第2096回「ダンマトーク」2026/10/3
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■管長日記「ダンマトーク」
https://www.engakuji.or.jp/blog/40825/
■YouTube
https://youtu.be/nYygbmwDi2I
■note
https://note.com/engakuji/n/nbbd95e316dd5
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
-------------------------------------------------
九月の末の土曜日には、世田谷区野沢の龍雲寺さまにお招きいただいて、法話を務めさせてもらいました。
法話を「ダンマトーク」と言っています。
法話の「法」は、パーリ語で「ダンマ」、法話の「話」は英語で「トーク」なので、「法話」を「ダンマトーク」と言っています。
毎年お招きいただいて、いろんなテーマでお話させてもらっています。
盤珪禅師の話をさせてもらったこともあります。
鈴木大拙先生の話もさせてもらっています。
昨年はイス坐禅をさせていただきました。
今年は何の話をしようかと考えていて、『天台小止観』の話をしていないことに気がつきました。
そこで今年は「禅の教えに学ぶ心の調え方」と題して、九十分お話させてもらいました。
『天台小止観』の二十五方便に学ぶということでは、いろんな研修会などで話をしてきています。
私が中学一年の時に、出会った書物であります。
もう五十年近くになってきます。
坐禅をどのようにしたらいいのか、分からずにいた頃に、とても参考になったのでした。
それをこの頃読み直してみると、今の時代にもとても大事なことが書かれていると思うのです。
二十五方便は「具五縁、呵五欲、棄五蓋、調五事、行五法」という五つに分かれています。
漢字だけみると難しいのですが、それを「良い習慣を作る、良いものに触れる、心を見つめる、心を調える、良い欲を持って努力する」という五つに分けて解説してゆきました。
はじめに先頃の台風の被害についてお話しました。
お彼岸の二日目に台風によって、鎌倉でも各地で冠水や浸水がありました。
円覚寺はさいわいに小高い山でありますので、水に浸かる心配はありません。
しかし、寺は崖に面していますので、大雨になると、土砂が崩れたり、大木が倒れてきたりする危険があります。
その日も寺では何か所かで土砂崩れが起こりました。
その様子を見て、災害に出会っても人によって受け止め方がずいぶん違うものだと思いました。
私は土砂崩れが起きたという知らせを受けて、すぐに現場を見に行きました。
そして、人に被害がないこと、建物にも被害がないことを確かめました。
それならば、この程度で済んで幸いだったと思いました。
人も無事で建物も大丈夫なら、このあとは土砂を取り除いて整備してゆけばいいのです。
寺には若い修行僧が何人もいます。
都会の寺から来た修行僧などは、初めて目の前で土砂崩れを見て、とても驚いていたのでした。
「怖い」と言っていました。
そこで私は、なるほど、これは人生の経験の違いなのだと思いました。
私は円覚寺にはもう三十年以上住んでいて、もっと大きな災害も幾度か経験しています。
過去の経験と比べれば、今回はそれほど大きなものではないと受け止めることができます。
しかし、二十代の修行僧にとっては、生まれて初めて目にする土砂崩れです。
恐ろしく感じるのも当然でしょう。
自分たちが住んでいる建物に土砂が崩れてきたら、命の危険にさらされるのです。
そこで修行僧から「老師は怖くないのですか」と聞かれました。
私は、「あなた方とは違って、私はもう六十数年生きています。
この世でしなければならないことは、おおよそやってきたつもりです。
土に埋もれるなら、それまでだと思って暮らしているから、それほど怖くはないのです」と答えました。
もっとも、これは安全なところにいるから言えることかもしれません。
実際に地震や土砂崩れが我が身に迫ったなら、真っ先に逃げ出し、うろたえ、あたふたするかもしれません。
それもまた人間というものでしょう。
