第2088回「三つのよりどころ、四つの真理」2026/9/25
12:23
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■管長日記「三つのよりどころ、四つの真理」
https://www.engakuji.or.jp/blog/40791/
■YouTube
https://youtu.be/eCmUc9e6XdA
■note
https://note.com/engakuji/n/nbc9e85e486ed
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
-------------------------------------------------
先日は静岡県湖西市にある東福寺さまにお招きいただいて、法話をさせてもらいました。
四年前におうかがいして法話をさせていただいています。
四年ぶりであります。
湖西市は、静岡県の西の端にあります。
すぐ東は浜名湖でありますし、南は太平洋であります。
東福寺さまは湖西市新居町にあります。
近くには新居の関所もございます。
四年前には、「慈悲のこころ」と題してお話させてもらいました。
この頃はまだコロナの影響があって、本堂の中にはかなりの人数制限をして、ライブ配信をしたのでした。
この法話は今も円覚寺のYouTubeチャンネルで聞くことができます。
東福寺さまのYouTubeチャンネルでも聞くことができます。
円覚寺のチャンネルでは、五万回以上も再生された人気の法話であります。
今回は、「仏さまの願い」と題して九十分の法話を務めました。
今回は有り難いことに本堂いっぱいの皆さまにお集まりいただきました。
はじめに『法句経』の一九〇番と一九一番にある
「さとれる者(仏)と
真理のことわり(法)と
聖者の集い(僧)とに帰依する人は、
正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。
すなわち
(一)苦しみと、
(二)苦しみの成り立ちと、
(三)苦しみの超克と、
(四)苦しみの終滅(おわり)におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。」
という言葉を紹介しました。
そしてこの仏法僧の三つの宝と、四つの真理について話しました。
この法句経の短い言葉を見ると、仏教の教えは、すべてここに収まっているのではないかと思うほどです。
悟れる者とは仏さまです。
真理とは仏さまの説かれた法です。
聖者の集いとは僧であります。
この仏・法・僧という三つの宝をよりどころとして生きるのが仏教徒の生きる道であります。
もともとお釈迦様の時代には、仏と法と僧を拠り所として生きていきますと誓うことによって、お釈迦様の弟子となることができました。
後にはさまざまな戒律が整えられていきますが、根本にあるのはこの三宝への帰依なのであります。
そこで、これは仏教だけに限ったことではないと伝えました。
三宝を身近に感じてもらうようにと思ったのです。
何かを学ぼうとすれば、まず教えてくださる先生がいます。
そして教えや教材があり、一緒に学ぶ仲間がいます。
芸事でも習い事でも同じでしょう。
先生と教えと仲間、この三つがあってこそ、私たちはその道を学び続けることができます。
仏教では、教えてくださる方が「仏」です。
仏とは、もともと「悟った人」という意味です。
では、お釈迦様はいったい何を悟られたのでしょうか。
その悟られた真理が「法」であります。
それがお経などの形で今日まで伝えられています。
そして「僧」とは、もともと一人のお坊さんを指す言葉ではなく、お釈迦様のもとで修行する人々の集まりを意味しました。
今であれば、仏様の教えを共に学ぼうと集まる人々も、広い意味で「僧」と受け止めてよいと思っています。
そこで、今日ここに集まってくださった皆様も、仏様の教えを共に学ぶ大切な仲間なのだとお伝えしました。
それから、仏さまの悟られた真理、法を学びました。
それを四諦と言います。
「苦しみ」「苦しみの成り立ち」「苦しみの超克」「苦しみの終滅におもむく道」の四つです。
これを、苦・集・滅・道の四つの真理、四聖諦とも言います。
お釈迦様は、人生には老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみがあることをご覧になって出家して苦しみから解放される道を求められました。
それに「生まれる苦しみ」を加えて、生老病死と申します。
「生」を分かりやすく「生きる苦しみ」と説明する場合もありますが、本来は「生まれる苦しみ」です。
また、愛する人と別れなければならない苦しみ、会いたくない人と会わなければならない苦しみ、求めるものが得られない苦しみなどもあります。
これが「苦」という真理です。
では、なぜ私たちは苦しむのでしょうか。
