TOPビジネスキャリア前田れいこ/岡崎市議会議員『政治や介護や日々のこと』#26 私が介護をした時のこと30:27 2025年3月23日 209再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次突然の介護、家族の支えなき日々2人の子供と病院通い、誰にも言えず心身ともに疲弊、絶望の淵に解放感と罪悪感、介護家族の苦悩介護する人を支える社会へAI文字起こし(β版) # コメントありがとうございます♪ おはようございます。 岡崎市議会議員で、現役ケアマネージャーの前田玲子です。 政治や介護や日々のこと、今日もお届けしたいと思います。 いつもですね、コメントをいただいて、それを読みながら、結構励みになるんですね、このコメントをいただくの。 今日、初めてコメントをいただいた方がいらっしゃって、 ワイスターさんという方で訪問診療医をされている方なんですが、 その方が、初コメントですということで、 介護家族として、私が苦労されたことについて、前田さんの実体験をもう少し聞いてみたいです。よろしくお願いします。というコメントをいただきました。 これについて、私の介護をしたときのこと、お話できたらなと思います。 今日も聞いてみてください。よろしくお願いします。 # ある日突然介護が始まった はい、コメントを始めていきたいと思います。 産業ケアまでの話にもこれ通じてくるんですけれども、 そもそもね、私が市議会議員に立候補するとか、もともと前の話で、 自分が介護の仕事を志したというところに立ち返ってくるんですけれども、 私の母は59歳で亡くなったんです。 最後、介護をしました。 32歳の時かな、私が。 2人の子供がいて、4歳と2歳だったんだけれども、 その時の経験が今の活動とか、介護をする時の自分のスタンスとか、 そういうものにずっと貫いているんですよね。 つまり、介護をした時の介護家族の心の支えって実はないんですよね。 少し私自身の話をしますけれども、 59歳の母がある日突然ですね、自宅で動けなくなって、 それを同居の弟のお嫁さんが発見して、 なかなかお母さんが起きてこないなということで部屋を見に行ってくれたら、 もう意識が朦朧として、何を言っているかわけわからない状態で、 ベッドの上で湿巾をして、救急車で運ばれたんですよね。 その救急車で運ばれ、今から救急搬送しますっていうのを、 弟のお嫁さんから電話で連絡が来ました。 その時はまだ自分の子供が、私の子供が幼稚園の中3か上の子が、下の子が2歳。 ママ友と桜の時期で、ちょうど思い返す今ぐらいの時期だわ。 本当にこの3月の今日ぐらいじゃないかな、同じ日じゃないかな、今思い出したけど。 地元の公園でママ友と一緒に子供を遊ばせている時に、その電話が入ったの。 とりあえず帰るわって言って帰って、 お嫁さんも若かったから、救急車で運ぶって言って、救急病院に運ぶんじゃなくて、 すぐ近所の老人病院に運んだの。 理由は自分が自転車で行けるところで、遠いところだと私は行けないからって言って、 最初に運んだところが老人病院だったんだよね、療養型の。 当然治療とか検査とかできないじゃないですか、そういうところに。 で、私が行った時に、ちょっとその時はね、まだ自分介護の仕事はヘルバーを始めたばっかだったんだよね。 だから若干その介護に関する知識はあったんだけど、その時はど素人もど素人。 でも、病院に行った時に母の状態を見て、かつ足を見たんだよね、私たまたまその時、布団めくって。 そうしたらね、足の先がね、一言で言って腐ってたんだよね。 で、意識がない状態で、お嫁さんに、これさあって、この状態でこの病院にいるとおかしくないかなって言って、 大きい病院に移した方がいいんじゃないって言って、そこから定院をするんだよね、大きな病院に。 で、定院をしたら、豆乳を持っていて、爪の先をどこかでぶつけていて、そこから傷になっていて、その傷が全身を回っていて、 その筋が頭にいって脳梗塞になってたんだよね。