第2070回「望郷の思い」2026/9/7
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■管長日記「望郷の思い」
https://www.engakuji.or.jp/blog/40725/
■YouTube
https://youtu.be/guMvalHJvdQ
■note
https://note.com/engakuji/n/n22ea9928d6df
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
-------------------------------------------------
今から七四〇年前の九月三日、円覚寺を開創された仏光国師がお亡くなりになっています。
数え年で六一歳でありました。
弘安二年、仏光国師は五十四歳で日本に見えています。
太白山天童景徳禅寺において時宗公から請状を受けられたのでした。
それから弘安四年に元の大軍が日本に攻めてきました。
弘安の役であります。
蒙古・高麗などからなる東路軍約四万と、旧南宋の兵を中心とする江南軍約一〇万という、記録上あわせて約一四万もの大軍で攻めてきたのでした。
初め東路軍が対馬、壱岐を侵略し、博多湾へと進みました。
その後、江南軍も日本近海に到着しました。
幕府軍の必死の防戦と、暴風雨とがあいまって元軍は敗退したのでした。
明くる弘安五年十二月に円覚寺が開創されます。
仏光国師は開山となっています。
佛殿に毘盧遮那仏をお祀りしたと書かれています。
そんな仏光国師にもふるさとへ帰りたいという思いがあったようです。
時宗公に要望されています。
原文は漢文なので、意訳をして紹介します。
「故郷の方角をいくら眺めても、見えるのは果てしなく青い空ばかりです。
老いたこの身が、さらに人生の夕暮れへと近づいていきます。
私は日本という国から受けた大きな恩に報いるため、できる限りの務めを果たしました。その志も、もう十分に成し遂げたと思います。
どうか私を故郷の太白山へ帰らせ、そこで残された人生を静かに終えさせてください。」
という意味の漢詩であります。
また次のような漢詩も残されています。
こちらも意訳を示しておきます。
中国から来た弟子たちが、長寿を祝ってくれた詩に和韻なされたものです。
内容は、
「祖国を遠く離れて日本に渡ってから、もう五年になる。
幾度となく故郷へ帰る夢を見てきた。
気がつけば、私も間もなく還暦を迎えようとしている。
そもそも私は、自分の意思で日本へ渡って来たのだろうか。
振り返れば、この世界の人々を十分に導くほどの徳もなかったことを、ただ恥じるばかりである。
それでも臨済禅師が黄檗禅師に参じたように、よき師を求めて修行する道を私は尊んできた。
また雲門禅師が睦州和尚の厳しい鍛錬を受けたことを微笑まずにはいられない。
老牛が子牛をなめて慈しむような愛情を私は今も失ってはいない。
だからこそ、吹毛の名剣を、今ここにお前たち後進へ託そう。」
という内容の漢詩であります。
これは日本に来て五年目の頃の詩ですので、その年の四月に北条時宗公がお亡くなりになっています。
時宗公も亡くなってしまい、一層ふるさとへ帰る思いが強くなったのだと察します。
仏光国師は南宋にいらっしゃった頃に、日本に行って帰ってきた僧から、日本の国の様子を聞いていました。
仏光国師が渡日される背景には、日本では執権時頼公が禅に参じていたことなどを聞いていたこと、元が南宋を攻めていたこと、そして時宗公からの請状が届いたことなどがあったと思われます。
日本から来ていた僧も南宋にはいました。
そんな事情から仏光国師はまた中国に帰るお気持ちがあったのだと察します。
しかし、ふるさとに帰る願いはかなえられることはありませんでした。
仏光国師は、弘安九年九月三日、お昼ご飯の前に、皆に報謝の偈を書きました。
そして皆に説いて言われました。
「一切の行は無常なり。生ずる者は皆苦有り。五陰は空にして相無く、我、我所有ること無し。」
という言葉です。