ここが仏教の大切なところです。
お釈迦様は、その原因を自分の外だけに求めるのではなく、自分自身の心の中に見いだされました。
それを煩悩、渇愛、執着などと申します。
たとえば老いることそのものに加えて、「いつまでも若くいたい」という執着が苦しみを大きくします。
死についても、「いつまでも生きていたい」「この自分を失いたくない」という強い執着があります。
ところが、この世のすべては移り変わり、やがて手放さなければなりません。
手放したくないものを、いつまでも握りしめようとするから苦しみが生まれるのであります。
では、私たちがそれほど大切にしている「自分」とは何でしょうか。
お釈迦様は、それを深く見つめられました。
そして、どこにも変わることのない固定した「自分」というものは見いだせないと悟られたのであります。
私たちは、親や家族、地域、社会、そして数え切れない人や物とのご縁によって、今ここに生かされています。
独立した自分という塊があるのではなく、さまざまなつながりの中に、今の自分があるのです。
この道理を悟り、執着を手放すことができれば、苦しみから解放され、安らぎに至ることができます。
これが「滅」であります。
坐禅もまた、握りしめているものを一つずつ手放していく稽古だと私は思っています。
そして、その安らぎに至る具体的な道として、お釈迦様は八正道を説かれました。
物事を正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行い、正しく生活し、正しく努力し、正しく心をたもち、正しく心を集中するという八つの道であります。
苦しみの事実を見つめ、その原因を知り、執着を手放し、日々の生き方を調えていくのです。
これが、お釈迦様が示された苦しみを乗り越える道、四つの真理なのであります。
法話では、そこから大乗仏教において、四弘誓願へと展開していったことを話してゆきました。
広く多くの人の苦しみを救おうと願うのです。
そんな仏さまの願いをお話したのでした。
横田南嶺
https://www.engakuji.or.jp/blog/40791/
■YouTube
https://youtu.be/eCmUc9e6XdA
■note
https://note.com/engakuji/n/nbc9e85e486ed
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
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先日は静岡県湖西市にある東福寺さまにお招きいただいて、法話をさせてもらいました。
四年前におうかがいして法話をさせていただいています。
四年ぶりであります。
湖西市は、静岡県の西の端にあります。
すぐ東は浜名湖でありますし、南は太平洋であります。
東福寺さまは湖西市新居町にあります。
近くには新居の関所もございます。
四年前には、「慈悲のこころ」と題してお話させてもらいました。
この頃はまだコロナの影響があって、本堂の中にはかなりの人数制限をして、ライブ配信をしたのでした。
この法話は今も円覚寺のYouTubeチャンネルで聞くことができます。
東福寺さまのYouTubeチャンネルでも聞くことができます。
円覚寺のチャンネルでは、五万回以上も再生された人気の法話であります。
今回は、「仏さまの願い」と題して九十分の法話を務めました。
今回は有り難いことに本堂いっぱいの皆さまにお集まりいただきました。
はじめに『法句経』の一九〇番と一九一番にある
「さとれる者(仏)と
真理のことわり(法)と
聖者の集い(僧)とに帰依する人は、
正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。
すなわち
(一)苦しみと、
(二)苦しみの成り立ちと、
(三)苦しみの超克と、
(四)苦しみの終滅(おわり)におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。」
という言葉を紹介しました。
そしてこの仏法僧の三つの宝と、四つの真理について話しました。
この法句経の短い言葉を見ると、仏教の教えは、すべてここに収まっているのではないかと思うほどです。
悟れる者とは仏さまです。
真理とは仏さまの説かれた法です。
聖者の集いとは僧であります。
この仏・法・僧という三つの宝をよりどころとして生きるのが仏教徒の生きる道であります。
もともとお釈迦様の時代には、仏と法と僧を拠り所として生きていきますと誓うことによって、お釈迦様の弟子となることができました。
後にはさまざまな戒律が整えられていきますが、根本にあるのはこの三宝への帰依なのであります。
そこで、これは仏教だけに限ったことではないと伝えました。
三宝を身近に感じてもらうようにと思ったのです。
何かを学ぼうとすれば、まず教えてくださる先生がいます。
