TOPトーク専門家リベラルアーツ探究実践Radio【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』相対化編50:21 10月27日 63再生 問題を報告する 再生する シェアする 相対化を意識する近内と相対化は日常の矢萩。そもそも相対化とは何か? 切実さとは? 質とは? お楽しみいただければ幸いです。AI目次相対化のメカニズムと絶対概念視点と視座が示す相対化の深層自由への鍵、遅れてくる認識と実感定義で消えゆく哲学と概念の危うさ狂いきらない自己と「掛けっぷち」の教育論AI文字起こし(β版) # 【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』相対化編 みなさん、こんばんは。ヤハギです。 そして、チカウチです。 はい、というわけですね。 ちょっと多分今一瞬切れましたね、これね。 入りが失敗しましたね。 とりあえず。 まあね、そういうこともありますよ。 なのね、忙しいから。 忙しいからね。 機材もね。 ボタンを押してね、しばらく待ってから喋りだすみたいなことすらできない。 このバタバタですよ。 まあそんな中、とりあえず完璧にしました。 はい、今日もお疲れ様でした。 はい、というわけで今日は何について話しましょうかね。 いや、なんかね、僕がちょっととあるところで講座をやっているそのタイトルというかキーワードが相対化。 相対化。 いや、大事だなって思うんです。 でもなんでか、メカニズムがね、語れそうで語りきれずなくて。 ヤンキーさんにとって相対化というキーワードはどう聞こえているの?どういうものなのかな? いや、相対化というのは僕にとっては日常であり、相対化はしているもんだよねっていう。 逆に相対化しないってどうやってやるの?みたいな。 その感覚めっちゃ分かるし、相対化は単純に物を考えるとか感じるとか、全てがね、一なるものが二つに分かれているというか、二以上に分かれる。 だから俺がさ、この前講座の中で言ったのが、ほら、和歌のさ、小倉百人一緒の中にあるんだっけ、何だっけ。 愛にみての後の心に比べれば、昔は物を思わざり切り。 めっちゃだから相対化を見事に歌い上げた。 つまり、あなたと会って色んな色恋に落ちる前は、私は何も感じなかった。何も考えてなかったんだって。 若かったな、ププッみたいな歌なわけじゃないですか。 昔は物を思わざり切り。物を思ってなかったってのは、後の心に比べれば美しい表現だなって。 劇的な変化が起こるわけ。ある本を読むとか、ある人物に出会うとか、ある場所へ出かけるとかで、 あっ!ってなって、もう引き返せないような見方になるわけじゃないですか。 つまり、それまでのナイーブな、ぼやっとしか思ってなかった、ぼやっとしか、そもそも感じていた、分かっていた、見えていた、それから言えなかったようなものが、はっきり分かるようになったとか。 僕はこの相対化っていうのって、このニュアンスがあると思ってて。 多分普通の地理通りの相対化じゃないんだろうなと思うけど、これって。 相対の対義語は絶対なわけですね。じゃあ、絶対って何なの? 絶対って俺ね、意識できないと思うんですよ。だって世界にキリスト教しかなかったら、キリスト教って言わないと思うんですよ。 ユダヤ教があって、キリスト教があって、イスラム教があって、ヌ教があって、とかさ。 だから要は、外側の人間しか認知できないものが存在しているのかって話でしょ。 そう。感知できない。人間的に感知できないんだったら、存在していなくないってことですよね。 存在、そこは難しいところだね。あるんだけど、ないのと同じように、感知できないんだからね。 認識論か存在論か。 そこは厳密に言うとめんどくさいやつ。 結構めんどくさいコメントなんだけども。 多くの人々の認識において、一なるシステム、一なる枠組みしかなかったら、それは枠組みとすら言えないというか。 そうですね。 何か横並びのものが出てきたときに初めて、そういうことかって見える?意識的になれる? 僕は相対っていうものって、多分、あんまり意識的には言わないけれども、 相対化の解像度を上げて、相対を自由に動かすことができるようになってほしいなと思ってリベラルアーツを扱っているっていうところがある。 そうですよね。 相対っていうのは、絶対か相対かっていう二つにしては雑なんだけれども、相対にもいろいろあるわけじゃない。 さっきいちいさんが言ってたみたいな、フレームを動かすっていう相対化もあれば、視点を動かすっていう相対化もあれば、 視座を動かすっていう相対化もあれば、主観をどこに置くのかみたいなね。 ちなみにちょっと変なツッコミで、視点と視座っていうのは単に言い換え?別のもの? 僕は視点というのは、どちらかというとアドレス、見え方、立場、ポジションみたいなことを言っていて、 視座は抽象化というか、ちょっと高いとか低いとかっていう。 地平が変わるくらい? 見え方のことを。 レイヤーが変わるみたいな? そういうふうに呼んでることが多いかな。 視点だと同じフラットな横並びの移動みたいな?視座っていうとも結構もっとラディカルな? 二次元。視点は結構二次元的に見てる。いろんな縦横アドレスはあるんだけど。 同じ平面だよね? そうそう。視座はその視点を高くしたり低くしたりすること。 拡大したり、あるいは超引きで見る。 そうそう。それのことを視座と呼んじゃってるな。 そうだよね。これもわかるわかる。視座のほうがもっとラディカルな、自分的な立ち位置の変更みたいな。 それこそが、X軸Y軸しかなかったのに、Z軸っていうものが出たって言ったら視座が変わったって言えるみたいな。 平面上の移動は視点の移動っていう? そう。視点の移動だけじゃパラダイムはあんまり変わらないんですね。 でも視座が変わってくると、 劇的だよね。 そう。もうメタな世界に入ってくるじゃない。メタ認知も視座。 そういうイメージかな。 高低差みたいな平面的なものから、潜ったり高く上がったりみたいな。鳥の目、虫の目みたいなものって結構視座の違い。 それに対して変更の、日本から見たらアメリカから見たらっていうのは結構視点って感じかな。 それに対して宇宙人から見たらのところは視座って気がする。 なるほどね。宇宙人によるかな。 まあそうね。我々宇宙人なのかみたいな。 最近宇宙人の研究で面白いなと思ったのは、それこそ視座の変化なんだろうけど、宇宙人ってどんな形イメージします? タコみたいな。 それ昭和の人はね。宇宙人というよりも火星人ね。 そうそう。 