TOPライフスタイルメンタル・心理学とうりょうさんの「一朝一積」海外在住研究者じんぺー氏に聞く「日本人ってなんなの?」34:36 3時間前 216再生 問題を報告する 再生する シェアする AI目次「意見・性格・行動」の日本的考察対話で「安心」を優先する日本人の特性曖昧さが育む「型」と非言語化の力日本流、異文化を「型」で昇華する術日本人の「継続」への執念と自然環境AI文字起こし(β版) # 後半はじんぺーさんチャンネルからお聴きください はい、それでは今日はスペシャルゲストをお呼びして、対談を行いたいと思います。 じんぺいさん、よろしくお願いいたします。 はい、鳥谷さんよろしくお願いします。 ありがとうございます。もう私のリスナーの間ではですね、じんぺいさんは本当にもうお馴染みになってきてますけれども、改めて、初めての方もいらっしゃると思うので、自己紹介をお願いいたします。 はい、はじめましてのみなさん、はじめまして。じんぺいと申します。今、ドイツのハンブルクという町で心理学の研究者をしております。 ただ、今実は日本に帰ってきてまして、岩手から繋いでおります。実家の岩手から繋いでます。よろしくお願いします。 ご実家からありがとうございます。 家族との時間も過ごせてるんですか、今は。 そうですね。今、休日した日々を過ごします。 いいですね。さあ、今日時間がない中にかなり重いテーマを私持ってきておりまして、早速始めていいでしょうかね。 ぜひ行きましょう。 タイトルにあるように、海外にドイツに住まれているじんぺいさんと一緒に語りたいんですが、一体日本人とは何なのかっていう話をしていきたいと思います。 前提をしゃべりますと、私はそもそも何々人とかいう括り方をするのは、個人的には実はあんまりよろしくないなと思う側面が多いんですね。 そういうのはどちらかというと、私はどういう文化圏の中で育ったということの方が、まず人格みたいなところには影響を及ぼす部分が強いでしょうから、 国籍とか血統みたいなことで、あまり物事を考えたくないというところだし、特にいろんな人が交流していく時代においては、すごくステレオタイプとかバイアスが働いて、 日本人ってこうだよねとか、決めつけによって何か動きにくくなったり、あるいは人を決めつけてしまうということは、なるべくない方がいいと思いつつも、 とはいえ、今日話したいのは、日本という、ある意味で松岡聖吾さんの本であったと思いますけど、日本という方法みたいな、 今、日本のある種の中で育まれてきた考え方、アプローチみたいなものを、このグローバル化された社会において、 どうやって世界の大きな問題とかを取り組む時に、より日本的方法をちゃんと際立たせると、我々が日本人としてこれから活躍していける部分が、 割とクリアになるんじゃないかなという意思を持って、ちょっと話したいなと思っています。 確かに、面白い。 大丈夫でしょうかね。 はい。 さあ、そんな中ですね。どこから行こうかな。まず1個、ちょっと大きいテーマなんで、私から1個提案したいというか、1個課題提供したいと思うんですけれども。 ぜひ。 はい。さっき、人っていうことを表す時に、その人の意見、それから態度、それから性格みたいなもの、本当はもっと人間って複雑ですよ。 でも、表面的にコミュニケーションする時に、意見、オピニオンと人の性格、キャラクターと、それから日々の振る舞い、行動みたいなことで、 ビヘイビアみたいな、この3つがあると思うんですけれども、私は結構これが日本の中で、国内で交流する時には、これが割と一色端に取り扱われることが多いと思っていてですね。 なんでこれを喋ってるかというと、簡単に言うと、意見を取り交わすのが難しく感じる時があると。 なぜなら、この意見、オピニオンとキャラクター、性格みたいなものが混ぜられてしまうので、もし反対意見とか違う意見を言うと、 あの人はもうキャラクターとしてややこしいね、全く違うね、みたいなことに行き過ぎてしまう。 