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自分の思考パターンを分析!『哲学大辞典』から澤円さんが学んだこと

自分の思考パターンを分析!『哲学大辞典』から澤円さんが学んだこと

自分の思考パターンを分析するために哲学者について学んだという澤円さん。『哲学大辞典』や『ラ・ロシュフコー箴言集』を読んで感じたことを紹介しています。

この記事は、Voicyパーソナリティ澤円さんの放送をもとに書き起こした記事です。
音声でも聴きたい方は、記事最後の再生プレーヤーからお楽しみください!

『哲学大辞典』から思考パターンを考える

「澤さんの考え方とか、その思想は、過去数千年にわたり哲学者たちが探求してきた考え方と比較すると、どういう要素が強いですか?」「近しい、例えば哲学者とかの思想はありますか?」といった質問をいただきました。

確かに哲学者の人たちっていうのは、自分たちが考えているものというのを、何らかの形でアウトプットして、それが後世に語り継がれるということになるので、自分の思考パターンっていうのを照らし合わせて、これに似てるなとかっていうのを見つけるっていうのには、結構最適っちゃ最適なんです。ただ1つ問題があります。僕はあんまり哲学者のこと知らないってことなんです。ちょっとお恥ずかしいですけど。

もちろん勉強しとけよって話なんですが、そんな時に、ちょっと前にカミさんが面白い本をくれたんです。『哲学大辞典』という本なんですけれど、これは便利というか、めちゃくちゃ勉強になります。そして、たまたまそれを最近読み始めたということもあり、哲学者の人たちにも当たり前ですけど色んな考え方があり、そして僕に近しい考え方とか、アプローチとかっていうのは存在するなーっていうのはなんとなく知ってはいたので、いいタイミングなんでちょっとその話もしようかなと思っています。

勿論、これは哲学を勉強している人たちからすれば、本当にめちゃくちゃ薄っぺらい知識ですので、僕がこの哲学大辞典からちょっと学び取ったこととか、あるいは最近僕が読んでいる本の中で「あ、こういう言葉への落とし方があるんだなあ」っていう、そういうのを知ったとか、そこら辺をちょっと話そうと思います。

「経験主義」のジョン・ロック

この『哲学大辞典』の中で、これは結構僕の考え方に近いかなっていうのは「経験主義」というやつです。ジョン・ロックという人で、1632年から1704年まで生きてらっしゃった方らしいんですけど。その人が「人間っていうのは、すべて経験から学ぶのだ」と言うんです。経験から自分たちの知識なりを学んでいるのだという考え方なんですね。そしてジョン・ロックの言葉をちょっと借りると「新生児を注意深く観察してみれば、赤ん坊がたくさんの観念を持ってこのように生まれてきたなどと考える理由は、少しもないことが分かる」っていうのは、これがジョン・ロック自身の言葉なんです。

確かに当たり前です。新生児ってのは何も知らなくて、そして、いろんな経験をだんだん積むことによって視界が広がってくることになるのかなと思っているんですけれども、そこらへんが結構このジョン・ロックと僕っていうのは考え方のアプローチは似てるのかなと思います。

ハードウェアとしての人間、OSは変わらない。変わったのはデータ量

勿論ですね、彼が生きていた1600年代から1700年代っていうのと、現代と比べるのはちょっと無理があるというか、全然違うところもなくはないんですけれども、ただ人間そのものの、脳みその生物学的な観点での発展というのは、どうやらこの20万年ぐらいはあまり進歩がないらしいんです。ですので、ハードウェアとしての人間はあまり変化がないという前提がたてられると、そして動いているOS、それもあんまり変わってないんじゃないかなと思うんですよね。

ただ入ってくるデータの量ばっかりどんどん増えているという状態だと思うので、根本的なところは、それこそジョン・ロックさんが生きていた時代と、もしかしたらそれほど変わらないのかもしれないですね。

学ぶための手段っていうのがものすごく増えて、さらにその情報に到達するための時間っていうのがめちゃくちゃ短くなったというところはありますけれど、ただまっさらな状態で生まれてきて、だんだんだんだん経験によって学ぶという、そういうアプローチというのは、僕も結構賛成です。

