TOPトーク専門家リベラルアーツ探究実践Radio【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』アートとデザイン編39:41 9月8日 42再生 問題を報告する 再生する シェアする デザイン的な近内とアート的な矢萩。2人の根底にある違いが見える対談になっています。ぜひ。AI目次パスポート写真に見る自己変容の軌跡軽視されるデザインの真価とはアートは問い、デザインは答え?“ずるい理論”が示す自己肯定感の正体アーティストとデザイナー、それぞれの哲学AI文字起こし(β版) # 【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』アートとデザイン編 はい、みなさんこんばんは。ヤハギです。そして、近渕です。 はい、というわけでですね、また久しぶりに、1ヶ月ぶりに2人揃いましたけれども、今日はどうですか? 今日は?最近はどうですか? 7時9分、訂正会。 いやいや、ちょっと広くした方が答えやすいかなと思って。 いや、そう、やっとだから、次の本のもう完全に公了?席了?終わったんで、もうなんか、逆に今空っぽなんですよ。 次どうしよう?何を論じていこう?っていう。なんか本を読むのも、なんか何を読もうかな?みたいな、ちょっと今フワフワです。 なるほど、というわけで知事さん、公了というわけでおめでとうございまーす。 おめでたいので、ちょっと乾杯できちゃいましょう。 8月20日ぐらいに、あと1ヶ月後、もう1ヶ月切ったのか。 雑魚を巡る旅というタイトルで。 はい、おめでとうございます。雑魚を巡る旅ですよ、みなさん。やっぱね、旅しないといけないですね。 本当に旅行ったんですよ。ペタパーじゃなくて、本当に日本の4カ所を巡りまして。 なるほど。 慣れない旅エッセイ的な書き方も多少。 でもなんか、みんなが羨ましがる仕事ですよね。 旅で仕事をしながら。 色々仕事をしながら。 僕、家から出たくないんだよ。 だよね。そこなんですよ。 人生は面白いものでね。 そういう人にばっかりそういう仕事がいくっていうね。 そうね。 どうせ旅する人はほっといても旅してるからね。 引きずり出せる。 引きずり出す。 普通だったら旅しない近うちを連れ出して、何か言わせることに価値を見出したわけですよ、編集者さんはね。 そう、ちょっと変わった本で。 あとそう、だから8月、来月ね、韓国にも仕事で行きました。 おー。 パスポート取りましたよ。 ついにパスポートを。 あらららら。 どうですか?顔写真は納得いきました? これまでだから、17歳の時に取ったパスポートもあったから、どんな顔してたんだろうと思ったら、 ブチギレてる顔なんですよ、17歳の時の。 ロックですね。韓国精神だね。 何か恨みでもあるんじゃないかっていう、テロリストみたいな顔をしてて。 今40歳になって自分で取った写真だと、なんかファニーなおじさんになっている。 なるほど。 いい感じに仕上がってきたなって思いましたね。 なるほどなるほど、ファニーなおじさんね。 ブチギレてた17歳の僕からの。 本当にムスッとした顔してるんですよ。 なるほど。 いろいろあったんだろうな、当時と思うような。 パスポートで写真から思ったりとか、そんな今日この頃の。 なるほどね。そうかそうか。 丸くなるんですね、人間ね。 本当に目つきが違う。 中身も丸くなったと思う? どうなんだろうね。 丸くというか柔軟にはなったかもしれない。 一つの原理原則では動かなくなったな。 複数の原理を組み合わせて動けるようになった。 僕はそれがアナキズムだと思うんだけど、 つまりその都度その都度その都度じゃなくて、原理原則をちゃんと自分のある変え方で変えることができるっていう。 一つの原理主義で突っ走らないっていうのも結構大事なことなんじゃないかな。 そこにはランダムではなく、ちゃんと説明はできる。 高校もだからこの原理に今回は従ったってちゃんと説明ができるみたいなのが僕は、 10代とかにはできてなかったなーって気がしますね。 そんなに慣れないことをたくさんやってると慣れない事件がいっぱい今起きてるんですけど。 ラジオの皆さんには聞こえないのがラジオのいいところなんですよね。 なんかバタついてるな。 なんかバタついてるなって。様子がおかしいぞっていうね。 なんかフワフワしてるぞ今日はみたいな。 そこの想像力を埋めるからラジオって思わず聞き込まれるというか聞きますよね。音だけ。 なんか今あったなみたいなことはちょっと伝わったりするじゃない。 なんか謎の間があった。 明らかに何かやりながら今喋ってただろうみたいなね。 さあ、そんなわけで今日は何の話をしますかね。 僕はちょっと最近、デザインって言葉をちゃんと僕らは考えた方がいいんじゃないかと思っていて。 近接、追概念でやると例えばアートがある。 デザインがある。 アートは高尚で美しくてすごいみたいな。 デザインって結局マーケットインでしょみたいな。 クライアントワークでしょみたいな。 