つまり、もうちょっとわかんないですね。私もこれも逆に世界を知らなさすぎて言ってるだけかもしれませんが、 もうちょっとオピニオン、キャラクター、キャラクター、そしてビヘイビア、ビヘイビアとして分けて捉えるというものが、 もう少し世界の中では醸成されていて、日本でも今後これはどう扱っていくのか、あるいはこれは一色端にするのが日本的方法としてこれからも引き継ぐのかあたりを探究したいなと思っています。 いやー、めちゃくちゃいいですね。 どうですか?どう思います? いや、そうだなと思うほとんどなんですが、結構心理学の話ともすごい似通ってる部分が多いなと。 なんか東梁さんの生理はいつもそういう学術的背景を踏まえて言っているのかと思うぐらい、 全然勉強しません。全然不勉強ですが。 我々って特性と状態とを分けて人のことを考えることが多くて、 英語だとトレートとステートって言って結構わかりやすい。トレートが特性でステートが状態っていうので、 そこは必ずしも一致しないよねみたいな話があり、 どうでしょう?日本人だからここが乖離するとかっていう研究があるのかは知らないんですけど、 その分け方はすごくいいなと思いました。 かつ、このbehaviorっていうのを別で考えるっていうのはすごくいい分け方だなと思いますね。 もうちょっとさっきのbehaviorを聞いてる方に、何言ってるんだこの2人って今なってる可能性があるんで、 私が言ってるbehaviorっていうのはより色濃く現れるのは、結構ピンチに陥った時だと思うんですよね。 ピンチとか、ピンチまでいかなくてもちょっと不利益、不都合、不条理みたいなのが降りかかった時に、 その人がどう対応するかどう振る舞うかみたいなことで、 やっぱり人間ですからもちろん尊徳感情も働きながら社会生活を行っていると思うんですけども、 まずい、やっちゃったとか、こうなっちゃったかってなった時に、 そこでどう行うかどう振る舞うかは、結構私の中ではさっきのキャラクターとbehaviorも別に置いてるけど、 これはbehaviorによってはあの人こういうキャラクターだねって見なされることは結構あると思ってるんですよ。 私も見なしていると思います結構。 なので割と不可分な、分けきれない要素はbehaviorとキャラクターは結構私はあると思ってしまっていて、 ただオピニオンっていうと、これはですね、これからの社会が、今もそうですけど、 今の社会、これからの社会がどうあってほしいか、どうあれば世の中もっと良くなるかっていうことに対して、 どんどん提案していったり考えていくことなので、言ってみれば結構変わるわけですね、オピニオンは。 大げさに言ったら、先月と今月はもうオピニオン変わってますとか、 オピニオンが進化してこうなりました、枝分かれしましたってあるけど、 behaviorとかは結構ある程度もうちょっと変化が遅くてですね、 この10年ぐらいはこういうbehaviorしちゃってたけど、最近はbehaviorがこう変わったなとか、 これぐらいのものだと思ってるんですね。 というのが改めて3つの私の中での解釈の説明でした。 面白いですね。なんかあれですかね、結構オピニオンはロジカルな感じで、 キャラクターとbehaviorはもうちょっと感性も紐づいてるというか、理性的だけではないから変わりにくいとか。 そうですね。あるいは埋め込まれた信念、信条みたいな。 つまり結構メタ認知が難しくて、大体そうやって捉えるよねとか、 私はこうやって暮らしてきたからみたいなことによってですね、 感情プラス習慣みたいなものによってなかなか変えづらい部分がある。 オピニオンはロジカルだけど、これも言ってみれば願いみたいなものもすごく大切ですよね。 願いも今月あっていろんな苦しんでる人の、それこそオピニオンに触れたことによって自分のオピニオンが進化していくってことがあってしかるべきだと思ってるんで、 だからこそ私はもっとここを議論、いろんな人と交換して、 ちょっと偏ったなって人に思われてもいいから出しやすく、もっとなっていった方がいいんじゃないかなって思う場面があると。 