TOPライフスタイルメンタル・心理学禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで#319 「食」のこと(続)15:30 2024年11月14日 244再生 問題を報告する 再生する シェアする 引き続き、「食」について考えます。AI目次GREEN KEWPIEと食卓の喜び禅寺の食事五観の偈と家庭での食修行道場で磨かれた共感力自立と他者への共感、食への感謝食のありがたみと「私のうれしい食卓」AI文字起こし(β版) # #私のうれしい食卓|sponsored by みんなにうれしいGREEN KEWPIEチャンネル おはようございます。 臨時の古川周券です。 今日もどうぞよろしくお願いいたします。 今日も昨日に引き続き、 食のことについてお話したいと思います。 昨日もお話しましたけれども、 Voicyの方からいただいている、 キューピーのブランドの、 グリーンキューピーというのがコラボレーションですよね。 それで出ている2日間のトークテーマですね。 昨日は自分のこの道場で、 初めて気が付かせていただいた、 お料理のことについて、 そして食をいただくことについての、 喜びについてのお話をさせていただいたんですけれども、 今日はその引き続きということですね。 もうちょっと昨日お話しできなかったこともあるので、 そのことについてお話したいと思います。 昨日はちょっと入り口だけお話したんですけれども、 修行道場ってとっても厳しいところですね。 ですから食ということに関しても厳しいんですね。 道場の食ってどういう考え方に基づいているかって、 それはこの食事五感の下っていうのがあるんですよね。 必ずご飯を食べるときには、 この食事五感の下っていうのを、 お経と一緒に読んでいくんですね。 皆さんも禅寺でご飯を食べることがあったとすると、 この言葉を唱えさせていただく機会があると思うんですよね。 お坊さんに教えていただいてやるんですね。 一つには、功の多称をはかり、可の雷称をはかる。 まず一つ目、お食事をいただくときには、 まず最初に自分がどれだけのことができたのか、 それに対して自分がいただくご飯を、 目の前で食べるところまでに当たって、 どれだけ大勢の人の、 どれだけたくさんの汗と手間暇と、 努力と心遣いをいただいているかって、 それを比べてみろって、 ちゃんとそうやって、 ありがとくいただかなきゃいけないぞっていう教えですよね。 二つ目には、 己が徳行の善欠とはかって、 苦に応ず。 二番目に考えるべきことは、 自分の徳、自分が持っている人徳ですよね。 徳というものがどれくらいあるのかって、 それをよく考えた上で、 この御職心を迎えなさいって。 それから三つには、 心を防ぎ、 とがとんとを離れるを修とす。 さあ三番目には、 人間には、 とんじんじといって、 貪りの心、 怒りの心、 愚かさって、 そういうのがあるんだけど、 そういうものを全部振り返って、 ちゃんと塗って、 貪りの気持ちや、 そういったことを、 持たないようにして、 その御職心をいただきなさい。 そういう学びの場であるぞって、 修行の場であるぞってことですよね。 四つにはまさに、 良薬をおこととするは、 良行、良善がためなり。 まあ難しい方ですけども、 良薬指定してしまえば、 この御職心をいただくというのは、 修行のためだ、 薬と思って、 体を維持して修行するためのものだって、 ただおいしいとかなんとかって、 そういうことじゃない、 欲望と執着を実現するためじゃないんだ、 これは薬なんだって、 体を保って修行するためなんだって、 そういう言い方なんですよね。 まあとっても厳しいことですよね。 職を良薬、 良き薬として見るということですよね。 最後に、 五つには、 道行を上善がために、 まさにこの時期をおくべし。 五番目、最後には、 自分の修行を成就するために、 この御飯をいただくんだって、 楽しみとかそういうのじゃないんだって、 これは修行のためにやるんだって、 寝起こしですよね。 そんなふうに五つ備えるんです。 だからこれはとっても厳粛で、 とっても厳格な誓いですよね。 これをお伝えしてから、 御飯をいただくって、 ですから禅寺の職というのは、 このとってもストイックで、 ひたすら修行のために、 御飯というのは後回しになって、 ひたすら修行のために、 身体を維持して、 健康を維持して、 ただこの全身全霊で、 修行に依存するためにいただくんだ、 それ以外のものはいけないぞ、 という目的のために、 集中していただくという、 そういうふうになっているんですね。 # 禅寺では食事五観の偈...では、普通の家庭では... ただこの私はこの今お話しした食事ご飯の下っていうのはこれはその修行道場のものではあるんだけれども普通に一般に私たちが日曜生活を送る上でこの言葉を唱えてこの言葉の精神で食べることがいいとは一概には言えないと思っています というのは今のようにただ修行のためだけに屈すると思って身体を維持してその身体を維持するのもただ修行を成就するためだというふうにスイックにやるというのはそういう誓いを立ててそういう決意と覚悟を持って道場に来た人間だからこそそういう誓いを立てるんですよね でもそうじゃない人はどうするのかって まあ食事を取るということは他のものの命を奪うということですよね食事って命を奪う行為なんですよね植物にしてもお野菜にしても肉にしてもお肉にしても全部命を奪うわけですよね穀物にしてもそうですだから厳粛な行動なんですよね それでこのストイックっていうのはストイックなものって出てくるんですけれどもだけれどもそういうふうに命を奪わなきゃならないのはただひたすら厳粛にひたむいて本当に深刻にすればいいかっていうものではないやっぱり命をいただくんだけれども ああこれ美味しいねって美味しいねってありがとうってでしかも美味しいねって楽しく食事を取るっていうことも大事なことなんですよね こう楽しく感謝するってそれも大事なことじゃないですかだからその美味しくいただくってことができなければせっかくの命をいただく行為が生きてこないってこともあるんですだから私は そのストイックに引き受けるって言い方もあるけれどもそうじゃなくてやっぱり基本は命をいただかなきゃ生きていけないってことは踏まえた上でその上で だからこそ美味しくありがとうございます美味しかったですって感謝するってことが大事だと思ってその時に家族でああこれ美味しいねって ありがたいことだねって美味しいねって感謝しながら美味しいねって楽しむってこともとっても大事だと思っててそれを食文化と私は言うと思ってます で食事五感の下っていうのが善寺に留められているけれどもその食事五感の下のところからは独特の厳しいストイックな食文化はあるんだけど そこにはこの豊かさはないです私は豊かな食文化を持つことは悪いと思わないんですよね だから普通の人たちがこの食事五感の下を唱えるのは私はどうかと思いますそうじゃなくてそうじゃなくて感謝の気持ちってことが大事なんですよね で文化っていうのはそのまあストイックな善の修行僭越の世界から見たら文化って余計な装飾に見えちゃうってそういうふうなことを考える人もいるかもしれませんけど 私はそれは言い過ぎだと思います 修行の現場にいる人間はやっぱり一木さんにまっしぐらに行に向かうにはならんから修行中文化なんてのは見ちゃいけないんですよ だから修行僧には文化なんてのはいかん邪魔くさいとそんなものは飾り立って叱りつける私もそうしますしそうしてきましたけれども だけどそれはその修行に邁進するための言葉であってそういう修行というのを離れて生きていくんであれば文化ってとっても大事なものなんですよね というのは人間の精神性とか共感とか思い人間の人間らしさって 要は欲望と執着ではなくて欲望と執着で動物も持ってますからね 人間は欲望と執着だけじゃなくてそこに美しいものに感動したり崇高なものに比例付したり感謝したり共感したり思いやりを持ったりするってそういうものがあるわけじゃないですか でそれはとても大事ですよそういう共感っていうものそういうものはやっぱり文化として離れていくんですよね で文化的なものを抜きにしても人間には感情があります で感情というのはその生存とくっついている本能的なものだから大切ですよだけど感情のままではダメなんです感情ってとっても荒々しいですね 感情のままだったらこれはわがままなんですよ だからそのわがままで荒々しい感情というものを人間らしい思いやりのあるもの共感のあるものにしていくって 磨いていって清らかなものにして消化しなきゃいけないんですよ だからそのためにはやっぱりトレーニングが必要なんですよねそれを文化と呼ぶって私は思っています 共感というのは異質なものを引き受けることじゃないですか相手に対する共感相手って家族であってもやっぱり個人個人格は違いますし ましてや他人であったら最初はお互い分からない違うバックボーンを持った人間同士が出会って異質なもの同士が出会って 互いを受け入れるわけじゃないですかだから学びとトレーニングはいるんですよ 好き嫌いだけで動いちゃいけちゃ共感なんか無理なんですよね そういう意味ではその精神性というのはトレーニングは大事だから文化は私は大事だと思います # 修行道場で学んだこと 感情というものは、そのまま共感になっていくんだったら、私たちがよく言う、あなたは感情的だね、感情的になっているねという人が、共感力が高いかというと、そんなことはないですよね。 