#279 記号接地問題を理解する メルロ=ポンティ『知覚の現象学』
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教育哲学者の苫野一徳ゼミで読んだメルロ=ポンティ『知覚の現象学』のレポートです。
■本の背景
本題に入る前に、そもそも「現象学」とは何か、そしてメルロ=ポンティとはどんな人物だったのかを、簡単に触れます。
現象学を最初に打ち立てたのは、フッサールというドイツの哲学者です。フッサールは、世界がどうなっているかをあれこれ理論立てて説明する前に、まず「私たちにどう現れているか」をそのまま丁寧に見つめ直そう、と考えました。理論や先入観をいったん脇に置いて、経験そのものに立ち返る。これが現象学の基本の姿勢です。
メルロ=ポンティは、1908年に生まれ、1961年に53歳という若さで亡くなったフランスの哲学者です。フッサールの現象学を受け継ぎながら、それをさらに一歩進めた人物で、フッサールがどちらかというと意識の働き方そのものに関心を向けていたのに対して、メルロ=ポンティは「その意識は、いつも身体を持った状態でしか働かない」という点に光を当てました。
世界を経験しているのは、宙に浮いた純粋な意識ではなく、いつも身体を通してしか世界に関われない、生身の私たちである。この視点を持ち込んだことが、メルロ=ポンティのいちばん大きな仕事だったと言われています。
同じ時代を生きたサルトルやボーヴォワールとも親交があり、実存主義と呼ばれる流れの中で活動しました。哲学の教授として大学で教えるかたわら、絵画や言語、政治といった幅広いテーマにも関心を向けています。『知覚の現象学』は1945年に出版された、彼の代表作にあたる一冊です。
こうした背景を知ったうえで読むと、この本がなぜ「身体」にあれほどこだわるのか、その理由が少し見えてきます。
■いま、なぜ身体論なのか
生成AIに質問すれば、たいていのことは言葉ですぐに返ってくる時代になりました。分からないことがあれば検索し、知りたいことは画面の中で完結する。便利になった一方で、私たちは一日のうちどれくらいの時間、自分の身体で世界に触れているでしょうか。画面を見て、指でタップして、言葉のやりとりだけで一日が終わっていく。そんな感覚を持つ人は少なくないはずです。
今、特に教育の世界で「記号接地問題(シンボルグラウンディング問題)」が注目されています。これは言葉や記号(シンボル)が、現実世界の対象や身体的な経験・感覚とどのように結びつき、意味を持つようになるのかという認知科学やAIにおける課題です。1990年に哲学者・認知科学者のスティーヴン・ハーナッド(Stevan Harnad)が提唱しました。
情報やAIがどれだけ賢くなっても、埋まらないものがある。それは「言葉で分かる」ことと「体で分かる」ことのあいだにある、大きな溝です。自転車の乗り方をどれだけ言葉で説明されても、実際に乗れるようにはなりません。この、言葉より先に働いている身体の知恵こそ、メルロ=ポンティが70年以上前に取り組んだテーマでした。今だからこそ、この本を読む意味があります。
■本の全体像
この本がどんな順番で進んでいくのかをざっくりとらえます。
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序文では、これから何をしようとしているのかが宣言されます。学問がすでに前提にしてしまっている「世界の見方」より前にある、生の経験そのものに戻ろう、という宣言です。
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序論では、これまでの二つの立場、感覚をパーツの集まりとして考える立場と、頭の中の判断で世界を組み立てると考える立場、その両方が批判されます。どちらも、実は同じ落とし穴にはまっている、というのが今回読むところの核心です。
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第一部では、いよいよ「身体」が主役になります。身体はモノでもなければ、頭の道具でもない、不思議な存在だということが語られていきます。
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第二部では、その身体を通して見えてくる世界そのもの、モノや空間、他人という存在が扱われます。
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第三部では、時間や自由、「私」とは何かという、もっと大きな問いに向かっていきます。
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つまりこの本は、「見る」というごく普通の出来事から出発して、最後には「生きるとはどういうことか」という問いにまでたどり着く、長い旅なのです。
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そして単なる知覚の理論であると同時に、近代科学がもつものの見方そのものへの批判でもあります。科学は、世界を計測できる出来事の集まりとして捉え、身体さえも、歯車やレバーの集まりのような、ひとつの機械として説明しようとします。この後見ていく経験論も主知主義も、実はどちらも、この科学的な世界の見方をそのまま土台にしています。この本は、知覚という経験を丁寧に見つめ直すことで、科学がその前提にしてしまっている考え方そのものを問い直そうとしています。
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■経験論と主知主義、ふたつの立場を詳しく見てみる
序論を読み進めるうえで、鍵になるのが「経験論」と「主知主義」というふたつの立場です。この本は、ずっとこのふたつを相手に議論を進めていくので、少し詳しく整理します。
