TOPライフスタイルメンタル・心理学禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで#413 人生を考える...道を求める生き方②19:35 2025年4月8日 434再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次本能と直感で進む人生の羅針盤心の声に耳を澄ませ、道を拓く迷える時、どうすればいいのか?自分探しの旅、そして『十牛図』自分を信じることから始まる道AI文字起こし(β版) # 初めのあいさつ おはようございます。衛林寺の古川周券です。今日もどうぞよろしくお願いいたします。 # 本能と直感 今日は、昨日に引き続き人生を考えるということで、道を求める生き方の続きをお話したいと思います。 昨日お話しましたように、私たちが自分の人生をどう生きるかって考えるときに、何を頼りに考えたらいいかって、最初のうちはロールモデルを探しますよね。 自分の両親であったり、先輩であったり、身近に住んでいる人であったり、親戚であったりって、 自分がすごいなと思う人、その人の姿を生まれて、そういう風に生きたいなと思うって、最初にお手本を探すんですよね。 でも、お手本を探すんだけど、自分でいろんなことを経験していくと、自分の中に好きなことが出てくるんですよね。 これをやりたいなって。だから、お手本の姿と自分のやりたいが一致していると、やっぱりその人の後をかける、そういう言い方になってきますね。 でも、例えば、その人と自分の姿勢が全然違ったりすると、最初はうかがわれるんだけど、なんか面白くないな、楽しくないなと思ったり、 やりたいと思っているんだけど、自分には無理だなと思ったりって、いろんな形で自分自身の生き方を外じゃなくて、自分の中で探さなければならない。 決めなければならないというのが出てきますよね。で、その時にどうするかって、結局最終的に私たちが生きる時に何で決意するか、何で決断するかというと、実は最後は本能途中になるんですよね。 ある程度、自分の生きる方向性というのは決まっているんだったら、正しいかどうかを判断するために基準というのが出てきますよね。 ルールであったり、法則であったりって、その基準に合わせて正しいか間違ってるかということを決めることができる、判断することができる。 でも、自分が本当にそうしたいのかって、本当にそう生きたいのかっていうことは、基準では決められないんですよね。 自分の生きたい方向性ややりたいこと、目的がちゃんと見えれば、その目的に達するためにどうしたらいいかということで、基準の後から出てきます。 まず最初に、生きたい方向性、自分がどっちに向かっていきたいかということが決まれば、基準を見つけること、基準を考えることはできるんだけど、 それが決まっていない状態で、まず最初に正しいもの指しって言われても、結局何したいのかってことが見えなければ、基準の中で出てこないですよね。 今、私たちは社会でも学校でも、ルールに従って生きるということが制度条件ですよね。 先進国、豊かで安定した国では、生きるということは、まず最初に生命活動とやると同時に、それと負けないくらい高い比重で、ルールを守るということが当たり前のように身につけることが大事なんですよね。 だから、自分でやりたいことをやると同時に、他の人との兼ね合いにおいて、それをすることが許されるのかどうかって、そこにルールがあるんだから、 自分でやりたいことだけじゃなくて、同じくらいの比重でルールも考えながら生きるということを訓練して身につけていかないと、やっぱり秩序が整った先進国で生きることって難しいですよね。 もちろん、ルールを守るよりもまず生きるということが大事なのではないかという国や社会っていっぱいあるから、でも考え方が随分違ってきてしまうんだけど、やっぱりそんなふうに、 まず私たちは今、日本で生きているわけで、社会に生きているわけだから、大事なこととしてルールを守るということが入っているんですよね。 でも、繰り返し強調しますけれども、ルールというのは、自分がこうしたい、こう生きたいというのがあって、初めて力を持つものだ。初めて生きてくるものだって。 じゃあ、どう生きたいかってことに関して言うと、やっぱり自分の心の奥底から分け出るもの。 昔からそういうものを、自分の本能とか直感って呼んでますよね。 それは、人間がやっぱり生きるというのが一番根本にあるのは、本能と直感だということは言えるんですよね。 # 人が生きていくときには こうやってお話をしていると 直感というのはどういうものかって 直に、ダイレクトに、直に、見る、観音さんの観音時 直に見るという直感というのがありますよね まあどちらかというと哲学的なタームになってきますよね 哲学的な用語になってきます それから直接感じる方の直感というのがありますよね もっと自分の心に近い本能的なものですよね 今私が本能と直感と呼んでいる方の直感というのは 感じる方の直感ですよね だから自分が向かっていく方向性は分かるんだけど その方向性、そっちに向かったら どんなことが起こるのかってことは なんとなく感じるだけですよね だから人間が頭で考えて判断して こうなるってこと そういうふうに分かるような そんなクリアなことではないんです だからクリアに分かるわけじゃない クリアに分かるというのは やっぱり落ち着いて頭の中で判断して 考えてって手続きが入る そうやってクリアにすることが必要だけど 心が動くままに動いてたら そんなクリアではないんですよね よく私たちが そんなん当たり前じゃん 分かるよって はっきり分かるって言う時の はっきりってどういう意味かって その時に あれやると分かるっていう意味と 他のものと区別してどういうものが クリアに明確に分かるか 判別できるか 分別できるか 区別できるかっていう その両方って実は似てるけど違ったりするんです 例えば 腹減った お腹空いたって あれやると分かるじゃないですか でもその時 何食べたいかっていうのは うーんとって考え方なんですよね そうすると腹減ったっていうのは 直接ダイレクトに来るけど もやもやもやもや ごちゃごちゃっとしたものが 一気に来るだけです それが本能的なものですよね その直感も 感じる方の直感って なんとなく食べたいとか したいってことは分かるんだけど 本当にしたいものは どういうものなのかって 強く強くはっきり心に響いてくるから 響いてくるから 体験としてはすごくクリアだけど でも何したいかって 具体的にどうやって何したいかって それは自分の心と尋ねながら 一つ一つ丁寧に解きほぐして クリアにしていかないと分からないですよね まあ昔 ネカラトって哲学者がいますよね その コギとエルゴスム 我考える ゆえに我やりって言ったんですけど この人はまず最初に 我考える ゆえに我やりの 我考えるっていうのは 直感的なものですよ 本能的なものですよね 俺考えてここにいるよって これは直接ダイレクトに分かるじゃないですか でもそれって何者で どんなふうに考えて どんなふうに感じてるかって言った瞬間に モヤモヤしてるものを 自分でよく考えて 解きほぐしていかなきゃならないんです その時 当てにならない どんどんどんどん移り変わってしまうし 当てにならないし 錯覚だし どこでもいいものもいっぱいあるじゃないですか これが大事ってことを こう考えて 頭脳を使って明確にしていくんですよね その時にデカルトは クラーラ ディスティンクターって言ってるんですけど クリア クラーラ 明るい 明らか ディスティンクと 判別する 他と区別がつく で クリア 明らかっていうのはどういうことかっていうと ありありと見えるっていうことですよね ありありと目の前に 手で手を取るように見えるって 真っ黒じゃなくて明るくて 手に見えるように見えるって 分かるよって そういう感じですよね で から ディスティンクのってこれはどういうことかっていうと 他と区別する 例えば お腹空いてるっていうのは ただボヤボヤと なんか知らないけど なんかイライラするなって それに対して あ お腹空いてるって分かった瞬間に クリアになるんです で お腹空いてるんだけど 何食べたいかなって そうすると いや 今は和食かな 洋食かなって その時 ただ ただ お腹空いてるんだけど 和食じゃないな 洋食だなとか その風に 他と区別してクリアになる だから こう まず最初に 心がグーッと動くって なんとかで動く これは直感的なものであるし 本能的なものである その次にこれが 分かりやすく明確なものとして 腹減ったって 何か食べたいっていう風に だんだん明らかになってくる 何か食べたいときは 何かは何なのかって どこで どうしてってことを パパパッと組んでいって 意欲もと集着にして 自分の仕組みになって 体 行動になって 動くじゃないですか この辺りのことを そういう風に 解きほぐしていくかどうかっていうのが 大事だし 私たち人間っていうのは いつもそういう風に 解きほぐして 生きてるっていう仕組みがあるんですよね 大事なことは 例えばこれって 基本的な構造だから 修行する人間も それから欲望の中で 街で普通に生きる人間も 大して変わらないんです 修行するときだって 同じ仕組みが動くわけですよ そもそも出家しようと思う そもそも思うってあるじゃないですか そうすると 授業図で言うならば 何か違うぞって 修行に出ようと思う 牛を探しに行こうって 牛が本当にあるかどうかも分からない 牛がどんなものかも分からない ただ今の自分は違うと思って パッと動くって それって非常に本能的で 直感的なもので しかも何となく違うから こっちじゃないのかなと思って 禅の本を読んだり 仏教の本を読んだり 教室の床に行ってみたりって モヤモヤしてるの 少しずつ こういうものかなって 手探りで手探りで これがあって 少しずつ明らかにしていくって そういうこと この構造は 宗教に向かって 道を求めるもの どんなものでも一緒ですよね 欲望でこう行きたいというのも一緒 だからそれが 欲望の中に入っていくのか 道を求めるのかというのは 実はこの段階では 分別ができないんですよね # 自分を信じること 自分が生きる上で、同じように心がグーッと動いて、そして本能的なもの、直感的なものに身を委ねていって、 試行錯誤しながら自分の道を決めながらっていく。