TOPライフスタイルメンタル・心理学禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで#562 禅の見方・考え方〜捨てる修行③16:06 4月29日 235再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次捨てる修行が教えてくれる「自分との対話」「足るを知る」は我慢か?禅の視点から紐解く欠乏感からの脱却、豊かな心への転換とは本当に大切なものは「得る」より「慈しむ」捨てることで得る「心の安心」と未来への道AI文字起こし(β版) # 初めのあいさつ おはようございます。山梨県の公衆誌、武田信玄公の母大寺、衛林寺の留職を務めております古川周券と申します。 今日もどうぞよろしくお願いいたします。 # 修行は我慢するためのものではない 今日は、「禅の身型・考え方・捨てる修行」の3回目になります。 今まで、捨てるということについて、2回お話ししてきました。 ともかく、禅の修行は捨てる修行と言われていますけれども、何で捨てるのかというと、 まずは、身の回りにあるごちゃごちゃしたものを整理するということですよね。 整理して減らしていくことによって、何が大切かということに気が付く。 身の回りのものはごちゃごちゃしちゃうと、目を引くもの、今は手近で便利なものに心を奪われて、 本当に大事なものは何かということを忘れてしまうんですよね。 それがまず、捨てる修行の入り口で大事なことですよね。 それからもう一つは、捨てるということ、身の回りを整理するときに、捨てやすいもの、捨てにくいものというのがあって、 実は捨てるということは、自分自身と向き合うことなんだということに気づかされるんですね。 だから、断捨離が自分と向き合うことだとよく言われますけれども、その通りですよね。 実際、自分で身軽にしようと思い立ってやっていくうちに、だんだんいろんなものを手に取って、 これ捨てようか捨てないかと悩んだりする過程の中で、いろんなことを思い出す。 ということは、その過程の中で自分自身の人生を振り返ったりしますよね。 それからやっぱり、捨てるということは単純に物を減らすとかじゃなくて、自分自身と向き合うことにならざるを得ない。 実は所有とか、捨てるとか、得るとか、失うとかということは、一つ一つが自分自身との関わりの中で生まれていくんです。 だから、いろんなことを得ることによっても自分は変わるけど、いろんなことを失ったり、捨てたりする中で自分は変わったりするんですよね。 そういうことに気づくということです。 だから、普段簡単に捨てると思っていることが、実は自分自身と向き合う作業だということがわかってくる。 だから最終的には、例えば捨てようと思うときに、まだまだ捨てることができない、捨てる準備ができないということがあるんです。 まだまだ学ぶことができない、得ることができないということももちろんあるんだけど、 実は捨てるということも自分の心の準備ができていないとできないということがわかってくる。 だから何気ないことをもっと心を使ってみて、もっと自分と向き合うチャンスが多いんだって、 何か大冗談に振りかぶって自分と会って振り返らなくても、ちょっとしたことの中に自分と向き合う、自分を見つめるという要素が隠れているということがわかるということがありますよね。 そんな話をしたわけです。 今日は3回目なので、ちょっと1回ここでまとめにしたいと思っているんですね。 そうやって捨てる修行をするというようなお話をしたんですけども、その先にどんなことを見ていったらいいかということ、 今回のこの捨てる修行についてのお話の狙いになるところを今日お話しようと思っているんですね。 捨ててどうするのか、あるいは捨てる修行の先に見えてくる世界はどうしたらいいかというと、 もうそれは実は一言で言っちゃうと、知足って仏教の言葉で言うと知足、足ることを知るって、そこに行き着くってことなんですね。 知足、足ることを知るって言うと、普通は例えば欲張らないとか、文相で満足するとか、あるいは節度ある生活をするとか、 あるいは捨てる修行とつながって考えるならば、物を減らしてミニマムに暮らしていくということ、そういう意味では製品の暮らしをするとなっていくんですけども、 実はそれって知足ということの理解の半分でしかないんですね。 どうしてかというと、例えば実際に欲張らない暮らし、文相で満足する暮らし、節度ある暮らし、製品の暮らしと言っても、 その中で本当に自分の心が弱かったなって思えるかって、そもそも捨てる修行っていうのは自分の心を養うためなんですよね。 