例のラジオ局が宇宙人が攻めてきたっていうラジオドラマをやって、それでパニックになってという都市伝説があり、実際調べてみたらパニックにはなってなかったっていうね。 さらにそういう裏話。 そういう裏話もあり、この話はまた長くなるのでやめますけども。 その中でタコみたいな宇宙人が出てきてから、文藝表現がタコみたいなやつが増えてきた。 その後グレー型ですね。人型。どちらも頭が大きいみたいな。 なんで宇宙人ってそういう形をしてるのかっていうと、知的生命体だから地球の中で一番知的な生命体は人間だろうという人間の自負、内緒、誇りがあるわけです。 じゃあ、宇宙にいる知的生命体も人間と同じような形をしているはずだから、人間が住んでいる環境のような場所を探せば宇宙人がいるんじゃないかということで地球みたいな環境の星を探したりとかしてたわけですね。 でも最近そうじゃなくて、むしろギリギリの限界の境界みたいな場所あるよね。マグマの近くとか海底とか清掃圏とか。 そういう限界現象というか生命というものが行けるか行けないか。 そっちの場所の方が宇宙には絶対多いんだから、そういうところで生きることができる生命体があるんだったら、そいつらが知性を持ったっていう風に考えた方が宇宙人のモデルとしては正しいんじゃないのかっていう言い方が出てきて、 これ資座変わったら面白いなぁと思ってさ。で、熊藤みたいな宇宙人がいるんじゃないのかみたいな話になってるわけ。絶対そうとは思わないけど、その資座が変わったっていうのは確実に先に進んだなっていう感覚があったんだよね。 これ相対化ですよね。 そうそう、それも相対化。 宇宙の知的生命体というものが相対化されて、こういうものが破られるっていう。 要はパラダイムシフトみたいなのに近い感覚ではあるよね。 なんだろう、自由っていうキーワードにつながるのかな。要はこういうもんだ、絶対化っていうのだから、ルール分かんないけどそういうもんなんだっていうのは絶対。 あるいは絶対資座、絶対資されてるもの。それに対してそういうものなんだってこれ現在系じゃん。それで相対化ってそうだったのかって過去系になるじゃん。 つまり時が流れるんですよね、相対化によって。昔は物を思わざりけりっていう、昔の何も考えてなかった自分と今自分が変化してる。 それで別の自分になれたという自由がそこにある。 相対化ってなんで大事かっていうと、自由。 一個の場所に釘付けにされてることの不自由さとか苦しさを破ってくれるのが相対化。もっと別の捉え方できるじゃんみたいな。 その時に自由っていうこと、自分が自由ではないってことに気づいてない人もいるわけじゃん。 確かに言われてみればそうだった、縛られてたっていう認知できるような状態になって初めてそれって相対化の可能性がある。 絶対を認知してからの相対化。 いきなり相対化は無理なんだ。一回縛られないと、ある場所に釘付けにされないと。 自由ってないじゃん。 だって移動だからね。ずっと自由だから、ずっと自由だったら自由と言えるのかみたいな。 自由でなければいけないんだったらそんな不自由なことはないっていう話になっちゃうからね。 破れみたいな、破れることみたいな。あるルールがあってあるシステムがみたいな。そこに自由であることに相対化。 アナキズムの話にも繋がるよね。 繋がりますね。まさにアナーキですね、この話は。 絶対的なものに対して中指立てるというか、あっちいけ!みたいな勝手に、勝手にやるからっていうね。 倒すことすらやんないっていうか、時と場合によっては倒すかもしれないけど、倒すんじゃなくて勝手にやりますんでっていうね。 そっちはそっちでそういうルールがあるのか知らんけど、こっちはこっちで一つ小さい場所でもいいから作るんでっていうね。 放っておいてくださいみたいな。 相対化とか相対性っていうのは本当に難しいよね。 主観から出ることができないという我々の認知構造の中で、果たして相対化すらできるものなのかって怪しい話でもあるのにね。 絶対化だけではなくて。 この前あるところの講座で喋ってて、自家っていうファクターもあるんじゃないの?と思ったんですよ、相対化って。 要は、さっきのね、そういうもんなんだって絶対化してるときって、そういう決まりなんだよとか、そういうもんなんだよっていう。 つまり現在形。 つまり無時間。現在形ってことは逆に言うと無時間なんですよね。 英語の現在形ってあれ無時間なんで永遠なんですよね。 だから太陽はこれこれじゃなくて現在形なのが、昨日も今日も明日も変わらずだと現在形を取るんですよね。 本当にリアルタイムだと進行形になるし、過去形だと過去の一点に組み付けたり。 過去の一点から現在までの幅だったら現在完了形になるとか、英語文章だと。 そういう意味で言うと、現在形って結構危ういと思ってて。 だってリアルタイム性がないわけですよね。リアルタイム性は英語の文法で言えば現在進行形だから。 現在形って昨日も今日も明日も無時間的なもの? やっぱりそれって絶対って気がしていて。 僕がちょっと掴みかけたなと思ったのが、さっきのね、 相似ての後の心に比べれば、昔は物思わざりけりっていうのでさ、 やっぱり認識って遅れてやってくるっていうのが一つの構造なんじゃない? そう思うよ。絶対そうだと思う。教えててもそうだもん。 なんとなく分かってから。僕はね、チーさんは相対化は実感であるでしょ。 僕は実感であるなんですよ。 踏んでるね。 踏んでるんですよ。 踏んでるね。 別にあえて踏んだじゃなくて、実感だって考えてるんだけども、 結局先に分かってから実感に繋がるまでとか、体で分かるまで、ラグがかなりあるんだよね。 頭で分かってできるようになるまでってすごい間があるし、 頭で分かった、本当に分かった、できるようになったっていう時間軸、それは時間なんだろうけれども、 その中で相対化っていうものは必ず起きるはずであるって考えてる。 実感っていうものは基本的に構造的に遅れてやってくる? 遅れてくる。 実感は。 リアルタイムに自覚できる実感ってか、そのとおり弱い実感。 柳さんからすると実感じゃなくて、もともとあったんじゃないですか? 実感というものが立ち上がったって言うのであれば、おそらく事後的に、やっと分かったわみたいな。 そういうことか、みたいに。 だってそうじゃなかったら、実感を得たっていう気にならないと思う。 今まで実感がなかったものに、実感が得られたから、今回こういうことを実感しましたって言ったとか、 今まで実感はなくて、枠組みだけあったことに関して言うことだと思うんだよね。 まさに腑に落ちるとかいうのも、そういう感じですよね。 ピンとピンと来たって感じ。 腑に落ちる感じ。 