TOPトーク専門家リベラルアーツ探究実践Radio【対談】近内悠太✖️矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』東洋思想編44:46 2025年11月25日 158再生 問題を報告する 再生する シェアする 第4火曜日21:10に定番化しつつある特にゆるくはない生放送のアーカイヴ。今回は「東洋思想」について。お楽しみ頂ければ幸いです。AI目次議論の前提「ゆるさ」と因果東洋哲学「わかる」の独自性老子「自然」の深淵と危うさ教養と遊び:ビジネスの罠現代社会と「愉快な身体」論AI文字起こし(β版) # 【対談】近内悠太✖️矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』東洋哲学編 はい、こんばんは。 というわけで、ヤギです。 近渕です。 さあ、今日はハロウィン前夜祭ということで、 差し入れでワッフルをいただいて、 このワッフルをいただきながら、 今日はここからいきましょうかね。 これは? これはモンキーショルダーというウイスキーなんですけれども、 最近人気なんですよ。 最近だから空港とか行くとね、 これのコーナーがいろんな空港にあったりとかして、 お手軽でしっかりしてるっていう。 どこのお店? スコットランですよ。 スコッチ? スコッチです。 はい、じゃあお疲れ様です。 はい、というわけでですね、 教養と哲学を考えるラジオ、 1ヶ月ぶりでございますけれども、 皆さんお集まりいただきありがとうございます。 よろしくお願いします。 はい、皆さんもね、飲みながら、 食べながら。 食べながら。 寝転びながら。 なのに、そんなにゆるくないでお馴染みの。 ゆるい方がいいですか?皆さん。 ちょっとその辺もね、聞いた方と言って、 我々聞くかどうかわからないですけど、 どう思われてるのかっていうのは、 ちょっと気になるところですよ、僕は。 多分、世の中的なゆるいと、 僕らが思ってるゆるいが、 やはりさんは思ってるのか、 ちゃんと分かってるかもしれないけど、 僕の思うゆるいが、 僕のゆるいって、 即興的であればあるほどゆるいと思ってるっていう。 ゆるさが。 台本的かどうか。 予定調和かどうかってことね。 そう、そう。 俺はずっとゆるくしかやってないつもりなんだけどな。 でも世の中のゆるくって、 専門用語とか前提知識を、 必要とするかしないかで、 ゆるいか硬いか。 じゃあ、ライプニッツ派の俺なんかも、 予定調和説に乗っ取ったら、 全部予定調和ですよ。 まあ、だから。 でもライプニッツ派にいるのが予定調和でしょ。 すごい真っ黒な。 今、高速でゆるくなくなったんだけど。 そうそう。 それこそ大学から見た時の、 みたいなレベルの予定でしょ。 そうそう。 ライプニッツが言う予定って。 それって人間って、 理解できるんですか、その予定って。 いや、できないでしょ。 神の領域ですよ、そんなの。 ライプニッツが言ってるのは、 そのレベルだよね。 そのレベルです。 すごい超越的な世界の話ですよ。 つまり、人間がいくら頑張ったって、 ゆるくはならんのですっていう。 まあ、そういうことでしょうな。 そういう予定は信じてると。 俺は信じる信じないじゃなくて、 そういう設定に乗るか乗らないかと思ってるので。 予定っていうよりも、 多分その言葉のポイントは、 調和ってことなんでしょうね、きっと。 全てがつながり合ってるというか。 バタフライ効果みたいなものを、 どこまで深く真剣に捉えるかの問題。 でも因果っていうものがあるとしたら、 僕は因果率の限界があると思ってるんですよ。 因果率自体が、 因果率を人間が把握することが。 把握することも限界があるし、 何よりも構造的に。 何でもあり得るよねとか、 何でも原因になるかもしれないよね、 という考えに関しては意を唱えたい。 やっぱり原因は限定できるし、 かといって一つに限定できるじゃないですか。 かなり幅は広いけれども、 限定はできるよねっていうところは、 あるんじゃないかなと思ってますね。 その辺は因果率があるし、 人間は把握できるが、 すごく西洋的な前提な気がするんですよね。 ミンコフスキー空間ってあるじゃないですか。 ミンコフスキー空間でいうと、 要は高速を超えることはないわけですよ、 一応ね。 ということは、 1年前に1光年以上離れているものは、 我々の今の現実に、 原因として関与できるはずがないわけですよね。 届かないから。 届かない。 影響力が届かないから。 それほど早い影響力というか、 場の力であったとしても、 及ぼしきれない。 だから、銀河系の外にあることの話だとかさ、 っていうのは、 我々の生活には影響してないはずなんですよ。 だから、100光年離れてたら、 私の人生には影響がないと。 そうそう。 だから、 俺はライプニッツはこの宇宙の話をしていて、 その外側、 ミンコフスキー空間の外側の話は、 ライプニッツにとっては予定調和と言ってはいけないのではなかろうか、 というふうに考えているわけです。 それによって、 ライプニッツの理論が正当なものになる可能性があるというか。 逆にね。 そうそう。 つまり制限がかかっていると。 あらゆるどんな宇宙に対しても、 彼が言っていることは適応的ではなくて、 限られたこの宇宙において、 彼が言っていることは正当であるみたいな。 そうそう。 さあ、ゆるくしましょう。 そんな話をする予定はゼロだったんですけれども、 今日は何の話をしましょうか。 僕、 最近、 西洋の哲学ではなく、 ようやく東洋の哲学が分かる気がしてきた。 