TOPライフスタイルくらし利他ラジオ第170回:「ご・ぜんご・ご」 吾唯足るを知る(われただたるをしる)28:10 2025年10月11日 37再生 問題を報告する 再生する シェアする シリーズ「ご・ぜんご・ご」禅語をひとつ取り上げ、野田くんと語り合います。今回は「吾唯足るを知る(われただたるをしる」です。AI目次「吾唯足るを知る」とは?現代社会における「足る」とは「足るを知る」と分け合うことの重要性「知らん」という意志を持つ意義とは「足るを知る」は成長の原動力になる?AI文字起こし(β版) # オープニング リタラジオ 松島誠郎です。 奈良県にある庵与寺というお寺で住職をしたり、子どもたちにおやつを届けるお寺おやつクラブという活動をしたり、 3人の子どもの子育てをしたり、たくさんの人に助けられながら生きています。 このラジオは、誰かのために、そして自分のために、そっとできることを考える時間です。 今は、何かと自分を出すことが求められる時代です。 SNSで発信し、成果を見せ、自己表現に励む日々の中で、 リタという言葉に新しい価値や安らぎ、可能性を感じている人も多いのではないでしょうか。 リタは、自分をすり減らすことではなく、自分を大切にすること、他者への眼差しが響き合うこと、 名乗らない優しさ、背景に回る力、手放すことで広がる行為、そんな静かな問いを日々の暮らしからたぐっていきます。 声だけでつながるこの場所で、きょうもゆっくり語っていきましょう。 # 「ご・ぜんご・ご」吾唯足るを知る(われただたるをしる) ベタラジオ松島清郎です。 よろしくお願いします。 お願いします。 午前、午後のコーナーです。 お願いします。 よろしくお願いします。 えーと、3回ぐらい野田君との対談を聞いてもらって、いよいよ本題に入っていくわけです。 基本的にはこの午前、午後のコーナーでは、一つの禅語を取り上げて、それについてあれこれ話すというフォーマットを採用しているんですけれども、 その初回というか、1,000とか2,000とかある禅語の中で最初にご紹介する言葉を野田君の方から今日は発表していただけますか。 わかりました。 第1回目ということで。 第1回目。 今日はですね、お互いのスカイラブルの活動にも通じる言葉なんですけど、 我ただ樽を知る。 そういう言葉で、我ただ樽を知るという禅語をテーマに2人で話していきたいなと思います。 我ただ樽を知る。 禅語の中でも禅語オブ禅語というか、キングオブ禅語というか。 禅語といえば、ぐらいのあれだよね。 そうですね。我ただを無くして知足、その下の知ると樽は足ですけど、その二文字知足という言葉もありますけど。 知足ね。あとはあれだよね。 両安寺さんの石碑の。 つくばいです。 あれは何なんだっけ。水鉢?お庭にある石。 つくばいです。水鉢ですけど、有名なのは真ん中にくちという字が書いてあって。 くちね。四角く。 時計回りに漢字が4つ並んでるんですけど、上に関数字の5。それで割る。 右に行くと、ただ。左に口笛。右に大鳥。 唯一の唯一。 唯一の唯一が出てくる。 さらに下に行くと、今度は足という字になる。 さらに左に行くと、知るという。右に口がくるので知る。 時計回りに読んでいくと、我ただ。ただも知るという風に読む。 ものすごくオシャレですよね。 あのデザインは誰か、庭師さんがされたとか、なんかあるの? うーんってあんまり聞いたことないですけど。 お茶室のその前のところに置いてあって、 自分の現状で満足するというタイミングを知るという心持ちを新たにして、 そのお茶室に入っていくというのは、そういった意味合いで置いてあるっていう話は聞いたことがあるんですけど。 あれはある種のデザインだよね。 だし、この我ただ、たるを知るっていう中から、 共通部分である口というか四角を、 僕の好きな因数分解の世界の共通項を抜き出して、並べ替えるっていう。 いや、あれも、あれを超えるのを探してるんだけどね。 なかなかあれを超える、あれかなり感性度高いなと思っていて。 早速、超有名な言葉だけど、そもそも禅後って老子の言葉で、実践者の言葉でっていう話をしてくれたじゃない。 この我ただ、たるを知るっていうのは、誰が言いましたみたいなのってあるの? 