TOPライフスタイルメンタル・心理学禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで#561 禅の見方・考え方〜捨てる修行②13:30 4月28日 271再生 問題を報告する 再生する シェアする 引き続き、「捨てる修行」について考えます。AI目次禅の教えから学ぶ「捨てる」の本質「一人称・二人称・三人称」で考える捨てる難しさ物と心の関係性:深い思い出の行方傷つかずに手放すための準備とタイミング感情を手放し、関係性を再構築する心構えAI文字起こし(β版) # 初めのあいさつ おはようございます。 山梨県の甲州市、武田信玄公の母大寺、 エリンジの住職を務めております古川周健と申します。 今日もどうぞよろしくお願いいたします。 # 「捨てる」とは...一人称、二人称、三人称で考えると 今日は、禅の見方、考え方、機能に引き続き、捨てる修行についてお話ししたいと思います。 捨てるということで、まあ機能はなぜ捨てるのか。 たくさんいろんなものに取り囲まれてぐちゃぐちゃになっていると、何が大切なものかというのはわからないので、大切なものに気づくために整理するということも含めて捨てるというお話をしました。 ところが、実際に捨てるということをやってみようと思っても、なかなか難しいですよね。 断捨離という言葉が随分流行りまして、この断捨離というのは片付け術とはちょっと違うんですよね。 やっぱり、物を捨てるということの中に自分自身というのが現れていますので、その断捨離ということを実際に実行する上では、自分と向き合うことが必要なんですよね。 この自分と向き合うことが必要ということを、ちょっと掘り下げて考えてみたいと思うんですね。 捨てると一口に言うんですけれども、捨てることが非常に容易に簡単にできる場合と、そうではない場合が分かれてきますよね。 例えば、ゴミ、グズを捨てるとか、いらなくなったものを捨てるというときに、非常に簡単に簡単にささっと処分できてしまう場合があります。 こういうものはどうでもいいようなものですので、自分との関わりがそれほど深くないようなもの、そういうものは比較的捨てやすいですね。 よく、例えば、言葉を使うときに、一人称、二人称、三人称という言い方をしますよね。 一人称は私って、自分自身のことですよね。 二人称というのは、あなたというんだけど、自分と切っても切れない深い関わりの中にあるような人、あなたって。 その人の存在、その人の感じ方、考え方が、自分にとって無関係じゃなくて、自分とダイレクトに響くような関係性。 その人のことを喋るときには、二人称になる。 そして、三人称というのは、第三者、他人のことですよね。 だから、三人称というのは、比較的自分と距離がちゃんと取れる存在のときに使う言い回しになりますね。 そういうふうな、二人称というんだけども、その言葉を使うときの考え方をちょっと取り入れながら、それを補助性にして考えるとどうなるかというと、 三人称的な関わりをしているものについては、第三者的なものですよね。客観的な距離があるものに関しては、比較的捨てやすいんですね。 だけれども、例えば、思い入れがあるもの、二人称的な関係性のものを捨てるということは、とても難しくなりますよね。 例えば、大切な人との記念写真とか、大切な人と使っていたコップとか、大切な人の塊とか、なんかそういうものですよね。 自分にとって、ちゃんと自分の思いがある人、そういう人の思い出がくっついているようなもの、そういう人との時間が反映されているようなものって、 それは、急に捨てるのは難しくなってきますよね。 というのが、物を捨てるのは物だけじゃなくて、その物が代表しているような、その物が背負っているような、そういう自分自身との深い関わりも一緒に捨てなくならなくなるんです。 だから、二人称ぐらいの、二人称的なものに対して捨てるということをやるときには、実は物を捨てるって一方的に自分が相手を切り捨てるようなイメージなんだけれども、 そうじゃなくて、二人称的なものを考えると、その捨てるときに捨てるものに向ける刃というのは、自分にも張り返ってくるんですよね。 だから、自分の身を切られるような思いがやっぱりするわけです。だから、なかなか捨てられないんですよね。 で、その中でも特に、本当にそれこそ、自分にとっても大事なものって。 その捨てるものが、二人称的な関係性、例えば、二人称で思い浮かべるような相手、恋人でもいい、家族でもいい、そういう人と深くつながるようなものを捨てるときには、実はその中に自分の思い出がいっぱい詰まっていることがあるんですね。 そうすると、二人称というのは、一方では、物であるから、例えば、大事な人の愛用のコップを片身でもらったようなコップというのは、コップとしてはコップなんですよ。 