共感力がないわけじゃないんですよ。共感のベースには、今お話ししましたように、感情の力というのがもちろん必要なんだけど、そのままでは共感にならないですよね。 感情的になっちゃうと、どうしても俺が俺がになってしまうんですよ。 感情的な人が、私は共感できますなんて言うけど、それは自分と波長の合う人だけであって、やっぱり一人柄なんですよね。 相手のことを考えずに、どんどんどんどん無神経になってしまうじゃないですか。 ですから、感情的になると、どちらかというと、閉じこもってしまって、自分勝手になる。 だから、自分勝手にならないように、この感情を解放して、異質なものと一緒に生きていくという風に学んでいかなければならないですね。 それで初めて、感情が共感になって生きていくわけですよね。 そういう意味では、やはりまず最初に、依存するということではいけないんです。 やっぱり、自立することができなかったら、相手を受け入れることができないですよね。 相手を受け入れることができなかったら、結局は自分に閉じこもって、感情的なままで終わってしまうんです。 だから、まず最初に、きちっと自分が自立する。 相手の気持ちが分かる。 収容者の気持ちが分かる。 学ぶという気持ちで、相手にいかに共感できるかということですよね。 そういう意味で、昨日もお話ししましたけれども、食ということを言うんだったら、自分で作ってみて、人に振る舞ってみて、相手のことを考えてお料理を作る。 そうすると、その人が作ってくれた料理を通じて、どんな思いで、どんなふうに作ってくれているのかということを感じることができる。 だから、お料理に関しておいしいとかまずいとか、いいとか悪いとか、高いとか安いとかって、そんな話をするということは、やっぱり共感力の欠如だし、それが文化ではないですよね。 文化というと、いかにもそういう食についての知識があって、そういうのをひけらかすようなイメージ、そういうスノブなイメージがあるかもしれないけど、それは正反対ですよね。 本当の文化というのは、自分勝手の人狼狩りを破って、やっぱり異質なものと一緒に生きていくという共感の能力なんですよね。 そのためにも、やっぱりお料理を作るって、修行道場ではお料理ってすごく大事なんですよね。 だから、お料理については細やかに、細やかに叱られるんです。 最初にまず修行仲間にお料理を作る機会を与えていただくんですよね。料理係だって、なかなかできない。最初は作るのが精一杯なんですよ。 相手のことなんか考えてないんです。 で、やっと少しずつ一枚できるようになったときに傲慢になるんですよね。 以前にも話したことがありますけど、そこで私、傲慢になって、こっぴどこ叱られた覚えがあります。 で、それを越えていって、だんだん修行仲間を、いろんな人がいますよね。いろんな思いで修行してますから、考え方が違う人もいるんだけど、 その修行仲間を一緒に修行する仲間だって、考え方が違っても仲間になって思えるようになっていって、初めて本当の料理ができるようになる。 あとは、自分のお師匠様に、お師匠様にお料理を作る立場になったときに、 自分とは、私の師匠はね、どちらの師匠も二回り分ですから、体調も年齢も違いますからね、好みも違いますから、 それをよく考えて、よく感じて、口で聞いて、どうですかなんて聞くのはやっぱりやばくないんですよね。 そうじゃなくて、いちいち聞かなくても、お食事している様子や、そういったものから、それを読み取らなきゃいけないんですよね。 昔、老子にこんなことを聞いたことがあるんですよ。 老子、これはお好きですか?って聞いたら、老子が私の顔を見てね、笑いながら、 お前だって、わしがこれが好きだなんて言ったらどうなると思う?って。 老子はね、竹床が好きだなんて聞いたら、あっちこっちから竹床を送ってきますよね。 食べきれないこれ、竹床を送ってくるじゃないですか。 