そうじゃなくて結構デザインってもっと奥深いし、もっと僕らのそばにあるし、 僕らのすごくそばにあるのにすごく軽視されてるというか、 その価値が見えてないんじゃないかな。 なるほどね。 じゃあどちらかというとデザインの福建じゃないけどね。 やっぱりアートの方が高く見られてる傾向があると思ってる感じ。 そう見える。 なんかね。 俺は音楽とかやってるから、 例えばアーティストっていう言葉一つの、 昔重かったのに今軽いなみたいな。 これ猫も尺子もアーティストなのか?みたいなところがあるんだよね。 なんかずるいごまかし方をしているみたいな。 例えばこれね写真の世界もそうなんだけど、 カメラマンなのかフォトグラファーなのか写真家なのかフォトアーティストなのかっていうので、 全然このニュアンスが変わってくるんですよ。 一番技術的に問題がある場合にフォトアーティストって言われたりするんですよ。 一番ふわっとできるというか。 音楽の世界も割とそうで、 一番すごい人と一番技術的にスキルが足りてないなっていう人たちはアーティストって呼ばれる傾向がある。 真ん中はミュージシャンとかプレイヤーとかいろいろあるんだけども、 アートっていうものの謎の広い幅に対してデザインが結構狭い。 でも、例えば音楽でミュージシャンが作曲、作詞作曲をするって、 あれに言葉をデザインして、曲をあれば音階というかメロディーとリズムをデザインしてるっていう風に僕感じるというか言える。 でもそれは作り手がどういう気持ちでやってるかで、 例えばミュージシャンでも歌詞を書くにしても曲を書くにしても、 マーケティングして書く人たちっていうのはいっぱいいるわけですよ。 今この手のリズムが流行ってるなとか、 ウレセンの曲にはこういう歌詞が入ってるよねとか、 そういったものを分析した上で作ってる人は割とデザインチックなイメージにはなるよね。 それ僕の場合デザインというよりも設計なんですよ、そうなると。 設計。 アーキテクトってこと? そう。 だって図面に引けるわけじゃん、それって。 そうだね。 デザインって設計とアートの真ん中にも僕デザインがあるっていうか、 つまり半ば意識的だけど半ば身体的っていうか。 なるほど。 よく探究の世界でとかSteamの世界でアートって何みたいな話ってよく聞かれるんだけど、 僕はやっぱりアートっていうのはどちらかというと問いに向かってる行為で、 デザインは答えに向かってる行為であるというような説明をすることが多いんだけども、 今のチーさんのあれだと設計が答えに近いのかな? そうだよね。 予見できるというか、地点がもう見えるとか、 全体の図面が引ける。 ビジョンがあって、そこに近づくためにそれを完成するというか、 達成するためにどうすればいいのかっていう手順があると。 そうするとそれがガチガチになると僕はデザインというよりもそれは設計、実装みたいな。 デザインってもうちょっと読めないというか、 もうちょっと心に従ったら何か出てきた。 確かにこれでも自分がデザインした。 自分がこの順番に言葉を配置し、具体例を配置し、授業を作ったっていう。 当然、成果物から見ると設計って言えるんだよね。 こうやって僕は授業を設計しました。 一冊の本も僕は設計を確かにしましたけど、 それは、 それ多分さ、設計の中に自分が入ってるかどうかっていうところが大きくない? 自分というのはどういう自分? 自分自身が。 例えば、設計図があれば誰でも同じものが作れますような設計なんだけど、 デザインはこれ、自分で授業設計をして自分でやった結果、 まあどうなるかわからないよねっていう不確定要素としての自分が入り込んでるじゃない? それが多分今チーさんが言ってたデザインっぽい感じなんじゃない? ある半ば予想がつくんだけど、半ばやってみないととか、 授業終わったら、こういう授業も今日僕は設計してたんですって自分的には言えるし、 本も書き終わってから、 これはこういう本、こういうつもりでこの第1章から前書きからこうやってこういう構成を、 構成化とかを設計してたんですよねって言うんだけど、 僕は設計って言うと相当意識的、意図的、計算的な気がしていて、 デザインってもうちょっと見えないものに暗闇に手を伸ばしてる感じがあって、 僕はそう、アートとデザインってそんなに差がないと思ってるっていう。 テクニックはすごい距離があるけど。 なるほど。 なんか例えばじゃあ、有目的性みたいな話もあるわけで、 アートはどちらかというと何かの役に立たなくても別にいいっていうか、 そういうところじゃないって。 でもデザインは何らかの目的のために作っているっていうところがある。 そこぐらいが違うっていう感じ? そう、目的とかゴールは見えてるんだけど、道が見えないと僕はデザインって言うかもな。 ああ、なるほどね。 こういう感覚、こういうことを論じるはずなんだはわかるけど、 どう論じるの?それをどう書くの? じゃあ本に関しては全く同じだ。 で、ある地点というか、あそこに行くんだって、 ああいうものが出てくるはずなんだって体感はあるんだけど、 どういう風に書くとそこにたどり着けるの? どちらに同じ風景を見てもらえるの? 書いてみなきゃわかんないみたいな。 