だからこの捨てる修行の結果、苦しさが倍増して辛くなってしまったら長続きしないんです。 よく勘違いされるんですけど、修行って言うと何か辛いことっていうところしか見ないですね。 修行が辛いのは、どうして辛いかというと、それまでの生き方を変えるから、慣れてないことをするから、だから辛いわけです。 慣れてないことに慣れるまでの間は、やっぱり気持ちをつかわなきゃならない、真剣につかいますよね。だから辛いということがあります。 それからもう一つは、新しい考え方、新しい生き方をすると、その生き方を通じて何か得られるもの、 良かったなって思えるものの成果が見えるまで、時間がかかるわけですよ。 そうすると、新しい修行の暮らし、修行の暮らしには修行の暮らしの素晴らしさがあるんだけど、 その修行の素晴らしさというものに気づいて、それが自分のものになるまで時間がかかるんですね。 だからその間、結局何か慣れないことをさせられているだけで、全然得るものがないものだから、つまらないなって、失敗したなって思っちゃうんです。 で、知足に関してもそうなんですね。実は、何か欲張らないようにするとか、節度があるとかって言っているけれども、 その結果強くなっちゃったら知足ってうまくいかないんですよ。一時的にダウンサイジングしてコンパクトな暮らしをするんだけど、 何々また膨らんじゃったりってことがあったりしますよね。で、それはどうしてそうなるかというと、無理をするからっていうことがあるんです。 だけど、なぜ知足をするのかというと、無理して辛くなるために知足するわけじゃないんです。 それは修行が辛くするために、自分を痛めつけるためにやるものではないと同じことですよね。 その先にやっぱりやってみてよかったというのがちゃんとあるわけだから、そうすると単純に今思っている欲張らないとか、 無双だとか、節度とか製品ということ、その先に本当に喜びがあるのか、やってよかったということがあるのかって、 結局知足というのは我慢になっちゃいけないんですよ。ステル修行というのが我慢になっちゃったらいけないわけですね。 じゃあどういうことかというと、知足というのは実は一番大事なことは何かというと、物を減らしたりとか節度を持つということではないんです。 そうじゃなくて、足ることを知るという言葉の通りなんですよ。つまり欲望を減らすんじゃないんです。 ないないずくしの暮らしに満足することでもないんですよ。名前の通り知足なので、今既にあるもの、自分が既にあるものから考えようというんですね。 普通の考え方は、もっともっとと思っているから、足りない足りない足りない足りないから始まるわけですよ。 あれが欲しい、これが欲しい、あれが欲しいって。 普通の暮らしというのは欲望と執着の暮らしですから。欲望と執着の暮らしって、今ないものでもっと欲しい、もっと欲しいって。 今ないものを探す、今ないものを増やすというふうに、何から探す、何から探すという、欠乏の状態から物を考える習慣に基づいているわけです。 だけど知足との反対が違うんですよ。今既にあるものは何かって、自分が恵まれてて恵みをいただいているあるものは何だって既に手元に持っていて、 それが嬉しくて楽しくて喜びがあるよって、自分が持っているものを本当に喜び尽くしているのか、本当に活かし尽くしているのかってことなんですよ。 だから発想の転換が大事なんです。 # 捨てる修行の目指すところは... ですから、ステル修行と知足の関係で言うならば、まず最初に、今すでに自分が持っているものが好きなものだ、いいものだ、といっぱいあるわけですね。 恵まれているものがいっぱいあるわけですよ。私は山梨に住んでいると、田舎だから不便なこといっぱいあるでしょ、と言われるんだけど、 まあ確かに、不便なもの、ないものを探したらいっぱいありますよね。それは不便なばっかりですよ。 だから、ないものを探して欲しい、欲しい、というふうに思うからそう思うだけだけど、ないものから考えるのではなくて、あるものから考えると、どうだろうかって、 朝、鳥の鳴き声が聞こえて起きるって、朝早く起きて起きようとした時に、朝日が昇ってくるって、風がすがすがしいって、夜は外だときに星が綺麗だって、 もういっぱいいろんなことがあるんですよ。サワガニが歩いていて、蛍が飛んでって、恋がいてって、滝の音が聞こえてきてって、 もういろんないいものがいっぱいあるんですよね。もうすでに自分の心を喜ばせているものがいっぱいあるわけですよ。 