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経験論というのは、すべての知識は、五感などの「経験」から始まると考える立場です。心は最初は「白板(タブラ・ラサ)」であり、外界からの刺激や感覚が書き込まれることで知識が生まれるとします。目や耳といった感覚器官が、外の世界から届く刺激をひとつひとつ受け取り、それが積み木のように組み合わさって、複雑な知覚ができあがる、という考え方です。この立場では、世界はすでに、光の波長や音の周波数といった物理的な出来事の集まりとして存在していて、私たちの意識は、それをそのまま受け取る、いわば記録係のような役割だとされます。
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一方の主知主義は、知性や理性、意識の働きを重視し、認識の枠組みや判断における理性の先天的働き(観念)を優位に置く立場です。感覚器官に届いた刺激はまだ形の定まらない、いわば生の素材にすぎず、それに秩序を与え、意味のある対象として組み立てるのは、頭の中の判断の働きだ、という立場です。
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一見すると、この二つはまったく逆の立場に見えます。経験論は受け身、主知主義は能動的。しかしメルロ=ポンティは、この二つが実はまったく同じ前提を共有していることを見抜きます。それは、世界とは、すでにできあがった、はっきりとした性質の集まりであり、そこに意識がどう関わるか、そのまま受け取るか、それとも判断を加えて組み立てるか、その違いでしかない、という前提です。どちらの立場も、知覚が最初から意味をもって、ひとまとまりのものとして立ち現れてくるという、いちばん肝心な経験そのものを、うまく説明できずにいるのです。
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苫野先生は、主知主義の考え方を確かめる例としてよく使われる「蜜蝋」について触れました。蜜蝋は熱を加えると溶けて、色も形もすっかり変わってしまいますが、それでも私たちは「同じ蝋だ」と判断できます。デカルトは、これは目や手で確かめているのではなく、頭の中の認識のはたらきのおかげだと考えました。しかしメルロ=ポンティに言わせれば、私たちはそのつど判断を下しているというより、蝋が変化していく様子そのものを、すでに生きてしまっているのです。この感覚を指す言葉として「生きられた世界」という表現が苫野先生と参加者の間でたびたび話題になりました。もっと深めていきたい言葉です。
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■世界にすでに巻き込まれている私たち
メルロ=ポンティは言います。人は、世界というものを外から眺めているのではなく、すでに世界の中に巻き込まれていて、その中で初めて自分自身のことも分かるようになる、と。
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これは、当たり前すぎて逆に見過ごされがちなことです。私たちは、自分がどこかにポツンと立っていて、そこから世界を観察している、というイメージを持ちがちです。でも実際には、生まれたときからすでに世界のただ中にいて、そこから抜け出して外から眺めることなど一度もしたことがありません。
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この「すでに巻き込まれている」という感覚を、理屈ではなく、そのまま丁寧に描き出そうとしています。この姿勢は、身体さえも計測できるモノとして外側から説明しようとする、機械論的な生理学への異議申し立てでもあります。世界の中に巻き込まれた身体は、外から眺められる機械ではなく、内側から経験されているものだからです。
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経験論と主知主義、このふたつは対立しているように見えますが、実は同じ思い込みを共有しています。世界はすでにできあがった、はっきりとした性質の集まりであり、知覚はそれをそのまま受け取るか、頭の中で組み立てるか、そのどちらかしかない、という思い込みです。
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こお本でが探ろうとしているのは、その両方が見落としている、もうひとつの道です。受け身でもなく、頭だけで作り上げるのでもなく、身体を通して、すでに意味をもって立ち現れてくる世界というものです。
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■身体が知っていること
身体の知性について、自転車に乗れるようになる瞬間を例にしてみます。ハンドルを何度傾けて、重心をどう動かして、なんて計算しながら乗れるようになった人はいません。何度も転びながら、気がついたら乗れるようになっています。しかも乗れるようになったあと、その乗り方を言葉で説明してと言われても、うまく説明できません。頭で分かっていることと、体で分かっていることは、まったく別の種類の「分かる」なのです。
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長年使っている道具にも、同じことが起きます。PCを使いこなしている人にとってキーの配置は「覚えている」というより、指がすでに知っている、という感覚に近いはずです。たとえば目の不自由な方にとっての白杖は、杖の先が触れているものはまるで自分の指先のように感じられます。白杖はもはや道具というより、身体の一部として世界に触れるための窓口になっています。