そういう風に思ってますけども。 これは日本の特徴なんか、この3つの分類だけでちょっと時間が過ぎていってしまいそうですが、 この辺りに対するなんかちょっと、じんぺいさんから見ていて、 確かに日本はこういう要素が他と比べても多いんじゃないかみたいなところってありますか? いや、どうなんすかね。本当によく言われることだと思うけど、 はっきり言えばものを言いますよね。 ドイツの人もそうだし、この国も。 日本人が一番言わない感じは、韓国の人とかもわりとズバッと言うというか、 オピニオンをある種のキャラクターと切り分けてるような感覚はある気がするんですよね。 自分もものすごくこう言いながら経験があるというか、 誰でもオピニオンを言おうからやめとこうってなる気があるんですよ。 ある! ありますよね。これ何なのかなと。 めっちゃ一言で言ったらただビビっちゃうみたいな言い方もできるけど、 ただそれはまたちょっとザクッとした言い方すぎるので、 何をじゃあ今度恐れていたり控えていたりしてるのかっていう時に、 何なんでしょうねというところですけど、 まずはやっぱり確かに自分が違うと思われて嫌われるのが怖いっていうのはまず、 ゼロじゃない。でも私これ結構弱い方なんですよ。 そうですよね。 昔から結構自分はオピニオンは人と一緒じゃないなと思って、 何だったら人と一緒じゃないポジション取りをしようとするくらいの傾向があった。 学生の頃からそういう傾向があって、 半分嫌われながら自分の居場所を作るみたいな、 特性というかパターンがあった人なので、 あんまり今もそれが怖いかって言ったら、 そんなにそれに対しては怯えてないんですけども、 単純に自分の個人というものを語る時に、 この定義が難しいんだと思ってます。 だからものすごく迷いが出るんですよ正直言うと。迷う。 なんで個人を語るのが難しいかというと、 日本的にこれこそ方法論だと思うんですけど、 今喋っている場がありますね。 今のこのじんぺいさんと喋っている場もあるし、 カンファレンスみたいな大きな場もあるし、 3人くらいの小さな場もあるし、 この場の中で、 場というものも確実にいつも存在してるんですね。 3人いても3人プラスバーさんがいるみたいな。 バーも絶対あるから、 そこから自分をめちゃくちゃ切り離して喋るのができないんだけど、 これをできるのが、 日本以外はこういうことはそこまで意識してないけど、 場がすごく混じり込んでるって意味かな。 そこが自分はすごく感じますが、 これってなんなんですかね。 確かに。 その場っていってもすごいいろんなものを包含してますよね。 建築とかインテリアとかもちろんそうだろうし、 そうじゃないなんですかね。 どれくらいフォーマルかとか、 あるような気がしますが。 そうですね。 空気感みたいなものもものすごく包まれるし。 別にすごい集団主義というよりかは、 場を重んじるというとすごく丁寧な文化っぽく聞こえすぎるけど、 その中間ぐらいにある、 場と自分を切り離すという概念自体が、 そもそもそんなに育まれてないって感じがしますね。 確かに。 なんでなんでしょうね。 信頼関係もすごい大事だっていうのは、 みんながある程度マナーレベルで日本人って持ってるんですけど、 だから本当は場は崩れないっていう信頼があってもいいんだけど、 信頼ということよりも、 どちらかというと安心みたいなことを、 安心によってある程度会話の中での、 温かさや幸福感を感じるということにも慣れすぎていてですね。 本当は信頼があるからこそ、 今オピニオンを置いてみて、 それによってまた次のステージにその関係がいけばいいやっていうことを、 本当はどんどんチャレンジしていいんですけれども、 やっぱり今日の会話のまったりゆったり、 たっぷり幸せな感じは、 安心ということを大事にするから、 あんまりオピニオンをこの場から、 この場をちょっと空気を変えてまで置こうかなってことに、 あまりならないっていうことに慣れすぎていて、 いざ、さあ今日はみんなでオピニオン出し合いましょう。 