#282 人を見た目で判断してはいけない
18:24
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「社会課題解決」という言葉を見ると、いつもちょっと苦しくなります。
大学で社会課題をビジネスで解決する「ソーシャルビジネス」の研究機関にいる時から気になっていたことですが、当事者と解決者はきれいに分かれるものではないし、特に学校教育では困っている人・マイノリティがいて、それを力のある人・マジョリティが助けるという構造に、簡単に落ち着いてほしくないと感じます。
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私にとっての「多様性」は、自分の外側にたとえば障害者だとかLGBTQといった「マイノリティ」と呼ばれる人たちを区別してラベリングすることではありません。自分自身の見たくない、見せたくない部分、怖れや暗い部分を見てくこと。自分のマイノリティ性を認知していいくことが、他者を、そして多様性を理解していくことにつながると思っています。
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なぜなら、自分のマジョリティ性やマイノリティ性というのは、環境や状況によって、常に流動的だからです。
たとえば私自身、日常生活で日本人であるとか、仕事をしているとか、健康であるとか、結婚しているか、子どもがいるといった点で摩擦を感じる要素は少ないのかもしれません。
でも海外に行けば、アジア人であることや、その国の言語が話せないこと、文化を知らないことで、マイノリティになります。
家父長制のシステムで回っているこの社会において、パワーをもちやすいのは年齢を重ねた男性が多いので、マジョリティ性を強め、マイノリティ性を消していくことが、社会で生き残る力を得るために必要なプロセスになっていたりします。
でもそんな彼らも、うっかり女性の多い流行りのカフェにひとりで入ればマイノリティになりますし、急に病気や事故で体が不自由になるかもしれません。なんらかの事情で必至で登ってきた階段を、思いがけず転落することもあるかもしれません。その可能性はいつだって誰にでもある。固定された「マジョリティ」なんて、本当は存在しないわけです。
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けれど、自分をマジョリティだと信じて疑わない人は、自分がマイノリティになる可能性があることを否定している。それは、自分自身の解像度が低いからでしょう。
生徒さんたちも学校の隠れたカリキュラムで無意識のうちに価値観や行動様式を学んでしまい、自分のマイノリティ性やマジョリティ性が固定されたものだと思い込まされているのではないか。だからこそ教育の場で「社会課題解決」という言葉が、すんなり出てきてしまうのではないかとも思います。
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ちなみに、マジョリティとマイノリティという言葉について。
マジョリティはいわゆる多数派、マイノリティは少数派と言われますが、簡単に言えば、マジョリティは自分の「普通」と社会の「普通」が一致していて、そこに摩擦がない状態。マイノリティは、自分の「普通」と社会の「普通」が一致せず、摩擦がある状態のことを指します。
これはDE&Iコンサルタントである武田緑さんの著書『初めての学校DE&I』からの引用ですが、マジョリティとマイノリティは多数派・少数派という「数」の問題として語られがちだが、実は人数の問題よりも「力関係」の問題です。組織やコミュニティ、社会において影響力や権力を誰が持っているか。
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たとえばクラスで子どもが30人に対して先生が1人だとすれば、数の上では子どもの方が多い。しかし実は子どもはいつもマイノリティです。なぜなら、何かを決めて実行する決定権、パワーを持っているのは大人でありパワーを持つ先生だから。
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先日、高校の授業で話させていただいた「多様性というのはマイノリティを確立してラベリングすることではなく、私たち全員のことを指しているということ」。全員が当事者であり、全員がマイノリティ。そして、自分のマイノリティ性を認知していくために、昼スナではエンターテインメントや対話など、さまざまな方法を使って実践している、という話は、かなり情報量が多かったと思いますが、さすが今の高校生は日々大量の情報を摂取しているからか、しっかり受け取ってくれている様子でした。
しかし情報を大量に摂取するのは、呼吸で言えばずっと息を吸っている状態のようなもので、吐く時間が必要。それで最後に5、6分ほど時間を取りました。250人もいる中で手を挙げて発表するのは、とても勇気の要ることだと思います。間違ったことを言うんじゃないか、変に思われるんじゃないか、と想像すると怖いもの。でも、その感情自体が、まさに自分のマイノリティ性そのものなのだ、というと、何人かが手を挙げて発言してくれました。
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おひとりは「自分には障害のある弟がいる。その弟にも行ける場所があると思うと、すごく嬉しかった」と話してくれました。そうやって自己開示してくれたことが、本当にありがたかったですし、「行ける場所」が街にもっと増えていくといいなと思います。