誰の言葉です?みたいな。 誰が言いましたっていうのは、いろいろ調べたんですけど、 一番最初っていうのはちょっと誰かというのはわからないですね。 元祖というか。 私が言いました。 形変えていろんな表現がありますけどね。 我ただ、たるを知るっていうのと、さっきの知足もそうですし、 最近この言葉が世に知られるところになったのは、 消欲知足、主欲を救う知足と、たるを知るっていうので、 環境問題とかでエネルギーの動きしない、今あるもので満足しようみたいなスローガンで取り入れることが多くなってきて、 消欲知足っていう形で知ってる人は結構多いんじゃないかなと思うんですけど、 なぜ言ったのかわからないですね。 宿題ね。 前後であるっていうのはそうなんだよね。 そうですね。 そうかそうか。 消欲知足、たるを知るというので、 自分自身が持てるもので満足しているという状態に気付けるかどうかというところ。 そうかも。 ろうしの古典に、たるを知るものは常にたるという言葉があって、 それがろうしの言葉で、ちょっと言い方が違うんだけど、 それを派生してなのか、われただたるを知るっていう言葉も、 同時に生まれたのかわからないけど、そういう禅というか、ろうしはなんだ? 何教になるんだろうしさんは。 ろうし、儒教ですかね。 ろうしは中国のろうしですよね。 そうそうそうそう。ややこしいな。 確かに。ややこしいな。 土地のろうし。儒教だもん。 無為自然という言葉ですかね、ろうしって言うと。 ああ、無為自然ね。 なるほど。 たぶんそういうところと、禅はもともと中国で発展した言葉でもあるわけで。 やっぱり中国の土着の信仰というか思想体系というか、結構密接に結びついてるとかあると思う。 儒教はろうしの方針でしたね。 方針ね。 え、ろうしが? ろうしは無為自然という、何も自然に従う、自然と調和していくというような考え方。 何教みたいなのはないな。 全然わかってない。 どうし、そうし。 どうし、そうっていうのも聞いてますけどね。 あ、そうやね。言うよね。 どうし、そうし。 何教みたいなのがあるんですかね。 まとめて。 道教、道の教というか、中国の土着の信仰と言われますけど、一応体系的に言うとろうしが思想みたいな位置づけにあるっていうことですね。 それを後に体系化して。 体系化していったってことですかね。 この辺はね、テラルネッサンスの鬼丸さんが超詳しいんで。 じゃあ鬼丸さんをゲストに呼ばないじゃん。 ゲストに呼んだらね、もう多分、一放送6時間くらいになっちゃう。 言うとこは。 かくれんきょうけんさん、鬼丸さん。 あやつクラブでもこの言葉って言ってくれたけど、もうちょっとその辺り解説してもらっていいですか。 この世の中は情報が振り返ってたりとか、あと望めば何でも手に入る世界。 お金があれば何でも買えるみたいな世界の中で。 逆に情報に溺れたりとか、何も手に入るからこそ生まれる苦しみみたいなのがあると思うんですよ。 逆に手に入るってのが当たり前だと思ってるから、手に入らないところに苦しみを感じる。 何ももともとなければ別にそんな苦しみってないじゃないですか。 たとえばご馳走が終わったら福を食べれるっていう環境があるのに、 ご馳走が食べれない状況になるっていうのはそれ以外の理由があるんですけど。 それはご馳走が食べれる理想と、自分のことを食べられない状況というので、 ここのギャップが生じて、そこがやっぱり苦しみにつながっていくっていうところがあると思うんですね。 それをいかにギャップを埋めるというか、 自分がいる環境っていうのがいかに目を向けて、 その中で自分の幸せというか満足っていうのをいかに生み出せるかっていうのも、 すごく大事だという、そういう思想だと思うんですけども。 とりわけやっぱりおやつクラブで支援をくださる方に言えることというか、 自分自身もいろいろ抱え込んで、 お寺のお供え物をどうしようかと常に思ってたわけなんですけど、 それの見方を変えれば実は恵まれていたってことは、 そういう話もおやつクラブで参加してみて思いましたし、 いろんな行動を通じる中で、 自分の置かれた環境に目指しを向け直してみるっていう、 そんなのもきっかけになる言葉じゃないかなというふうに思います。 