で、その脳梗塞っていうのも一箇所じゃなくて、細かい筋がパラパラパラって頭の中をたくさんの脳梗塞を作っていて、 全身麻痺で、言葉も喋れない。喋れたな、あの時はまだ喋れたな。いきなり寝たきりの母。私は子供がいる。どうしたらいいの? そのうち大きな病院に行って、大きな病院って言っても地元の中核病院みたいなところに行って、 その時でももうあれかな、車で1時間半ぐらいかかるところに入院したかな、母。でも毎日行ってね、お見舞いというか、月曽用してましたよ。 まだその時、母は喋りはしたので、いろんな要求してきたんですよ。 とにかく一番何を要求してきたかっていうと、何か食べたい、何か食べたいってことをずっと言うんです。 今でもあの時の低い声を思い出すんだけど、何か食べたい、何か飲みたいと。 でも絶妊絶食でね、もう食べさせてあげることできなかったんですよ。 母親はタバコを吸う人だったので、タバコが吸いたいとか言って、早くタバコ吸いたいとか。 ずっと何とかしたい、何とかしたい、でもお見舞いできないのって言うと、何でできないんだとか怒ってくるんですよね。 でもそんな感じで、体が痛いというから体の向きを変えてあったりして、自分はヘルパーをしていたからその対抗ができたんですよね、その時に。 だから体の向きを変えてあったりして、月曽を寄せたんですよ。 さっきも話を冒頭に戻すけれども、ある日突然ピクニックをしてて、子どもたちとママ友と一緒に。 一本の電話で、もう状況が一変しちゃうんですよね。 またあの時なんて32歳だから、周りにそんな人はいないわけですよ。 自分だけがそういう状況になって、誰にも相談できないという状況で、子どもはまだ二人小さいでしょ。 旦那さんも私の一個親だから若いでしょ。 自分の二人の子どもが小さかったから旦那さんの実家が預かってくれたんですよね、春休みだったから。 いろいろ経緯とかいろんなことがあったから預かってくれてたんだけども、 だんだん預かる方の義理の両親も疲れてくるんですよね、小さい子どもを見ていることに。 その時に霊子さんが出て、これはさ、お宅の家の問題だからさ、お宅の家で何とかしてって言われたんだよね。 だから二人の子どもも預かってもらえなくて、私は二人の子ども連れて病院に通うという日々が始まったんですよね。 だから頼れると思っていたところも頼れない、自分でやるしかない。 自分が若干介護のことも分かっていたから、自分が行くとお母さんも役に立つからということで、いっぱいいっぱいの状況だったんですよね。 3月に母が倒れて、心臓に菌がついているということで、ある日心不全になったんだよね、呼吸ができなくなって。 検査をしたら、心臓の弁に菌がついているからということで弁の手術をすることになったのね。 ちょっと次に行きますね。 # 2人の子供を連れて病院へ通った日々、誰にも本当の気持ちを言えなかった 続きます。 心臓の手術はその病院にはできないからと言って、今度また定員になるんですよね、母が。 ドクターカーでね、救急車にドクターが乗って、本当に何があるかわからないという状況だったんでね。 心臓の手術ができる病院に定員になって、心臓の手術をしたんですよね、結局。 心臓の手術をしたら、それでよしだと思ったら、 心臓の手術をする前に呼吸の状態が悪くなって、人工呼吸器につながれることになったんですよ、母が。 それまではまだ曲がりなぎにも話ができていたんですよね、母。 でも人工呼吸器がついたら半分眠らされるので、もうそこから機械音だけね、プシュー、プシューというね、人工呼吸器の。 話はできなくなっちゃって、私も体の眠気を嗅いでやるということも動かせなくなっちゃったから、そういう状態だったんですよね。 人工呼吸器がついて、心臓の便を変える手術をして、だけど呼吸状態が良くないからしばらく安定するまで人工呼吸器をつけておきましょうということで、 人工呼吸器がついた母を、それでも毎日自分が言ってあげないと、お母さんかわいそうだからなーって言いながら、毎日見舞いはしてたんですよね。 