「すべての形成されたものは無常である。生あるものには皆、苦がある。五蘊は空であって固定した姿はなく、そこには『我』も『我のもの』も存在しない。」
という意味であります。
さらに懇切に修行僧たちを励ます様子は、いつもとほとんど変わるところがありませんでした。
そして食事の後、弟子たちに言った言葉があります。
それは「吾れ此の土に臨んで、苦を受くること八年なり。且(しばら)く喜ぶ、今夜快怡(かいい)して去らんことを。」という言葉です。
「私はこの日本の地に来て、苦を受けること八年になった。だが、まずは喜ばしいことだ。今夜、晴れ晴れとしてここを去ることができる。」
という意味であります。
一二七九年に日本に見えて、一二八六年にお亡くなりになるので、丸七年、あしかけ八年となります。
苦を受けること八年と言われた言葉に、仏光国師のご苦労を思います。
五十四歳で日本に見えました。
当時ではかなりの高齢であります。
そのまま中国におれば五山の住持ともなられたでしょう。
言葉も通じない、文化も異なる国に来てご苦労されたのだと察します。
それでも時宗公に禅の指導をなされて心も通じておられたと思います。
円覚寺の開山となり、時宗公も先に亡くなり、望郷の思いは更に強くなったのでしょう。
しかし、帰るに帰れなかったのでした。
「受苦八年」の一語に、仏光国師のご苦労を思うのです。
「老僧の舎利、天地を包む。
空山に向かって、冷灰を撥くこと莫れ。」
私の舎利は天地いっぱいに満ちている。
だから、人気のない山へ行って、冷たくなった灰をかき回して、私の舎利を探してはならないという詩をお作りになりました。
やがて時刻は亥の初め、午後九時ごろとなりました。
国師は衣を改め、姿勢を正して坐り、遺偈を書いて、筆を置くと、静かに、安らかに息を引き取ったと語録には書かれています。
横田南嶺
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最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
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今から七四〇年前の九月三日、円覚寺を開創された仏光国師がお亡くなりになっています。
数え年で六一歳でありました。
弘安二年、仏光国師は五十四歳で日本に見えています。
太白山天童景徳禅寺において時宗公から請状を受けられたのでした。
それから弘安四年に元の大軍が日本に攻めてきました。
弘安の役であります。
蒙古・高麗などからなる東路軍約四万と、旧南宋の兵を中心とする江南軍約一〇万という、記録上あわせて約一四万もの大軍で攻めてきたのでした。
初め東路軍が対馬、壱岐を侵略し、博多湾へと進みました。
その後、江南軍も日本近海に到着しました。
幕府軍の必死の防戦と、暴風雨とがあいまって元軍は敗退したのでした。
明くる弘安五年十二月に円覚寺が開創されます。
仏光国師は開山となっています。
佛殿に毘盧遮那仏をお祀りしたと書かれています。
そんな仏光国師にもふるさとへ帰りたいという思いがあったようです。
時宗公に要望されています。
原文は漢文なので、意訳をして紹介します。
「故郷の方角をいくら眺めても、見えるのは果てしなく青い空ばかりです。
老いたこの身が、さらに人生の夕暮れへと近づいていきます。
私は日本という国から受けた大きな恩に報いるため、できる限りの務めを果たしました。その志も、もう十分に成し遂げたと思います。
どうか私を故郷の太白山へ帰らせ、そこで残された人生を静かに終えさせてください。」
という意味の漢詩であります。
また次のような漢詩も残されています。
こちらも意訳を示しておきます。
中国から来た弟子たちが、長寿を祝ってくれた詩に和韻なされたものです。
内容は、
「祖国を遠く離れて日本に渡ってから、もう五年になる。
幾度となく故郷へ帰る夢を見てきた。
気がつけば、私も間もなく還暦を迎えようとしている。
そもそも私は、自分の意思で日本へ渡って来たのだろうか。
振り返れば、この世界の人々を十分に導くほどの徳もなかったことを、ただ恥じるばかりである。