みんなはその汚なき意見こそが求められてますよってなったって、 でもやっぱりこの場の中の自分だし、 切り離して自分を見出すことはなかなか慣れてないし、 信頼よりも安心だねってなるのかなっていう傾向をすごく感じますね。 確かに。 なんかそれ聞くと、 ホメオスタシスとか言うじゃないですか、 炎上維持というか、 そこの対応が強いのかなと思うけども、 それって別に人間みんなそうのはずで本来は。 そうですよね。 僕は東洋さんとか別の意見を持つムーブとかの方が逆にちょっと、 何て言うんですかね、適応的じゃないかって言ったりする。 少し超安定を崩すっていう方向の方が、 なんでなんだろうとかっていう風なことも今思い浮かびます。 なるほど。 自分が何でかっていうのを自分なりに理解しているのは、 たぶんまあそれこそお寺という身に置いてもらうと、 身を選んだわけじゃなくそこに生まれ落ちたわけで、 必然と歴史を学ぶと、お寺の歴史を学ぶと、 安定してきたからこの600年以上続いているというよりかは、 本当に歴代住職、今23代目が知事ですけど、 その前の22人もかなりバラバラなことを言って、 まあまあ何だろう、喧嘩している。 江戸末期から明治に入るときはやっぱりすごい住職同士のバトルもあった。 なんかこう割と社会に迎合し始めて、 長珍とか釣った祭りとかし始めたら、 先代さんが長老が杖をついて歩かれてそれを通られた時に、 怒り狂って長珍を杖で突き破ったみたいなエピソードまで残ってたりとか。 いろんな考えのバトルがあるという。 まあまあこれはちょっと余談でしたけど、 歴史の中で変わって今までのことを疑って、 ある種を破壊しよう、 先代さんのことを否定してでもいこうというムーブがあったからこそ、 つまり新たなオピニオンを出して実装していったからこそですね、 続いてるんだろうなっていう身体感覚があるんですよ。 すっごいロジカルに考えてるというよりかは、 そうだろうなってもある程度埋め込まれていて、 なので自分が人と同じ、 全くオピニオンの中に同調していくっていう時間が、 ある程度の一定期間流れた時にものすごい危機感と、 ふわっとやばいっていうのが、 これも体に流れるんですよね。 だから人と違う考えって、 どこからユニークネスはどこだみたいなことを考える。 無理にでも考えるみたいなちょっと変な癖があって、 それはそれで良きも悪きもあるんですけど、 って感じだと思ってます。 なんかすごい自分の中では、 これまでと同じことやってることがむしろ危ないなと、 リスクだなと思う部分もあり、 鳥谷さんの話は結構、 自分もそうなりたいなといつも思っているところはあるんですけど、 日本人が考えた時に、 どうなんでしょうね。 海外在住ってせっかくつけてくださってるんで、 今日本に帰ってきてやっぱり強く感じるのは、 ドイツで暮らすのが、 イージーすぎるっていう。 自然環境ですね。 夏に帰ってきて、 僕が滞在してる2週間くらいだけでも、 何回戦場降水帯が発生して、 だってどこもそうじゃないですか。 日本で今、安心できる場所って特にない。 昨日も東北なんで地震が結構多くて、 ちっちゃい地震ですけど何回かあったみたいなことを思うと、 ドイツってそういう不安から本当に一切、 ない状況だなと思って。 自然の脅威が全く違うレベルであると。 これはやっぱ大きいなって思いますね。 結局、日本のこの方法論はなぜ生まれてきたのかっていう、 確かに私も議論すると、 大体確かに一番大きいのはこの要素だってなるんだけど、 そうですよね。 そうなんですよ。 でもそれ言っちゃうと、 とはいえアジア諸国でも、 歴史上はいろんな、 大地震とかも本当に日本は経験してるけど、 他の国も経験してると思うんですね、実際は。 