そもそも我々は探究的な一面があるから、 自己目的的なことしかあんまりやらないみたいなところがある。 それが好きだからやってるとか、意味があると思うからやってるっていうところで、 でも出版社から依頼されて執筆するときって圧倒的に目的があるわけじゃない。 それに向かって自分がやったときにどうなるかわかんないし、 どうしていこうかなみたいなのはすごいデザイン的と言えるのかもしれないよね。 なるほど。 僕結構授業もそうだし、本もそうだし、今日このトークもそうだしけど、 全部デザインをしてるって感じがある。 なるほどね。 全部僕なりのデザインなんだけどなっていう。 そうかそうか。 僕はこの番組に関してはだいぶアートに寄ってんなと思ってて、 何か役に立つかどうかさっぱりわかんないけど、 確実に無意味ではないと言えるのよ。 絶対何だかの意味があるし、 特定の仕様法とか用途には全然回収されるようなことやってませんよっていう。 自由に使ってください、自由に切り取ってください、楽しむだけでも構いませんし、 批判的に見てくれてもいいと。 だから何か意味のまとまりがあるような感じにはしてるじゃない。 毎回一応テーマがあるとか、この二人で喋ってるようだとか。 だけどどういう風にでも撮れますよっていうのが、 カントっぽいというかね、ああいうところはあるのかなっていうイメージでやってた。 デザインじゃなくてアートに近いと思ってたんだけど、 知事さんはデザインに近いと思ってやっているっていうことだよね。 そういう意味で僕デザインって言葉は、 松岡誠吾さん的な意味では編集とほぼ一緒なんだ。 ああ、そういうことか。 僕はこのトークは編集的だと思ってる。 即興的で編集的。 それはそうだね。完全に編集はしてる。 編集してる。 全くのランダムじゃないじゃん。 お互いの言葉に触発される次のが紡がれていって、 それが二人の身体があるからすごく即興演奏的に、 つまりちょっと逸脱なことが起こるけど、 小さい編集の試合を、 編集をお互いが出したものを、 僕はこういうことだと思って、 次はこっちの編集だと思うんだけど、 紡いでいってるっていうので、 まさに僕はデザインしてる気がするんですよ。 確かに。 相互編集でね。 しかも同時発的というか、 同時進行の編集の実況中継というか。 なるほどね。 インタラクティブシステムオブインタースコアというのが、 イシス編集がこのイシスの意味なんですけど。 ああ、そうなんだ。 ちょっと今、単語長かったから。 そんな感じだよね。 具体的には、なんだっけ最初の。 インタラクティブシステムオブインタースコア。 インタースコアってなんだっけ。 インタースコアっていうのは、 それぞれに、 ひっかき傷をつけていくみたいなような語源なんだけども。 それぞれにコミットして、 なんていうのかな。 要は対話になってるって意味なんだよ。 会話ではなくて対話であるみたいな。 合わせ重ね競い競いが今のスコア。 今イシスのページしか出てこないんだけど。 他の語源が出てこない。 松岡成吾っていうキーワードが出てきたので。 増語なのこれは。 増語なのかな。 普通に使ってるからさ。 もはや分かんなくなってきて増語か。 増語っぽいんだって松岡さん関係のものしか出てこない。 じゃあ成吾五六なのかもしれないな。 割とそういうのあるからね。 でもインタラクティブなシステムなんだよね。 そうシステムなんだよ。 システムって僕は硬直化したイメージがあるんだけど。 でも二つの二体問題っていうか。 オーガニックなものなのよ。 すごく創発的というか。 閉じた系か開いた系かって話でしょ。 だからさっき並べた言葉ってなんだっけ。 インタラクティブシステムオブインタースコア。 言葉の感覚的にめっちゃそこに入ってきたから。 2回聞いたら言えるようになる。 頭の中でイメージはそれって言ってる。 1回も言ってて間違えてたら笑う。 掘られたりしてる。 奥の場所が違う。 あとSがついてる。 僕だったら変身っていうのをもっと僕は。 松岡成吾さんとちゃんとしたら教えを受けてないし。 本物結構下流なんだけど。 でも前に僕が一冊目書いた時に八木さんに。 3つ以上の普通繋がるはずのないトピックを1個に論じることができたら。 僕それが結構大事だと思うんですよねって言ったら。 それが松岡さんの言ってる編集だねって言って。 うんってことですよねって。 僕もそうなんですかじゃなくて。 やっぱそれ大事ですよねって。 繋がるはずない3つ以上。 2つじゃ繋げられるんだけど。 2つ関係ないものを並べて1個にトピックとして論じることができたら。 めっちゃお乳なものが。 そうなんだ。 オリジナリティって何って言った時に。 クリエイティブだとかゼロイチだって思ってる人はすごいハードル高いんだけども。 3つのものの影響を受けましたっていう。 その3つを挙げた時に。 それ多分他のクリエイターとか他の作家さんと多分かぶんないよねっていうことなんだよね。 オリジナリティをすごい難しいなと思ってる人は好きなもの3つを意識すればいいだけなんだよ。 しかも好きな人とか好きなものとか3つ意識して。 