だから多分、この言葉を実感を持とうと思ったら、 まず自分の現在地を確認することが必要で、 けどさ、現在地を確認したら、やっぱり全然足りてねえじゃんっていう風になる時代じゃん、今って。 ここはもう終わるんですよね。 そうだよね。 すごく慎重に丁寧にこの言葉を思いながら、 全然足りてるなっていう風に思えることもあるけど、 やっぱりどこかで満たされない、足りてないと思う割合の方がきっと高くて、 そうですね。 それこそ支援を受けられている父さんやお母さんや子どもさんたちからすれば、 樽をしようって言われたって、自分でも足りてなくて苦しいのをしてるわけだから、 それはやっぱり受け止められないっていう方がたくさんいるようにしてると思う。 だから分け合うっていうことが多分大事になってくるわけです。 自分でそんなに抱えきれないものを分け与えることで、 みんなで樽状態を作っていくっていうのが、今の現代の大事なことじゃないかなと僕は思っているんですけど。 それがあれだよね。 自分の中で、自分単体で単独で樽を知るっていうことじゃなくて、 前後で話をしてくれたように、行動、実践の結果、樽、状態っていうのを知るというか、 気づいたら足りていたっていうことを感じる、そこを目指すっていうことなのかもしれないね。 僕ね、この言葉で、最初に我って言うじゃん。 我って自分って思われたらいいんだけど、 我樽、ただ樽を知るっていうのを知ってる我っていう人がいて、 それができる人がいて、自分はできないなっていうふうに、 なんとなくね、自分ごとに我って言ってしまうと、 それを言ってる、できる我さんがいるっていうふうに思ったりもする。 できる人はいいですよねみたいな。 僕、読み下し方にそれ言うと、 当たり前のように漢字が4文字で、我、樽を知るっていうふうに4つ並んでいて、 当たり前のように読み下して知るっていうふうに修飾形で捉えちゃうんですけど、 僕の捉え方は知るというよりは知らんっていうふうに読み下した方が正確な気がする。 知ってないという方の? 知りませんじゃなくて、知りたいっていう意味。 知らん。知ろうとするっていう意思ね。 読み下し自体は別に誰かが読んだ正解じゃないような気がして、 樽を知るって当たり前のように言っちゃってるんですけど、 やっぱり樽を知るって言われると、 僕はそんなこと言われても全然不満足はたくさんあるなと僕自身も思いますし、 それを理想の境地としてそこに目指していきたいみたいな気持ちはあると思う。 やっぱり知らんっていうふうに、願いの形で読み下したほうが、 それが叶えられてないからそこに向かって努力するとか。 願い、誓願だよね。誓願を立てて修行して、それが成就する。 そういうふうに読み下した方が僕はすっきり捉えられるなっていうふうに思います。 確かに確かに。それであればチャレンジャーとして、 我も自分ごとというか、自分もチャレンジしたいなというふうに思えるかもしれないね。 主体の話で言うと、さっき我っていうことにちょっと引っかかりがあったという話があったんですけど、 つくがいの話で、真ん中に口があって、その語を書いて我になるっていう。 たぶんもうひとつ書き方というか、字があってもいいんじゃないかなと思うのは、 可能性としての話ですけど、 君、我じゃなくて君ただたるをしぶっていうふうに。 あなたっていうふうに主語を置いても、あんどかったはずなのに、 それを我ってしてるっていうのは何か意味があるのかなっていうのはわからない。 君ってなるとやっぱり人ごとというか、 あなたは頑張ってねみたいな単行義になるわけなんですけど、 我っていうふうに、自分がそれを知ろうとする制限を立てるっていうことが意味がある。 私は知りません。でもあなたは頑張ってねっていうことじゃなくて、 自分の問題として自分のことを頑張っていく。 そこが大事なんだっていうことは、我っていう主語で込められてるのかなっていうふうに思います。 うん、なるほどね。 よくわかりました。 口がついてる。 君って書いてても別に成立すると思うんだけど。 あれさ、今ちょっと思ったけど、 真ん中口だからさ、すごい口開けて、 おやつちょうだいって言ってくるデザインに見えない。 