東洋のほうが難しいという設定でございますね。 なんていうのかな。 ほっつきづらいというか。 ほっつきづらい。 きっかけがなかった。 でもさ、 リドゲンシュタインなんて、 めっちゃ東洋哲学に近くないですか。 たぶんね。 ゼンっぽいんですよね。 ですよね。 そこでリドゲンシュタインを出すから、 また固くなっちゃうんですよ。 僕が乗ってきちゃう。 じゃあ、何を出したらいいかな。 リドゲンシュタインは、 分かるという言葉の感覚が、 西洋にとっての分かると、 我々にとっての分かるが、 相当感覚として違う気がする。 なるほど。 分かるとは何か。 分かるとは何ですか。 西洋で言う分かるとは。 分類ができるってことですね。 一番定番で言うと。 この喋り方ちょっと ゆる言語ラジオっぽくないですか。 今の。 分かるってことから見て。 なるほど。 結局ラベル化して概念化して、 分けるってことですよね。 AとAでないものを分けることによって、 Aというものが分ける。 分けると分かる。 アリストテレスがやったやつですね。 東洋の哲学って、 どこか最後の最後マジカルなことを 言ってるって感覚がずっとあるんですよ。 最後リズムで最後飛ぶんだよみたいな。 僕はそこの飛び方が今まで ピンとこなかったんだけども、 ここのラジオでも最近、 ロジックとマジックとかさ、 歌がどうのこうのとかって話をして、 だいぶ僕もマジカル要素が 上がってきたというか。 マジカル地下物として。 マジカル状態が開いてきたというか。 なるほど。 レセプターが。 なるほど。 そこに素敵に面白いものがある気がしていて、 その辺ヤンゲンさんバランスよく。 バランス、バランス、そうね。 プラトン好きとか、 ハイプニクス好き。 好き? こういう人申しわねとかさ。 好き? 分かるでしょ。 僕はこういう人申しわ何を言ってるんですか? ってなっちゃうから。 そう、ボクシーとか、 ソジューシーとか、 カンピシーワーみたいな。 だけど、 僕が言ったエシックス、 倫理っていう時に、 どうしても僕はバタ臭いものを前提にしてきちゃった。 やっぱバタ臭い倫理学が、 ちょっとしっかり来ないですよね。 それは人間の心の話かなみたいな。 マネジメントの話してるんじゃない? ヨーロッパの倫理学って思って。 なるほどね。 実存と言いながら、 実存の話をしてないような気がしていて。 だからトラック問題みたいな、 問いモデルというか、 思考実験を作れちゃうのも。 東洋と西洋の哲学の違いって、 哲学ってそもそも明らかにしようっていうところがあるわけじゃないですか。 アリストテレス的に言うと、 ある系は何ぞやみたいなね。 東洋ってよくね、それでいいんじゃない? みたいなところがあるんですよ。 話はポンとはそこじゃなくてさ、 みたいなことを平気でやってくるという。 そこを明らかにしても意味ないし、 そもそもできるんですか、それ。 できると思ってます? っていう全問答が始まるのが東洋哲学。 前提が違うというか、 前提に乗ってくんないというか、 西洋哲学が土俵を作ったんで、 みなさんここで相撲しましょうよって言ったのに、 東洋哲学って上がってこないですよね。 その土俵がそもそもおかしいって、 俺たちは思ってるんだよみたいにして、 土俵に上がらないっていう。 土俵自体を問うっていうことが本来は哲学なのに、 そういう意味では東洋の哲学の方が、 浅い言い方で言うんですけど、 東洋哲学の方が深いと思うんですよ。 浅い言い方で言うと深いっていうね。 でもさ、その深さがずるい可能性もあるわけじゃない。 だって土俵に上がってないからね。 そうそうそうそう。 やっぱりそこはね、そこも俺はバランスを取りたい。 リベララーズはバランスを取るジャンルだと思ってるので、 やっぱり両方知ってる、 分かった方がいいことと分かんなくていいこともあるし、 シンプルにした方がいいこともあれば、 複雑なまま受け入れた方がいいこともあるし、 複雑なまま受け入れなくていいこともあるだろうしね。 だから俺はね、老子みたいな考え方っていうのはすごいと思うし、 素晴らしいと思うけども、 悪影響だとも思ってる。 そんな情善水の如しみたいなことを、 みんななるほどっていうふうに国民に思わせてコントロールするみたいなことが 非常にしやすい思想でもあるのね。 僕はだから、老子はすごいなと思うけれども、 老子の、老子がきっかけで何か起こっている、 良くないこともあるだろうなというふうに思ってるわけですよ。 社会をたぶらかしてるというか、かままかすみたいな。 それこそそのパーセントが罰せられたように。 悪意のある人が使い、 それはでも何のことも別に老子に限らず、 公私だってそうなんだけれども、 結局それのことをどういうふうにしたらいいんだろうかというふうに とやかくせずに、 次年が大事だみたいなことを東洋哲学では言うわけですよ。 次年っていうのはもう何だろうな、 無理やり西洋風に言えばレッド・イット・ビーなんだろう。 でもレッド・イット・ビーよりも、 次年の方が次年なんだよね。 だから分かった。 なんで東洋哲学みたいな的なものにシンパシーを感じたかというと、 今の話も、 メタファー、比喩としてしか語れないようなレベルのことを彼らは言ってるって気がして、 次年って何かっていうと、 いや、風が吹くじゃないか。 そういうことだよみたいなレベルな気がするんですよ。 そうそうそうそう。本当にですね。 潮が満ちて潮は引くんだよ。 これが次年なんだよみたいな。 つまり起こるべきことは、 これ以上言葉にできないと思うんですよね。 