それに自分という要素が加わったら同じにはなりようがないわけなんだよね。 僕の1冊目はウィトゲン主体と雑魚論と小松佐紀夫っていう。 上手い子がハマってたよねそこがね。 これ雑魚だと思います。 これがウィトゲン主体の議論もそうだし小松佐紀夫が言ってることもそうだしだから 3つは不可分で分けがたく僕の中では繋がってるように見えるんだけど 多分普通のこれまでの議論で言うとこの3つが1個に抱き合わせで出てくるってないよねって言うけど 僕は1本の糸に見えたんですよ。 そこそこまさに僕はこれ編集であるデザインだと思う。 かなり身体的にこれ繋がるはずなんですと。 繋がることは分かってる。結論は分かってる。 ただどうしたらその3つが繋がるかが見えない。 だからどう議論していこうかっていうのがさっきの本を書く時の感覚っていったのはそう。 アートだとかデザインだとしてさ、デザインの完成はいつなの? 自分が納得したらなのかな? なんかね俺アートはそうなんだと思うのよ。 なるほど。 だけどデザインってやっぱり届いてなんぼみたいなところがあるから それこそなんか雑魚的かもしれないけど誰かに受け取られた瞬間に 初めてデザインとして成立するみたいなところがある気がするんだよね。 僕のずるい議論はね。 僕は多分この感覚なんだけど 自分の中に過去の自分と今の自分が2人いるんですよ。 過去の自分に届いたら あ、お前が本書きたかったのはこれだったのねって 僕の俺が納得してるっていうか。 書き始めた時の俺が そう、これが書きたかった、これが言いたかったことなんだよ 未来の俺ありがとうって言ったら届いたなって。 デザイン受注ができた。 これ次さん次の本、近内ゆうさんのずるい理論っていう。 これどの世間を捉えてるかって。 これyoutubeで多分ね、バズル系の企画だと思いますよ。 近内ゆうさんのずるい理論。 ずるい理論って。 ずるい雑魚でもいいよ。 雑魚なのにずるいって何?っていう。 だからゆる言語学とかゆるなんとかって流行ったじゃん。 はやってるし。 ずるなんとかね。 ずる言語論。 ずるい心理学、ずるい経済学。 あったなあったな。 ずるって今可愛いじゃん。 ひらがなのずるって可愛いって。 小さとも違うんだよね。 ずるいってもうちょっと頭がいいっていうか。 ちゃんとやんないと。 これ以上やったら邪悪だけどここまでは許されるよね。 てへぺろみたいなところがずるっていう。 露呈しない。 違反にはならないんだけどみたいな。 ごめんなさいって言いながらやってるみたいな。 ずるいってキーワードはちょっとそうね。 大人はずるいんだよみたいなさ。 大人ではないとずるくできるんですか? 本人たちずるいつもりでやってればずるなのか、 ずるいつもりでやってなくてもそれはずるだよってことになるのかみたいな視点って結構今後大事だと思うんだよな。 僕なんか本人たちがずるいのはわかってるよって言ってやってるのが僕大事な気がするっていうか。 遊びって遊んでてずるいじゃん。 あんたたちだけ遊んでてみたいな。 でもやっぱ楽しさってずるさの中にあると思う。 じゃあ遊びって何?っていうところだよね。 やっぱ真面目な側から、仕事とか側からするとずるに見えるっていうか。 それで楽しむってなんだよみたいな。 じゃあ例えばデザインではずるできそうな気がするんだけど、アートでずるってできるのか? アートにずるはない気がするね確かに。ガチというか。 コンテンポラリーアートとか見てるとずるくないって思う作品って正直たまにあるよね。 だけどそれは多分その文脈を知らないからずるく見えるっていう可能性はあるなっていうのは分かった上で、 でもずるくないって思うのはあるんだよね。 やっぱり現代アートの世界って先に言った文書みたいなところがある。 先に、むしろ今まで誰も言ってない概念を提唱するとか、新しい組み合わせを提示すること自体がアートなんだよって言ったらそれはそうなんだけれども、 その辺がなんか。 分かった俺ね。アートの領域におけるずるいって、それはメタだけじゃんっていう。 メタやれば新しいよ。でもそれずるいじゃん。 大体言ってることでしょ。 舞台裏を見せることによってひとつの作品だってそれはずるじゃんっていう。 それはメタなだけじゃんってなって俺はそれはずるいなっていうか、 それはずるというかチートって気がするな。 言っちゃおしまいなのよっていう気がするかな。 言っちゃおしまいなものを明かしていくみたいなやり方。 今までみんな言っちゃおしまいだから言わなかったのに、なんか初めて出したらそれがものすごく受け入れられてすごいバツたりするじゃない。 エンタメの世界とかテレビの世界だと、トンネルズがやったやり方なんかまさにそうだったと思うんだけれども、 普段見せない舞台裏っていうものの臨場感だとかコンテンツ性だとか、スポットライトが当たらないもの、人、ことにスポットライトを当てて、 実は裏ではこうなってたんで、こういう人がこういうことやってたんですよっていう風にするっていうね。 でね、すっごい話を戻す。ちゃんと戻せるんだけど。 今回は。 