ほんで、同じ柄のコップが売ってたりしますよね。そういう意味では、三人称的なものがつながっているんだけど、でも、その人が持っていて、その人からもらったという瞬間に、 同じ物質なのに、そこに二人称のことがくっついてくるって。実は、捨てるといっても、自分との関わりがあるからには、捨てることというのは、自分自身の中の整理ができていないと難しいわけですね。 だから、途端に思い入れのあるものを扱った瞬間に、刃が自分に向かうことを直面するから、だから捨てるって難しいんですね。 断捨離の時に難しいのもそうです。自分の身の回りのものの中で、どうでもいいものに囲まれているんだったら、捨てるのは楽だけど、もしもどうでもいいものばっかりだったら、捨てるのに苦労しないから、そんなゴミの山に囲まれたりすることはなかなか起きないですね。 でも、やっぱり捨てられないんですよね。そこにいろんな思いがまとわりついているんです。 特に二人称的なものというのは、やっぱり思いがまとわりつきやすくて、しかも私の好みというか、一人称的な好みとか好き嫌いとか、趣味のものというよりも、二人称の方が難しいですよね。 なぜかというと、やっぱり相手の人格を考えてしまうんですね。そのものにまつわる相手の存在ということを考えた時に、対等な人間ですからね。 自分の趣味だったり、自分のただのこだわりだったら、自分自身のことだし、自分の気持ちが変われば、それは自分のことだから判断ができるんだけど、相手というのは自分とは同じ存在だし、しかもその人が自分にとって大切な人であって、その人にまつわるものだったら、自分の勝手なことにはできないようなことが起きてきますよね。 そんなふうにして捨てるということは、実は捨てる時の刃、自分から切り離す時の刃というのは、自分にも向かうんだって、こういうことを理解するということは大事ですよね。 だから捨てるのは物質ではなくて、そこにまつわる思いも捨てるわけだから、思いが自分自身に向かう。つまり相手との関係性を切っちゃってもいいんだって思い切れば捨てることができるんだけど、相手との関係性が切れてなかったり、切れなかったり、切れたくなかったり。 例えばもう別れてしまって、もう会うことができないけれども、その人のことが大事だったりすると、その人の記憶がくっついているものって捨てたくなくなるんですよね。捨てたくないし、そのものを通じて相手とつながっているわけじゃないですか。だから難しいって。 だから捨てるという作業は、実は物との関係性であると同時に、自分自身の心との関係性であると同時に、さらに物を媒介とした誰かとの関わりでもあるって、そんなことが言えるんですね。 # 捨てるにもタイミングや捨て方がある だって、こんな風に考えてくると、どちらにしても簡単に捨てられるようなもの、どうでもいいようなものだったらともかくとして、ある程度大切なものが関わってくるって。 そうなると、捨てるってことは実は、やっぱりあくまでも自分との関わりの中でってことになりますね。 つまり、思いというものがあるから。思いというものは、物との関係性の間で自分と物を繋ぐものですからね。 物を切った瞬間に、その切ったことが自分に跳ね返ってくるわけだから、捨てることも関係性の一つなんですね。 よく考えていけば、やっぱり捨てた結果、それが自分にとって良くならなければいけないんですよ。 前回お話しした通り、捨てることによって大事なものが分かってくる。大事なものに気付くっていうことは良いことなんだけども、 例えばそうじゃなくて、今回できたような大切な思いのこもったものとの関係性においては、それを捨てることによって自分も傷つくわけですよ。 傷つくけど、あえて捨てなきゃならないときってあるわけじゃないですか。 じゃあどうするかというと、捨てることだけでは問題なきゃいけないんですよ。 捨てた瞬間に刃が自分に向かって、やっぱり自分の心も傷ついて血を流すんですね。 じゃあそこまでして、次のステージに進めるかどうかなんです。 だから、いつ捨てるか、どうやって捨てるかということに対しては慎重にならないと、結局勢いで腹が立ってるからっていうことで思い出の品なんかをバーッと捨てちゃうって、 それはずっと傷となって自分の心にわざかまって疼き続ける、傷となって疼き続けるということが起こりうるじゃないですか。 だからやっぱり大切なものを捨てるには、捨てるだけの準備ができてないといけないんです。 大事なことは、捨てるっていうのは、私たちは勢いに任せて捨てるときに、例えば相手の思いがつながっている、誰かの思いのあるものを気に入らないからバーッと捨てるって言うんだけど、 捨てた瞬間にやっぱり自分に血が降りかかる、自分からも血が出るって。 