これ以上言葉にすると西洋的なものに絡めとられるというか。 風が吹くとね、 ショタが揺れるじゃないか。 あれが次年っていうもんだよみたいな。 あれがオノズカラなんだよみたいなことだと思うんですよ。 比喩を、だから、 比喩が有力な道具になるのが。 だからね、そこね、すごく難しいんだよね。 例えば西洋哲学っぽい考え方をすると、 風は吹きたいと思って吹いてるんじゃないよね。 自然に吹いてるね。 何も思わずにただ吹いてるんだよね。 っていう風に説明しちゃうんだけれども、 東洋哲学っぽく次年を説明した時には、 なんだろうな、 なんかちょっと違うんだよな。 風は吹いた。 なんですよ。 風は吹いたね。 そう。 で、っていうのがない。 いや、吹いたんだよ。 たしさんみたいな。 で、吹いたってことは、 調和したから吹いたの。 それが吹いたという現象は、 それは調和が引き起こしてる。 それが調和だからこそ吹いたのであって、 調和しないんだったら吹かなかったんだよね。 結構ね、過去形に近い。 そう言っちゃうとまた違うと言われそうなんだけども、 でも、過去形として受け入れるしかないようなものなんですよね。 存在学なんだよね。 存在ではなく存在学みたいなね。 オントロジックっていう。 ある。 ある以上みたいなね。 認識論と存在論が一致してると思うんだよね。 そうそう、一致なんだよ。 あるかないかと分かるか分からないかが、 それはもう同時に起こるんだよね。 一致してるとかしてないとか言うと、 それは西洋だって言われちゃう。 分析を拒否するというか、 分析抜きで世界を把握するっていうのが、 東洋的な規制の証拠? だめな修行みたいなものが、 分析とかじゃなくて修行するみたいな。 そうね。 事故当やみたいな。 味覚みたいな。 当やね。 平井さん、これどっちよりですか? えっとね、なんかついてる方。 いただきます。 同時に食ったらだめじゃねえか。 知事さんが一口食べ終わるまで私は待ってますけれども。 だから東洋哲学を勉強しようって言った時に、 親親、東洋哲学って勉強するもんなんですか? みたいな風になるよね。 西洋哲学は勉強しようって言った時に、 じゃあ勉強しましょう。 みたいなこともあるし。 進んでいくことができるのは西洋哲学でか。 でも東洋哲学って僕みたいに、 今いける気がするんですみたいな。 今分かってたんだと思いますみたいな。 なんかそれってね、 教養とリベラルアーツの関係にも似てる気がする。 リベラルアーツは学ぶことができるのよ。 だけど教養っていうのは使えるものでもないし、 勝手に身について勝手に滲み出るものなのね。 そうね、黙っていくだけというか、 一生懸命生きることによって気がつくと獲得していく。 教養が身につくみたいな。 なんかちゃうのよ。 教養をこのラジオみたいに語ることはできるのよ。 なんだけど、 それを教養身につけようみたいなことになった途端に、 それって教養じゃなくないですよみたいな。 教養がある人はそんなこと言いませんよみたいな感じになるんで。 僕は本当に今大事だと思っている概念って、 大抵この形式に当てはまって、 今から一生懸命皆さん遊んでくださいってできるわけないじゃないですか。 気がついたら巻き込まれていって、 気がついたら終わってるのが遊びでやってる。 でも、それを商売にしようとする輩がいるじゃないですか、世の中には。 そういうことを言うことに起こってますね。 言ってることがおかしいんだよって、 そういう形で取り出したら、 死んでしまうものは扱おうとしてるのに、 なんて手つきで大切なものをぐちゃぐちゃにせやがるっていう。 分かるけれども、それはね、 俺も強く言えないんですよ。 なんで? だってさ、遊びとは何かっていうことをさ、 死体制度は何かと一緒なわけですよ。 探求とは何かと一緒にやってるんだ。 例えば、遊びなんていうものは、 自然に発動して自然に終わるもんで、 その間にフロアだとかゾーンみたいなものがあるよねっていう。 その中で自然に変容が起こるよねとかね、成長していくよねみたいなのが遊びの本来の形だと思うんです。 でもゲームってものがあったときに、 じゃあゲームやりましょうよっていうのは、 そこに区切りがあってスタートがあってこのゲームをやりましょう。 区切りがあるからこそそのゲームの中にルールというものが発動するのであって、 ルールがあるからこそそのゲームがより面白かったり没頭できるものになったりもするわけだ。 そのインターフェースであるとかね、 始めと終わりの編集であるとか、 その中をどういうふうな体験にしていくのかっていうことをやってるのが、 探求的な授業をやるってそれと一緒なんですよ。 だから私がやっていることは割と、 それって本質的な探求なんですかとか、 本来の遊びなんですかってそれも違うんで。 違うんだけれども、遊びじゃないとも言えないし、探求じゃないとも言えない。 そこの遊びか遊びじゃないっていう境界線すら設定するのがナンセンスじゃないですかっていうのが俺の意見では。 だからそこを境界線を設定しないまま、 いかにそれでもバランスよく面白くできるかみたいなことを突き詰めていくんだけども、 結局そうすると賛否になっちゃうんだよね。評価として。 そこは俺としてもグレーでいようみたいな。 グレーでいることがむしろ正しいんじゃないかどうかっていうのを思っている節もあるんだよね。 例えば僕が今怒ってる怒りは分かった。 はいはい。怒ってる怒りが分かった。 理由が分かった。 聞こう聞こう。 