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これは単なる反復による自動化ではありません。身体そのものが、頭を経由せずに、その場の状況の意味を直接つかみ取っている、ということです。身体は、頭が計算して初めて世界を理解するのを待っているわけではなく、身体そのものが、すでにひとつの分かり方を持っています。これが、本のいちばん大事な発想です。
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■実はとても身近なこと
コンピュータに「りんご」という言葉を教えて、それを「赤い」「丸い」「果物」「甘い」といった、他の言葉と結びつけることはできます。でも、そうやって言葉と言葉をいくら結びつけても、コンピュータは本当に「りんご」がどういうものか、分かったことになるのでしょうか。言葉というのは結局、別の言葉を指しているだけで、どこにも現実という地面に足がついていないのではないか。これが記号接地問題です。
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メルロ=ポンティいわく、意味というものは、まず身体を通して世界に足をつけています。赤ちゃんが「りんご」を理解できるようになるのは、辞書の定義を覚えるからではありません。それをつかみ、口に入れ、匂いをかぎ、何度も出会うという、身体を通した経験の積み重ねがあるからです。言葉や概念は、そうした身体の経験の上に、あとから乗っかってくるものです。
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言葉や記号だけでは、世界に足をつけることはできません。世界に足がつくのは、身体が世界の中で動き、何かに触れ、習慣を身につけることによってです。メルロ=ポンティは、これをコンピュータが登場するよりもずっと前に主張していました。
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実は「見る」「触れる」「乗れるようになる」といった、私たちが毎日やっていることには足場があります。むずかしい言葉の向こうに、案外身近な発見が待っているのが、この本のおもしろいところです。
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また時間をおあけて読み込んでいく予定ですが、うまくまとめられるようになったらまたアップデートします。記憶の整理・定着にお付き合いいただき、ありがとうございました!
■本の背景
本題に入る前に、そもそも「現象学」とは何か、そしてメルロ=ポンティとはどんな人物だったのかを、簡単に触れます。
現象学を最初に打ち立てたのは、フッサールというドイツの哲学者です。フッサールは、世界がどうなっているかをあれこれ理論立てて説明する前に、まず「私たちにどう現れているか」をそのまま丁寧に見つめ直そう、と考えました。理論や先入観をいったん脇に置いて、経験そのものに立ち返る。これが現象学の基本の姿勢です。
メルロ=ポンティは、1908年に生まれ、1961年に53歳という若さで亡くなったフランスの哲学者です。フッサールの現象学を受け継ぎながら、それをさらに一歩進めた人物で、フッサールがどちらかというと意識の働き方そのものに関心を向けていたのに対して、メルロ=ポンティは「その意識は、いつも身体を持った状態でしか働かない」という点に光を当てました。
世界を経験しているのは、宙に浮いた純粋な意識ではなく、いつも身体を通してしか世界に関われない、生身の私たちである。この視点を持ち込んだことが、メルロ=ポンティのいちばん大きな仕事だったと言われています。
同じ時代を生きたサルトルやボーヴォワールとも親交があり、実存主義と呼ばれる流れの中で活動しました。哲学の教授として大学で教えるかたわら、絵画や言語、政治といった幅広いテーマにも関心を向けています。『知覚の現象学』は1945年に出版された、彼の代表作にあたる一冊です。
こうした背景を知ったうえで読むと、この本がなぜ「身体」にあれほどこだわるのか、その理由が少し見えてきます。
■いま、なぜ身体論なのか
生成AIに質問すれば、たいていのことは言葉ですぐに返ってくる時代になりました。分からないことがあれば検索し、知りたいことは画面の中で完結する。便利になった一方で、私たちは一日のうちどれくらいの時間、自分の身体で世界に触れているでしょうか。画面を見て、指でタップして、言葉のやりとりだけで一日が終わっていく。そんな感覚を持つ人は少なくないはずです。
今、特に教育の世界で「記号接地問題(シンボルグラウンディング問題)」が注目されています。これは言葉や記号(シンボル)が、現実世界の対象や身体的な経験・感覚とどのように結びつき、意味を持つようになるのかという認知科学やAIにおける課題です。1990年に哲学者・認知科学者のスティーヴン・ハーナッド(Stevan Harnad)が提唱しました。
情報やAIがどれだけ賢くなっても、埋まらないものがある。それは「言葉で分かる」ことと「体で分かる」ことのあいだにある、大きな溝です。自転車の乗り方をどれだけ言葉で説明されても、実際に乗れるようにはなりません。この、言葉より先に働いている身体の知恵こそ、メルロ=ポンティが70年以上前に取り組んだテーマでした。今だからこそ、この本を読む意味があります。
■本の全体像
この本がどんな順番で進んでいくのかをざっくりとらえます。
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序文では、これから何をしようとしているのかが宣言されます。学問がすでに前提にしてしまっている「世界の見方」より前にある、生の経験そのものに戻ろう、という宣言です。
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序論では、これまでの二つの立場、感覚をパーツの集まりとして考える立場と、頭の中の判断で世界を組み立てると考える立場、その両方が批判されます。どちらも、実は同じ落とし穴にはまっている、というのが今回読むところの核心です。