僕、あるところスライドで、認知の遅れ、現象の遅れ、そうだったのかという過去形が、 我々が世界に対して出遅れているという証拠。 世界の側は、事実と世界の真実としてあるんだけど、それは私が理解するまでに、完全に出遅れていたと。 そうだったの、早く言ってくれよぐらいの、なんで俺はこんなことにも気づかなかったんだという言葉って、結構強い発見の時に言うじゃないですか。 なんでこんな簡単なこともわからなかったんだとか言うのは、たぶん簡単じゃなかったかもしれない。 あれはそう感じるぐらい、逆にだから、実感です。とてもシンプルだからそう感じるんでしょうね。 なんでこんなことも俺はわからなかったんだというのは、結果がとてもシンプルだったからゆえに、 そう感じるけど、やっぱりそこに腑に落ちるまで結構なラグがあったっていう。 でも、とても美しいと思うんだよ。 で、それが簡単だったっていうのも、視点次第が変わったから簡単だったことに気づいて、 簡単だったという解釈ができるようになったって話で、 簡単だったという解釈をするには結構経験値が必要だったりするんだよね。 そうだよね。本当はだからさ、AとB、AはBである時に、 AはBじゃねえじゃんってずっと思ってたのに、ある時は、 あ、AはBに決まってる、確かにそうだわって、そこにAとBがとても近いところにあったって発見なんだろうね、たぶん。 空間的な感覚で言うと。 そう、だから、僕ちょっとスライドで書いてる。 僕らはいつだって遅れてこの世界にやってくる。 そして大切なものは目に見えないだけではなく、それは必ず遅れてやってくる。 いや、正確に言おう。 大切なものは、いや、世界全体は私の認識より必ず先行している。 したがって、世界に対して私の認知は必ず出遅れる。 私の認知は遅れて到来する。 目には見えず、遅れてやってくる者たちがある。 それを抱きしめるために相対化という契機がいる。 みたいなことを書いて。 これなんかもっと具体的に、具体例とか入れて、みんなの相対化を踏み落ちてもらいたいんだけど、僕の話を聞く人の。 この遅れっていうキーワードは、 内田達也さんがレビナスの、哲学者のレビナスを引用してる。 やっぱり、原初の遅れ。 我々と私という存在は必ず世界に対して他者に対して遅れて登場する。 像様に出遅れた者として、我々は人生を始める。 そこに倫理があるというのが、内田達也さんのレビナス解釈。 それは仏教観と同じだよね。 やっぱりそうだよね。 そんなに遅れてるというか、認知も、演技を理解するのが遅れるみたいな。 能動はなくて、全ては受動であるっていう。 受動っていうのは、向こうがあるから、世界があるから、こっちは。 全体でのリアクションなわけで。 アクションが先にある。世界のアクションが先にある。 世界が先である。 その中で、この遅れっていうもの。 これは、遅れることがあるよね、じゃなくて、我々が重大な認識は必ず遅れてやっている。 構造として遅れているんだって言ったら。 本質的にそう。 このラグがとても人間的なんだと思う。 現実にパッと分かるんじゃなくて、なんか謎のラグがあって、 昔は物を思わざり切りっていう。 考えに吹けるというのも、ここにで人間の心の構造、認識の構造。 それは、ライプニッツのモナドロジーとかもすごく近いと思うんだよね。 これ、いろんな思想の中に結構入り込んでいる。 言葉は違うけど、ほぼ同じことを言っている。 いろいろ位相だよね。 位相、位相。 僕が見ている限り、一応、レビナスは、原初の遅れ。 本源的に遅れているっていう、我々は遅れて登場するっていうキーワードとか、 まさにそれが倫理的な存在にたらしめるっていう。 遅れてきてしまったという積感、申し訳ないみたいな。 あとはね、世界が先にあったっていう考え方って、 これね、AI使うようになってからすごく実感しているのが、 結局、世界が先にあって、壊されているデータっていうのがあって、 ビッグデータっていうものがあって、過去じゃんっていう。 要は、先にあったものって過去なんだよね。 だとしたら、それはその過去のデータを用いることによって、 じゃあ未来にリーチすることができるのかどうかっていうのが、 割と人間性なんじゃないのかなっていう風に思う。 これは想像力の世界でしかないんだけども、 過去を元に未来に飛ばせるか、 あるいは過去を無視して未来に飛ばせるのかみたいな話。 多分だから演劇じゃなくてアブダクションでしょ? そうそう、アブダクションって話。 閃きみたいな。 演技でも機能でもないと組み合わせている。 絶対何らかの機能は働いているはずだし、 演劇も働いているんだけども。 やっぱりヒップヒップがあるよね。 飛んでいる。一個飛ぶよね。 この仮説形成がちょっと飛んでいるというかね。 でも仮説形成も演劇的だし、機能的に仮説が形成されているんだろうけど、 ただ、そこにちょっと明確な論理関係がない。 機能としても機能にも回収されないし、演劇にも回収されない。 やっぱりちょっと飛んでいるところがあるっていう。 ただ、飛んだ後はちゃんと演劇だからね。 そうね。 たぶんその仮説形成が機能的なんですね。きっとね、たぶん。 たぶんね。 こういう話をするとみんなが嫌な顔をするんでしょ? さすがにもう嫌な顔をする人は聞いていないんじゃないかなっていう気がする。 僕らについて聞いてくれる? するけどね。 どうだろう。チーさん的には嫌な顔をされない話をしたいと 未だ思っているのかな。 半分。半分。 半分、半分。そうか。 ここはね、僕はね、チーさんと話してるから嫌な顔されてもいいかなっていうのはあるよね。 そういうブランディングというか、そういう立てつけだよねみたいなね。 僕は放っておくとみんな置いてきぼろに勝手にしゃべっちゃうから。 意識しないととどまれないっていうか。 なるほど。 ていうので、あえて自分でも自虐的に言うんだけどこうやってね。 ちょっと認識するためにっていうか。 それは相対化をしてるってことなの? まさにそう。自分の癖というか自分の傾向を相対化して。 メタ認識とかさ、メタ認知か。 メタ認知って、なんかちょっと、なんか、視点の移動でしかなくね?みたいな。 視座が変わってなくない?みたいに思うんだけどね。 それはちょっと面白い話ですよ。 多くの人はメタ認知というのは視座が変わっていると思ってるんですよ。 でしょ? しかし視座は変わっていないけれども視点しか変わってなくね?というところをちょっと解説お願いします。 だってもっとラディカルなさ、なんか衝撃があるはず。 メタ認知ですよね?じゃなくて、 あ、メタ認知見えちゃった!みたいな。どうしよう?みたいな。 だって価値体系が変わるはずなんだよ、多分。 つまりキリスト教から見ればこう。 