さっき何でずるいって話言ったかっていうと、デザインは受け取りに届いたらデザインが完了するというか完成するって話で、 自分の中に書く前の考え始めた自分と考え終わった後の自分っていうのが2人、時間的な2人がいると思ってて、 僕やっぱ自分が作ったものとか本書いたり喋った時に満足って、書き始めた時の自分が、そうそうそれが聞きたかった、それを書きたかった、むしろそれを読みたかったんだよって、 その後の自分が言ってくれそうなものだと、あ、うまくデザインができた、自分が言いたかったものはこれだったんだって発見して、 そうで外から見ると、それつまり設計したんですよねって。そういう意図的に計算できたわけじゃないみたいな。 計算じゃなくてそれ感覚だよね。僕がやってきたのはもう例えば授業だったら、こういう授業が受けたかったっていうところを目的にしてきたし、 本なんかで言ったら正解のないとしたら完全にそうなんだけども、自分が中高生の時こういう本を読みたかったっていうのを目指して書いたところがあったから、 それってやり始めると分かんないんだよね。書いてみて違和感とか、違和感が今ちーさんが言ったような話で、過去の自分だったら違和感を覚えるだろうなみたいなことなのか、 やっぱりズレはあるんだよね。今の自分は違和感あるけど、過去の自分だったらこれ納得するんじゃないかなと。 他者へ届く時に、自分の中にも他者って結構複数いるよっていう。 先に僕の自分、今の自分、未来の自分を見て、 未来の自分もいると想定してっていうことだよね。 書き始めてる時は未来の俺が書き上げるであろう、これをみたいな。明日の俺が頑張るはずだみたいな。 そこの複数の自分の信頼関係、 過去、現在、未来の自分の信頼関係のことを自己肯定感って言うんじゃないの? 時間軸上の複数の自分の合意形成みたいなところが必要であると。 要は半年後に俺はきっとこの本、今まだ全然書けないけど、きっと半年後に俺は書いてるはずだっていう。 未来の俺、オツ!っていうのが自分に対する信頼。 今まだ自分は見えないんだけど、この本をどう書いていいかわかんないのが、 おそらく俺のこの感覚的に半年後の俺は書き上げてるはずだ。 未来の俺、行け!頑張れ!みたいな。 自分の一部っていうか、自分のアルタエゴっていうか、 自分の中にある複数の断片に対する信頼関係で自己肯定感ってそういうことを言うんじゃないの? そうかそうか。全然合意形成じゃねえな。信頼感だな。 信頼の話だな。確かにそうかもね。 過去の自分に対しても、あの時お前だって頑張ってたもんなっていうのって信頼というか。 確かに。 あの時、あんだけ頑張ってたんだからできなかったらしょうがねえじゃんって。 慰め、過去の自分に対しても慰めて入ることができるじゃないですか。 それだから自己肯定感って感じがしない? 過去の自分も愛せるというか、お前あの時頑張ってたんだからいいじゃねえかよみたいな。 そうね。そこでアイデンティティを変に統合しなくてもいいよね。 そうそう。慰めるってことは別人だから慰める。 この感覚すごい大事な気がするんだよね。 自分の中に複数の自分がいて、そのお互いが、あれはダメだぞとか、あれでもよかったぞとか、お前大丈夫だからみたいなの。 これ自己肯定感って複数の自分が、お互いのお互いを大丈夫あいつはって言ってあげるっていう。 ああ、なんかわかるなあ。 これ結構新しい人間感っていうか、ガンブリ哲学でもさ、わかんない?ニシダキタロウとか言ってたかもしれないけど。 似たことは言ってそうだけどね。 西洋にはない気がする。自我が分裂してるっていうか、自我を分裂って多分西洋は捉えるから、共存するんだよ全然みたいな。 ミスラっぽいやん。 未来の自分が回収するっていう感覚はすごく今、現在、僕は自分自身が今それをやってるのよ。 20代の時に置き忘れた石を拾いに行くみたいなことを、いろんなところでやってるのね。 それってそうなんだよね。 かつて想定していた未来の自分っていうのが、過去の自分がそこに置き去りにしたものを、もう一回取りに行く。 もう一回駅のコインロッカーを開けてくれる。 きっと多分そのうち拾いに行くんだろうと思って、お前置いてったよねみたいなところに対する。 過去の自分が今のこの未来にいる俺を、お前は信頼してくれてたからここのコインロッカーに預けたままにしてたってさなんだろう。 ちゃんと取りに来たよみたいなのって。 このすごく時間幅のあるものを自己肯定感って言って。 今の自分が好きってこれ自己愛で、これ自己肯定感、セルフエスティームではないと思って。 セルフエスティームってもっと連続的な、自分の連続体に対する愛というか、喜び。 なるほどな。 そういうところでだよ。近渕優太はアーティストでありたいの?デザイナーでありたいの? アーティストって感覚ないな。良きデザイナーでありたいな。 良きデザイナーなの? 編集しまくりで。 編集者であると。 なんか10年くらい前ロックスターがいいって言ってた気がするんだけど、あれはアーティストじゃないの? めっちゃ良いデザインをする人って。 なるほど。 トッピなデザイナーがロックスター。 アーティストだって言われてても、やってることはデザインではないかってことね。 