その中でも確かにヨーロッパ、 ドイツと比べるとずいぶん違う環境だというのは、 今回のこの2週間くらいでもものすごくあって。 プラスその中でも今度じゃあアジアの中とかでも、 方法論で一個いきましょうか。 井上さんもよくおっしゃってるとか、 今も中心のアジェンダかもしれませんが、 この曖昧さみたいな。 この方法論としての曖昧さっていうのは、 実際何のメリット我々これ享受してるんですかね。 そうですよね。 メリットないとここまで曖昧さ絶対続けてないから、 それこそはっきり今みたいにオピニオン言っていこうよっていう場面が増えてきた。 グローバルでそうやってディスカッションするときに、 なんか日本人が弱い立場で、 例えば陣平さんも私も多分、 ちょっと弱さを自分にも感じるみたいな経験してるじゃないですか。 もちろんそれはそれで技術的とか、 時々そういう方法を取り入れようとも思うが、 別にじゃあ日常会話でもそんな風になりたいとまでは思ってない。 多分日常会話には曖昧さは同時にめでていたいみたいな感覚もあるとすれば、 これ何のメリットを得てるんでしょうね。 なんか喧嘩せずに済むみたいなのが思いますけどね。 言い切らず受け手が補完していく会話みたいな。 これめっちゃ感じるんですよ私。 海外の人と話す機会もすごく増えたんで、 ある意味で受け手がちゃんと最後まで言うのを待ってくれるのは、 実は私それこそアメリカ人とかが多い気がするんですよ。 確かに。 こっちが英語がタトタトし、必死で喋ってるから、 どこまで言い切るんだみたいな待ってくれてるシーンの方が多いですけど要素としては。 でもなんか多分他の人同士が喋ってるのを見ても、 でも逆にやっぱり主体が話し手が言い切れよっていうのがまず大前提であって、 それを言い切ったら受けたら今度こっちにボール来たら言い返すというか、 じゃあこっちの意見はダダダダダって今度5分でも10分でも返さないぞぐらいのことがあって、 日本だと、いやー昨日例えばなんだろうな、 昨日ミーティングあって大変だったんだよねぐらい言ったら、 受け手がそうだよねこの時期こう大変だし前回会えてたもんねって、 受け手がもう会話としてもキャッチしてくれるじゃないですか。 投げ返してくれるみたいな。 これにめっちゃ慣れてるなーっていうのは自分は思います。 それはこれなんかそれ以上の発展はない。ごめんなさい。 1個ちょっと共有として言っただけなんですけど。 でも同意です。もう同じような感覚は得てますね。 海外の人と話すと。海外特に欧米の人がそうかもしれないですけど。 それぐらいのほうが関係が一気に変わってしまったりすることが、 曖昧なほうが少ないという。 これは一つのメリットだと思いますけど、 関係を変えようというよりかは、関係を長く続けるということ。 例えば、それこそオピニオンが合わなくてもみたいなのがありますけど、 これ以外のメリットもある気がするんだけど、まだ言葉にできてないですよね。 なんかここ見つけたいんですけど、何かありますかね。 やっぱり芸術とかアートとか文学だったら、 体験を良いものにしてるって言いたいですけどね。 個人的にはコンテンポラリーなものとかも好きだし、 逆に伝統の長いものはよく分からなくて、 曖昧さが残る部分もあって、すごい好きだしっていうのもあるんで。 そういうところはあるかもしれないですけどね。 伝統みたいな時に型っていう言葉があると思うんですけど、 あまり考えたり言葉にするよりも体に染み込むように、 それを繰り返し繰り返しして勝手にそこにいわばはまれるくらいの 強度を持った方だと思うんですけど、 そうやった方が絶対に良いことがあるっていうのは私も感覚としてあって、 言葉として弱いですけど、あって感覚として。 曖昧で。 曖昧で。 でも多分これなんだと思うんですね。 これを先に言葉とかロジックで、 このように繰り返せばあなたはこうなりますって言われてたら、 いやそうじゃねえだろっていう議論したくなって、 もうやる前から違うオピニオン出してやろうかなって私みたいなタイプは 発動してしまっていいようなことが。 