名古屋にその時ね、入院してたので、岡崎の自宅から名古屋まで二人の子ども連れて行ってたんですよね。 病院で二人の子どもを遊ばせながら座っててさ、私には兄弟が二人いて、妹と弟なんだけども、 それぞれに若かったから子どもが小さかったんですよね。 でも後退でね、母のそばについて、妹はその時子どもを産んだばっかりで神戸に住んでるので、妹も付き添いの人員には加えられないので、 ほぼ私か弟の妹さんかっていう形で後退でやってた。たまに妹が来て見てくれたっていうようなことを4ヶ月続けたんですよね。 その時に申し送りノートを作ったんです、家族のね。 付き添いをした時にこういうことをお医者さんに言われたよとか、こういう薬出るってよとか、 途中ね、爪の先の傷が悪化しちゃってね、そこが全然治らなくって、あと塾層も治っていかないんですよね、やっぱり栄養状態が良くないから。 足を切断するっていうこともあったんですよね。 人工呼吸器だし、寝た木だし、膝から下は切断するし、その切断した足ってね、家族が仮想場に持っていくんですよ。 そういう法律のルールなんだって。 そういうことも体験したりしてね、そういうものを全部ノートに書いてたんですよね。 そのうちさ、初めての治療費というか病院代の請求が来るんですよね。 その請求書を見た時にね、120万円だったかな、最初の請求書が。 もうその時はケアマニの資格とか取ってないんで、高額医療費なんていう、高額療養費なんていう言葉も知らなかったんで。 しかも当時はね、一回現金を立て替えなくちゃいけなかったんですよね。 今はもうそれ自動的にやらなくていいと思うんだけれども、当時は一回、高額医療費ということも知らなかったから最初ね。 これどうしたらいいの?と思って。120万円なんてお金ないよって。 しかもこれ1ヶ月じゃなくて続くんだよねって。 もう絶望ですよ、その時の気持ちって。 だけど、病院の医療連携室なんていうことも知らなかったから、看護師さんがね、ちょっと相談しに行くといいよって言ってくれて相談したら、 一旦立て替えるっていう制度があって、立て替えをしてもらって、しのえだっていうようなことも経験したんですよね。 でもそのうちさ、入院からしばらく経った時に、そろそろここはずっといられる病院じゃないから、次のことを考えてくださいって言われて、 連携室があるわけでもなかったから、放り出されてこの母を家で見るの?みたいな。どうしたらいいの?みたいな、いう世界で。 本当に絶望だったんですよね、あの時。 行ったら真っ暗いトンネルの中に一人取り残されたようなね、そういう気分。 自分はまだ子育て中だったし、2人の子供の面倒も見なくちゃいけないし、 休みの日なんて朝家出て行って、帰ってくるのは夕方ですよ。 そうすると旦那さんが朝なんかもう家のことやらずに、2人の子供連れて出ちゃうから、 帰ってきたら家がくちゃくちゃの状態で、旦那さんはなんとなく機嫌悪く新聞読んでて、 子供たちはお腹空いたって言って、夕飯の支度をやらなくちゃいけなくって、 旦那さんは不機嫌に、なんでもうちょっと早く帰ってこれないんだっていうことを言うわけですよ。 自分の母親のことだから、そのためにお金を使うっていうことも、家計のお金を使うっていうこともやっぱり暴かれるから、 パートもしてたし、その時ね、母の病院代払うためにね、兄弟で接班車払ったんですよ。 その時、実家の商売がよくなかったので、失敗しちゃったもんだから、お金が本当にない家だったんですよね。 だから母の貯金もない状態で、年金も国民年金だったから低い状態で、年金まだもらってないわ、母が59歳だから。 治療代を払うお金もなくて、本当に疲れてたんですよね。 そんな時に息子の誕生日があって、誕生日の写真を撮るわけですよ。 