逆にアートって僕はあんまりピンとこ分かんないかもな。 なるほどな。だからこそアートがずるくなっちゃったりしやすいんだろうな。 デザインと編集が近似地であるということは分かった。確かにそう。 感覚的にもね。 あとだから、生きるとは自分の生き方をデザインすることではないですか? さっき言った過去現在未来の自分がいて、男の信頼、相互的な信頼関係とか慰めたり励ましたりっていう。 誰より自分というものをデザインしていっている履歴というか。 なるほどなるほど。 人生は旅じゃない。自分という魂のデザインというか。 なるほどね。 デザインってすごく僕は、もっと掘ってみたいみたいな気がする。 あと掘り方が分かんない。どこを掘っていいのか分かんない。 掴めない。むにゅっとして掴めない。 デザインってすごくゴツゴツしてるからちゃんと掴める。これだって手にできるんだけど。 アートって前提が脱構築みたいなところがあるんだよ。 ちょっとメタっぽい。最初からメタなのに。 そこからスタートしちゃうから、どうしたらいいのか分かんないというか。 ビジョンになりにくいんだと思うんだけどね。 向こう側って感じがしちゃう。こっち側じゃないみたいな。 僕はアートはなんだか分かんないけど美しいとか、なんだか分からないけどっていう前提があるんだよね。 分かっちゃったらデザインしてんじゃんと思う。 作った人も受け取りでよく分かんないんだけど、美しいね、すごいねっていうのをアートと呼ぶしかない。 多くの人がなんか知らないけどいいねって思うみたいなね。 それで言うとやっぱりこの世界にはデザインしかないと思ってるかも。 思想的にはそうだと思う。そっちに帰結しそうな気がする。 科学的な立場からするとこの世界はデザイン的である。 今はアートかもしれないけど、後でそれはデザインとしてね。 理論があり、ロジックがあり。 美術評論家みたいな人がいたときに、その人が評論してしまうとそれはデザイン化してしまう可能性があるよね。 もっと自然の設立というレベルのデザイン。 要は高いところから低いところへ水が流れるのを僕はこの世界のデザインだと思ってるっていうか。 いや、この世界は非常によく作られてるんですよ。 危ない話。 ちょっと聞いておきましょうか。 物理学、数学やってるとすごいなこの世界の説理はみたいな。 矛盾しねえんだみたいな。 それは妖精調和説的なことですか? あると思う。スピノサ的なものだったりライプリス的なものだったり。 感じるんですよ。 一神教的な意味でもないけど、一なるもののこの世界のデザインみたいなものは感じるんだよね。 人間の視野とか認識論で世界が把握できると思ってないから。 人間の目には混沌に見えるようなものにも明確な説理がある。そこには説理がデザインされてる。 すごく言葉だけ読むとスピリチュアなんだよね。これ今文字起こししたらやばいと思う。 説理がデザインされてる。超アンチ系じゃん。超ニューエイジーじゃん。 上手い言い方してるね。超ニューエイジーじゃん。 ギリギリで練習してくれる。 アメリカンですね。 なるほどな。 知事さんはデザインの人だということがよくわかって、これはやっぱりねアートに憧れを持っているし、 そういう意味ではアートってすごく人知が及ばない領域に足を踏み入れようとしているものだと思ってるんだよ。 全人未踏のところに対するチャレンジというかね。 すごくアナーキーなところがあるし、そうなのかもしれないけどそれを壊したいというか、 その先へ行きたいなのか枠組みの外に行きたいなのかわかんないけれども、 説明されたくないみたいなところを目指してみたらどうだみたいなのがアーティスト魂みたいなところがあって、 そっちが魅力的。 今日これいいテーマだね。 ヤギさんと僕でかなりつっかぶってるんだけど、結構どこかずれがあるこそこの二つが。 僕はデザインがある域地を超えるとアートに変わると思ってる。 はいはい。わかるから。 日まわりを描くときに描き方とか、あるいはあの描き方ってどっかでキリがあってなって、 日まわりを描いて、夜の空がグニョグニョになっているやつとか、自画像とかもさ。 あれなんかゴッホのデザインを掴みながら、ある一定のラインを超えたときに、 作った方にもびっくりしたみたいな。予期せぬところにたどり着いちゃったみたいな。 路地を曲がったらここに出るの?みたいな予期? でもそれはデザインを何度も積み重ねていったというか、 デザインをして、徹底的にデザインを徹底していったらびっくりしたみたいな本人が。 てっきりポンと出てくるみたいな。 それってね、だから絵画の世界でそれやるってとんでもなく俺すごいことだと思っていて、 結局自分の想像を超えることが起こりにくいんだよ。絵画の世界だと彫刻の世界だと。 でも僕は写真をずっとやってたから、写真って実はそれ起こりやすいのよ。 びっくりが。 びっくりが。要は同じカメラ使って同じ場所で同じように撮ったら同じのが写るんじゃないの?って思うかもしれないけど、 無理なんだよ。絶対写んないのよ。ちょっとでもなんか違うから。 この天気でこのシストでこんな感じの光の床にこの設定でこのように撮ったらこんな風に写るの?