イスラム教から見ればこう。 まあでもまだ言うでもいい。 信教だからっていう相対化の価値の組み替えがまだそこまでないと思うんだけど。 ここに、いやアニミズムはね、武士諏訪会はね、とかに 世界の捉え方がもう完全に再編成されるっていう。 つまり穏やかじゃいられないはずなんですよ。 視座が変わっちゃったら。 そう、変わっちゃったって感じなんですよ、多分メタ認知って。 メタ認知をしようと思ってできるってことはそれ、 水平方向の移動じゃなくて。 それはだってね、想定しちゃってるからね。 目指せるもんじゃないからね。 そうなの。 だからそれを結構意識的にやるためには多分、 まあユーモアって一つあると思うんだよね。 だからメタ認知は多分今すごく安売りをされていて、 気づきって言葉だとか、 目から鱗みたいなのが今すごく軽いじゃないですか。 僕ね、気づきという名詞形が嫌なんだよ。 気づく。 俺が見えるかが嫌いなのと一緒か?それは。 名詞化するの。動詞であれ。 あれは副詞であれ。 なるほど。 そうね、気づきは嫌だな。 どういうとパッケージになっちゃってるのが嫌なんだよ。 動きじゃんだって、気づき。 風邪ですからね。 気づくって動きであり変化でありやっぱり流れだから、 流れを取り出してできないじゃん。 気づいたでいいよね。 気づきました。 それでやっても、気づきってパッケージ化されてる段階で、 パケット化されてる段階でちょっと俺は、 それ弱くない?みたいな。 気づきがありましたというのは弱い。 お上品だなって思う。 なるほど。 着替えちゃった!とか言ってくれよっていう。 もっと泥臭いもんだと。 メタニッチしたときにうろたえると思うんだよね。 そうそうそう。 そうなの?みたいな。 全然見えてなかった。 揺らぐよね。 そう。だって価値体系が組み替わるんだから。 意味がないと思ってたものにそんな意味があった。 足場外されるような話だからね。 だから落ち着かないはずなんだよ。 最近揺らぎも結構安いんですよ。 嫌だ。 嫌だわ。だんだん言葉が。 今揺らぎましたよね?みたいな。 結構軽いんですよね。 それを良しとするっていうか。 揺らいだっていいことなんですよみたいな。 セミナーとか研修とかで。 そうそうそう。 みなさん今揺らぎましたよね?みたいな。 それはなんか。 なんか。 催眠術かなんかですか?みたいな。 動画とかですか。 揺さぶられるでいいじゃん。 そうね。 うろたえるとかさ。 戸惑うとかさ。 はいはい。 躊躇うとかさ。 止まりたいわけじゃなかったけど、 止まらざるを得ないみたいなのは、 僕は気づきだと思うんだよね。 なるほど。 どうしようみたいな。 だから水戸議員主体がさ、 哲学というものは、 途方に暮れているという形を取るっていうのが、 名言だなと思うんだよね。 どうしようっていう。 だって途方に暮れてるから哲学やるでしょ。 そうなのよ。 溺れちゃうのよ、放っておくと。 水に浮けないのよっていう。 やっぱそこら辺の切実さを持っている人が、 哲学に向かったわけでね。 まあ切実であれとは全然僕も思わないけれども、 切実であって、 幸せになってない哲学者がいっぱいいるからね。 だし、切実って、 成ろうとして成るんじゃないから。 それはね。 切迫するものとか、 追いやられてるというか、 その人の体質というか、 根源的な。 口が出せるもんじゃないんでね、 切実はね。 人は切実な時があるっていう。 切実になれるんじゃなくて。 でも切実を求める中二病もあるので。 あれは切実であろうとするとおかしいよな。 誠実であろうとするもあるけどね。 自分の心とか、 確かに大切で、 嘘、偽りをできる限りしないと。 でも切実な人は信頼できるじゃん。 まあね。 でも大変そうだよね。 そう、大変そう。 深入りすると、 こっちまで切実になってしまうんですね。 そうそう。 でもさ、だからさ、 俺前に友人に言われて、 多分近内がイライラしてるのって、 近内にとっては、 イライラしてるんだ。 近内さんが本を書いたり、今は哲学とかで、 哲学をしてるってどういうことか言うと、 多分近内君にとっては、 リハビリなんだよと。 おお、なるほど。 やっぱり歩けねえ、泳げねえ、 上手く手が動かねえ、 何とかしてやるっていう、 リハビリだってやってるのに周りが見て、 あ、近内さんがやってることってすごいですね、 私もやりたいって言って、 私もリハビリやりたいって時に、 お前動くだろっていう怒り。 なるほど、なるほど。 ああ、うんうん。 リハビリって楽しいですよねって言われた時の、 イライラしてるみたいな。 分かる分かる。 近内さんはね、 それ近内さんの才能なんだよ。 それをね、笑顔でいけるっていうのは、 なかなかないと思う。 リハビリは楽しいって言って、 こっちからリハビリなんじゃいいって言う。 なんじゃいいっていうのを笑顔で言える。 しかも、ちゃんと半笑いじゃん。 ちゃんと半と半分を込めて。 半分は笑ってんじゃん。 友人から言ってもらえたって結構大きいの。 分かってくれる人いるんだって。 その中でかなり癒されてる。 あっちゃあいいやみたいな。 でも確かに怒りは、 俺の怒りは、 名前のついてない、 得体の知れない怒りとか、 意気通りみたいなもんに、 多分、内河内くんは、 一生懸命リハビリをやってるのに、 周りが見て、 近内さんのやり方いいですね、 私もやりたいですって時に、 いや、お前はリハビリしなくていいのにね。 別にこれ、 スポーツじゃねえんだよっていう。 私ってやってるわけじゃねえんだっていう、 リハビリを、 素敵ですね、 私もやってみたいですっていう人に対して、 素敵じゃねえって怒ってるんだろうねって言って、 ああ、そうだ、リハビリかも。 とてもそれは、 ミトゲンスタイン的だと思った。 なるほどね。 ミトゲンスタインはね、 水中に沈んでしまうっていうメタファーなんだけど、 呼吸ができなくて、 体が沈んでしまうみたいな。 上手く泳げないっていうメタファー。 上手く泳ぐためにみたいな。 体が水に沈んでしまうから上手く上がるために、 哲学をするっていう。 水中に上がるためにみたいな。 これは長井ひとしさんの解釈も入った考え方か。 でもミトゲンスタインととても比喩だろうっていう。 なるほどね。 僕はそういうのも相対化できてるから、 ケロケロ喋ってるっていう。 そうなんだろうね。 相対的な視点というか、 相対化に向かうような方向性がなければ、 そうあり続けるのは難しいよね。 だから良くも悪くも言えば、 病の程度が浅いのかもしれないね。 それね、俺がね、 よくこういう表現をするんだけども、 誤解を恐れずに言えば、 僕は狂う才能がないんですよ。 