だから、まず最初に何が大事かということを言うためには、目の周りのものを減らさなければならない。 目の周りにあるものの多くは、もっと欲しくなるように作ってあるわけですよ。 今、お店で売っている商品、私たちが買うことができるものというのは、もっと買って欲しいわけだから、買ったらもっと欲しくなるように作ってあるわけですよね。 あるいは、買い続けるようにしておかないと、商売にならないから、もっともっと、つまり足りないこと、次に欲しくなることを想定して、 ものが作ってあるから、そんなに囲まれていると、まず最初にものを考える時に、次、次って考える習慣になっているんですよね。 だから、まず最初にそういうものを減らしていって、本当に必要なものを探す。 本当に必要なものって実は、よく考えたら、本当に必要なものがあるわけですよね。 何も新しくどんどんどんどんやらなくても、本当に必要なものって何かって考えた瞬間に、 実はそんなの地道を挙げて、お金を持って買って、どんどんどんどん集めなくても、実は本当に大切なものって身近にいっぱいあるわけです。 だから、むしろ本当に大切なものって、得なきゃならないんじゃなくて、大切にせなきゃならないんですよ。 本当に必要なものが多くて、むしろ当たり前に近いんですよね。 空気もそう、健康もそう、人間関係もそう、信頼関係もそう。 当たり前にあるようなものだから、どうしても軽く見て、ないからそうにしちゃうんですよね。 だから、本当に大切なものの特徴っていうのは、得なきゃ、得なきゃって、もっともっとじゃなくて、今あるもの立ち止まって、 地味だけど当たり前のように、ないがしろにしても何にも起きないように見えるけどそうじゃなくて、立ち止まって、 丁寧に丁寧に、もっともっとって気持ちを一旦中断して、大切に大切に慈しむっていうことが必要なんですよね。 だからちょっと心の向きが違う。 で、ちょっとお話を戻りますけども、知足っていうのは、だからちゃんと大切なものがわかっていたら、何も、それ以上ものを捨てる必要がないわけです。 つまり、捨てる結果、本当に大事なものがわかって、しかももっともっとっていうのから自由になって、今あるもの、すでにあるもので、素晴らしいものがいっぱいあるよねって、 何か新しく求めなくても、いっぱい素敵なものがあるよねって、そんな風にものが見え始めたら、もう捨てる必要なんかなくなるんです。 そうじゃなくて、やっぱり今あるもの、こんなに素敵なものがあるからって、新しいものを手に入れようとして努力するのにはめてみたり立ち止まってみて、今あるものから十分喜んでみようよって、 その風に、もうすでに持っているもの、当たり前のものの中に喜びを見つけられ始めるって、それが知足なんですよ。 知足っていうことがわかると、心の安心も得られます。 どうしてかというと、よく例えば、世間的な言い方の知足っていうと、節制しなさいとか、身の丈を守りましょうとか、ちょっとお金の使い方を減らしましょうとかってなっちゃうけど、それじゃないですよね。 知足ってそうじゃなくて、心の問題だから、すでにあるもの、すでに自分が得ているもの、身近にあるもの、そういうものの素晴らしさに気づこうということだから、 逆に言うと、知足をすれば将来に対する不安はないんですよ。将来に対する不安って、実は足りなくなっているんじゃないかっていう不安から生まれるんですよね。 そうすると、将来に対する不安があって、ちょっと知足じゃ、ちょっと多めに貯蓄しとこうかな、多めに貯蓄しとこうかなって、将来に備えて貯めていこうと思うって、 もちろん人生設計としてお金を貯めておくとかってことは必要なんだけど、将来に対する不安を感じるのでどうしてかっていうと、それは足りない状態を想定しちゃうんですよ。 どうして足りない状態を想定したかっていうと、普段から足りなくなるように、足りなくなるようにって社会がなってるんです。消費社会の、それは口座ですよね。 そういうことのおかげで経済が大きくなって豊かな社会を作ったから、悪いことばっかりだと私は言いません。だけどそもそも、買えなくなったらどうしよう、流通が止まったらどうしよう、コロナの時ありましたよね。 だって、なってみないと分かんないのに、なくなったらどうしようっていうところが始まるんですよ。なくなったらどうしよう、だから今のうちに買っておこう、なくなったらどうしよう、だからたくさん蓄えておきましょうって。 でもなくなることが分かんないのに、まず最初になくなったらどうしようから始めちゃうんですよ。でもそれって考えてみたら変なことで、あらゆることになくなったらどうしようって考え始めたら生きていけませんよね。