それでも臨済禅師が黄檗禅師に参じたように、よき師を求めて修行する道を私は尊んできた。
また雲門禅師が睦州和尚の厳しい鍛錬を受けたことを微笑まずにはいられない。
老牛が子牛をなめて慈しむような愛情を私は今も失ってはいない。
だからこそ、吹毛の名剣を、今ここにお前たち後進へ託そう。」
という内容の漢詩であります。
これは日本に来て五年目の頃の詩ですので、その年の四月に北条時宗公がお亡くなりになっています。
時宗公も亡くなってしまい、一層ふるさとへ帰る思いが強くなったのだと察します。
仏光国師は南宋にいらっしゃった頃に、日本に行って帰ってきた僧から、日本の国の様子を聞いていました。
仏光国師が渡日される背景には、日本では執権時頼公が禅に参じていたことなどを聞いていたこと、元が南宋を攻めていたこと、そして時宗公からの請状が届いたことなどがあったと思われます。
日本から来ていた僧も南宋にはいました。
そんな事情から仏光国師はまた中国に帰るお気持ちがあったのだと察します。
しかし、ふるさとに帰る願いはかなえられることはありませんでした。
仏光国師は、弘安九年九月三日、お昼ご飯の前に、皆に報謝の偈を書きました。
そして皆に説いて言われました。
「一切の行は無常なり。生ずる者は皆苦有り。五陰は空にして相無く、我、我所有ること無し。」
という言葉です。
「すべての形成されたものは無常である。生あるものには皆、苦がある。五蘊は空であって固定した姿はなく、そこには『我』も『我のもの』も存在しない。」
という意味であります。
さらに懇切に修行僧たちを励ます様子は、いつもとほとんど変わるところがありませんでした。
そして食事の後、弟子たちに言った言葉があります。
それは「吾れ此の土に臨んで、苦を受くること八年なり。且(しばら)く喜ぶ、今夜快怡(かいい)して去らんことを。」という言葉です。
「私はこの日本の地に来て、苦を受けること八年になった。だが、まずは喜ばしいことだ。今夜、晴れ晴れとしてここを去ることができる。」
という意味であります。
一二七九年に日本に見えて、一二八六年にお亡くなりになるので、丸七年、あしかけ八年となります。
苦を受けること八年と言われた言葉に、仏光国師のご苦労を思います。
五十四歳で日本に見えました。
当時ではかなりの高齢であります。
そのまま中国におれば五山の住持ともなられたでしょう。
言葉も通じない、文化も異なる国に来てご苦労されたのだと察します。
それでも時宗公に禅の指導をなされて心も通じておられたと思います。
円覚寺の開山となり、時宗公も先に亡くなり、望郷の思いは更に強くなったのでしょう。
しかし、帰るに帰れなかったのでした。
「受苦八年」の一語に、仏光国師のご苦労を思うのです。
「老僧の舎利、天地を包む。
空山に向かって、冷灰を撥くこと莫れ。」
私の舎利は天地いっぱいに満ちている。
だから、人気のない山へ行って、冷たくなった灰をかき回して、私の舎利を探してはならないという詩をお作りになりました。
やがて時刻は亥の初め、午後九時ごろとなりました。
国師は衣を改め、姿勢を正して坐り、遺偈を書いて、筆を置くと、静かに、安らかに息を引き取ったと語録には書かれています。
横田南嶺
【鎌倉円覚寺】毎日の管長日記と呼吸瞑想
臨済宗大本山円覚寺
- 12:211.
望郷の思い
コメント

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円覚寺の大方丈の床の間に現在掛けてある複製の無学祖元の頂相とは雰囲気が違っていましたが、やはり小さな鳩さん達が描かれていて可愛かったです。
開山忌は何年か前から9月3日でなく、10月3日になったようで、今年は土曜日だなあ、行けるかなと思いましたが、予定が入っていました。
故郷にお帰りになれなかったんですね〜😌 もしかしたら、歴史は違うかも?と思ってみたり😊
どちらにせよ、尊い行いがあっての今、有難いです。
良い一週間を!
言葉も通じない異国の地でさぞお辛かったろうと拝察します。
お像の側の鳩と龍は空を飛んで母国に行ける。からいつもお側にいるのかも‥。
そんなふうに思いました。
ありがとうございました。