とか、 想定外のこと。要はあれって自然とのコラボレーションでもある経験で、 全然こっちの思い通りにいかなかったりする。もちろんそれを思い通りに近づけるのがプロのテクニックだったりするんだけれども、 でもそんなことよりも想定外の写り方をすることが俺は面白かったんだよね。 で、そっち行っちゃうとなんかアーティスト寄りになるんだけれども、 写真の方が僕はアートに近い感覚を理解しやすいなと思っていて、 イラストとか絵画とかって結局自分のイメージ通り、技術をそこまで制御していくみたいな感覚があるんだよな。 だから自力と他力みたいな話の、他力がそこにちゃんと、他力があるかどうか。 そうそう。だから抑える。 そう。だから僕がバンドっていう、バンドサウンドっていうのが好きなのがやっぱりそこなんだよね。 自分一人じゃできないことが集まった時に。 オーケストレーションみたいなやつが集まりすぎるとわかんないのよ。 それはわかる人はわかるんだろうけど、僕は情報量が多すぎて感動に繋がりにくいというか、別の種類の感動になっちゃうから。 4人であると5人であると、こうなんの?とか、ここでそうなるんだみたいな驚きだとかっていうのは、 数人で何か物事に取り組んだ時の方が、すごく実感として得やすいんだよね。 アートなの?デザインなの?どっちが好きなの?の議論で言うと、 例えばわかりやすく言うと、バッハはアーティスト?デザイナー?どう感じる? 難しいよね。俺バッハは超デザイナーだと思ってるよ。 でしょ?やっぱり僕もそう。圧倒的な。神に命じられたデザイナーだと思ってる。 神の旋律を聴き取るべきバッハは。でも僕バッハの一番好きなのは3人の中ではね、ベートーベン、モーツァルト。 ベートーベンはアートに向かっていった人だと思うから、アーティスティックよね。 モーツァルトはアートなの?デザイナーなの?というか遊び? どっちかって言えばデザイナーじゃないのかな?見えたものを表現してるっていう印象があるから。 ジャーナリスティックな感じ?見えた風景? イタコだよね。 全部がシームレスに曲が作れちゃう。 それこそリベラルアートじゃないけれども、4次元的展開をしているものが1次元も2次元も3次元も全部ひっくるめたものを音にしているみたいな。 一番自由というか。だから僕遊びっぽい。無邪気というか、モーツァルトが一番。 バッハは僕は数学的なものかもしれない。 フーガみたいなアイディアもそうだし、面白いパズル的なところがすごくあるしね。 キキッとしてる感じというか、こういった世界の説理を分かっているなって感じがする。バッハを作るとね。 分かる分かる。僕も20代の頃、ガーッと音楽をやってた時は、バッハのようなヘビーメタルがやりたいと思って、バッハを目指してたからね。 一番人間くさいのがベートーヴェン。人間の苦悩を音楽にするというか。 あんだけ美しい、綺麗な英雄とか作曲して、すごいよなと思って。好きだけどさ。 モーツァルトとか聞いとかないんだよね。よく分かんないんだよね。 感動できないというか、すごいな、綺麗だなってなっちゃう。美しいじゃない。綺麗だなってなっちゃう。 うん。だからすごい景色がいいとかいうところにいて、おおーって思ってるような感じだよね。 バッハはデザイナーなんだけど、僕はでもやっぱり、あの感じのデザイナーと言ってるっていうか。 ゲーテはどっち? デザイナーじゃない? 結構俺は大体デザイナーなんだけど。 俺はシェイクスピアは完全にデザイナーなんだけど、ゲーテはアートに向かってたと思うんだよ。 分かんない。思いたい。 俺だってさ、例えばさ、ナツメソウセキとかダザイとかさ、文学者もさ、全部デザイナーだと思うなっていう。 しゃべりが違うけど、全部僕はデザイナーだと思うんだよなって。 タヤマカタイも? あれは変態だな。よくやられたと。 自然主義の人たちは、じゃあデザイナーであっていいの? ああ、自然主義。でもさ、自然って言葉、僕はあの辺って人間主義じゃんって思うの。 ああ、はいはい。 人間というフィルターに対する賛美。 なるほど。 自然そのものじゃねえじゃんって思っちゃう。 なるほど、なるほど。 人間主義だと思う、あの辺って感じちゃうんだよね。だからデザインちゃんって思っちゃうんだよね。 確かに。 逆に言うとさ、神とかバッハは神の優秀な下部というか、神の旋律を紡ぐのだっていう使命感。 だからアーティストってどこにいるだろうって分かんなくなっちゃうね。 デザイナーの種類がいっぱいあるだけで、アーティスト、あれアーティストだなっていう。 岡本太郎はアイダッコかな? 俺はだいぶアートに寄っていると思うけども、あんなに哲学的なバックボーンがある人だということを考えた時にどう捉えて良いのかっていうね。 面白い。だから矛盾を払ってると、どっちなのってなると俺はアーティストなのか。 そうそうそうそう。矛盾を払うのは一つ前提としてアーティストね。 アーティストしてると僕はデザイナーだと思うっていうか。 あと、自分のことアーティストって名乗ってる奴は何か嫌だっていうのは俺の中にあるよね。 それさ、周りの人が言う話であってっていう風に思ってしまう。 