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この実施のあと、生徒さんたちが私に向けて応援メッセージを書いてくれました。学校で授業をすると、アンケートのようなものを送ってくださるところも多いですが、そこで書かれていることをあまり真に受けてはいけません。賢い彼らは、大人が言ってほしいことを察して書くので、子どもたちからの感想は、基本的には接待だと思っておいた方がいいと思っています。
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今回は文章だけでなくイラストなど好きなスタイルで表現してくれて、接待ではないであろう率直なものもたくさんあったので、ご紹介させてください。
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一番ときめいたのは「最初、ギャルい人だなと思ったけど、話し方もかわいらしかったから、見た目の偏見はよくないなと思いました」というものw
見た目については、私を名指しで呼んでくださる時、基本的には正装、つまり普段のスナックの格好で行くことにしています。今回は初めての場所ということで正装ではなく控えめにしたつもりだったのですが、それでも先生方が最初は目を合わせてくれませんでしたw
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事前に情報提供もさせていただきましたが、とはいえ「スナックのママ」を自称する人を学校に迎えるのは勇気がいることだと思います。演劇の授業もそうですが、私は外部からくるトリックスター的な存在が、学校という日常の世界に非日常を持ち込むことに意味があると思っているので、多少の摩擦は想定内。
そしてコーディネートしてくださった方いわく、体育館に向かう間にすれ違った生徒たちの反応は
①二度見する
②ガン見する
③目をそらす の三択でした。
生きざまを受け取ってもらえて、満足ですw
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応援メッセージの中には、こんな声もありました。
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「人に対してずるいという気持ちを言い合える場所があることにとても驚きました。私も気づかず人を傷つけてしまうことがないように、傷ついている人がいたら気づける人になりたい」
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「今回の話を聞いて私も社会福祉士になりたいなと思いました。一人ひとりと話すことを仕事にしたいです」
(ありがたいですが、私をロールモデルにするのは大丈夫でしょうか…)
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「自分が全力で生きていることで、誰かのためになるという話から、直接誰かに何かをしなくても、役に立とうとしなくても、自分は自分らしく生きていければいいんだなと思いました。人を分ける必要はなくて、人として生きればいい、と伝えているように感じました」
ㅤㅤ
「今まで多様性という言葉の意味だけ理解しているような感じだったけれど、いろいろな人がいる中で自分がやりたいことができる、それが今世の中で尊重されていることが多様性なんだと理解すると同時に、なんだか嬉しい気持ちになった」
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中には、こんな自己開示もありました。
「私も生まれつき心臓の病気があるので、かわいそうと思われることが多かったけれど、普通に接してほしいと思っていました」
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これに応えるように
「ひとりひとりがどんな気持ちで普段生活しているかを考えて、多様性だから、障害を持っているからといって接し方を変えたくない。むしろ普通に話しかけたほうが、相手も接しやすいと思う」という声もありました。
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「困っている人を助けることはとても大事だと思っていたが、それ以上に、困っている人を活躍させるという考えは自分の中にはありませんでした。数字や枠にとらわれず、自分だけの物差しを育てていきたい」
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そして一番うなったのが、
「自分主体じゃなくみんな主体でいい」という一言でした。
確かに自分がやりたかったのはそういうことだったのかもしれない、とリフレクションさせてもらいました。
ㅤㅤㅤ ㅤㅤㅤ
「いろんな特徴があったり失敗したりしても、やり直せたり社会で活躍できることを知ることができた」
「リスクを恐れずにやることの重要性を教えてもらった」という声も多く、私のやっていることはリスクと失敗が多いととらえられているのも面白かったですw
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昼スナ正装の似顔絵を描いて「洋服めっちゃかわいかったです」と添えてくれた方も。
そして半分くらいの生徒が「家族でお店に行きます」「行きたいです」と書いてくれたのも驚きでした。
まぁ接待ですけどね!