あと、おさいせんがさ、すごい石の上に置かれたりして、 僕も投げたりしたことあるけど、 どんどん入れてくれ、もっとちょうだい、もっとちょうだいのデザインに見えないしね。 取れるように見えるじゃないですか。 日本人は、決まったお水におさいせんだけが好きだから。 まあけど、それはある意味、 タレを汁っていう実践を受けてくれてるって言えるよね。 その言葉で作られたデザインがね。 そうですね。 そういった意味で、筑波市自体も未完成の存在だなと。 タレを汁って言ってんのに、ちょうだいちょうだいって口を大きく開けてるっていう様な、 人間のさもしさを表してる。 だから知らんっていう意志というか、 願いの状態っていう風に考えると、すごく自分ごとになるよね。 ただっていう言葉もあれだよね。 優しいようですごい厳しいよね。 そうですね。そう言われると、 当たったりもして。 私の受け止めで、ただが厳しいって思うのはどういう印象ですか? シンプルにこれだよって言われていて、 他をするなよっていう風に。 これ以外に道はないんだよってことなのかもしれないけど、 すごいシンプル簡潔なことって、入ってくるけど実践しようと思ったらなかなか難しいじゃない。 そういう意味で、すごい身軽になってる状態。 自分は全然身軽になってないから。 厳しいっていうのはすごく僕にとってはありがたい言葉なんで、ある意味優しいんだけど。 厳しいのは私だと感じますね。 結構この道を行くっていうより、ただひたすらにっていう風に考えたら、 まさにこの一本道を行こうとする道が見えてきて、いい言葉かなと思います。 あともう一個ね、樽を知るっていうのは、 なんとなくこの言葉だけ見ると、現状でいいじゃないみたいな風に捉えちゃうとちょっと違うかなと思っていて、 樽を知ろうとするってことはまさに仏道の実践だとしたら、 つまりそれはどんどん先に進んでいく、悟りめがけていくってことは、前に進んでいく、成長していくってことですね。 だから立ち止まって、現状維持っていうことじゃなくて、静かに何かが進んでいくっていうことなんだろうなと思っていて、 だからどんどん成長して、自分自身を高みに進ませたいっていう気持ちがあるんだとしたら、 あれもこれもじゃなくて、樽を知るってことが実は最速なんだよっていう風に、そこまで思えると強い言葉になるなと思って。 強い言葉というか、それができるようになってくると。 樽を知る、言い換えると手放すっていう言葉だったり、それが実践の行動としてあると、 なんとなく何もなくなっていく、何もないシンプルな状態という風に思いがちだけど、樽を知れば知るほど実は、 どんどん、ちょっと矛盾するんだけど、樽を知るほどどんどん物とかいろんな出会いとか情報もそうだし、増えてくる状態になるような気がしていて、 けど、樽を知ってるから全てを自分の中に抱える必要なくて、っていうそのサイクルに入ってくるような気がしてるんだよね。 そんな風に思いました。思いましたというか、今喋りながらそう思い始めた。 繋がりあっていくっていうんですかね。さっきの分かち合うみたいなところともちょっと通じるのかもしれない。 そうそう、もうちょっと分かりやすく自分の体験で言うと、おやつクラブを始めた時に、すごいお寺にたくさんお供え物があって、 お寺の中だけでは食べきれないから常にお裾分けどこにしようというのを探してたというのが最初のきっかけであって、 で、今どうかっていうと、その頃以上にたくさんのお供え、いろんな寄贈をいただくようになって、 もっと、何て言うかな、大変。量的には大変なんですよ。 それがお供えがあるということになる。 だよね。みんなそうだと思うんだよ。おやつクラブ。 不思議です。 お裾分けするお供えがたくさんあるんで、協力したいですって言ってくださったお寺さん、 2年3年と活動続けていってもらったら、多分当初以上にお供え物がたくさん集まるようになっていて、 けどは大変だという感じではなくて、お裾分け先がある。 つまりは樽を知る状態から分ける、分かち合うという行為がデフォルトになっているので、 物は増えるけど大丈夫という状態に慣れているような気がしてね。 それはすごいおやつクラブの体験からの話なので、日常的にそれが身についているかと言われると、 なかなかそこは難しいところなんだけど、そういうケースというのも実感としてはあるかなと。 