遊びみたいなものがビジネスにおいてもチームビルディングにも大事なんですって言ってる人の本気度がないから腹立ってるんだよ。 なるほどね。 お前本気で遊び愛してんの? 自らを妻として投げてないよねってことですね。 当時的に。 ある程度ですね。はいはいはい。 なんでそのオブザーバーのところでソロバン弾いてんだよ。 いや、我々に帰った時ソロバン弾くのはいいけど、今この瞬間は思いも没頭しろよっていう。 そうなの。だから結局なんだろうな、俺が陽明学が好きで聞こうご一座って言ってるのと同じだし、 僕が好きなんだったらそういう思想を言ってるんじゃなくて、お前が前線に行ってやってこいよっていう話だし。 そこが大事だよね。 じゃないとその場に失礼じゃんっていう。 そう、場にも失礼。 やれば遊びになるよきっとっていう。 そうなんだよね。 場に食わさせてソロバン弾き続けれるほど僕らって頭良くないから、 途中でソロバン投げて楽しくなっちゃうっていうことが、 やっぱりソロバンって話で再三度返しになってしまったって、 我々に帰った時はソロバン弾いて再三はちゃんと考えるのはいいんだけど、 今この瞬間はソロバン投げろよお前と。 それもただバランス感覚なんだよね。 だから我々に帰ってね。 我々に帰ってバランスとかって言われた時にさ、俺ひどいわけじゃない。 考えてないんだよ。 毎日仕事してんぞだけども、 はっきり言って好きなこととか意味があると思ってることしかやってないから、 辛さはないのよ。 眠さはあるよ。 辛くはないって別に。やりたくてやってるんだから。 それに対してそういう働き方をする人がいるからいけないとかさ、 家族のことちゃんと帰り見てるんですかみたいなこととか言われることもあるわけですよ。 仕事と、要は孔子混同の良し悪しっていうのがありますよね。 それもバランスじゃん。 孔子混同していいこともあると思うし、悪いこともあると思うんだけども、 結局二項対立みたいなものを極端にやっちゃうのが良くないので、 この部分はこの二項対立で考えるけども、 別の側面から見るとこの二項対立はちょっと使えないよねみたいなことが、 当然何事にもあるはずなんだけども、 分かりやすいからまるっと一つの二項対立で判断をするとか、 評価をして賛同を得ようとするみたいなところがあって、 それが賛同を得ようとするのその先にあるのが、 資本主義的にそれをマネーにしようみたいな話だよね。 覚悟とか本気であることが大事なんだけど、 これを言うと世の中のビジネスの人で血死体みたいな人になっちゃうんじゃないですか。 このプロジェクトとこの事業と侵入するんだみたいな。 それもまたキャンゾー。 俺たちは正しいことをやってるんだから、 採算なんて関係ない、死んじゃうよそれって思う。 採算も関係あるし、健康も関係あるし。 でもやっぱり真ん中に遊びがないと、僕は意味がないとは思う。 ただし、それで全て金が捨てて、 遊びに行くって生きてるわけじゃないんだから。 仕事と遊びっていうものの差し入れとか、 真面目と不真面目の距離がでかい気がする。 それは探究やってる時に主体制だとか、 本当って話になると、どうしても遊びみたいに学びましょう、 遊ぶように学ぼうんだって話になるわけだけど、 学びと遊びが乖離してる人ってまだ多いんだよ。 楽しそうに学んでると、そんなの学んでないと。 そんなことはないんだよな。 すごい距離が大きいんだろうな。 でも最近減ってきたと思うよ。 だいぶ? だいぶ。 みんな分かったふりしてるだけじゃないの? 遊びって大事ですよね? 分かったふりしてくれたら喧嘩にならないし。 こっちの価値観を理解してくれてるっていうか、 理解する価値観があるってことは、 善意してくれてるのかもしれない。 でもそういう人に見ると、遊び方足りないなと思って。 遊び人発言出ました。 なるほど。 弱いなって。 遊びを愛してないの? 言うですね。 なんでできないんだ? なんでできないんだと思います? 遊びを愛すことができない理由? 遊びを忘れてるっていうか、遊びを取り戻す。 やっぱり遊んでるのは良くないことだっていう擦り込みがあるんだと思うよ。 でもそのほうが結果としてのパフォーマンスが上がるんだけどな。 だからやっぱり学校のせいじゃない? ね。 俺は自分の小学校時代、中学校時代、高校時代のことを振り返っても、 全部においてそういうふうな人たちが周りにいっぱいいたから。 僕も高校2年生くらいまでは優等生だったんですよ。 なるほど。 途中から若干、若干おかしくなった。 なるほど。 勝手にやり始めたみたいな。 おかしくなったきっかけは何だったの? 何だろうね。 いやなんか、ガチの学問ってものがあるらしいってことに薄々分かり始めたからかな。 おー、なるほど。 その後だもんな本読み始めたのって。 うんうんうん。 まあ分かる気がする。 やっぱ高2、高3のあたりで僕はちょっと1回目の目覚めが起こり。 そうだからなんかね、教科書から離れた時に目覚めるってのあるよね。 うん。 あれは教科書載ってたやつを、こういうそういう本があるんだとか参考文献とか。 あ、そうそうそう。 現代社会の資料集みたいのがめっちゃ楽しかったんですよ。 分かる分かる。 生年月とか法益制とか鉄格とかいろんな非正観みたいの載ってて、 そっからから僕が鉄格って言い始めたのはやっぱね、現代社会の資料集みたいな。 あれがマップだったよね。 うん。 ご紹介のなんかカタログみたいな。 地図じゃん。だから地図として使わなければ、例えば文学誌って何の意味もないじゃない。 暗記しちゃったらね。 だから名前とタイトルとジャンルを覚えて何になるので。 