そして教えや教材があり、一緒に学ぶ仲間がいます。
芸事でも習い事でも同じでしょう。
先生と教えと仲間、この三つがあってこそ、私たちはその道を学び続けることができます。
仏教では、教えてくださる方が「仏」です。
仏とは、もともと「悟った人」という意味です。
では、お釈迦様はいったい何を悟られたのでしょうか。
その悟られた真理が「法」であります。
それがお経などの形で今日まで伝えられています。
そして「僧」とは、もともと一人のお坊さんを指す言葉ではなく、お釈迦様のもとで修行する人々の集まりを意味しました。
今であれば、仏様の教えを共に学ぼうと集まる人々も、広い意味で「僧」と受け止めてよいと思っています。
そこで、今日ここに集まってくださった皆様も、仏様の教えを共に学ぶ大切な仲間なのだとお伝えしました。
それから、仏さまの悟られた真理、法を学びました。
それを四諦と言います。
「苦しみ」「苦しみの成り立ち」「苦しみの超克」「苦しみの終滅におもむく道」の四つです。
これを、苦・集・滅・道の四つの真理、四聖諦とも言います。
お釈迦様は、人生には老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみがあることをご覧になって出家して苦しみから解放される道を求められました。
それに「生まれる苦しみ」を加えて、生老病死と申します。
「生」を分かりやすく「生きる苦しみ」と説明する場合もありますが、本来は「生まれる苦しみ」です。
また、愛する人と別れなければならない苦しみ、会いたくない人と会わなければならない苦しみ、求めるものが得られない苦しみなどもあります。
これが「苦」という真理です。
では、なぜ私たちは苦しむのでしょうか。
ここが仏教の大切なところです。
お釈迦様は、その原因を自分の外だけに求めるのではなく、自分自身の心の中に見いだされました。
それを煩悩、渇愛、執着などと申します。
たとえば老いることそのものに加えて、「いつまでも若くいたい」という執着が苦しみを大きくします。
死についても、「いつまでも生きていたい」「この自分を失いたくない」という強い執着があります。
ところが、この世のすべては移り変わり、やがて手放さなければなりません。
手放したくないものを、いつまでも握りしめようとするから苦しみが生まれるのであります。
では、私たちがそれほど大切にしている「自分」とは何でしょうか。
お釈迦様は、それを深く見つめられました。
そして、どこにも変わることのない固定した「自分」というものは見いだせないと悟られたのであります。
私たちは、親や家族、地域、社会、そして数え切れない人や物とのご縁によって、今ここに生かされています。
独立した自分という塊があるのではなく、さまざまなつながりの中に、今の自分があるのです。
この道理を悟り、執着を手放すことができれば、苦しみから解放され、安らぎに至ることができます。
これが「滅」であります。
坐禅もまた、握りしめているものを一つずつ手放していく稽古だと私は思っています。
そして、その安らぎに至る具体的な道として、お釈迦様は八正道を説かれました。
物事を正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行い、正しく生活し、正しく努力し、正しく心をたもち、正しく心を集中するという八つの道であります。
苦しみの事実を見つめ、その原因を知り、執着を手放し、日々の生き方を調えていくのです。
これが、お釈迦様が示された苦しみを乗り越える道、四つの真理なのであります。
法話では、そこから大乗仏教において、四弘誓願へと展開していったことを話してゆきました。
広く多くの人の苦しみを救おうと願うのです。
そんな仏さまの願いをお話したのでした。
横田南嶺
【鎌倉円覚寺】毎日の管長日記と呼吸瞑想
臨済宗大本山円覚寺
- 12:231.
三つのよりどころ、四つの真理
コメント

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日々の生き方を調えて、ぐちゃぐちゃ、バタバタな毎日から抜け出したいです。
湖西は息子が住んでいますので、割と身近ですが、横に広い静岡、何せ遠い。
前回のお話をYouTubeで拝聴してもう四年ですか!なんだか浦島太郎のようです。
ありがたいお話、またアップしていただけると嬉しいです。
ありがとうございました。
「手放したくないものを、いつまでも握りしめようとするから苦しみが生まれるのであります。」
「坐禅もまた、握りしめているものを一つずつ手放していく稽古だと私は思っています。」
→家の中のいろいろな物から始まって、手放すことができないものが多いです。手放すことができたら、確かに身軽になりそうです。
良寛さんの墨跡展が京都で始まって行ってみたいのですが、良寛さんの五合庵での暮らしのようなのができたら良いだろうと想像します。🙏