このラジオだけで、 この話は前に何とかしたよね。 ここどうかあるんだけど。 だから才能がある人を見ると、 心配になってしまうんだよ。 僕も周りにそういう人たちがいたから、 そのままその手法で言っちゃうと、 真面目だし分かるけど、 そこまでは僕は踏み込めないというか、 踏み込もうとしてないんじゃなくて、 踏み込む才能が能力がないのよ。 っていうことを何となく分かってしまっているっていう自分がいてね。 俺は狂いそうだけど狂わないってとこまでは行けるみたいな。 いやそうだね。 狂いきらなそうだよね。 狂いきらないと思うよ。 でも狂いかけた時はあるだろうなみたいなさ。 狂いかけたいのかな。 たぶんね、Gさんの場合は本当に狂うんだったら、 頭よりも先に体だと思うので、 体がおかしくなったら、 たぶん頭が止まると思うので、狂わないと思う。 そうそう、どっちかがブレーキかけてくる。 頭が暴走したら体が嫌だなってなって、楽しくないなとかになったり、 逆に体が暴走したら、 え、この体感本当に合ってる?大丈夫か?みたいな。 でも、急激にブレーキをかける。 カブトさんでもサーキットブレーカーって言うんだっけ? 気球自体が当たったら急にブレーキがかかって、 全部が停止するみたいな。 僕で、体か頭か分かんないけど、 僕の中にサーキットブレーカーがあって、 ガンッと止まるんですよね。 僕よく言うのが、戦闘機のパイロットってさ、 事故ったり、トラブった時にシュッと抜けてパラシュートで降りてくれるじゃん。 あの感じ。ボタン一つでシュッとここから抜け出せるって感覚があって、 ああ、止めたっていう風に。 だから、変なプライドがないってなるかもしれないね。 無理な時は無理。逃げるっていう選択肢がいくらでもあるみたいな。 逃げるっていう選択肢があるっていう哲学がすごく強いというか、いいよね。 逃げようがないんだっていう哲学を持ってしまってると、なかなか厳しいよね。 あとは、なんで俺、狂いかけてるけど狂わないかっていうと、 狂いかけたけどちゃんとこっちの世界に戻ってきた人が一番最高にかっこいいと思ってるからかな。 なるほど。 狂っちゃった人に憧れがあんまない。 ああ、なるほどね。 その手前で踏みとどまってるのがかっこよかったのに、みたいな。 石丸強とか。 はいはいはいはい。 チューリングは分かんないけど、チューリングは多分狂いかけて。 チューリングは何回かいたり来たりしてる感じだよね。 でもウィトゲームスタイルはちゃんと戻ってくるんだよね。 行きそうになるんだけど、何かでただ踏みとどまって、愛の世界というか聖者の世界に戻ってくるんだよね。 生きる方の聖の世界へ帰ってくれるというか。 だからほら、あるんだけど。 キャッチャー・イン・ザ・ライ。 ライムギー畑。 あれの村上春樹役だと、クレイジーな掛けっぷちっていう言い方をするんだよね。 はいはいはい。 主人公の男が、確か妹かお兄ちゃんが、将来何をしたいの?って言ったら、 ライムギー畑がバーッて広がってるとこに子供たちがバーッて遊んでるんだけども、 一方向こうにあるクレイジーな掛けっぷちに向かって子供たちがガーッて走っちゃってくるんだけど、 そのクレイジーな掛けっぷちに落ちそうになってる子供を捕まえて、 あげる大人になりたいんだっていう。 だからまさにキャッチャー・イン・ザ・ライ。 ライムギー畑で捕まえて、狂っちゃう子供たち。 狂うことに無自覚に突っ走っちゃう子を捕まえられる大人になりたいっていう。 クレイジーな掛けっぷちって、村上春樹役も素敵な役だなと思って。 そうだね。 クレイジーな掛けっぷちがあと3歩先にあるまでは、俺わかる気がする。自分で。 でもそれはすごく近いな。俺が教育をやっている理由にもすごく近い。 クレイジーな掛けっぷちに行かないようにっていうか、あるよっていう。 行くのは自由だけど、ここにはクレイジーな掛けっぷちがあるからねっていうね。 本当に行きたいと思ってる?本当にいい?それはっていうのを。 結局そこで情報を持ってるとか、一回立ち止まって考えたことがあれば、 クレイジーな掛けっぷちがあるかもしれないと思ってたら、脱出しなかったかもしれないっていう人たちって多いと思うんだよね。 だからそれは大人になってクレイジーな掛けっぷちに突っ込む人はもういいんじゃないかなと思うのよ。 そういう生き様でしょ?それはもう自由。 だけど、分かんないで突っ込んでて墜落するのは避けたいじゃないか。 本人が分かってるんですと。それが衝動なんですっていうね。 それ以外ないんですって言うんだったら、それ以外ないんですって本当にそれ以外ないの?って聞いてあげたいよね。 そういうのはネットとか見ててもすごく重うんだよね。 この人クレイジーな掛けっぷちに突っ込んでってるけど、絶対突っ込まない方を望んでいるような本質的にはみたいな人たちって、 すごい今ネットにあふれてると思うんだよ。 逆にネットってクレイジーな掛けっぷちに近いからもあるかもしれないよね。 バーチャルだからさ、そこが掛けっぷちだっていう感覚がないとか落ちてこないと思ってないみんな。 フィジカルなものが分かんないんだろうね。 そうなんだよ。 でも結構自信があるの。 これはこっから先はやべえとか、これ引き返さなきゃとか、これは友人にちゃんと相談しなきゃみたいな。 たぶん俺、クレイジーな掛けっぷちにこの後行きそうなんだけど、ちょっと何かあったら言ってねみたいに。 でも事前に連絡が行く、見ててくださいみたいな。ちょっとチャレンジするんです。危なそうなんで見ててください。 何かあったら俺を首根っこ引っ張って、引っ張り上げてくださいっていう。 言っとくみたいな。 それは大事だし、いい関係で注意しておくからね。 これ別に具体例1個しかないんだけど、大学の時に明らかにこれは宗教の関与だろうなみたいな感じだけど、 なんかちょっと哲学っぽいこと言ってる人がいたから、じゃあカフェで話は聞いてやるかだけど、 でも洗脳とかそういうのって分かんないじゃん。本人の不覚悟力じゃん。 だから俺の友人たち何人かに、今日そういうところに興味本位で行ってくるんだけど、 俺が今日以降変なこと言ってたらぶん殴って止めてくれって何人かに言って、 でもやっぱり言ったら全然論破できちゃうなと思って、ここまでか、この立ちに。 大丈夫でした。 洗脳かけてくる人たちは破綻してるんですよ、最初っから。 幕立て方の追い込み方ってやっぱあるなと思った。 あるよ、それはマニュアルがあるからね。 英語教材か何かを売りつけるやつもあって、若干それも怪しかったんだけど、 それも俺ブチギレで返ってきた。 