で、これ面白そうだなと思って、そいつに触れた時に装飾すげえなみたいなのとか。 やっぱあるわけじゃない。 それがなければやる意味がないし、それをだからなんか点数取るたびに合理的に いやいや読む必要ないよあらすじはこうだからみたいな風に済ます教師が悪。 うん。 あれは良くない。 ね。 うん。勉強好きじゃないとか、勉強に意味がないと思わせちゃうし、 そういう人が遊びと仕事っていうのを変に分けてると思う。 だからやっぱある。 あと野蛮であることに対する恐怖とか嫌悪感。 だって遊びって野蛮じゃないですか、どっか。勝手にやっちゃうし。 はいはいはいはい。 それこそね、教科書的なものから始まって遠くに行っちゃうってあるじゃないですか。 勝手に本読み始めるとかって、ある意味コントロールが効かなくなるわけですよね。 そういう親とか先生とか、保護する人から。 みんなめっちゃコントロールしたいもんね。 何がそんな不安なの? え?言うこと聞かない制度があると不安なんでしょ? そう? そうか。 すごいことだよね。言うこと聞かせようとしてたんですか、あなた。 逆に。 逆に。 何を言っちゃってんの?って思うけどね。 うん。 なんだろうね。 うん。 だからやっぱり、本質的な意味で性の在り方っていうものに対峙してないんだと思うんだよ。 うん。 だから結局、決まったことをやるっていうことを、それを生きると言っていいんですか?っていうことじゃない? なんで真ん中に有があるのか、遊びがあるのかっていうと、決まっていることを破るところに生きるという何かがある。 そもそも宇宙の法則がエントロピーなのだとしたら、それに抗ってるからこそ我々がいるっていう風に考えたら、 生きるっていうことを抗うこととしてもいいぐらいなわけじゃない? そうそう。 だって生命現象というのは、もうエントロピー的に言うとおかしいんですよ。 特殊的な基地を作ろうというのが生命現象。 我々は変異の塊なわけだからね。 そう。 なぜそれが自然発生したのかという謎があるけどね。 うん。 まあね。 なんか、なんだろう。 だからほんと最近、何が楽しいの?って思うんですよ。世の中の動きを見てて。 そんな楽しいの?みたいな。 うちの達郎さんとの対談が最初終わった後、テキストベースでやり取りがあったりとか。 基本的に、いかに身体というものが愉快であるかみたいな話をずっとしてたんですよ。 まあ、快っていうところの身体的な愉快さって、身体とも存在が愉快だっていうところがあるからね、身体は。 でもさ、今の時代さ、このタイトルいいなと思ったんだから。 愉快な身体っていうキーワード、すげえいいなと思った。 すごいですね。 今別に現代的に危ない言葉じゃないですか。 でも危ないけど、逆に今、性性愛がここまで台頭してきたのに、どう考えたって身体性が我々の存在の鍵になるわけだから。 だからそこに愉快とかね。 そう、絶対に愉快であったらめっちゃポジティブだから、俺はそれのタイトルめっちゃ大賛成だと思う。 うちのさんぽいじゃん。 うん。良いと思う。 ほらだから、ポリコレ的なものとかさ、観点で言うと。 身体っていうのは不愉快だっていう論人があるわけじゃないですか。 まあもう覚悟して、ぶん殴られるかもしれない。 むしろタケルちかうちゆうたの本もあんまりそういう界隈の人は読まないだろうから、あの人たち言ってる。 でも逆に読まないでタイトルだけ見られたときが面倒くさい。 ちゃんと言ってるんだよっていう。 読んでくれって。 でも愉快な身体っていうキーワードでずっと4回対談した気がするなって。 だから身体的動機とかさ。 キーワード。 結局身体は愉快であると。 自分の身体が愉快であるっていうか、身体に由来する愉快さを分かるということがきっと今の生きる力だし、 それこそ養老さんの言う農家社会に対する対抗。 身体が愉快であるっていう状態になってるかっていうのをモニターする。 だからこの人といると身体が愉快だって感じるっていうのが多分一緒にいるべき人。 大事だね。 だからアンガーマネジメントとかさ。 チームビルディングとか。 すごい顔してますよ皆さん。 安全性とか。 すごい顔して言ってますよこの人。 身体が愉快な奴らといかに生産性を上げるかって話でしょ。間違ってるんだよ。 そんな奴らとチームを組むなっていうさ。 なるほど。 僕はそこも悪いよね。 そもそものスタートが間違ってる。 いかに身体が不愉快だって言ってるのに生産性のためにこのチームでっていうのはそもそもが間違ってる。 なるほど。 うちの多数さんが言ってたのが、気の流れが悪い場所とか、 引っ越してなんか部屋の気の流れが悪いんですっていう後輩がいたときに、 そういう気の流れが悪い場所ってあるんですっていうときに、 気の流れってノイズがすっごい多い場所なんだって。 身体的な不快であるノイズがすっごくノイズにまみれてるから、 そうすると何をするかっていうと身体の感度を下げると。 センサーの感度を下げざるを得ないと生き延びるために。 そうすると一緒に暮らしてる相手の心の霧が読み取れなくなる。 お互いどんどん話し切れなかったのみたいな不和が発生するのは、 身体の感度が下がるからなんだと。 それが気の流れの悪い場所ってのはノイズが多い場所。 神社、仏閣みたいな境内ってノイズがかなり少ないから、 どこまでも身体を拡張できるっていう。 気の流れのいい場所ってのはノイズのない場所だって感じをしてて。 だから、いかに現代社会、都会都市というノイズの多いところで生産性を上げるかってときに、 アンガーマネジメントとか、人気的安全性って、 もういくつかの流行語を出すわけじゃん。 