この行動が一緒だけど、やっぱりそれが道という形で修練する人もいるし、 あるいは深く考えて日常生活の中で生きていく生き方があるんだけど、どこで区別がつくかって。 今日は道を行く話をしてますから、道をちゃんと行けるという時に心が動く。本能と直感が道へ向かっていくって。 人間というのは誰もが欲望の執着に流されるだけじゃなくて、わが者だけじゃなくて、勝手な生き物を生き込んだりじゃなくて、 道を求めていくという素晴らしい生き方も人間の心の中にあるよって、そう考える時に、 大乗仏教でいう仏心、仏性、仏の心、仏の性質という言葉をよく使いますよね。 いくら人間が欲望の塊であって、わがままで、自分勝手であっても、でもその中に決して自分勝手ではなくて、 人のことを思いやったり、いろんなことを分裂して考えたり、自分を高めていこうって、 それなくても自分を高めていこうと思えるような素晴らしいものがあるはんだって、自分を導くものは自分の中にあるんだって、 その信じる時、それを仏心、仏性と呼ぶ。 でもこれ大変なことで、そもそも自分の中に、自分自身の中に自分を導いてくれるものがあるって、 信じなければ前に進むことなんかできないですよね。 人間の心の中には全部あります。選ぶものは自分じゃないですか。 で、例えば、人間がやっぱり徹底的に悪だから、信じることができないから、 神や仏を信じるべきだ、自分はダメだから、人があるべきものを見つけて、その人の後をついていくんだっていう風に言う人がいるけど、 自分が相手、つまり神様や仏様を正しく見つけることができるかどうか。 やっぱりどこかで、いくら自分の外に導いてくれる人を置くとしても、正しくその人を見つけることができるかどうかと考えたら、 最後、究極的には、自分の中に自分を導いてくれるものがちゃんとあるって、素晴らしいものがあるってことを信じなければ、何も始まらないってことになるんですよね。 だから、自分自身をちゃんと導いてくれるものが自分の中にあると思えば、大丈夫という考え方になる。 ないんだって、徹底的に罪人なんだって。だから、神仏の方から私の方を助けてくれるんだって、そう思う考え方もあるんだが、 でもその時、いろんなものが助けてあげるよって、救ってあげるよって、私たちにも寄ってきますよね。 それをどう選ぶことができるかって。最終的には、それを選ぶことも私たち人間にはできないんだって、それは神仏の働きなんだって思うことがあれば、 それが例えば、キリスト教の考え方にもなるし、それから一部の念仏を唱える浄土の教えの考え方にもなる。 徹底的に人間の無力というところから出発する宗教もあります。 でも、仏教とか念は、基本的に自分自身の心の奥底には、最終的には自分を導くものは自分の中にあるんだって、そういうものがあるって信じること。 仏教も含めてだけど、修行の宗教というのがあるんですよね。 それは自分自身を鍛えていって、道を求めていくって。 それから、何か自分はダメだから、もっとすごいものがある、素晴らしいものがあるって、究極の存在があると、その究極の存在を信じるという信仰の宗教というのが両方ある。 特に、この自分で修行していくという修行の宗教は、自分を信じるということが最初の第一関門なんですよね。 確かに信用できない、不安だって、自分自身って大事なことないって。 分かってるけど、でも自分を信じるところから始めるって。 授業図だったら、やっぱり授業図って確信を持って、出勤して仕事に行くわけじゃないんですよね。 後ろを振り返り、後ろを振り返り、あの絵を見ると、後ろを振り返るって、心配そうに慣れてますよね。 それでも、自分を信じるところから始めるって。 大説をしたり、ネットをしたり、不信感を持つかもしれないけど、でもやっぱり、信じるものが自分しかいないって。 やっぱり人間は生きる上では、自分自身の本能と直感を大事にして生きていくって。 これは、何をするにしても大事。特に仏陶に関しては、それが大事だって考えられるんですよね。 # 『十牛図』の活かし方 この温度と直感が、例えばその時は短いスパンディングで良い事でもやっているうちに違って立ってなったり、 あるいは自分に気が付かないうちに自分で自分を苦しめ、自分だけの目回りも苦しめって、 一個一個の動作は当たり前と思ってずっとやってるんだけど、気が付いたら全然自分の思う通りになってないって、 そんな状態になってしまう、迷ってしまうんですよね。 迷ってしまう時にも二種類ありますよね。 自分が迷っているって分かっていて、どうしていいか分からなくなってしまう、迷う場合と。 自分が自分を苦しめていて苦しくて仕方ない。 でもこの苦しみを前へ進めば楽になると思い込んでいて、迷います。自分を苦しめ続けてしまうような。 自分で迷っているわけじゃなくて、薄々と分かっていても迷っているわけじゃなくて、 やっててもやってても道が開からないような方へと自分で入っていってしまうようなやり方。 それからもっとひどい時には、自分はもう苦しいだけで分別で働くようになっちゃっていて、 これやれば、これやれば、これやればって何も考えないでいたずらやってるけど、 それが結果的に自分を苦しめるような状態になってしまう場合ってありますよね。 