TOPエンタメ映画・本鳥井弘文の旅と読書とコミュニティどちらも本心のまま、共にいる。09:35 9月8日 250再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次偽善か否か?揺れる本心の葛藤受け入れと願い、同時存在の重み映画が問う、否定と肯定の親心二向同体思想に見る葛藤の価値矛盾解消で失う大切なものとはAI文字起こし(β版) # ブログのリンクはこちら↓ こんにちは。鳥井博文です。 働くをテーマにした対話型オンラインコミュニティ、和製サロンを運営しています。 さて、本日のお題は どちらも本心のまま、ともにいるというテーマでお話ししてみたいと思います。 今日も昨日ブログに書いた内容です。 それでは早速本題に入っていきますね。 先日、友人の中里悠二さんがこんなポストをしていました。 ちなみに中里さんは、不登校のお子さんとご家族を支援するブランチという会社をやられている方で もう10年以上交流のあるご友人です。 で、ちょっと読み上げてみますね。 面談でよく聞く言葉の一つが 行かなくていいよ、と言いながら本音では言ってほしい。 私は偽善者でしょうか。です。 僕の答えは決まっています。 受け入れと願いは同時にあっていい。 揺れている自分はダメな親ではありません。 それだけ真剣に向き合っている証拠です。 さて、いかがでしょうか。 僕はこのポストを読んで、この葛藤ってのは今本当にめちゃくちゃ大事だなって思ったんですよね。 そしてこれってのは多分、不登校のお子さんを持つ親御さんだけの話ではないはずです。 例えば、部下から転職しようというふうに思っていますと言われて 応援するよっていうふうに返した日だったりとか 友人が地元を離れるというふうに決めた時に 頑張ってねっていうふうに返した日だったりです。 口ではいいよっていうふうに言ったわけですよね。 もちろん本心でもそう思っている。 でも、言い終わった後に行かないでほしいとか 変わらないでほしいという別の気持ちも確かに残っているというような場面です。 僕らはこういう場面を割と頻繁に人生の中で経験しているというふうに思うんですよね。 で、その後にふと、あの時自分は偽善者だったんじゃないかというふうに思ってしまう。 でも果たしてそれは本当に偽善者なんだろうかと。 今日はそんなことをこのボイスの中でも丁寧に考えてみたいなというふうに思うんです。 まず、中里さんの答えである 受け入れと願いは同時にあっていいって言葉には本当に僕も素直に頷きました。 この言葉に救われる親御さんがきっとたくさんいるはずです。 面談の場で目の前にいる親御さんに向かってケアする言葉として これ以上のものはなかなかないぐらいに素晴らしい言葉だなというふうに思います。 だからこそ僕はその先も合わせて少し考えてみたくなったんですよね。 この葛藤がなぜ大事なのかというと ここには相手を受けるためには自分の願いまで消さなければいけないのかという問いみたいなものが 見え隠れしているからだというふうに思うんです。 行かなくていいよと伝えることと 本当に行かなくてもいいと思える自分になるということは全く別のことなわけですから 前者の言葉を口にすることができる親になるんだったら今日からでもできる。 でも後者まで求められた瞬間に親の方には2つの道しか残されなくなるんですよね。 一つは自分の感情を偽るか。 そしてもう一つはそんな感情を持ってしまう自分自身を責めるかです。 学校に行ってほしいというふうに願ってしまう自分は まだ需要が足りない。まだ成長が足りないというふうにそんなふうに思ってしまう。 でも僕はそうじゃない。むしろ逆だというふうに思うんです。 行ってほしいという本音があるのにそれを相手の命令には屈しない。 そこにこそ受け入れるという行為の重みみたいなものがあるんじゃないかと。 自分の願いが叶わないかもしれないというそういう可能性を 相手との関係性の中でちゃんとしっかりと引き受けている証拠だからです。 ただこの整理だけではまだ捉えきれていないものがあるような というふうにも思わされるようなそんな映画がありました。 それが最近映画館で見た中島哲也監督の最新作 時には懺悔をです。この映画というのは 9年前の誘拐事件で連れ去られた重たい障害のある少年 新田を巡るミステリーの物語です。 ただこの映画のミステリーの筋にはここでは一切触れません。 ここで語りたいのはこの映画の中に出てくる 障害者の子供を持つ親たちの葛藤なんです。 その中で描かれているのが障害のある我が子に対して なぜこんな子供を産んでしまったんだろうかという そういう否定的な思いを抱えながらも それでも我が子は可愛いと肯定的でありたいと願ってしまう そんな親の葛藤なんです。 さっきまで僕が語っていた願いを命令にしないという話は 言ってしまえば相手にどう接するかという話でした。 でもこの映画で描かれている葛藤はもっとその手前にあるんです。 相手にどう接するかの以前に 自分の中にある相手の存在そのものを否定してしまう思いと 一体どうやって共に生きるのかという話です。 映画を見ながらこれは本当に答えのない問いだなと思いながら 僕はものすごくいい映画だなと思いながら見ていました。 ここで難しいのは否定的な思いの方を隠された本音 そして肯定的でありたいという願いの方を建前だという風に 僕らはついついみなしてしまいやすいということです。 でも思わず湧いてしまう感情だけが本音で それでもこうありたいと願う意思の方は偽物で建前なのか 決してそんなことはないはずです。 でも厄介なのは肯定したいと心から願っているからこそ 否定的な思いが湧いてしまう自分自身を許せなくなるってところなんですよね。 子供との関係性に苦しむだけじゃない そう感じてしまう自分との関係にも同時に苦しんでしまっているような状態です。 