いいっすね。 それによって本質を落とし込めないと体に。 これだな。本質的な何かずっと続いているエッセンスって言葉には落としきれない部分を 本当にまずは体に落とし込んじゃえば、 そうするとその人独自の受け手の肩がある中での独自の発展というか、 個々の中でのまた熟成具合が味が変わっていくってことはあるんだけど、 先に自分の味みたいなことを意見を交わしてやろうとしたって、 貫ききれないような本当のエッセンスが肩の方が重要であるっていうことな気がしますね。 確かに。 間違いない。 曖昧さっていうアジェンダがやっぱりそれ自体が曖昧で、 いくつか派生を自分の中ではしている、研究するときとかにしている中で、 今の東亮さんが近いなと思ったのが、まだ全然できてないんですけど、 やっぱり言語化することの良くない部分というか、 非言語化、言語化しないことの良さみたいなのを、 研究していくのがいいかなと思っているんですよね、最近は。 これは本当に今の話も含めて完全同意ですね。 これができると、もう少しそれはそれでまたメソッド化されちゃうっていう、 何かの陳腐化みたいなのも含みますが、とはいったん共有できる何かになりますよね。 なる気がしますね。 言語化される前のこの型を染み込ませたことによって、 これまた型とか伝統とか言っていると、 今、私の生活にはそんなものないなって思って聞いている人がいるかもしれませんが、 またもう一個の特徴があると思っているのが、 日本って生活自体を型化している要素があると思うんですよ。 小さな生活の、例えば本当にご飯とかお風呂とか、 掃除をとってもですね、かなりその家々ごとの伝統、 これも何代も続いているから伝統という場合もあれば、 一代であってもですね、今の本当にお父さんお母さんと、 まだ小中学校行っている家庭の中でも、 10年やりゃ結構な伝統じゃないですか。 そうですね。 うちの家ではこうやることになっているです、みたいなことがかなりありますよね。 これってめっちゃ誇るべきことぐらいすごいことで、 継続して継続して身体に染み込ませるっていう、 さっきの話に通ずるところで、 別にそれが400年800年続いてなきゃいけないという話は私はないと思っているので、 やっぱり言葉にする前に、まず型から入るみたいなことは、 家庭教育とか家庭の伝統の中でもすごくたくさんあるなと思っています。 確かに。 そうですよね。 これ何してるんでしょうね。何でそんなことをして。 何なんだろう。 元々こうやって漢字とか、それこそ仏教もそうですし、 律令制度とか儒教とかいろんなもの外から入れて、 一旦その型入れるけれども、その型が日本の元々あった神道とか、 その前のアニミズム的なものとかと、 ちゃんと融合するまで型としてちゃんと身体に入れて、 来たと思うところまでちゃんと熟成したら、 それがまた独自の新しい型になって、 というところまで待つみたいなことができちゃうんですし、 できてきた結果を残しているというか、その実績もあるから、 今の新しいグローバル化されて、とにかくオピニオン言おうとか、 このAI時代においてどうやってタイムマネジメントとか 生産性みたいなことを考えながら幸せを考えるかみたいなことも、 あまり慌てず一旦この、例えばアメリカとか中国中心に生まれた そのペースとかも、一旦確かに型に入れつつ、 今までの自分の型とも減らし合わせ、これ避けて熟成して また新しい型になるまで、今ってこれ待ってる期間なんですかね。 そうなんですかね。 あんまり言語化して場取って優劣とか、 俺はこうなんだみたいな、あなたたちはこうですねって分けるよりかは、 一旦受け止めてやることをまさに曖昧に受け止めたほうが、 結果、長い歴史でいうと、それによって漢字、ひらがな、カタカナとか すごい発展して豊かに我々物事を語れるように。そうなんですかね。 それはすごくありそう。