でもこの時も自分を導いているのは本能と直感じゃないですか。 だから自分を導いてくれる正しいものが心にあるんだと思う時には、本能と直感が出てくる根源は物心、物性と言う。 だけどそれが自分自身が苦しめる方に向かってしまう。 同じものが苦しめるように向かってしまう場合もある。 そういう時にはそれを本能、妄想と呼ぶんですよね。 そして無病と呼んだりしますよね。 その時には人間は欲望の塊だっていう。 でも欲望の塊っていう時に、欲望自体が悪いわけではないですよね。 それがわがままで自分を傷つけ、他人を傷つけられたものは悪い意味になるんだけど、 でもそれが自分を救い、人を救うようになるんだったら、それは悪いものではない。 欲望自体はニュートラルですよね。 しかも人間って欲望の塊ですよ。だって生存本能も欲望だし、 今お話ししたように、人間は誰もが本能と直感で生きるんだけど、 本能と直感って欲望とは関係じゃないですよね。 私たちは良いものも悪いものも、自分を導くものも、自分をダメージしていくものも、 大きくまとめて欲望と呼んでますよね。 欲望と呼んでるじゃないですか。 そしてその欲望を実現するために頑張るのが執着と呼んでる。 でもそれが自分を高めていくときには向上心になるわけじゃないですか。 心なしとか、ほつもない心とか呼んで、 それは修行と呼ぶじゃないですか。 でも同じものが欲望と執着って、本能と妄想の塊って呼ぶ。 同じものが百話中でガラッと変わる。 どこで見分けるかって。 見分ける方法は一つか。 普通はないですよね、結果を見るって。 結果どうだったかって。 ずっと気づいたらダメだったって。 こんな間なかったって。 あるいははっと気づいてよかったって思うって。 内緒的には答えが出てきないとなかなか分からない。 でも答えを待ってたら取り返しがつかないことがいっぱいある。 だから歩きながら歩きながら吟味をするって。 修行をするときに、道ってことを言うときにはその吟味が入ってるんですよ。 思いのままに生きるんだったら吟味なんかしないじゃないですか。 でも人生は道と思うんだったら 自分が思いのままに生きてる本能と直感に従っているこの生き方が そのうちのそのうちの逸れてないか? 自分の思い通りになってるか? 本当に自分を導いてくれてるか?ってことを吟味するために 道から逸れてるかどうか試すんですよね。 でもどの道が本当にいい道か分からないけど 少なくとも自分の今のその時その時の知恵の限りにおいて いい道なのかそうじゃないのかってことを 試しながら吟味しながら実験して継承しながら 考えながら確かめながら歩くわけですよ。 だから道ってことを言った瞬間に ただ何?やめこもに行くんじゃなくて 吟味しながら行くってことは言われている。 だから道を求める生き方っていうのは うちの周りながらうちの周りながら行くっていうことですよね。 そういう意味では慎重に慎重に丁寧に人生を送るってことが 道を求める生き方にはあるんですね。 柔術っていうのが10枚のステージに分かれているっていうのは その辺りにあるわけです。 人生はなかなか振り返って考えないんだけど 柔術ってその都度その都度その都度何か 自分の心が変化したり自分の立場が変化したり 自分の境地が変化したために 自分は今どの辺にいるんだろうか 本当に目的に従って目的に向かって歩けてるだろうかって 吟味するために10枚の絵が用意されている。 よくよく読んでいると柔術ってすごく穏やかじゃないですか。 つまりそれぐらい丁寧に丁寧に振り返りながら 自分の人生をちゃんと生きようって そういうのが道を生きるっていうことでもあるんですよね。 そういう意味で柔術を読むときには その絵を見て自分なりの考え方や感じ方 やっぱり直感と本能に従っていいんですけども 直感と本能に従って何か印象に残る絵があったら 自分の人生に比べてみて 自分はこういうステージかなこういうステージかな こういうステージかなって思いながら 柔術を読むって そういうことをしながら自分の立っている位置と これまで来た道、今目指している道 これから行く道を ちゃんと導いてくれているものかどうか 自分をちゃんと導いてくれるかどうか ということを試す、吟味して 振り消すために活用していければいいなって思っています。 そんな風に柔術を読んでいただきたいなという風に思うんですね。 # 終わりのあいさつ 今日も長い時間お来ていただきまして、 誠にありがとうございました。 どうぞ良い1日をお過ごしください。 もっと見る #人生を考える #貪瞋痴 #本能と直感 #道を求める生き方 禅僧と考える...日々の暮らしから人生までプレミアム放送配信中!00:101.初めのあいさつ03:572.本能と直感05:303.人が生きていくときには04:254.自分を信じること05:275.『十牛図』の活かし方00:096.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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