それはそんなふうに内外相にすると、結局は自分も疾病対象を食らうんです。 ということは、相手に対して、例えば自分と誰かの思い出の品を、相手に対する関係性が悪化してから捨てるような場合であっても、存在にバーンと切ると、 確かに相手に対して腹立ってるかもしれないけど、同時にその人と過ごした大切な時間に対して、やっぱりそれを簡単に切れるかというと、そんなことないですよね。 まあ人間というのは悲しい生き物だから、長い時間の中でこじれることがあるわけですよ。 そうするとこじれてしまったけれども、相手に対する尊重の気持ちがあるんだったら、やっぱり存在にはできないわけですね。 そうすると、思い出のものなんかを捨てながらならん時もある。捨てなければ前に進めない場合もある。 だけど捨て方や捨てるタイミングというのは慎重になるし、どこかで何かを捨てる時に、それは自分自身の人生の中のある大事な部分と向き合うことなんです。 物と向き合うということは、物の向こう側に大切な人間との関係性がある時には、その人を通じて自分自身と向き合ってるわけなんですよね。 だからやっぱり慎重になるべきだしって、なかなか捨てられない。捨てられないと捨てられないことで、どんどん自分を縛ってしまって前に進めないこともあるから、どこかで思い切って捨てなきゃならないんだけども、 でもそこで悩むのが人間だし、むしろ悩むべきということもあるんですよね。 それは悩むことは苦しいけれども、人間との出会いと別れを経験しながら、人間って成長していくわけだし、前へ進むわけですよね。 だから、私も今までいろんな経験があります。本当に大切な人だったけれども、考え方が違ったり、いろんなことで別れたりなかったことってありますからね。 その時に、やっぱりいろんなものを捨てたり、消耗したりということもあります。 それは丁寧に丁寧になすべきことなんですよね。 だからそういう意味で、大切なものごとって、やっぱり自分と向き合うことなんですよ。 どんなこともやっぱり自分と向き合うんですよね。 自分と向き合わずに済むことなんていうのは、どっちかというと人生においては大切なことなくて、 大切なことって、やっぱり最後はとことん自分と向き合うつもりでないといけないわけですよね。 私は捨てるということは、一方的に自分が消耗するということではなくて、関係性の結び直しだと思っているんです。 例えば、関係性ってどんどん動いていくじゃないですか。 うまくいかなくなった時に、そのものを捨てなきゃならないこと。 ものを捨てることによって、相手との関係を生産し、切るということが起きるんだけれども、 その時に前へ進むって、自分自身が前へ進むためには、関係性を結び直さなきゃならない。 その時に、不要意に、安易に、目の前から消すということはできない。 やっぱり一緒に過ごした時間や、深く関わっていて、その関わりの上で今の自分があって、 自分が成長するのに、その人との関係性があったわけだから、 どこかで関係性がこじれてしまったならば、 切るということも、前へ進むために、より良い関係性になるために、関係性を結び直す。 それは、遠ざけるという形で、あるいは捨てるという形で、関係性を結び直す。 どこまでも、どこまでも、人間というのは、関係性の中で生きていくわけですね。 だから、それを思いのままに、自由自在に操れるということは、あまり思わないほうがいいかもしれない。 だから、やっぱり一つ言えることは、どんなことも丁寧に、丁寧に、熟慮して考える。 感情に任せて、ワーッとやるということは、やっぱり、 しっぺ返しとして自分に返ってくることだということを、忘れてはならないように思います。 特に、捨てるという時には、やけを起こして勢いでやりがちですよね。 でもそれは、あまり良いことではないですよね。 辛いかもしれないけど、ちゃんと捨てることができるところまで、 自分の心の準備ができる、自分の心の準備ということを、しっかり見知られる必要があるなというふうに思います。 # 終わりのあいさつ さて、今日もお聞きいただきまして誠にありがとうございました。 どうぞ良い1日をお過ごしください。 もっと見る #捨てる修行 #禅の見方考え方 禅僧と考える...日々の暮らしから人生までプレミアム放送配信中!00:151.初めのあいさつ07:032.「捨てる」とは...一人称、二人称、三人称で考えると06:053.捨てるにもタイミングや捨て方がある00:084.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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