[テーマ:大西哲学を学ぶ④]優れた指導者は、なぜ自分の「功績」を手放さなければならないのであろうか?
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大西鐵之祐の思想で、私が特に現代のリーダーに突き刺さると思う言葉がある。
「無功徳」
である。
没後にまとめられた講義録『大西鐵之祐ノート「荒ぶる魂」』の最終章は、「指導者は『無功徳』で子供と対決せよ」と題されている。
無功徳とは、簡単にいえば、
「自分の功績のためにやらない」
ということである。
これは指導者にとって意外に難しい。
部下が成長した。
選手が日本代表になった。
教え子が成功した。
すると、
「俺が育てた」
と言いたくなる。
さらに難しいのは、自覚なくそうなることである。
「あなたのためを思って言っている」
と言いながら、
実は、
「私の言う通りに成長してほしい」
と思っている。
すると教育は、相手の成長ではなく、指導者自身の正しさを証明する仕事になってしまう。
大西哲学は、ここに非常に厳しい。
教育の主語は、あくまで本人だからである。
しかし「無功徳」は、放っておけばいいという意味でもない。
大西のコーチングを語る言葉として、
愛情・信頼・対決
という三つが伝えられている。
ここで「対決」が入るのが大西らしい。
相手を愛する。
相手を信じる。
だからこそ、必要なら真正面からぶつかる。
「君ならできるから、これは許さない」
という厳しさである。
つまり、大西の教育は「優しく見守る教育」ではない。
かといって「俺についてこい」だけでもない。
相手を支配せず、しかし相手から逃げもしない。
この関係こそ、教育なのである。
ここは、現代のマルチプライヤーやエンパワーメントとも深くつながる。
優れたリーダーは、自分が答えを持っていることによって存在価値を証明しない。
相手が自分で考え、自分で決め、自分で行動できるようになることで、自分の役割を果たす。
つまり、最高の指導とは、
指導者がいなくても、その人が自分で立てるようにすること
なのである。
そのとき指導者は、
「私のおかげだ」
と言わない。
むしろ、少し寂しそうに一歩後ろへ下がる。
それが「無功徳」という、非常に高度なリーダーシップなのではないだろうか。
「無功徳」
である。
没後にまとめられた講義録『大西鐵之祐ノート「荒ぶる魂」』の最終章は、「指導者は『無功徳』で子供と対決せよ」と題されている。
無功徳とは、簡単にいえば、
「自分の功績のためにやらない」
ということである。
これは指導者にとって意外に難しい。
部下が成長した。
選手が日本代表になった。
教え子が成功した。
すると、
「俺が育てた」
と言いたくなる。
さらに難しいのは、自覚なくそうなることである。
「あなたのためを思って言っている」
と言いながら、
実は、
「私の言う通りに成長してほしい」
と思っている。
すると教育は、相手の成長ではなく、指導者自身の正しさを証明する仕事になってしまう。
大西哲学は、ここに非常に厳しい。
教育の主語は、あくまで本人だからである。
しかし「無功徳」は、放っておけばいいという意味でもない。
大西のコーチングを語る言葉として、
愛情・信頼・対決
という三つが伝えられている。
ここで「対決」が入るのが大西らしい。
相手を愛する。
相手を信じる。
だからこそ、必要なら真正面からぶつかる。
「君ならできるから、これは許さない」
という厳しさである。
つまり、大西の教育は「優しく見守る教育」ではない。
かといって「俺についてこい」だけでもない。
相手を支配せず、しかし相手から逃げもしない。
この関係こそ、教育なのである。
ここは、現代のマルチプライヤーやエンパワーメントとも深くつながる。
優れたリーダーは、自分が答えを持っていることによって存在価値を証明しない。
相手が自分で考え、自分で決め、自分で行動できるようになることで、自分の役割を果たす。
つまり、最高の指導とは、
指導者がいなくても、その人が自分で立てるようにすること
なのである。
そのとき指導者は、
「私のおかげだ」
と言わない。
むしろ、少し寂しそうに一歩後ろへ下がる。
それが「無功徳」という、非常に高度なリーダーシップなのではないだろうか。
成長に繋がる問いかけコーチング
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- 05:201.
教育の目的が「私が育てた」と証明することになれば、主役は学ぶ人から指導者へ移ってしまう。大西哲学は指導者自身の自己満足にも厳しい。
コメント

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存在意義、存在価値を人は求めていることが前提だとすると、
その時間軸としても、わかりやすい成果が欲しい生き物なんだなと感じました。しかしそれは他人のことを小さな存在としてみているからなのではないか?
そして自分も他者に育ててもらっていることを忘れてはいないか?
確かに、「私の言うとおりに成長して欲しい」と思っている自分がいることに気づきました。ここわかっても本当に難しいなと感じております。でも、そのことに気づき、相手が自分で考え、自分で決め、自分で行動できるようになることで、自分の役割を果たそうと指導者がもがくこと大切かなと。
必要なら正面からぶつかる「君ならできるから、これは許さない」という厳しさも、ハラスメントや間違ったコーチングの影響で厳しくできないこともあるので、学びにつながりました。
今日もありがとうございます。
最近そう気づくことが増えました
ストレートにじぶんに言うのはためらう、でも誰かのためなら大義名分があって堂々と公言できる
逆の立場でわたしのため、と言いながら、あなたの不安をかき消すためでしょ?と感じるときもある
そのときわたしたちはじぶん自身とどこかで対峙してる気がする
喪失感が芽生えたとき、わたしたちはどんな選択をするのか
ここで逃げても解決にならないとどこかで感じて踏ん張るけど、そのときわたしたちがほんとに対決したい相手は誰なんだろう?
ガーデニングでも、水をやったり、雑草を抜いたりしますが、種から芽吹き、花を咲かせたのは、その花ですからね。そのお手伝いをちょっとさせてもらったでいいと思います。