心配で心配で。 だからほとんど私たちはなくなったらどうしようなんて考えなくても生きてるんですよね。それで生きられるし。でも一番大事なものが何かってことが分かってれば、そんなのいつも買い続けなきゃならんものでもないし、 新しくもっともっとでもないですよね。だからもっともっとっていうことはどういうことかっていうと、もう足元を見てないんですよ。欲望と執着って足元を見ないで前ばっかり見てるから実はたくさん自分が持っていても気が付かないんです。 だから前ばっかり見て前ばっかり見て自分の足元見れてない状態が欲望と執着のもっともっとですよ。執着っていうのは前にいるのやめてまず足元を見ましょうって。 足元を見てちゃんと足元が分かってその上で一歩踏み出して。その上で一歩踏み出して。それから将来を見ようって。将来見てもいいんですよ。大きな欲望を持ったっていいんです。 でもまず最初に足元に地面がちゃんとあって自分がちゃんと歩けることって分かって、結果証拠してちゃんと一歩一歩一歩一歩大事なもの大事なもの大事なものを大事に守りながら、既にあるものを大切にしながら生きていって、その次その次その次って向かっていくのはいいんだけど、 その考え方の向きが逆転するってことです。足りないところから探していって、慌てて走って走って、得ていくんじゃなくて、既に自分が持ってて、今ある状態がどれだけ恵まれてて豊かであるか、それを生かしたらどんなに楽しいかって、何も新しいものを求めなくても、いくらでも喜ぶことができるよ、楽しむことができるよ、素敵なものがあるよってことに気づくようなものの考え方。 だから実は捨てるってことの実は価値ってどこにあるかって、実は捨てるっていうんじゃなくて垂れることを知る。捨てるってことはベクトルを逆にするんですよ。得ること得ること得ること得ること買うこと買うこと買うこと買うことって前へ前へ行って書き取り書き取りの動作を捨てるって今度は逆に反対に自分から跳ねつけて手前から手放すことじゃないですか。 だからまず最初にあまりにも物を捕まえようと思ってもがき続けてるからそれをやめて手放す方に行動を変えることで、はっと気づいたら手元に素敵なものがあることに気づくって、そういう思想の逆転、考え方の逆転ってことが捨てることの意味だし、その逆転した考え方の一番わかりやすい言葉が足ることを知るって既にあるもの。 既に私たちが恵まれてるってささいかもかもしれないけど実はお金で買えない素晴らしいものに囲まれてるってことに気づくってこの考え方の逆転をもたらすこと。だからこそ捨てる修行って気づきをもたらすから修行なんですよね。そんなことに思い出るわけです。 # 終わりのあいさつ さて、今日も長い時間お聞きいただきまして、誠にありがとうございました。 どうぞ、良い一日をお過ごしください。 もっと見る #捨てる修行 #禅の見方考え方 禅僧と考える...日々の暮らしから人生までプレミアム放送配信中!00:151.初めのあいさつ07:282.修行は我慢するためのものではない08:153.捨てる修行の目指すところは...00:094.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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#637 どこまでも己にとって返す~夢窓国師『夢中問答集』を読む(46)「是非の念と大悟」② 13分・9月8日・ 148再生AI目次他人の是非を越え自己へ帰れ徹頭徹尾「自分のため」の修行「自他」の区別以前の自分を掴む「お前は何者か」という深遠な問い途方に暮れる悩み、悟りへの一歩
#636 他人の是非を口にする前に~夢窓国師『夢中問答集』を読む(46)「是非の念と大悟」① 16分・9月7日・ 189再生AI目次他人の是非に悩む心の現実修行者への唯一の指摘「一両剣」他者の評価が示す自身の未熟さ自己向上を促す「良い点を見る」教え他人の言動が示す自己の内面とは
#635 禅の物語~葉落ちて根に帰す 六祖慧能大師(其の五) 14分・9月3日・ 205再生AI目次禅の革命者 六祖慧能大師とは仏を見出す鍵 自身の衆生を知れ葉落ちて根に帰す 慧能の死生観形式を排した最期の教えの真意言葉を超えた慧能禅の遺志とは
#634 一切を棄てるとは?~夢窓国師『夢中問答集』を読む(45)「悟入」 14分・9月2日・ 212再生AI目次心の捉えどころない性質消えない記憶と煩悩の根源「一切放下」が示す悟りの本質達磨大師が語る「心牆壁」不完全でも歩み続ける境地