ビジネス界は言って。 ここも間違ってると思うんだけど。 不愉快な人と組むなっていう。 もう1回言いました。大事なことなので2回言わせていただきましたけども。 もう1回言って。 5回くらい言うからね、大事なことはね。 言わんとすることはわかりますよ。 結局、環境の方をいじっていこうよっていう感覚とかがないと、 無理が生じるというかね。 我々の身体の限界とかもあるわけで、 そこまでマネジメントしなければいけない状態になっていることに、 ちょっとさ、おかしいなと思えよっていうところでした。 職場のアフォーダンスだけでさ、 場作りだけで上手く回らないんだったら、 そもそも一緒にいるべき人同士じゃないんだよ。 そうそうそうそう。 研修に次ぐ研修を入れないと回らない組織なんておかしいじゃんだって。 なるほど。 そうね。それはそう。 軍隊じゃないんだから。連兵しないと動かない組織って何なんだよって。 俺は仕事をなめてるのかな。 俺が分かってないだけチームで働くことの痛みを分かってないだけ僕が。 でも僕は身体的に愉快なチームにしか働いてない。 それでいいと思うよ。それができる人と、 僕フリーランスだから苦手な人とかできない人もいるからさ。 そうは言っても、そういう組織なんですとか。 でもね、俺は今の話はやっぱりね、 どれほどみんなにお前はフリーランスだから 正社員の痛みが分かってないんだって言われようが、 俺は言い続けないといけない。 そうじゃないと、そもそも、 現代社会の中でビジネスをいかに最適化するって 発想が間違ってたんですねっていう国民の合意がなければ 社会が変わんないじゃん。 そういうもんなんだよって言ってね、 いう大人がいるわけでしょ。 そうじゃない。人間存在っていうこのね、 20万年のホモサピセンスの歴史を踏まえて 組織を考えなさいと。 じゃないと本当に眠れなくなって、 民罪飲みながらじゃないと寝れなくなるよ、人類っていう。 結局俺も歴史を振り返った時にさ、 どれくらいの人と関わることができるのか っていうことを考えて、 うちは制度数はこれ以上にはしないですよとかさ、 従業員はこれ以上にできないですよ っていうことをマネジメントしてるんだけども、 小さい企業で、例えば漫画マネジメントが必要です、 社員何人なんですか、5人です、 それは根本的に間違ってる。 全然ダメなんですよ。 考え直した方がいいし、潰れた方がいいかもしれないんだけども、 例えば社員が200人います、500人います、1000人いますってなったら、 それはマネジメントをして、 入れないとね。 入れないと厳しくなるっていうのは、 ちょっと人間の限界を超えてるんだよ、組織の大きさが。 大能心必須のキャパシティを超えてるのはわかりますよ、もちろん。 それだけの大きさだから回ってるものっていうものがある。 ある時に、じゃあどこまで許容するのっていう話ではあると思う。 あとはそれってさ、国家の話でもあるとしたら。 国家ってその大きさに決まってるわけでしょ、もう。 村の話だとか、町内科の話をしてるわけじゃないから、 じゃあそうなると、国家全部解体しろよって、 それこそ穴あきずむんだって。 悪い報道がね、穴あきずむんやっちゃうね。 だから今それなりにまとまりっていうものが、 歴史の中でできちゃった以上、 その中でポジティブにマネジメントする方法を模索するってこと自体には、 俺はあんまり後ろ向きではない。 だから根本的にはしーさんが言ってるように、 それはそうだと思う。 だから200人、300人、あれば1000人を超える大きな企業でのエンタープライズってのは、 そもそも人間のキャパシティを超えてるんだって認識から、 それはできるでしょ、そんなもん、みたいになってるから苦しむんですよ、みんな現場。 そうね。 で、やっぱり危ないのは、 じゃあその辺のマネジメントをAIに任せますよみたいな話が普通に出てきてるわけですよ。 日本のそれなりの有名企業でも、 もうAI役員を入れようって話が動き始めてるわけで、 さあ、どうする?どうなる? このどうするどうなるのが、 昔みたいに100年後とか200年後の話じゃないからね。 それはね、2,3年だよね。 数年後どうなってるの?っていう話だから、 目を背けてるわけにはいかないなっていうところだよね。 だからやっぱ、 自分で言うのもだけど、僕の身体は時代を見てるのかな。 その愉快な身体っていうキーワードを内田さんとざっと喋ってたっていうのは、 ある意味多分ね、そこが今論じるべきテーマな気がしたんだよね、多分。 愉快であること、それが身体に目指した、 全東洋由来ではなくて、もうちょっと身体全体の… そういう時ってことはさ、 チーさんが東洋哲学なんぞやみたいなところに引っかかるっていうのも、 結局西洋的な哲学って精神なのか身体なのかっていう2つがあった時に、 その間にコンパクトってものが存在するわけですよね。 タツルさんとかコンパクトの話とか出てきたんじゃない? そういうニュアンスのテイストっていうのをつなぐもの、 そもそも違う種類のものとしてそこにあるよ、みたいなさ。 内田さんがね、魂って言い方知らなかったけど、 ディグニティという言い方が一緒だね。 意見尊厳。 つまり師匠みたいな人がいたとしても、 カルトになることもあり得ると。 同じその、熱狂させるとか、 この人こそ私の師匠だと思わせる力はカルトの… そういう代表も、本当に素晴らしい武芸ごとの師匠も、 同じカリスマ性を持っていると。 しかし、本当にまともな師匠というか師というものは、 その弟子のディグニティ、尊厳に絶対傷を付けない。 