なんでそういう言い方するんだよ、女性の受付だったのが担当だったら。 なんであなたがそういう言い方するんですかとか言って、ブチギレで出てきた。 もういいです、もう結構ですって言って、 ダメダメ、これ巻き込まれてる、この流れに。 俺が怒っちゃってるのに、これ怒らされてるなと思ったから、 すごく主導権が向こうに映ってるから嫌だなと思って、 やります、オフラインみたいに、もう何も言わずに出てきた、立て上げから。 もう感じた、やばい、これ向こうの土俵に乗っかっちゃってるわって、 感情的になってる段階でもだいぶアンコントローラブルなとこまで持ってかれたわと思って。 リアルでオフラインにできるところはなかなかあるしね。 なるほどね。 そこでオフラインできない人たちが多いのよ。 ネットだったらオフラインできるのに、リアルだとオフラインできないっていうね。 ほら、さっきも戦闘機からさ、やっぱりエンジンが停止したときに、 常にボタンがある人ね。 だってさ、何十億とする戦闘機を捨ててもさ、俺は助かるっていうやつ。 それ制御しなきゃみたいな。 だって優先順位がはっきりしてたら、それは捨てるわけじゃん。 だから、戦闘機何十億ですよって。 いや、大丈夫です。俺は生き抜きます!って引っ張って、 戦闘機から、ホックキットから飛び出せるので。 そこはためらいないな。 いいと思う、それは。 このラインを越えたら帰ります!っていう風に。 振り切ってでも帰るみたいな結構、決断力っていうか、 もう決断力じゃないんだよね。 なんじゃない。あ、やばい!って思って、 一刻も早くここを立ち去らなければみたいな、結構強い。 引退的な命令? そうよね。 そういうことだよね。 何なんだろうねっていうのは、やっぱりそれは経験値もあるだろうしさ。 でも修羅場くぐってきたみたいな感じしないんだけど。 今まで考えてきたことの集積があるからだと思う。 相対化しようっていう話をしたときにね、 それは相対的に考えましょうよとかっていうと、 それって自分で判断することを拒否してませんか?みたいな。 思考停止してませんか?みたいなことを言う人が一定数いるわけですよ。 相対化というのは、自分の判断を絶対的にしない。 そういうこと? のらりくらりと。 人の意見によって答え変わりますよね、みたいなこととかさ。 そういう考えもありますよねっていう、 みたいなことか。っていう風に見える。 そうそう、見える人もいるんだよ。 だから相対化って言ったときに、 いいイメージを持つ人と悪いイメージを持つ人がいる。 そういうことだから、ひろゆき的なものみたいな。 ずるい! 例称化だからね。相対化じゃなくて例称なんじゃないの? 前提を覆してくるとか、 前提を誤魔化す、ぼやかすみたいなものと 相対化が近いと思っている人たちはいるんだよ。 なるほどね。 チャブ大会主にも、いいチャブ大会主と質の悪いチャブ大会主があって。 そうだね。 多分、俺は質のいいチャブ大会主とか、 質のいい矛盾の話しかしたいんだけど、 矛盾を肯定するんですか?とか、 不合理なものを肯定するんですか?ってなっちゃうんだけど、 いや、そんなつもりはない。そう聞こえちゃうのね、みたいな。 この言い方だと一般的に。 結局、質を判断する基準は何なの?っていう話になってくるわけだから。 量は判断できますよ。 だけど質って言われても、みたいなのさ。 だから僕、内田達郎さんの議論、対談の時に、 修行って言ったから言葉に込めた感覚ってそこなんだよね。 基地的なものを体感で分かるというか。 そこをね、僕もすごく目標、目的の一つなのよ。 質ということと価値観ということは違うぞっていう風に、 僕自身は思ってるんだけども、 さっきみたいな話で、相対化というものはずるいんじゃないかという風な人たちと対峙した時に、 質っていうのは、それはあなたの価値観ですよねっていう風に捉えてしまう。 それを質が良いと思うのはあなたの価値観であって、 我々はそれを質が良いとは別に思わないんですよ、みたいな。 私とはちょっと考えが違います。 でも、自分としては明らかに質の固定の話なんだぞ、それはっていう。 質が良い、悪いはあるんだよっていう。 でもそれをどのように共有すればいいのだろうかっていうのは、 なかなか難しくって、即興的には難しくって、 だからこそ教育みたいなものに希望を持ってるのは、 1年間目合わせて、日が付き合わせて対話したら、質っていうものが何となく交流できてくる。 そこに軸ができてくる。 この人の中で、こういうものの中に質の固定があるな、みたいな。 これをパッと会った人に、パッと反論された時に伝えるのはすごい難しいんですね。 で、ヤハギさん、あるいはチカウチが勝手に言ってる質ですよねって言われた時に、 ぐるぬってなっちゃうよね。 そうそう。 そうじゃないんだけど、じゃなんだよって言われたら、 ぐるぬって言う。 別に、それって俺の感想ってことでもないんだよっていうね。 このぐるぬ感に立ち向かうみたいなのは、割となんか、 言語化はしてなかったけども、最近ここ10年ぐらい立ち向かっていることの一つではあるなぁと思うね。 そうそうそうそう。 なんか、みんなさ、自分の物差しに自信を持てないっていうのが一つ病な気がしていて、 だからアート思考とかさ、言葉が流行るわけじゃん。 だって自分の物差しで評価したものを、まず学校っていうこの多感な時期に評価してくれる場所が評価してくれないわけじゃん。 大半の場合。 みんなと同じ平均であるとか、みんなと同じ常識みたいなものとか。 みんなこれできましたか?わかりましたか?はいみんなわかりましたね。 はいじゃあ次いきましょうっていう世界観なわけじゃん。 それが尖った時に、極端に良くても極端に悪くても、極端に違うことをやってても、全部評価されないわけですよ。 同様に。 測定不能なカテゴリーっていう風に。 で、少なくともそれに9年いるわけじゃん。 そこに幼稚園だとかが含まれてきたりだとかさ、普通高校行くよねみたいな話をすると、 10数年にわたってさ、そこにいるわけじゃん。 でようやくそうじゃない話が出てくるのって、一部の大学からそうじゃないよねみたいな人たちが出てくるけれども、 それも学部によるし、教授によるしみたいなところはあるよね。 家庭環境もある程度あるだろうしね、もちろんね。 だからそんな中で育ってきて、そこをどのように取り戻すのか、回復するのかっていうのは難しいよね。 別に何も俺は諦めてはいないけれども、難しいとは思う。 面白いね。相対化の話ってこうやって転んでくね、ちょっとね。 相対化だからね。相対化を絶対的に語ってしまったら、お前!って話だよね。 内容と語り方が違えちゃったよね。 