くことに繋がりますね。
本編後半に、マスターの思考過程を聴き、そんなことを考えさせられました。
資本主義という言葉は大きすぎて、個人が感じている本質のグラデーションは現代において共有が難しい問題だからこそ、片手を離したい。
プロテスタンティズムの「勤勉と救済のサイクルは格差を生む」という文脈からみれば「誰かを負かして上に行こう」みたいな競争とも言える。なるほどです
例えば気候変動などの自らも含まれる共同体の不利益について、時に思考停止してしまったり、手も足も出ない感がありますが、
何事も自分事にするブリッジングが大切かと。
宗教の倫理と経済活動の規範が「結婚」したことで、
「競争」のあり方に質的な変化が生じたのかも?
と思いました。
宗教の世界では、
救済される者が選別されるという意味での競争はあるものの、
あくまで実践は自分との戦い。空手の型の演武のようなもの。
対して経済の秩序では、
他人と直接組み合い組み伏せる要素が加わり、
摩擦や分断が生じ易い力学が働く。
こんな解釈を元に、
競争を社会の「基調」の位置付けから「スパイス」程度に置き直せないか?
と、漠然と感じました。
あるいは宗教社会学を補助線とした資本主義のあり様が、自分の中で腹落ちしていないだけかもしれないですが。救済されるために人々は勤勉に働き、禁欲し、審判が下されるのなら、全員の救済を否定し、格差が必要になる。だから連帯できないということなのか? 資本主義の正体は格差肯定の概念を基盤に発展し、今や限界? 問いばかり立ちますね。
プロテスタンティズムは、未来の救済に向けての、ストイック競争である。格差があるから、そこに到達するために頑張れる。
そのようにまずは理解しました。これ、たとえば受験だったりを通じて、僕の行動原理にも組み込まれています。
一方で、行為そのもの、受験そのものを楽しんでも良い。その文脈や体験にも価値があり、それ自体、遊びですね。
さて、色々考えてきてどっちもあるし、どっちもいいやんというのは、ダメな答えなのかもしれませんが、矛盾も楽し。ありがとうございました。