本当に西野は最初アーティストってだんだんデザイナーになったのか、むしろ最初はデザイナーだって最後の一がや中途の地でアーティストになったのかみたいな。 アーティストになろうとしたんだと思うよ。 だよね。 アーティストになろうとしたらダメなんだよっていうところだと思うんだよ。 それデザインだからっていう。 っていう矛盾ってのがあるの? そうそうそうそう。 作曲する姿自体が俺はアーティストなんだよ。 まあね、まあね。 作品そのものよりもあのパフォーマンスの人生。 実存がね。 そうそうそうそう。 実存、そうっすね。 俺も難しいんだからアーティストデザイナー問題は。 なるほどなるほど。 まあというわけでちょっと今日はしーさんがなかなかいい、今までとはいい感じに距離感のあるテーマを出してくれましたけれども。 でもなんかね盛り上がる気がした。 具体的に言うとね、アフタートークでいいよこれ。 斜め今日がこういうね、小ネタをね。 まるでこの後にアフタートークがあるみたいなね。 ありますよ。 はい、というわけで本放送はこの辺で締めたいかなという風に思います。 はい、では。 なんだこの締め方。 変なんだよ。 終わりじゃないか。 終わり終わって言ってましたね。 まあというわけでしーさんはデザイナーということでね。 僕は結果デザインをしてしまってるけどやっぱりアーティストというもの、アートというものに憧れがあって、 やっぱりアートに向かっていきたいなというモチベーションがあるというところがなんとなくちょっとしーさんと違うのかなということがわかったところで、 そういうアートに向かいたいなと思っている人とデザインの人とがこのテーマで話してるんだなと毎回聞いてもらえれば嬉しいですね。 そうだね。 はい、というわけでお相手はヤハギと チムドチでした。 はい、みなさん今日もありがとうございました。おやすみなさい。 おやすみなさい。 もっと見る #リベラルアーツ #近内悠太 #矢萩邦彦 リベラルアーツ探究実践Radio矢萩邦彦|ArsCombinator39:411.【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』アートとデザイン編コメント感想・質問・応援メッセージを書こう
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近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』不可能性と豊かさ編 44分・8月11日・ 81再生AI目次「不可能性」から生まれる新しい可能性「できないこと」を知る自由と創造性AI時代の進路選択と「できない」こと日本におけるギャップイヤーの意義矛盾と不可能性が導く次なる境地
【本編】#13 「仮留め」のススメ[アジャイル] 8分・7月21日・ 125再生AI目次完璧主義の落とし穴とは?完成より「仮留め」のススメフィードバックで加速する成長アジャイル式「仮留め」実践術人生を軽やかに修正する秘訣
知窓学舎放課後職員室#10[夏休みの過ごし方] 41分・7月18日・ 107再生AI目次夏休み、子どもの成長を促す体験とは大手塾、先生たちの過酷な夏期講習の実情探究心を刺激する旅 サイコロとAIの活用法成長の鍵 留学体験と通学距離が与える影響夏休みの学習効果を高める時間帯戦略とは
【対談】中瀬幸子×矢萩邦彦『AI時代のリベラルアーツを考えるラジオ』#8 39分・7月14日・ 65再生AI目次教育の「変わらない」なぜ?AIと子どもの世代間ギャップ「自分軸」育成の課題と重要性AI時代に広がる仕事と生活の自由リベラルアーツを「生きる武器」に
【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』ロゴスからパトス、エートスへ編 43分・6月23日・ 131再生AI目次放送の根源?臨場感と計画性の対話ロゴス、パトス、エートスの本質とはAI時代に欠ける「魂」の正体CD回帰から見えた人類の「回復」教師の役割と教科書の「面白さ」
【対談】佐藤雄太×矢萩邦彦『AI時代のリベラルアーツを考えるラジオ』#07 58分・6月13日・ 105再生AI目次AIが変える時間の相対性とキャリア教育現場の違和感が拓く新たなキャリアAIが変えるマルチキャリアの可能性AIが変える自宅学習の未来と課題AIとリベラルアーツ:思考の本質
知窓学舎放課後職員室#9[年度初めの模試について] 50分・6月9日・ 80再生AI目次ゴールデンウィーク明けのメンタル調整術新年度模試:点数だけではない評価基準最適な模試頻度と学習計画のコツ「できたはず」問題が成長のカギ過去問で探る学校の個性と出題傾向
【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』スマートさは敵か味方か!?編 52分・5月26日・ 119再生AI目次出版業界の慣習と契約書の謎現代社会が求めるスマートさの裏側「クレバー」と「スマート」の相違人がスマートさを希求する理由AI時代に不可欠な「余計なこと」