そこはスライドしていくというか、移っていくっていう。 揺れるとか、移ろうとか、惑うとか。 生命ってそういうことだし、奇跡ってそういうことじゃん、みたいなさ。 なんだなんだ、俺は相対化って当たり前なんだけどさ、見え方が変わるってことだからなんで大事なのかっていう。 すごい面白いなぁと思ってるのが、例えばAIがね、相対的に動こうと振る舞ったりするわけだよ。 面白いなぁと思って。 もうちょっと具体的に。 具体的に言うと、例えば、彼らが持っているビッグデータがあって、その中からなんとなく普通であるとか常識であるとか、データ数が多いみたいなものを出してくるわけじゃない。 なんだけれども、質問者に寄り添おうとして相対化してくるんだよね。 その相対化がなんとなくできている節があるのよ。 それがAIには、なるほど、これだけビッグデータを食わせて、これだけIQ的な能力、推論能力だとかを上げていくと、相対化に導くような対話っていうものができていくんだっていうのは非常に面白いなと思っていて。 だってAIって、真逆を言ってそうなイメージはあるじゃない。 むしろフリーズというか、固定化されたみたいな話。 全然人間らしくないし固定化されているはずなのに、むしろ人間の方が頭硬くて固定化されているから、AIの方が相対化しようと動いている節があるなっていうふうに見えてて、それが最近結構興味の対象ではある。 そうか。 なんかやっぱ相対化って、これだけ時間を使えば話せるんだけど、真を食った、もう相対化とはこれこれである、その価値はこうこうこうである以上って言いたいんだけど、そもそもそれにふさわしくない言葉なんか、そもそも。 多分ね。 哲学と同じように、哲学を定義して、哲学が死ぬと同じように、定義した瞬間に死ぬ者たち。 定義できないものを定義しようとできるかっていう話って、それこそサイエンスではない、それこそそれが人文科学なのかもしれないし社会科学なのかもしれないし、そこに科学という言葉を使うのであれば、自然科学が定義できないものを頑張って、 なんか証拠とかないんだけど、ロジックだけで定義すんぜみたいな。そこにロゴスがあるんじゃない? 俺わかってる。俺の定義した瞬間に消え去ってしまう概念たちが好きなんですよ。 なるほど。 ずっと結構それに近くて。 なるほどね。 こういうもんであるって言った瞬間に結構なんか違くないっていうか消えちゃう気がするみたいな。 消えることができるんだよ、それは。そこにものがあったら現実があったら消えないじゃない。だけど消えることができるっていうものを定義しているっていうことが消えるわけでしょ。あるものを限界したときに、 ふわっと消えちゃうの、その瞬間に。 関節されるみたいなでしょ。 そう。輪郭を作った瞬間に輪郭を作るという諸差によってその中身が立ち消えるっていう。だから僕の本って部分的にもロジカルだから一応現代文の問題定義できるんだけど、本全体を通して言うとそれと言ったところと違うことを言ってる。 分かる分かる。だからさ、スキーマみたいなもの、スキームみたいなものがあったときに言語が、言語ってすごく曖昧なわけでね、挿し示す部分が。これ文字挿し示す部分がプログラミング言語みたいに厳格だったときにそれは言語として機能しないはずなんだ。 概念というものも言語によって概念化されている定義付けされている以上、数式ではなくて、それは解釈に幅があるはずなんだよね。解釈に幅があるからこそ、なるほどねって思えるというか、受け入れられる人たちが多いんだろうなと思うんだけども、そこがきれいにパッとはまったときに、 もうそれはいらないというか、よくないですか?それいちいち数式化しなくてよくないですか?っていうふうにはなるよね。 そう、だから僕の本って、一回作ってみました。組み立ててみました。間違えたと思って壊していきますっていうパフォーマンスなのかも、僕の本って。見てくれと。みんなもこのパフォーマンス見れば実感するから。 なんかね、すげえラグがあるライブみたいな感じだよね。 そう、ラグがあるだろうね。 なんかね、最初に定義したいわけ。暫定的でもいいから。像よとはこうであるとか、理科とはこうである、ケアとはこうであるとか、儀式とはこうであるって言っときながら書いていくうちに、何にも違うものになってきてるよ、後半っていう。 だから前提として、言葉というものが生き物であるっていう、生き物もしかものである、あるいは生き物的にしか振る舞えない存在であるっていう前提があるわけだよね。だから言葉を使って何らかを言っている以上、それは我々の生命、身体と思っているものと同じように、言葉をもって表現されているものっていうのは移ろっていくしかない。 そう。じゃなかったら言葉じゃないっていうか、情報であり記号であって、言葉ってやっぱり、これを前言撤回ってことはっきり言っちゃいけないと思うんだけど、僕やっぱね、本の中でくどいくらい頑張って定義を語り直すんだけど、どっちの本も。 じゃあ最初に定義しなくていいじゃんとか。いや違う、あの最初の暫定的な定義があるからここまでこれ。このプロセスを味わってもらうと、論理的にどうこうじゃなく、あっ、踏み落ちましたっていう、あっ、ゾウの感覚がありました、キャッと感覚持ってましたみたいに。 すげー大事なんだよ。だってさ、世界も移ろってるしさ、自分も変わっているのよ。その中でさ、一回定義をするっていう言葉でアンカーを示さなければ、全部流れていって、わけわかんなくなるだけじゃん。 分からないんだよね、移動した距離が。そうなんだよ。そこがすごい大事だよ。コインを打ったら流れていって、あっ、だいぶ違うところに来たな。じゃあ、あのコインってこういう意味だったんだ。まさにそれこそ遅れて、自分が定義したものの意味がだいぶ書いてきて、本だったらね。書いてきて、真ん中くらいまできて、あっ、定義アップデートしなきゃダメだみたいな。 いわゆる今時のビジネス系の本、分かりやすい本を読んでる人からすると、やっぱり俺の本って読みにくいんだろうね。大量使うわっていう風に。俺は読みにくい本を出版してもらえるのは羨ましいなっていうね。だし、今回のこの本はまさに俺がやりやがったなっていう。俺読みにくい本、却下されるもんだって。 俺はロジック通そうとしてるんだよ。俺はリラフセイゼンと語ってるように見えるんだけど、まさに自分の。 いや、そんなんだってさ、雑魚を巡る旅、全ての分説が違うんだよ。 どういうこと?どういうこと? 全然だからロジカルじゃないじゃん。 あー、繋がってないってことか。 いやいや、ロジカルじゃないんだよ。雑魚っていうものはロジカルなものではないし、巡るっていうのはロジカルなものじゃないし、旅っていうのはロジカルなものじゃないじゃん。 