私たちは、いつ何が起こるか分からない世界を生きています。
その中で、仏教から何を学ぶのか、これから考えてまいります。
お釈迦さまは、よく葺かれた屋根には雨が漏り入らないように、よく修められた心には欲望が入り込まないと説かれました。
災害そのものをなくすことはできません。
しかし、日頃から心を調えておくことはできます。
いざという時に、恐れや不安にのみ込まれないように、平生から心という家の屋根をよく葺いておくのです。
それが仏教の修行なのだと思うという話から始めたのでした。
二十五方便の「よい習慣をつくる」では、「戒」について話をしました。
生き物をむやみに殺さない、人のものを奪わない、人の尊厳を傷つけるような愛欲に走らない、嘘偽りを口にしない、酒に酔って自分を見失わないという五つの戒であります。
そこで私は古武術から学んだ「対応の原理」についてお話ししました。
ご縁をいただいている古武術の先生から「武術とは対応の原理だ」と言われたことがありました。
武術では、相手がどのように攻めてくるかによって、こちらの対応も変わります。
相手が打ちかかってきた時に、どう身体をさばき、どう応じるのか、それが武術の具体的な稽古なのでしょう。
ところが先生はさらに、「人間が生きるということは、ほとんど対応の原理だ」と言われました。
この言葉がずっと心に残っているのです。
そしてこの頃私たちが行っている仏道の修行も同じではないかと思うのです。
私はかつて、仏教や禅の修行というのは、自分自身を見つめ、自分の心を調えていくものだと思っていました。
しかし、人間は自分一人だけで生きているわけではありません。
自分だけが安心し、自分だけが調うということはあり得ないのです。
私たちは絶えず何かと関わり、何かに対応しながら生きています。
良い習慣という「戒」もそうです。
生き物をむやみに殺さない、人のものを奪わない、人の尊厳を傷つけるような愛欲に走らない、嘘偽りを口にしない、酒に酔って自分を見失わないというのも、どれも、自分以外の他者とどう関わるかという教えです。
禅の修行も、坐禅をすることだけではありません。
修行道場では、ご飯を作ることも、掃除をすることも、老師のお世話をすることも、すべて修行です。
料理一つとっても「対応」です。
決められた献立を、ただその通りに作ればよいわけではありません。
暑い日なら、少しさっぱりして食欲の進むものを考えます。
激しい肉体労働をした日なら、いつもより量を多くし、少し塩味も増やします。
長い坐禅が続いている時なら、身体の負担を考えて味を薄めにし、量も加減します。
その時、その人、その身体の状態に応じて料理をするのです。
掃除も同じです。
決められた場所を決められた時間だけ掃除すればよいのではありません。
お参りに来られた方に清々しい気持ちになっていただくには、どこをどのように調えたらよいかを考える、それもまた対応です。
人との対応だけではありません。
物との対応もあります。
お茶碗や道具に触れる時には、その物を大切に扱うのです。
場所との対応もあります。
その場において、自分はどこにいて、どう振る舞えばよいのかを考えます。
さらには、時との対応、時代との対応もあるでしょう。
人間の営みは、自分と自分以外のものとの関わりの中に成り立っています。
そう考えてみると、禅の修行とは、坐禅によって自分一人の心を静かにすることだけではありません。
人にどう応じるか、物にどう応じるか、場所にどう応じるか、その時その時にどう応じるか、仏教も禅もまた、この「対応の原理」を学ぶ道なのではないかと、この頃、そんなことを思っていると申し上げたのでした。
そんな話を進めながら、二十五方便について学んでみました。
小雨の降る日でありましたが、仏教では「法雨」という言葉があります。
雨が大地を潤し草木を育むように、仏の教えが人々の心を潤すことを言っています。
ダンマトークの拙い話ですが、少しでもお役に立てればと願いました。
横田南嶺
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最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