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第一部では、いよいよ「身体」が主役になります。身体はモノでもなければ、頭の道具でもない、不思議な存在だということが語られていきます。
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第二部では、その身体を通して見えてくる世界そのもの、モノや空間、他人という存在が扱われます。
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第三部では、時間や自由、「私」とは何かという、もっと大きな問いに向かっていきます。
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つまりこの本は、「見る」というごく普通の出来事から出発して、最後には「生きるとはどういうことか」という問いにまでたどり着く、長い旅なのです。
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そして単なる知覚の理論であると同時に、近代科学がもつものの見方そのものへの批判でもあります。科学は、世界を計測できる出来事の集まりとして捉え、身体さえも、歯車やレバーの集まりのような、ひとつの機械として説明しようとします。この後見ていく経験論も主知主義も、実はどちらも、この科学的な世界の見方をそのまま土台にしています。この本は、知覚という経験を丁寧に見つめ直すことで、科学がその前提にしてしまっている考え方そのものを問い直そうとしています。
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■経験論と主知主義、ふたつの立場を詳しく見てみる
序論を読み進めるうえで、鍵になるのが「経験論」と「主知主義」というふたつの立場です。この本は、ずっとこのふたつを相手に議論を進めていくので、少し詳しく整理します。
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経験論というのは、すべての知識は、五感などの「経験」から始まると考える立場です。心は最初は「白板(タブラ・ラサ)」であり、外界からの刺激や感覚が書き込まれることで知識が生まれるとします。目や耳といった感覚器官が、外の世界から届く刺激をひとつひとつ受け取り、それが積み木のように組み合わさって、複雑な知覚ができあがる、という考え方です。この立場では、世界はすでに、光の波長や音の周波数といった物理的な出来事の集まりとして存在していて、私たちの意識は、それをそのまま受け取る、いわば記録係のような役割だとされます。
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一方の主知主義は、知性や理性、意識の働きを重視し、認識の枠組みや判断における理性の先天的働き(観念)を優位に置く立場です。感覚器官に届いた刺激はまだ形の定まらない、いわば生の素材にすぎず、それに秩序を与え、意味のある対象として組み立てるのは、頭の中の判断の働きだ、という立場です。
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一見すると、この二つはまったく逆の立場に見えます。経験論は受け身、主知主義は能動的。しかしメルロ=ポンティは、この二つが実はまったく同じ前提を共有していることを見抜きます。それは、世界とは、すでにできあがった、はっきりとした性質の集まりであり、そこに意識がどう関わるか、そのまま受け取るか、それとも判断を加えて組み立てるか、その違いでしかない、という前提です。どちらの立場も、知覚が最初から意味をもって、ひとまとまりのものとして立ち現れてくるという、いちばん肝心な経験そのものを、うまく説明できずにいるのです。
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苫野先生は、主知主義の考え方を確かめる例としてよく使われる「蜜蝋」について触れました。蜜蝋は熱を加えると溶けて、色も形もすっかり変わってしまいますが、それでも私たちは「同じ蝋だ」と判断できます。デカルトは、これは目や手で確かめているのではなく、頭の中の認識のはたらきのおかげだと考えました。しかしメルロ=ポンティに言わせれば、私たちはそのつど判断を下しているというより、蝋が変化していく様子そのものを、すでに生きてしまっているのです。この感覚を指す言葉として「生きられた世界」という表現が苫野先生と参加者の間でたびたび話題になりました。もっと深めていきたい言葉です。
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■世界にすでに巻き込まれている私たち
メルロ=ポンティは言います。人は、世界というものを外から眺めているのではなく、すでに世界の中に巻き込まれていて、その中で初めて自分自身のことも分かるようになる、と。
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これは、当たり前すぎて逆に見過ごされがちなことです。私たちは、自分がどこかにポツンと立っていて、そこから世界を観察している、というイメージを持ちがちです。でも実際には、生まれたときからすでに世界のただ中にいて、そこから抜け出して外から眺めることなど一度もしたことがありません。
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この「すでに巻き込まれている」という感覚を、理屈ではなく、そのまま丁寧に描き出そうとしています。この姿勢は、身体さえも計測できるモノとして外側から説明しようとする、機械論的な生理学への異議申し立てでもあります。世界の中に巻き込まれた身体は、外から眺められる機械ではなく、内側から経験されているものだからです。