ほぼ笑顔で写真をみんなで撮ってて、その中の一枚だけ、後から振り返った時に、 それ母が亡くなってから見たんだけども、私が一瞬すごい疲れた顔を見せるの、一枚だけ。 でもその写真を見た時に、私本当にこの時疲れてたなーって思ったんですよね。 それぐらい介護って先が見えないから、家族って疲弊してくるんですよね。 しかも自分の気持ちをね、本当の気持ちをいくら旦那さんだからって言って、分かってもらえるわけでもないし、 旦那さん自体もね、若いしさ、自分のことで精一杯だし、それを聞いてやるっていうこともできなかったと思うし、 あれがね、ずっと続いてたらうちの家庭もダメになってたなーってきっと思うんですよね。 そんな感じでずっと過ごせたんですけども、ある日突然、母の介護って終わるんですよね。 ちょっと一旦これ聞きますよ。 # 母が亡くなった時の"解放感"に苦しめられた過去が介護家族を支える活動に繋がった 母の介護を終わるんです。 その時、パートでヘルパーの仕事をしてたんです。 利用者さんの家に私、仕事で行ってたら、病院から電話がかかって、 お母さんの呼吸が止まってます。 今、蘇生をしているので、今から病院に来てもらえますかって言われて、 とりあえず利用者さんに言って、ごめん、お母さんこういう状況だからって言って、 事務所にも行って、いいですかって言って、いいよって言って、 とりあえず目の前の仕事を終えて、病院に行って、 そしたら病院に着いた時には、母の周りを先生から看護師さんから 6人くらい取り囲んでたかな、私に対する説明があったんです。 母は胆を喉に詰まらせて亡くなったんですよ。 その時、人工呼吸器が取れてたんです。 先生の判断で、ちょうどお母さん誕生日だし、7月4日でね、 誕生日プレゼントで取ろうかって、ちょうど手術から30日経ってるからねって言って、 取って、そしたらその5日後に胆を詰まらせて、 そのことに気づかなかったんですよね。 人工呼吸器がついてたらアラームが鳴るんだけども、 アラーム鳴らないから、巡回している時に胆が詰まっていることに気づいて、 そこから蘇生をしたんだけども、心臓はもう一回動きましたよ。 だけども、もう植物人間、その時はね。 それが朝の9時台だったかな。 急いで神戸の妹を呼んで、弟も呼んで、 だったんだけども、そこから夜中の3時だったかな。 弟が夜遅い仕事をしていたので、妹と私がいて、 弟も仕事を終えて、3人が揃ったっていうタイミングで、 母は息を引き取ったんですよね。 胆を喉に詰まらせてから12時間。 12時間後に夜中の3時に、母は息を引き取りました。 本当に穏やかにね。 でもその時も、介護ノートにね、 その時の母への思いっていうのも書きましたよ。 お母さんありがとうねって言って。 本当に母も、子供3人に見送られたかったんだろうなって気がするんですよ。 父とはもう別居してたんでね。 本当に見送られたい人に、母は見送られたんだろうなっていう気がするんです。 母が亡くなった時にね、すごい悲しかったんだけども、 でもね、同時にね、これで明日から病院来なくていい、 もう母の介護しなくていい、楽になっちゃったって思っちゃったんですよね。 解放感感じちゃったんです。 で、もうそのことでね、私ずっとその後苦しめられるの。 罪悪感で。 自分の母が亡くなったのに、解放感感じちゃった。 でもそのことぶっ飛ばして、 その後ね、私、母が亡くなった後、もう何年も経ってからね、 10年以上経ってから、セミナーコンテストに出るんですよ。 セミコンの時に、この、 セミナーコンテストに出るんですよ。 で、自分たち兄弟がね、そのノートを母の看病のことを書いたりとか、 かかったお金のことを書いたりとか、お医者さんに言われたことを書いたりとか、 自分たち兄弟がね、そのノートを母の看病のことを書いたりとか、 かかったお金のことを書いたりとか、お医者さんに言われたことを書いたりとか、 自分たち兄弟がね、そのノートを母の看病のことを書いたりとか、 かかったお金のことを書いたりとか、お医者さんに言われたことを書いたりとか、 全ての記録をそこに書いてあったんです。 