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九月の末の土曜日には、世田谷区野沢の龍雲寺さまにお招きいただいて、法話を務めさせてもらいました。
法話を「ダンマトーク」と言っています。
法話の「法」は、パーリ語で「ダンマ」、法話の「話」は英語で「トーク」なので、「法話」を「ダンマトーク」と言っています。
毎年お招きいただいて、いろんなテーマでお話させてもらっています。
盤珪禅師の話をさせてもらったこともあります。
鈴木大拙先生の話もさせてもらっています。
昨年はイス坐禅をさせていただきました。
今年は何の話をしようかと考えていて、『天台小止観』の話をしていないことに気がつきました。
そこで今年は「禅の教えに学ぶ心の調え方」と題して、九十分お話させてもらいました。
『天台小止観』の二十五方便に学ぶということでは、いろんな研修会などで話をしてきています。
私が中学一年の時に、出会った書物であります。
もう五十年近くになってきます。
坐禅をどのようにしたらいいのか、分からずにいた頃に、とても参考になったのでした。
それをこの頃読み直してみると、今の時代にもとても大事なことが書かれていると思うのです。
二十五方便は「具五縁、呵五欲、棄五蓋、調五事、行五法」という五つに分かれています。
漢字だけみると難しいのですが、それを「良い習慣を作る、良いものに触れる、心を見つめる、心を調える、良い欲を持って努力する」という五つに分けて解説してゆきました。
はじめに先頃の台風の被害についてお話しました。
お彼岸の二日目に台風によって、鎌倉でも各地で冠水や浸水がありました。
円覚寺はさいわいに小高い山でありますので、水に浸かる心配はありません。
しかし、寺は崖に面していますので、大雨になると、土砂が崩れたり、大木が倒れてきたりする危険があります。
その日も寺では何か所かで土砂崩れが起こりました。
その様子を見て、災害に出会っても人によって受け止め方がずいぶん違うものだと思いました。
私は土砂崩れが起きたという知らせを受けて、すぐに現場を見に行きました。
そして、人に被害がないこと、建物にも被害がないことを確かめました。
それならば、この程度で済んで幸いだったと思いました。
人も無事で建物も大丈夫なら、このあとは土砂を取り除いて整備してゆけばいいのです。
寺には若い修行僧が何人もいます。
都会の寺から来た修行僧などは、初めて目の前で土砂崩れを見て、とても驚いていたのでした。
「怖い」と言っていました。
そこで私は、なるほど、これは人生の経験の違いなのだと思いました。
私は円覚寺にはもう三十年以上住んでいて、もっと大きな災害も幾度か経験しています。
過去の経験と比べれば、今回はそれほど大きなものではないと受け止めることができます。
しかし、二十代の修行僧にとっては、生まれて初めて目にする土砂崩れです。
恐ろしく感じるのも当然でしょう。
自分たちが住んでいる建物に土砂が崩れてきたら、命の危険にさらされるのです。
そこで修行僧から「老師は怖くないのですか」と聞かれました。
私は、「あなた方とは違って、私はもう六十数年生きています。
この世でしなければならないことは、おおよそやってきたつもりです。
土に埋もれるなら、それまでだと思って暮らしているから、それほど怖くはないのです」と答えました。
もっとも、これは安全なところにいるから言えることかもしれません。
実際に地震や土砂崩れが我が身に迫ったなら、真っ先に逃げ出し、うろたえ、あたふたするかもしれません。
それもまた人間というものでしょう。
私たちは、いつ何が起こるか分からない世界を生きています。
その中で、仏教から何を学ぶのか、これから考えてまいります。
お釈迦さまは、よく葺かれた屋根には雨が漏り入らないように、よく修められた心には欲望が入り込まないと説かれました。
災害そのものをなくすことはできません。
しかし、日頃から心を調えておくことはできます。
いざという時に、恐れや不安にのみ込まれないように、平生から心という家の屋根をよく葺いておくのです。
それが仏教の修行なのだと思うという話から始めたのでした。
二十五方便の「よい習慣をつくる」では、「戒」について話をしました。