だから自分自身の心なんかも同時にどんどんと病んでいってしまう。 そしてこの葛藤をそれも愛情ですよっていう風に 綺麗に回収されてしまうと なんだかこぼれ落ちてしまうものがあるようなという風に思うんです。 本人にとっては愛情という言葉では到底覆いきれないような 拒絶や後悔が実際にあるのかもしれないわけですから それでも肯定したいという願い自体も全く消えてくれない。 もし否定が消えた先でしか肯定できないのだとしたら 肯定にたどり着けない人がこの世にはたくさんいることになってしまいます。 その人が否定を抱えたまま それでも目の前の子供と一緒に生きていくことを 僕らはどうやって受け止めるのか ここには大きな大きな問いがあるなという風に本当に思ったんですよね。 ちょうどこのタイミングで松岡誠吾さんの 日本文化の革新という本のオーディオブックを改めて引き換えしていました。 この中で代表的日本人を書いた内村勘蔵の 2つのJの話が紹介されています。 以前もご紹介したことがあるという風に思うんですが それっていうのはジーザスとジャパンです。 つまりキリスト教信徒としての自分と日本人としての自分です。 この2つっていうのは当時の内村にとっては 決して両立しやすいものではなかったはずなんです。 でも内村は両足が引き裂かれるようなことがあっても この2つを同時に守り抜こうと決意をした 松岡さんはこれを二向同体という風に呼び 西田喜太郎の絶対矛盾的自己同一へと繋がる 1つの思想の流れとして読んでいました。 デカルト的な2分歩、白か黒かとか AかBかに切り分けていく そういう西洋的な思考への対抗として語っていたんですよね。 僕がここで大事だなという風に思うのは 2つの気持ちがあってもいいから さらに先に進んでいることなんです。 両方あってもいいよというのは 葛藤している人を許してあげるための言葉です。 繰り返しますがそれはとても優しい言葉だという風に思うんです。 でも内村のこの姿勢はさらにもっと切実なわけです。 どちらかを捨てれば楽になるのかもしれない それでもどちらかを捨ててしまえば 自分が大切にしている何かを完全に損なってしまう。 だから捨てれないし 裂かれても決して捨てないという風に思うわけです。 葛藤というのは未熟さのことではなくて 2つの大切なものを同時に手放さないでいられる 状態のことなのかもしれないなという風に思うんです。 もう1つ最近読んだ匿名の文章も なぜかとても強く印象に残っています。 娘さんが美容整形をすると決めたという ある親子さんが書かれた記事です。 娘の人生は娘のものだからと 整形する娘を送り出す決意はもうできている。 でも小さい頃から変わっていない横顔が 変わってしまうことがどうしようもなく寂しいんだと。 きっとこの親子さんにとっては 娘が自分の人生を選ぶことも 小さい頃から見てきた顔がかけがえのないことも どちらも本当なんですよね。 娘の自由を尊重しようという結論を出したからといって 校舎の大切さがなくなるわけでは決してない。 決断はできても葛藤が終わるとは限らないということです。 そしてここに松岡聖吾さんがよく語る 面影という言葉を重ねてみると もう少し見えてくるものがあるよなという風に思うんです。 この親子さんが寂しがっているのは多分 娘さんの顔の形が変わることだけではないんだという風に思うんです。 その横顔に重なって見えていた 幼い頃の娘の面影 その一緒に過ごしてきた時間の方なんですよねきっと。 あの横顔は今ここにいる娘の顔であると同時に もうそこにはいない幼い娘が現れる場所でもあったということです。 松岡さんの言う ないのにあるというそんな面影の本質が ここに見事に現れているなという風に思うんです。 もちろん整形しても面影は残るから大丈夫という風に うさめれば済む話ではないという風に思います。 面影が立ち会われてくるきっかけそのものが変わってしまうからこそ 寂しいんだという風に思います。 ここまでの話をまとめると 中里さんの不登校の話も 映画時には懺悔を 娘さんの整形が寂しいという話も この3つの話をつなぐ問いみたいなものは 少しずつ形を変えてくるような気がしています。 それというのは どうすれば矛盾を解消できるかではなくて 矛盾を解消したら失われてしまう大切なものとは一体何かということです。 葛藤そのものを美化する必要は全くないという風に思っています。 葛藤は単純に苦しいわけですからね。 でも葛藤を未熟さとか 偽善として取り除こうとした瞬間に その人が守ろうとしているものまで 一緒に取り除いてしまう可能性が出てくる。 ここが今日僕が一番声を大にして伝えたいポイントです。 そもそも偽善というのは 良いフリをして中身がないことを言うわけですからね。 でもここには明確にちゃんとした中身がある。 そしてこの後の話はまだまだ続くんですが そしてここからがもっともっと大切な確信部分には繋がるんですが ボイシーのこの短い時間だと語りきれないので 続きはぜひブログの方を読んでみてほしいなという風に思っています。 このチャプターにそのリンクも貼っておきます。 さて今日のお話は以上となります。 いつもこのボイシーを聞いてくださっている皆さんにとっても 今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。 それでは今日はこの辺で。また明日。 もっと見る鳥井弘文の旅と読書とコミュニティプレミアム放送配信中!09:351.ブログのリンクはこちら↓https://wasei.salon/blogs/35edf5c2c0c3コメントプレミアムリスナーになるとコメント欄に参加することができます プレミアムリスナーに参加する
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