同じく、それ思います。 やっぱり樽を知るというか、 さっき自分自身も課題を抱えてたって言いましたけど、 課題を含めて、味方変えれば課題なんですけど、別の味方からすれば恵まれてるって言い方もできるわけで、 それを物の味方変えたときに、出会い直す世界ってあるんだってすごく感じます。 場合で言うと、お供え物もそうですけど、やっぱり人との関係性というかね。 私のお寺だと月に1回ボランティア活動したりするんですけど、 おやつクラブの発想会。 でもそれもやっぱりその活動を通じて、 じゃああなたはそういう意志を持ってやってるとか、 そういう子どもさんのために僕らもやるよっていうことが共鳴して、 その思いに共感して来てくださる方っていうのがたくさんいるわけで、 知るたるを知るっていうところを起点にして世界が広がっていくっていう、 そういう実感が僕の中でもありますね。 だからそういう場所において集まった人たちが、 この場所にたくさんのものや思いがあるけれども、 この場所に留めてしまうのではなく、 この場所には十分足りているから、 まだ足りていないところというか、 必要なところにお届けしていこうっていう、 そんな状態になれてるっていう感じがね。 そうですね。 思うのもたるを知るっていうのを喚起するっていう、 そういう役割が月子どもにあるような感じですね。 見方を変えるのも優しさだったり、 お盛り上げだったりっていうことになるのかなと。 まあそうだね。 すごく今話しながら思ったんだけど、 これをどんどん本当に広めていきたいなと思うんだけど、 そのためにはもっともっと運営資金もいるし、 全然足りてないかな。 そうですね。 たるを知れてない。 たる。 けどさっきの話でいくと、 たるを知るの実践が足りてないから、 足りてないっていうことかもしれないね。 もっともっと磨いていかないといけない。 まだまだできてねえよっていうことの裏返しというか、 なのかもしれないね。 ありがとうございました。 今度は定言を立て直して突き詰めていきたいと思います。 今日は我ただたるを知るをご紹介というか、 おテーマで。 午前、午後、以上です。ありがとうございました。 ありがとうございました。 もっと見る #幸せ #苦しみ #利他 #老子 #石庭 #龍安寺 #道教 #少欲知足 #吾唯足るを知る #つくばい 利他ラジオ松島靖朗@おやつのおぼうさん01:101.オープニング27:002.「ご・ぜんご・ご」吾唯足るを知る(われただたるをしる)コメント感想・質問・応援メッセージを書こう 上野熊猫2025年10月11日もっと多くの方々が、「知足」になれば、おてらおやつくらぶの活動も活発にできるでしょう。おてらおやつくらぶの活動ありがとうございます。🙏返信 上野熊猫2025年10月11日藤井風の「満ちてゆく」の詩の世界です🥰まさに、おてらおやつくらぶの活動です🪷🪷🪷返信 上野熊猫2025年10月11日「放てば手に満てり」→多く持っているものを手放せば、逆に心に空(くう)ができ満ち足りた心持ちになるということか?返信 上野熊猫2025年10月11日「知足」は、老荘思想による言葉で、現代中国語でも普通に使われている言葉です。「知足常楽」などとも言ったりします。中国語圏の人気バンド五月天(Mayday)の曲にも「知足」というのがあり、美しい曲です。😃返信 上野熊猫2025年10月11日野田和尚、松島和尚「老子」は、老子、荘子の老荘思想で、儒教ではありませんよ。臨済宗の玄侑宗久和尚が「老荘思想」などに関する書籍も書いておられるので、参考になさってください。禅は、中国で、老荘思想の影響を受けたとも言われています。老荘思想は、儒教ではなく、どちらかと言うと道教と関連があると思います。🙏返信 野田芳樹2025年10月12日上野さま、コメントありがとうございます。書籍、読んでみますね。1 もっと見る
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禅は、中国で、老荘思想の影響を受けたとも言われています。老荘思想は、儒教ではなく、どちらかと言うと道教と関連があると思います。🙏