生き物をむやみに殺さない、人のものを奪わない、人の尊厳を傷つけるような愛欲に走らない、嘘偽りを口にしない、酒に酔って自分を見失わないという五つの戒であります。
そこで私は古武術から学んだ「対応の原理」についてお話ししました。
ご縁をいただいている古武術の先生から「武術とは対応の原理だ」と言われたことがありました。
武術では、相手がどのように攻めてくるかによって、こちらの対応も変わります。
相手が打ちかかってきた時に、どう身体をさばき、どう応じるのか、それが武術の具体的な稽古なのでしょう。
ところが先生はさらに、「人間が生きるということは、ほとんど対応の原理だ」と言われました。
この言葉がずっと心に残っているのです。
そしてこの頃私たちが行っている仏道の修行も同じではないかと思うのです。
私はかつて、仏教や禅の修行というのは、自分自身を見つめ、自分の心を調えていくものだと思っていました。
しかし、人間は自分一人だけで生きているわけではありません。
自分だけが安心し、自分だけが調うということはあり得ないのです。
私たちは絶えず何かと関わり、何かに対応しながら生きています。
良い習慣という「戒」もそうです。
生き物をむやみに殺さない、人のものを奪わない、人の尊厳を傷つけるような愛欲に走らない、嘘偽りを口にしない、酒に酔って自分を見失わないというのも、どれも、自分以外の他者とどう関わるかという教えです。
禅の修行も、坐禅をすることだけではありません。
修行道場では、ご飯を作ることも、掃除をすることも、老師のお世話をすることも、すべて修行です。
料理一つとっても「対応」です。
決められた献立を、ただその通りに作ればよいわけではありません。
暑い日なら、少しさっぱりして食欲の進むものを考えます。
激しい肉体労働をした日なら、いつもより量を多くし、少し塩味も増やします。
長い坐禅が続いている時なら、身体の負担を考えて味を薄めにし、量も加減します。
その時、その人、その身体の状態に応じて料理をするのです。
掃除も同じです。
決められた場所を決められた時間だけ掃除すればよいのではありません。
お参りに来られた方に清々しい気持ちになっていただくには、どこをどのように調えたらよいかを考える、それもまた対応です。
人との対応だけではありません。
物との対応もあります。
お茶碗や道具に触れる時には、その物を大切に扱うのです。
場所との対応もあります。
その場において、自分はどこにいて、どう振る舞えばよいのかを考えます。
さらには、時との対応、時代との対応もあるでしょう。
人間の営みは、自分と自分以外のものとの関わりの中に成り立っています。
そう考えてみると、禅の修行とは、坐禅によって自分一人の心を静かにすることだけではありません。
人にどう応じるか、物にどう応じるか、場所にどう応じるか、その時その時にどう応じるか、仏教も禅もまた、この「対応の原理」を学ぶ道なのではないかと、この頃、そんなことを思っていると申し上げたのでした。
そんな話を進めながら、二十五方便について学んでみました。
小雨の降る日でありましたが、仏教では「法雨」という言葉があります。
雨が大地を潤し草木を育むように、仏の教えが人々の心を潤すことを言っています。
ダンマトークの拙い話ですが、少しでもお役に立てればと願いました。
横田南嶺
【鎌倉円覚寺】毎日の管長日記と呼吸瞑想
臨済宗大本山円覚寺
- 14:531.
ダンマトーク
コメント

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遠くまで出かけてお寺に参ったり、尊い教えを拝聴したりしたい、というのは『良い欲』!
長い事ただの欲(こう申しては語弊がありますが、あくまでも一人称です)で私は欲かきなだけなのかと後ろめたく思っていました‥。
なんか軽くなりました。
ありがとうございました。
「仏教から何を学ぶのか、これから考えてまいります。」
タイパという言葉が吹っ飛びましたw
開山忌ですね〜🙏✨
→→野澤龍雲寺のダンマトークは、何度かうかがっています。昨年のイス坐禅に参加してもう1年経っていたのですね。今回は、八重洲のイス坐禅のすぐ後だったので参加する予定ではなかったのですが、友人に誘われて参りました。😀🙏