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生徒さんたちのメッセージを読んで少し気持ちが変わってくれたのか、目を合わせてくれなかった先生がたの中から、来年も来てほしいという声をいただいたそうですw
大学で社会課題をビジネスで解決する「ソーシャルビジネス」の研究機関にいる時から気になっていたことですが、当事者と解決者はきれいに分かれるものではないし、特に学校教育では困っている人・マイノリティがいて、それを力のある人・マジョリティが助けるという構造に、簡単に落ち着いてほしくないと感じます。
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私にとっての「多様性」は、自分の外側にたとえば障害者だとかLGBTQといった「マイノリティ」と呼ばれる人たちを区別してラベリングすることではありません。自分自身の見たくない、見せたくない部分、怖れや暗い部分を見てくこと。自分のマイノリティ性を認知していいくことが、他者を、そして多様性を理解していくことにつながると思っています。
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なぜなら、自分のマジョリティ性やマイノリティ性というのは、環境や状況によって、常に流動的だからです。
たとえば私自身、日常生活で日本人であるとか、仕事をしているとか、健康であるとか、結婚しているか、子どもがいるといった点で摩擦を感じる要素は少ないのかもしれません。
でも海外に行けば、アジア人であることや、その国の言語が話せないこと、文化を知らないことで、マイノリティになります。
家父長制のシステムで回っているこの社会において、パワーをもちやすいのは年齢を重ねた男性が多いので、マジョリティ性を強め、マイノリティ性を消していくことが、社会で生き残る力を得るために必要なプロセスになっていたりします。
でもそんな彼らも、うっかり女性の多い流行りのカフェにひとりで入ればマイノリティになりますし、急に病気や事故で体が不自由になるかもしれません。なんらかの事情で必至で登ってきた階段を、思いがけず転落することもあるかもしれません。その可能性はいつだって誰にでもある。固定された「マジョリティ」なんて、本当は存在しないわけです。
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けれど、自分をマジョリティだと信じて疑わない人は、自分がマイノリティになる可能性があることを否定している。それは、自分自身の解像度が低いからでしょう。
生徒さんたちも学校の隠れたカリキュラムで無意識のうちに価値観や行動様式を学んでしまい、自分のマイノリティ性やマジョリティ性が固定されたものだと思い込まされているのではないか。だからこそ教育の場で「社会課題解決」という言葉が、すんなり出てきてしまうのではないかとも思います。
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ちなみに、マジョリティとマイノリティという言葉について。
マジョリティはいわゆる多数派、マイノリティは少数派と言われますが、簡単に言えば、マジョリティは自分の「普通」と社会の「普通」が一致していて、そこに摩擦がない状態。マイノリティは、自分の「普通」と社会の「普通」が一致せず、摩擦がある状態のことを指します。
これはDE&Iコンサルタントである武田緑さんの著書『初めての学校DE&I』からの引用ですが、マジョリティとマイノリティは多数派・少数派という「数」の問題として語られがちだが、実は人数の問題よりも「力関係」の問題です。組織やコミュニティ、社会において影響力や権力を誰が持っているか。
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たとえばクラスで子どもが30人に対して先生が1人だとすれば、数の上では子どもの方が多い。しかし実は子どもはいつもマイノリティです。なぜなら、何かを決めて実行する決定権、パワーを持っているのは大人でありパワーを持つ先生だから。
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先日、高校の授業で話させていただいた「多様性というのはマイノリティを確立してラベリングすることではなく、私たち全員のことを指しているということ」。全員が当事者であり、全員がマイノリティ。そして、自分のマイノリティ性を認知していくために、昼スナではエンターテインメントや対話など、さまざまな方法を使って実践している、という話は、かなり情報量が多かったと思いますが、さすが今の高校生は日々大量の情報を摂取しているからか、しっかり受け取ってくれている様子でした。
しかし情報を大量に摂取するのは、呼吸で言えばずっと息を吸っている状態のようなもので、吐く時間が必要。それで最後に5、6分ほど時間を取りました。250人もいる中で手を挙げて発表するのは、とても勇気の要ることだと思います。間違ったことを言うんじゃないか、変に思われるんじゃないか、と想像すると怖いもの。でも、その感情自体が、まさに自分のマイノリティ性そのものなのだ、というと、何人かが手を挙げて発言してくれました。
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おひとりは「自分には障害のある弟がいる。その弟にも行ける場所があると思うと、すごく嬉しかった」と話してくれました。そうやって自己開示してくれたことが、本当にありがたかったですし、「行ける場所」が街にもっと増えていくといいなと思います。
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この実施のあと、生徒さんたちが私に向けて応援メッセージを書いてくれました。学校で授業をすると、アンケートのようなものを送ってくださるところも多いですが、そこで書かれていることをあまり真に受けてはいけません。賢い彼らは、大人が言ってほしいことを察して書くので、子どもたちからの感想は、基本的には接待だと思っておいた方がいいと思っています。