そこには絶対触れない。 なるほど。 でもカルトはむしろ、 だからお前、君はこんな人生だったんでしょう、みたいなケチョンケチョンにして、 私はやっぱここに消えしなければ、という風に絡めとっていくっていう時に、 カリスマっていう時の人をちゃんと導くカリスマと、 人を堕落させ絡めとっていくカリスマ、 カルト的なカリスマっていうのの違いは、 相手の尊厳というものに手を振れないか、 ちゃんとそこには絶対確保するという態度があるかという時に、 確かにね、今の話聞いて思ったのが、 カルトになりやすさっていうのがあった時に、 本質的には仏教観ってカルトにはなりにくいはずなのよ。 それは縁起と空みたいなものがあった時に、 要は独立した実態なんてものは存在しないよっていうのは空なわけで、 全部は全ては関係ですみたいなところ。 じゃあ対象も私も空なわけで、 空が空をどうにかするとか、 どやかく言うみたいなこと自体が成立しない話なんですよ。 なのにも関わらず仏教系のカルトがあるのは不思議よ。 不思議よね。 やっぱり人間の愚かさというか、人間の弱さというか、 言葉の充実性というか。 そういうところはあるしね。 この毎月の対談もキーワードがそういう。 多分西洋一神教的キラキラみたいな話は最近全然しなくて、 一神教からこぼれ落ちる謎めいたワクワクみたいなものを 僕はいつもヤンギさんに投げてるつもりで。 それで東洋哲学っていうのにやっとたどり着く気がします。 一神教からこぼれ落ちるワクワクはいい言葉だね。 だって今全部一神教の枠組みの中じゃん。 今日も中学生チームに、この辺教諭現代学にもやったけど。 上が良いものであるっていうのは西洋的な砂漠的な価値観である。 我々は奥を目指すっていうことに価値を置いてるじゃんって話をして。 なるほどね。 多分だから言い方違うけどデリナとかもそんなこと言いたかったんちゃう? そう、多分デリナとかバタイオとかさ、みんな多分そういう。 でも西洋の差しはすごく、アクロバットをしないとそこに着地できないっていう。 だから東洋思想のすごいところって、いやだから最初から言ってんじゃんみたいな。 西洋の差しは、わかった、こういうことなんだ、20世紀のこれまでの様々な哲学的な話を踏まえて、 エロティシズムだとかバタイオが言ったりしたり、 西洋がゾウなんだって、いやだから最初から言ってんじゃんって多分そういう哲学。 だからこそ西洋哲学ってすげえおっさんはアカデミズムの頂点にいるんだけどね。 東洋哲学ってすげえおっさんは待ち場にいるんだけどね。 だからそういう風になるよね。 謎めいたおっさんが英知を持ってるみたいな。 そういうところ、20世紀のフランスの哲学はやっと東洋がスタートっていったところにたどり着いたというか。 すごい西洋哲学が腐らしてるようになっちゃうけども。 なんでそんな持って回ったことを言うんだろうな、西洋の20世紀のフランス系の哲学者たちって。 違うワーディングだったら東洋の哲学は様々な形で言ってると思うんだけどなみたいな。 グランゼコールの教科書はそうなってますしね。 僕だから最近キリスト教とかユダヤ教じゃなくて、一神教っていう言い方をよくしてて。 一神教の価値観の大枠のポイントってあると、逆にこれぐらい解像度を荒くした方がヨーロッパの思想というか前提がよく見えてくるというか。 面白いよね。逆にぼかした方が全体がよく見えるってあるなと思ってて。 基本的にキリスト教の勉強しようとか聖書の勉強しようとしたら解像度高い本ばっかなんだよね。 うまくふわっと見せてくれるもの。つまり一神教ってそもそもこういう考え方をするのだみたいな。 ところからその横に東洋っていうのはね。それが僕はキリ学者の本だったんだけども。 上じゃなくて奥なんだよね。 ふわっとした文は否定する文化だからね。 そうなんだろうね。機密の方が偉いってことは。機密の方がリーダビリティ下がるんだよね。 今全体のどこの話をされてるか分かんないじゃん、諸学者が。 そうだね。 いつも言ってる文句だけどさ、モースの贈与論に対する言及がない。 贈与って言ってるくせにっていうね。 なんなの、先行復帰後ちゃんと第一章第二章でこれまでの贈与論、贈与論の現在、贈与論のこれからみたいな立ちつけにしないとダメっていう。 あの文化なんの? 模擬研究所から習っていきなり核心から話せって言われてるから。 なるほど。いいんじゃない?それで。 学術研究のお作法なのかな。総論としてレビューをして。 要は結局ちゃんと全部踏んできましたよっていうことをちゃんと知らしめないのは礼儀に反するっていうか、それじゃあこっちが評価できないじゃないの? 論とはいいよ、それで。 市販の本がさ、一般書がさ、読み物としてそんなになってた本がさ、文化人類学、呪術、贈り物には礼が宿ってるんだってふーってなっちゃうじゃん。 第一章にハウスという霊が宿ってるのに書かれちゃったらさ。 マジック・ザ・ギャザリングの話かなと思われちゃう。 なるじゃん。 マナーがね。 だから僕はあえて一般書だったら、マルセル・モースだって贈与論であのモチーフ読めば贈与論にたどり着くじゃん、全員。 確かに参考文献に入れててもよかったかなって思うけど、別に俺そんなにモース参考になってないんだよ。 横目で見て、なるほどねと、そういうこと言ってるんでモースさんはと、読んだよと。 だしあれ読めばモースを読んでることわかるじゃん。 なのにモースがないからって、それはお作法に反してると怒られたみたいな。 マナー講師に怒られたくらいの怒られ方だと言ってたから。 まあそういうことでしょ。 