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経験論と主知主義、このふたつは対立しているように見えますが、実は同じ思い込みを共有しています。世界はすでにできあがった、はっきりとした性質の集まりであり、知覚はそれをそのまま受け取るか、頭の中で組み立てるか、そのどちらかしかない、という思い込みです。
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こお本でが探ろうとしているのは、その両方が見落としている、もうひとつの道です。受け身でもなく、頭だけで作り上げるのでもなく、身体を通して、すでに意味をもって立ち現れてくる世界というものです。
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■身体が知っていること
身体の知性について、自転車に乗れるようになる瞬間を例にしてみます。ハンドルを何度傾けて、重心をどう動かして、なんて計算しながら乗れるようになった人はいません。何度も転びながら、気がついたら乗れるようになっています。しかも乗れるようになったあと、その乗り方を言葉で説明してと言われても、うまく説明できません。頭で分かっていることと、体で分かっていることは、まったく別の種類の「分かる」なのです。
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長年使っている道具にも、同じことが起きます。PCを使いこなしている人にとってキーの配置は「覚えている」というより、指がすでに知っている、という感覚に近いはずです。たとえば目の不自由な方にとっての白杖は、杖の先が触れているものはまるで自分の指先のように感じられます。白杖はもはや道具というより、身体の一部として世界に触れるための窓口になっています。
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これは単なる反復による自動化ではありません。身体そのものが、頭を経由せずに、その場の状況の意味を直接つかみ取っている、ということです。身体は、頭が計算して初めて世界を理解するのを待っているわけではなく、身体そのものが、すでにひとつの分かり方を持っています。これが、本のいちばん大事な発想です。
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■実はとても身近なこと
コンピュータに「りんご」という言葉を教えて、それを「赤い」「丸い」「果物」「甘い」といった、他の言葉と結びつけることはできます。でも、そうやって言葉と言葉をいくら結びつけても、コンピュータは本当に「りんご」がどういうものか、分かったことになるのでしょうか。言葉というのは結局、別の言葉を指しているだけで、どこにも現実という地面に足がついていないのではないか。これが記号接地問題です。
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メルロ=ポンティいわく、意味というものは、まず身体を通して世界に足をつけています。赤ちゃんが「りんご」を理解できるようになるのは、辞書の定義を覚えるからではありません。それをつかみ、口に入れ、匂いをかぎ、何度も出会うという、身体を通した経験の積み重ねがあるからです。言葉や概念は、そうした身体の経験の上に、あとから乗っかってくるものです。
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言葉や記号だけでは、世界に足をつけることはできません。世界に足がつくのは、身体が世界の中で動き、何かに触れ、習慣を身につけることによってです。メルロ=ポンティは、これをコンピュータが登場するよりもずっと前に主張していました。
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実は「見る」「触れる」「乗れるようになる」といった、私たちが毎日やっていることには足場があります。むずかしい言葉の向こうに、案外身近な発見が待っているのが、この本のおもしろいところです。
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また時間をおあけて読み込んでいく予定ですが、うまくまとめられるようになったらまたアップデートします。記憶の整理・定着にお付き合いいただき、ありがとうございました!
昼スナママ・フィッシュ明子の役にたたなくてもいいラジオ
フィッシュ 明子
- 00:161.
タイトルコール
- 08:292.
経験論と主知主義
- 05:553.
難解な言葉の向こうに、案外身近な発見が待っている
コメント

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今こそ読むべき本だと感じました。
私たちはインターネットがなかったから、不自由に、限られた世界でさまざまな体験をできていた。その記憶は体に残っています。今考えると、幸せなことだったのかもしれないなと思ったりします。
言葉(専門用語)で表現された「哲学」が身近に感じられました。思考で本質観取する哲学者はすごいですね。
科学が正義と刷り込まれてきましたが、科学は過去の現象を今の技術で観察しただけ。ようやく最近、多細胞生物であるヒトは、脳腸相関などのミクロでダイナミックな仕組みで生きていることがわかってきたと聞いたことがあります。
だからこそ、五感に注力しそれを信じて「今」に意識を向け感じることで、周りに振り回されず、どっしり落ち着いてすごせるのかもしれないと思いました。
最近は私もネットなどの比重が多くなってしまっているので、だからこそ人に会いに行くということを大事にしたいなと思っています。
いつもありがとうございます😄