そんなもんなんですよね。 だから、みんなが一挙一動、そんな風に振り回されることがないように、 老子は好き嫌いだって教わらないんですよね。 でも、聞かなきゃならないようじゃダメなんです、やっぱり。 そういう風にして、アンテナを広げていって、お料理を作るって、 そういう経緯をさせていただくことで、先生さんを見つけることができたってことがあるんですよね。 そういう意味で、道場の修行って良かったなって思います。 そういう意味では、修行僧として一人前にならないと、お料理はできない。 修行僧としてトレーニングさせていただいて、 一人前にそこそこのことが一通り、すごくないけどできるなって初めて、 修行僧として独立して初めて、お料理が作れるようになるし、 それから、人が作ってくださったお料理の素晴らしさがわかる。 そうすると、そういう風に自分が自立して一人前になればなるほど、 毎日毎日いただくお食事のありがたさがわかる。感謝の気持ちが増すって。 私の嬉しい食卓ってことを言うならば、 修行僧として自分がちゃんと修行僧として、そこそこ一人前にやっていけるようにならせていただいたことを通じて、 食ということの嬉しさ、喜びっていうのは、道場に行く前に比べると格段に増しましたね。 だから、お坊さん食事が張ってるっていうんじゃなくて、 食のありがたさがわかってるって、そういう風に私は思っています。 今日も長い時間お招きいただきまして、本当にありがとうございました。 どうぞ良い一日をお過ごしください。 もっと見る #食文化 #修行 #食事五観の偈 #共感のトレーニング #わたしのうれしい食卓 禅僧と考える...日々の暮らしから人生までプレミアム放送配信中!04:321.#私のうれしい食卓|sponsored by みんなにうれしいGREEN KEWPIEチャンネルhttps://event.voicy.jp/greenkewpie202405:092.禅寺では食事五観の偈...では、普通の家庭では...05:513.修行道場で学んだことコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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#640 AIの衝撃の大きさを受け止める② 16分・昨日・ 142再生AI目次IBM Watsonと開発者の情熱理想のAIが蝕む人間の本質知のブラックボックス化の危機人間的行為とコミットの喪失AI時代に蘇るソクラテスの問い
#639 AIの衝撃の大きさを受け止める① 14分・9月10日・ 132再生AI目次AI開発の原動力、IBMの熱狂人間の夢を映すAIという存在Watsonの誤答が示すAIの未来AIの冷静さと人間の情熱の対比AIにできない人間の情熱の真価
#638 辛い思いをして修行をしても、無駄になってしまうのではないか?~夢窓国師『夢中問答集』を読む(47)「円満具足の本分」① 13分・9月9日・ 209再生AI目次厳しい修行と拭えない心の疑問成果主義がもたらす仏道への誤解誰もが持つ「円満具足」の真の姿他人との比較を超える喜びの源泉理屈抜きに「良い」と味わう体験
#637 どこまでも己にとって返す~夢窓国師『夢中問答集』を読む(46)「是非の念と大悟」② 13分・9月8日・ 148再生AI目次他人の是非を越え自己へ帰れ徹頭徹尾「自分のため」の修行「自他」の区別以前の自分を掴む「お前は何者か」という深遠な問い途方に暮れる悩み、悟りへの一歩
#636 他人の是非を口にする前に~夢窓国師『夢中問答集』を読む(46)「是非の念と大悟」① 16分・9月7日・ 189再生AI目次他人の是非に悩む心の現実修行者への唯一の指摘「一両剣」他者の評価が示す自身の未熟さ自己向上を促す「良い点を見る」教え他人の言動が示す自己の内面とは
#635 禅の物語~葉落ちて根に帰す 六祖慧能大師(其の五) 14分・9月3日・ 205再生AI目次禅の革命者 六祖慧能大師とは仏を見出す鍵 自身の衆生を知れ葉落ちて根に帰す 慧能の死生観形式を排した最期の教えの真意言葉を超えた慧能禅の遺志とは
#634 一切を棄てるとは?~夢窓国師『夢中問答集』を読む(45)「悟入」 14分・9月2日・ 212再生AI目次心の捉えどころない性質消えない記憶と煩悩の根源「一切放下」が示す悟りの本質達磨大師が語る「心牆壁」不完全でも歩み続ける境地