ねえ、もう辛くて、私、それ見れなかったの、すぐには。 だけど、そのセミコン出るっていう時に、 ああ、あのノートあったなあと思って、もう一回見返してみたんです。 そしたら、その時の母への思いとかね、辛い思いとか、 だけど、母も頑張ったなあっていう記録がそこにあったし、 私たちも子供、小さかったけども、若かったけども一生懸命介護をしたなあっていう、 そのノートが家族の思い出になってたんですよね。 ああ、ノート書いといてよかったなあってすごい思ったんです。 今じゃね、LINEでやりとりできちゃうけれども、 でもノートっていうアナログのものが一つあったっていうことは、 自分たち家族の宝物にもなったし、 私の産業ケアまでの活動にもつながっていくわけなんですよね。 やっぱり介護をする人の心と体が健全でないと、 いい介護っていうのはできないんですよ。 息子の誕生日会で、 一枚の本当に辛そうな顔の、何とも言えないあの時の顔を、 たぶん私はあの時の顔を母に見せてたと思うんですよね。 母は言葉はしゃべれなかったけど目は開けれたので、 たぶん思ってたと思うんですよ。 なんでそんな辛そうな顔をしてるのって、 私の介護ってこんなに辛いのって。 でも母も辛かったんじゃないかなと思って、 でも母も辛かったんじゃないかなと思うんですよね。 自分のせいで娘にこういう顔をさせちゃってるっていうの。 だからその介護をする人が、 自分の心と体が満たされてないと、 いい顔をしてないと、 介護をされる人だって辛いと思うんですよね。 だから産業経営マネーの話にここからなっていっちゃうんだけども、 介護をする人の辛い気持ちとか、 そういうものは専門家にしっかりと吐き出してもらって、 あと介護する家族じゃなくてもできる仕事ね、 お風呂入れるとかおむつ交換するとか、 そういうものはプロに頼めばいいんですよ。 家族じゃないとできないことがあるんですよ。 そういうものに集中してもらえるように、 産業経営マネーっていうのがいたりね、 あと私もケアマネージャーとして関わるときに、 家族の気持ちをなるべく聞くっていうこともしてます。 でも介護保険の中ではそこ限界なんですよ。 介護保険っていうのはあくまで利用者さん、 介護を受ける人を支える仕組みなので、 介護をする家族までカバーできないんですよね。 そういう意味でもね、自分が議員を志すときに、 岡崎が日本で一番幸せな介護ができる街にする っていう公約で出たんですよね。 一番介護をする人が幸せな街にするっていうことを 介護をする人が幸せっていうことは、 介護を受ける人も、介護をする家族も、 介護の仕事をする人も全てが幸せじゃないと 幸せな介護っていうことは言えないよねっていうのが 私の公約だったんですよね。 自分の体験が今の活動につながるんですけども、 今日はコメントをいただきましたので、 わいしたさんからね、こんな感じで 自分の実体験ということを少しお話をしてみましたが、 こういうふうにたまにコメントにもお返ししようかな なんて思うんで、産業ケアマンでもね、 産業ケアマンの多くがご自身も介護をしてきた っていう体験の方すごく多いんですよ。 やっぱりこれからは、介護をする人を支える っていう仕組みを作っていかないと 少子高齢化を迎えた日本で 乗り越えていくことができないと思うんですよね。 支える人を支える仕組みがないと。 そういう意味でも、介護をする家族、自分の実体験から これは心をしっかりと支えていかなくちゃいけないな というふうに思いましたので、 今日は少しお時間をいただいて、こんな話をしてみました。 聞いていただいてありがとうございます。 今日はこのまま求めに入りますね。 またこのようにしてコメントいただけますと大変嬉しいので よろしくお願いします。 それでは、政治や介護や日々のこと、これで終わります。 ありがとうございます。 