勝手なルールを作れよってみたいな。 アカデミックなルールっていうのもさ、結構勝手に言ってる人が勝手に言ってるだけでさ、アカデミックな世界でもそれでいいんだよっていう人たちっていっぱいいるわけじゃない。 やっぱり贈与論っていうそのフィールドがあるのが問題。狭いフィールド。 俺みたいにディベラルハウスって言っちゃうと、もうなんか、そもそも海船に合わせんの世界だと思われてる人もあるけどね。 贈与論って一応20世紀のモースから、マルノフスキー、モース、マルセル・モース、レビンストロース、デリーがレビナスみたいな。 そう、そう、そう、そう。 俺も言えるんだよ、こういう系譜が。 そりゃそうなのよ。そりゃ言えるでしょ。 だいたいこの論者がどんなキーワードで贈与のこと言ってくるくらい、ちゃんと見てるんだよ。見てるけど、それをさ、説明してさ、俺いい子ちゃんですよって文章になるだけじゃん、そんな本当に。 だから結局それイントロが投げるって話でさ、パンクに行かないと届かねえんだよって。要は世界を変えようと思ってるかどうかの切実さっていうのはそこに出るんだよ。 本当になんか世の中を変えようと思ってるんだったら、パンクに行くしかねえっていうのは。 言いたいことから言え。一番大事な問いから言えって言うってさ。 そうなんだよ。 いや俺もだからさ、遊び論もね、ホリジンガーと海洋は経由せずに言ったろって思ってるんだよ。 海洋は使えると思うよ。 ホリジンガーはね、うん、大丈夫。 海洋はね、ちゃんと遊んでるんだよ。 アレアとイリンクスを入れたあたり偉いよね。 しかもあの人も石が大好きだったりタコが大好きだったりとかね、完全に遊んでるんですよ、あの人。 海洋はね、俺はモースはやっぱね、俺の世の中にとってモースはちょっと邪魔だったけど、 海洋はね、めっちゃ使える分類というか。 いい感じだね。 ね。そうそうそうそう。 だから例えば柳田邦夫がね、ちょっと真面目すぎるのと同じような感じで、ホリジンガーは。 そうね、脱車前としてるよね。 そうそうそうそう。 海洋は結局ね、海洋の解説はしないけど、海洋によるとこういうことを言ってて、これは非常に使えるなみたいなことを絶対言い終わしちゃうな。 なるほど。 ホリジンガーは真面目ですねっていう風に。 でもまあ、その遊びっていうものに着目したの偉いですねっていうような。 そう、モースに対する感覚と同じかな。 なるほどね。 そのように着目したの偉いですねっていう。 真面目ですねっていう。 そこで、世の遊びを作ってる人たちとかさ、世界中の人がやってるようなゲームを作ってる人たちはどれくらいホリジンガーを読んだのかっていうと、 知ってはいるかもしれないけどね、そんな真面目に読んでない人が大半でしょうよ。 そういう人たちが実際に遊びの現場で遊び作ってさ、みんな遊ばせてんだから、 本当にアカネズミズムの文脈をたどらなければいけないみたいな奴は、アクスは本当にいらないよね。 いや、論文書くならそうよ。 なんでそのお作法を一般書にまで適用するのかなと。 何のために論文じゃないのかってところですね。 そうですね。 だって売り物だしさ、論文はあれにね、学会費だけ払っても誰でもアクスできるわけでさ、 1枚いくらって値段についてないわけじゃん、読む側は。 本は読み物である以上さ、表出しというか謎かけとか問いとかさ、遊びを仕込ませてないと、 逆に真面目に論じる方が失礼だと思うっていうね。 真面目なことを知らない人は上でね、書くか書かないか、それを表出して論じるか論じないかってことね。 別に勉強しなくても適当な本を書きゃいいってわけじゃもちろんなくてね。 僕みたいにそういうの分かった上で、あえて誰も言及しないっていうね。 だって固いんだもん、全部、さっき言ったゾウ野郎の人が。 固いの担当の人がいるのはいいじゃん、大事なことに。 確かにね、ゆるいものを書くときにもちゃんと目配せばしてるよ、読んでるよ、ちゃんと。 レビナスが、レビストロスがどんなこと言ってたのかなみたいな。 ほら、ゆるいの担当だって言ってきながら、このゆるくないラジオですよ。 まあ、パンクだからね。 パンクだからね。そりゃいいよね。 今日途中でだいぶ俺、はっちゃけてなんか言っちゃった。 今日ちょっとはっちゃけて言ったけど、なんかあったの? わかんない。 そんなわけで。 終わんない? 終わんない、終わんない。 わかんない、わかんない。 わかんない。 なんかまだ言い残したことがあれば。 いや、まあ、アフタートーク行きでしょ、じゃあ。 全然東洋の走りかどうか知らんけれども。 まあまあ、でもまあ、それなりにチーさんのパッションは伝わったんじゃないかな。 これはさっき言うね、心境からこぼれ落ちるものっていうものにつながってもあれば、遊びもあるし、なるだろうし。 そうですね。 まあ、セミでもある意味。 いい仕方じゃないですか。 じゃあ、そういうわけで。 ここまでで一旦締めたいと思います。 皆さんお疲れ様でした。 ありがとうございました。 ありがとうございました。 ヤギでした。 近内でした。 どうも。 もっと見るリベラルアーツ探究実践Radio矢萩邦彦|ArsCombinator44:461.【対談】近内悠太✖️矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』東洋哲学編コメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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