それ三つ組み合わせてロジカルにしろなんて無茶な話じゃない。 確かに。 それじゃあ縄体を表してるの? 縄体を表してる。 えおろうさんの言葉もさ、考えるは頭の中から開放する。 ロジックじゃないところで考えるが起こるっていう。 そうそうそうそう。 えおろうさん上手いことおっしゃりますよね。 本当に。たぶん僕もこのつもりで書いたんです、読みを書いてくださって。 なんかさ、哲学って本来パフォーマンスだと思うんだよね。つまり書き一冊の本、哲学書だとしたら。 作っては壊し、作っては壊しっていうのを哲学者の手つきを見て、哲学者はそういうことなんだよって最後に言うんだけど。 だから哲学は生きてるんだよ。 追体験しないと無理っていうことね。 そうそうそう。そうなんだよ。 ようやくとかってずっとの哲学ができるのかもしれないけど、ニーチェはようやくできないじゃない。 まだ時間と実感なんですよ。 そうだね。 一体も典型的なそういう。 ということで。 なになにこれ。最後グズるんですか、おれおろうさん。 俺今単純に言いたかった。 あー、悪いんだった。 単純に言いたかった。 分かった分かった。 それはね、俺が悪かったよ。 いやなんか、あ、縛るんだっていう感覚がなかったね、今。 俺はね、いやいや、今じゃないと思ったよ。 時間的に? 違う違う、時間なんかも別に適当な数字なんだけれども、これこのままいくとあと1時間はいくなっていう風に思ったので、ちょっとフラグだけ立てとこうかな。 分かる分かる分かる。 あの、だからあのね、よくさ、合体発表とかで5分前のやつをチーンと鳴らされて、あと5分だよみたいな。 いや、終わりましょうか。 急に。 ちーさんの、あ、まあいいや、この話はまあアフタートーク。 はい、というわけで。 まあ今日は相対化ということなので、このように相対的にね。 転がる。 転がっていったよ。 ローリングストーンですよ。 というわけで、まずこの相対というキーワードについて、ちょっと是非ね、ここから来月のこの放送まで考える時間を我々も皆さんも過ごしてみたら。 来月、ちゃんとこの繋がる話するの、なんか全然違うキーワード。 いやいやいやいや、相対化と繋がらないキーワードって何? いやいやいや、俺たち思い出せるかどうか、前回さ、相対化って言ってたよねってさ、覚えたかないとさ、繋げたんだよ。 俺も覚えてるよ、だって前回何の話したか覚えてない。 覚えてない。 自分でテーマ振っといて、デザインとアートだよ。 そうか。 ほら。 それが1個くらいか。 これですよ、皆さん、この無責任さこの男。 ローリングストーンだって。 はい。 ストーンじゃないよ。 クソゲーにしちゃった。 ローリングストーンに近いうちと、ここまでローリングしない私がお送りした、今日のテキサスを考えましょう、相対化編。 今日は一旦ここで切りたいと思います、皆さん。おやすみなさい。 ありがとうございました。 もっと見る #哲学 #自分軸 #リベラルアーツ #知窓学舎 #近内悠太 #矢萩邦彦 リベラルアーツ探究実践Radio矢萩邦彦|ArsCombinator50:211.【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』相対化編コメント感想・質問・応援メッセージを書こう
【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』相対化編 51分・10月27日・ 63再生AI目次相対化のメカニズムと絶対概念視点と視座が示す相対化の深層自由への鍵、遅れてくる認識と実感定義で消えゆく哲学と概念の危うさ狂いきらない自己と「掛けっぷち」の教育論
知窓学舎放課後職員室#12[写真という方法] 34分・10月12日・ 42再生AI目次探究フォトコンテスト開催の真意夏休み後開催と「振り返り」の重要性写真の「眼差し」が育む探究心とは写真に言葉を添える意味と文化の継承メディア・リテラシーと写真展の可能性
知窓学舎放課後職員室#11[音楽と教育] 38分・9月22日・ 64再生AI目次授業を「ライブ」と捉える教育論バンド活動で磨く多様な役割分担術パンクからバラードまで授業演出の妙「予定調和」を嫌う授業設計の真意生徒と同期する「身体化」された授業
【対談】藤田勝利×矢萩邦彦『AI時代のリベラルアーツを考えるラジオ』#9 40分・9月17日・ 66再生AI目次ドラッカーが語る「経営はリベラルアーツ」の真意AI時代における学びの目的と「自由な生」への探究オンライン学習の進化と対面教育が持つ「越境性」経営に欠かせない目的設定と言語化の力の源泉AIと共存する社会で問われる「責任と信頼」の本質
【対談】松田雄馬×矢萩邦彦『正解のないAI教室』第1回 1時間1分・9月8日・ 67再生AI目次企画背景とAI教育への問題提起解像度高まるAI活用、中高生の現場AIポジティブ/ネガティブが招く格差「ファストAI」と「スローAI」の真価AI時代の創造性と責任の在り方
【対談】近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』アートとデザイン編 40分・9月8日・ 75再生AI目次パスポート写真に見る自己変容の軌跡軽視されるデザインの真価とはアートは問い、デザインは答え?“ずるい理論”が示す自己肯定感の正体アーティストとデザイナー、それぞれの哲学
近内悠太×矢萩邦彦『教養と哲学を考えるラジオ』不可能性と豊かさ編 44分・8月11日・ 88再生AI目次「不可能性」から生まれる新しい可能性「できないこと」を知る自由と創造性AI時代の進路選択と「できない」こと日本におけるギャップイヤーの意義矛盾と不可能性が導く次なる境地
【本編】#13 「仮留め」のススメ[アジャイル] 8分・7月21日・ 125再生AI目次完璧主義の落とし穴とは?完成より「仮留め」のススメフィードバックで加速する成長アジャイル式「仮留め」実践術人生を軽やかに修正する秘訣
知窓学舎放課後職員室#10[夏休みの過ごし方] 41分・7月18日・ 112再生AI目次夏休み、子どもの成長を促す体験とは大手塾、先生たちの過酷な夏期講習の実情探究心を刺激する旅 サイコロとAIの活用法成長の鍵 留学体験と通学距離が与える影響夏休みの学習効果を高める時間帯戦略とは
【対談】中瀬幸子×矢萩邦彦『AI時代のリベラルアーツを考えるラジオ』#8 39分・7月14日・ 68再生AI目次教育の「変わらない」なぜ?AIと子どもの世代間ギャップ「自分軸」育成の課題と重要性AI時代に広がる仕事と生活の自由リベラルアーツを「生きる武器」に