経験からしか人間は学ばない

そしてこれジョン・ロックのもう1つ言葉を紹介すると、「魂が近くなるのでも理解するのでもなく、魂に埋め込まれているような心理があると主張するのは、矛盾すれすれのように私には思われる」って言ってらっしゃるんです。これがつまり「もう何もごとも経験だ。そして経験からしか人間は学ばん」っていうふうに思いっきり思考をふってしまっているんで、なるほどと。確かに僕もそういうふうに考えるふしはあるなと思いました。

このジョン・ロックの考え方は僕に近いのかもしれないですね。認識論という哲学の部門になるんですけど、認識論というと、ロックさんよりも前の時代になりますけれど、デカルトさんが非常に有名ですよね。「我思う故に我あり」っていうあの言葉を発した方ですけれど、もうデカルトさんも認識論と言う部門になってくるらしいです。

主語を「僕」にして語る

まず自分が自分を確信する。認識する。それによって自分は存在している。もうこれ以上でもこれ以下でもないみたいなそういう感じの考え方っていうのを展開されたわけなんですけれども、僕もこれは結構近しい考え方をする方なんです。基本的に僕は主語を「僕」にして、「世の中は」「世間は」「世界は」とかってしない主義を貫いているわけなんです。

なんでかと言うと、僕という1人称で考えるという癖をつけておくと、その言葉は嘘偽りなく自分の意見として言うことができるし、そして基本自分の経験というのを元にして語るということによって、先ほどのロックさんの話ですね。その経験というもので学んだことの話をすることになるので、これまた僕にとっての真理ということになるわけです。このあたりの考え方というのが、今の僕を形作っているような気がします。

『ラ・ロシュフコー箴言集』を読んで

そして最近、僕は結構好んで読んでいる本が『ラ・ロシュフコー箴言集』ってやつなんですけれども、これが非常にシニカルで、言葉への落とし込み方っていうのが結構僕とアプローチが似てるなあって、ちょっと僭越ですけどセンスいい!って思うんです。

最近僕がプレゼンテーションでよく引用しているフレーズというのがあって。「同じ頭を使うなら、この先身に降りかかるかもしれない不幸を案ずるのに使うより、現に我が身に降りかかっている不幸に耐えるために使うほうがよい。」これをよく引用するんです。

どういうことかと言うと、起きてもいないことに対して不安すぎちゃってチャレンジをしないというのはくだらないですよっていう、そういうコンテキストでよくこの話をするんです。どうしても未来を悲観しすぎちゃって萎縮するっていうのは、ロシュフコーさんも1600年代の人なんですけれども、その当時からあったわけですね。そういう考え方っていうのは僕も結構するな、そういう言葉の使い方をするな、と影響を受けたというより、似通っているなという感じがしますね。

そしてもう1つ、「他人に対して懸命であることは、自分自身に対して懸命であるよりもたやすい」っていう。これなかなかスパイシーです。シニカルな気がするんですけれど、僕もこういう考え方ってすごい好きなんです。だいたい他人に対して批判的、あるいは批評家的に振る舞う人っていうのを、僕はどうも好きになれないし、からかいたくなっちゃうんですよね。そういう意味で言うと、僕はロシュフコーさんと割と近い頭の使い方をしているのかな、なんて思いました。

これらの知識というのは本当に薄っぺらくって、まだまだ勉強しないといけないなと思ってるんですけど。哲学者って名前だけは聞いたことあるけれども、その人がどういうことを具体的に考えてたのかって、意外と紐づいていないんですよね。そしてそのひもづいてないが故に、なんかぼやっとした印象でしか理解できないことっていうのがあるんですけれど。本当に哲学者の考え方っていうのは、たくさん書物で分析もされているし、いろんな人たちが研究を深めていったりとかするので、勉強すると自分の人生が絶対豊かになりますね。ぜひちょっと哲学に関しても時間を作って、色んな本を読んでみたいなと思います。

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