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今回は文章だけでなくイラストなど好きなスタイルで表現してくれて、接待ではないであろう率直なものもたくさんあったので、ご紹介させてください。
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一番ときめいたのは「最初、ギャルい人だなと思ったけど、話し方もかわいらしかったから、見た目の偏見はよくないなと思いました」というものw
見た目については、私を名指しで呼んでくださる時、基本的には正装、つまり普段のスナックの格好で行くことにしています。今回は初めての場所ということで正装ではなく控えめにしたつもりだったのですが、それでも先生方が最初は目を合わせてくれませんでしたw
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事前に情報提供もさせていただきましたが、とはいえ「スナックのママ」を自称する人を学校に迎えるのは勇気がいることだと思います。演劇の授業もそうですが、私は外部からくるトリックスター的な存在が、学校という日常の世界に非日常を持ち込むことに意味があると思っているので、多少の摩擦は想定内。
そしてコーディネートしてくださった方いわく、体育館に向かう間にすれ違った生徒たちの反応は
①二度見する
②ガン見する
③目をそらす の三択でした。
生きざまを受け取ってもらえて、満足ですw
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応援メッセージの中には、こんな声もありました。
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「人に対してずるいという気持ちを言い合える場所があることにとても驚きました。私も気づかず人を傷つけてしまうことがないように、傷ついている人がいたら気づける人になりたい」
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「今回の話を聞いて私も社会福祉士になりたいなと思いました。一人ひとりと話すことを仕事にしたいです」
(ありがたいですが、私をロールモデルにするのは大丈夫でしょうか…)
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「自分が全力で生きていることで、誰かのためになるという話から、直接誰かに何かをしなくても、役に立とうとしなくても、自分は自分らしく生きていければいいんだなと思いました。人を分ける必要はなくて、人として生きればいい、と伝えているように感じました」
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「今まで多様性という言葉の意味だけ理解しているような感じだったけれど、いろいろな人がいる中で自分がやりたいことができる、それが今世の中で尊重されていることが多様性なんだと理解すると同時に、なんだか嬉しい気持ちになった」
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中には、こんな自己開示もありました。
「私も生まれつき心臓の病気があるので、かわいそうと思われることが多かったけれど、普通に接してほしいと思っていました」
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これに応えるように
「ひとりひとりがどんな気持ちで普段生活しているかを考えて、多様性だから、障害を持っているからといって接し方を変えたくない。むしろ普通に話しかけたほうが、相手も接しやすいと思う」という声もありました。
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「困っている人を助けることはとても大事だと思っていたが、それ以上に、困っている人を活躍させるという考えは自分の中にはありませんでした。数字や枠にとらわれず、自分だけの物差しを育てていきたい」
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そして一番うなったのが、
「自分主体じゃなくみんな主体でいい」という一言でした。
確かに自分がやりたかったのはそういうことだったのかもしれない、とリフレクションさせてもらいました。
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「いろんな特徴があったり失敗したりしても、やり直せたり社会で活躍できることを知ることができた」
「リスクを恐れずにやることの重要性を教えてもらった」という声も多く、私のやっていることはリスクと失敗が多いととらえられているのも面白かったですw
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昼スナ正装の似顔絵を描いて「洋服めっちゃかわいかったです」と添えてくれた方も。
そして半分くらいの生徒が「家族でお店に行きます」「行きたいです」と書いてくれたのも驚きでした。
まぁ接待ですけどね!
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生徒さんたちのメッセージを読んで少し気持ちが変わってくれたのか、目を合わせてくれなかった先生がたの中から、来年も来てほしいという声をいただいたそうですw
昼スナママ・フィッシュ明子の役にたたなくてもいいラジオ
フィッシュ 明子
- 00:161.
タイトルコール
- 09:112.
固定化されたマジョリティなんてない
- 08:583.
二度見・ガン見・目をそらす
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