もっと見る前田れいこ/岡崎市議会議員『政治や介護や日々のこと』前田 れいこ/岡崎市議会議員(介護職)01:001.コメントありがとうございます♪09:562.ある日突然介護が始まった09:323.2人の子供を連れて病院へ通った日々、誰にも本当の気持ちを言えなかった10:004.母が亡くなった時の"解放感"に苦しめられた過去が介護家族を支える活動に繋がったコメント感想・質問・応援メッセージを書こう Ota Mituaki2025年4月18日壮絶な介護の状況を聴いて驚きました。私などお気楽な介護で恐縮します。考える引き出しが増えました。活かしたいと思います。1返信 前田 れいこ/岡崎市議会議員(介護職)2025年4月18日コメントありがとうございます。あの経験がなければ、今自分がこのような活動をすることはなかったですから。聞いていただき、感謝です! 林ゆりか2025年4月11日麗子さん!遅ればせながらフォローしました!めちゃくちゃ有益情報!しかも分かりやすい!さすがです!これからもしっかり学ばせていただきます!1返信 前田 れいこ/岡崎市議会議員(介護職)2025年4月11日わー!ゆりかさんに聞いてもらえて嬉しいです。聞き返すと、自分の喋りの振り返りにもなりますね。ありがとうございます。 ワイスタ2025年3月23日患者さんの背後にある、ご家族の生活や気持ちを聞かせてもらえる機会は大変貴重です。ありがとうございました。桜の季節を思い出したという冒頭、旦那さんや義理のご両親からの言葉、写真や連絡帳を見て思い出した過去の自分、とても情景の浮かぶお話でした。1返信 前田 れいこ/岡崎市議会議員(介護職)2025年3月24日ワイスタさんありがとうございます♪介護の在り方は100人いたら、100通りです。現場を知ってるケアマネジャーの仕事をしているからこそ、知識と経験を使って介護家族を救えるお手伝いができると思います。聞いて下さって、嬉しかったです♪ めぐみん2025年3月23日介護する人を支える仕組み作り、これはまさしく私達産業ケアマネが担っていく仕事ですよね!私も、自宅で姑を介護した経験を活かし、仕事をしながら家族を介護している人に寄り添い、多くの方々に介護の問題を認知してもらえるよう活動していこうと思っています✨1返信 前田 れいこ/岡崎市議会議員(介護職)2025年3月23日まさに!産業ケアマネが作っていく世界観ですね。1 前田 れいこ/岡崎市議会議員(介護職)2025年3月24日めぐみんさん、コメントありがとうございます。最初の個別面談の時、お義母さまの介護の経験を活かしたいと仰ってたの覚えてます。私たちだからできる支援!頑張りましょう。1
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私などお気楽な介護で恐縮します。
考える引き出しが増えました。活かしたいと思います。
あの経験がなければ、今自分がこのような活動をすることはなかったですから。
聞いていただき、感謝です!
遅ればせながらフォローしました!
めちゃくちゃ有益情報!しかも分かりやすい!さすがです!これからもしっかり学ばせていただきます!
ゆりかさんに聞いてもらえて嬉しいです。聞き返すと、自分の喋りの振り返りにもなりますね。ありがとうございます。
桜の季節を思い出したという冒頭、旦那さんや義理のご両親からの言葉、写真や連絡帳を見て思い出した過去の自分、とても情景の浮かぶお話でした。
介護の在り方は100人いたら、100通りです。現場を知ってるケアマネジャーの仕事をしているからこそ、知識と経験を使って介護家族を救えるお手伝いができると思います。
聞いて下さって、嬉しかったです♪
私も、自宅で姑を介護した経験を活かし、仕事をしながら家族を介護している人に寄り添い、多くの方々に介護の問題を認知してもらえるよう活動していこうと思っています✨
産業ケアマネが作っていく世界観ですね。
私たちだからできる支援!頑張りましょう。