早めに決めちゃうと、 その後の本来広がっていたはずのものが広がってないみたいなのは 多いですよね。 ここ研究しません? ここちょっとやったほうがいい気がしますね。 確かに。 トリッシャーちょっと最後一個聞いてもいいですか。 どうぞどうぞ。 僕も東亮さんと似ていて、やっぱり日本人っていうことを あんまり特別しすぎないほうがいいのかなっていうふうに 割と態度をとっているんですけど、 カタってなった時にどうなんでしょう。 それこそフランスにいらっしゃったと思うんですけど、 最近フランスとか職人とかアーティストとかになればなるほど カタみたいな世界だと思うんですよね。 でも違いますか?やっぱり日本のそれとは。 何だろうな。 これは確かに細かく調べてないけれども、 なんとなく正直圧倒的に違う感じがする。 圧倒的に違う感じがする。 曖昧でいいな。 日本の場合は圧倒的にまず、 継続っていう単語の質が違うぐらいほんまに継続してる。 しかも職人さんの中で、 目の前のカンって金槌を打つ作業を継続してるっていう要素もあれば、 その前のルーティンにも金槌を持つ時の まず道具を磨く作法とか、終わってからの処理とか、 何だったらその後にお茶飲むとか、 全部このルーティンの幅も違うし、 それぐらい日本はやってるし、 そこに対して精度を磨き上げるみたいなこととか、 しかも今のやってる作業時間も絶対ピカッと合わせるとか、 時間減収、それから絶対的な卓越性の追求みたいなことと、 圧倒的に時間の継続性みたいなことを、 やっぱり日本はちょっと別次元な感じがしてるんですけど、 行き過ぎですかね。 そう感じますね、外を見ても。 なんかあれですか、 フランスとかの人は継続というよりも、 アップデートしていく意識が高いんですかね。 ちょっとルーズな部分も含めてやらないといけないし、 受け止めながらやってる感じがするから、 毎日ちょっとずつ変わってもいいし、 あと単純にさっきの、 ちょっとまた自然論に戻っちゃって身も蓋もないんですけど、 さっきのドイツ日本の圧倒的な雨の量とかも含めてですけど、 南フランス行った時に、 ちょっとこの時間から言うなよっていうトピックなんですけど、 よく昼休み長いとか言うじゃないですか。 あいつら昼休み働いてねーよとか言って。 だいたい昼休み取ったら帰ってこない。 あれね、当たり前だと思った。 なぜならやっぱり日差し強すぎるし、 暑すぎてあんな時間に外動けないし仕事もできない。 だから午前ちょっと働いて、 遅めの昼休み1時くらいからご飯食べたら、 それはもう一旦ワインでも飲んで3時、4時くらいまで休憩して、 どうせまた4時から8時、9時までまた働けるんだから、 そこで頑張ろうってなるから。 それくらいのある意味で時間っていうのは、 日によって日差しが強いとか弱いとかで変わるけど、 日本ってそこはこもってでも自分のスペース守って徹底的に継続するけど、 その辺の継続がちょっと自然環境も含めて影響があるのかなと思いましたね。 すごいイメージできました。 ちょっともう尽きないんですけど、 次はじゃあ日本人は何で同じ時間とかに完全に完璧にやり続けることを そんなにも頑張ってるのかみたいなことも気になってきますよね。 そうですね。 前半ちょっと私がバンバンリードしちゃって、 いっぱい喋っちゃったんで、 後半ちょっとまたじゅんぺいさんに委ねますので、 チャンネル移動しましょうか。 はい。お願いします。 それでは、チャンネルをここに貼るのを怠っていましたけれども、 一旦ここで放送を終了します。 すぐに開いていただきますので、移動しましょう。 ありがとうございました。 ありがとうございました。 皆さんもありがとうございます。 # クラウドファンディングのリンクはこちら はいいかがでしたでしょうか前半はねちょっと私が話題を詰め込みすぎてしまいました 後半今ね収録終わったんですけれども後半は じんぺーさんのクラウドファンディングのお話も含めてお聞きすることができました そのほかやっぱりね研究者としての悩みなどなどなどなど 聞き応えがあると思いますのでぜひ後半聞いていただきたいのと合わせてですねこの チャプターのリンクにクラウドファンディングのリンクを貼っておきますのでぜひね そちらのページ覗いていろいろな部分を読んでください そしてぜひ支援してください 何て言ったって研究者というのは社会を見てそこから課題だったり疑問を研究論文にまとめる そしてその研究を見て社会の技術というのがまた発展していくわけですね 技術というものを我々の また社会に届けるために企業がサービス化すると 我々はそのサービスを受け取ってまた生活が変わって社会が変容し その中でまた生まれた課題や疑問をまた研究者が研究するというふうにぐるぐるやっぱり 世界というのは回っていくわけであって その中でともすれば我々はただただ企業からサービスを受け取るだけとか それに対して何か自分らも発信しなきゃというだけで留まってしまうところ やっぱりこうもうちょっと時間をかけたりじっくりとか深くやっていく研究ということに なかなか私たちも関われないわけですけれども このクラウドファンディングに参加していただくことによって 今までその企業と社会の間の中の一方通行だった関係性が 自分も研究というところに携われるとなると さっきのトライアングルの中の自分も一環として生きていけるというふうに 大きく人生の目線が変わることですので ぜひこの機会を逃さず そこに参画していただけるといいんじゃないかなというふうに私は考えました というわけで 今日も皆さん良い1日をお過ごしください それではまたお会いしましょう バイバイ もっと見るとうりょうさんの「一朝一積」プレミアム放送配信中!32:231.後半はじんぺーさんチャンネルからお聴きください02:132.クラウドファンディングのリンクはこちらhttps://academist-cf.com/projects/424?lang=jaコメント感想・質問・応援メッセージを書こう
海外在住研究者じんぺー氏に聞く「日本人ってなんなの?」 35分・3時間前・ 216再生AI目次「意見・性格・行動」の日本的考察対話で「安心」を優先する日本人の特性曖昧さが育む「型」と非言語化の力日本流、異文化を「型」で昇華する術日本人の「継続」への執念と自然環境
「休息」は報酬ではなくインフラである 12分・昨日・ 661再生AI目次ダニエル・ロバーツ氏の時間論人生を「いつか」に託す危うさ時間問題は社会の責任か?自由時間と「権利」の再定義休息は報酬でなくインフラ?
「本業」とは、今作っているものではない 10分・一昨日・ 414再生AI目次仏具職人からの転身、その原点とは?X線からマネキンへ、多角化の秘密社会のニーズに応え続けた変革力「本業」の定義?島津製作所の哲学方法か目的か?あなたの本質を問う
老舗企業で見た「家庭を滅ぼす人」 10分・9月12日・ 506再生AI目次老舗企業が遺す「家庭を滅ぼす人」現代に通じる「不平・無駄」の罠大事件でなく「日常」が壊す関係「今日積む徳」が示す家族の形究極の教訓「無事を感謝せぬ人」
あなたの視線は誰が決めていますか 10分・9月11日・ 520再生AI目次ニューヨークの街角実験、視線の力他者の視線は賢い情報源か「見られている」が価値になるSNS不本意な注意が産む社会現象あなたの「注意」は誰のものか
能力だけではリーダーになれない 10分・9月10日・ 542再生AI目次万能型より「一点特化」の価値自信は「持つもの」より「積み上げるもの」「伝えすぎ」が存在しないコミュニケーション術チームの信頼を築く「予測可能な一貫性」能力を誤らせない「羅針盤」の役割
シンプルな「アンラーニング」の必殺技#1350 10分・9月9日・ 510再生AI目次「知っている」を疑うアンラーニングの真髄同じ文字を反復で起こる「ミシカン」既成概念を壊す「脱構築」の秘密「幸せ」など概念を刷新する禅的アプローチ「フレッシュアイズ」獲得への実践的ステップ
「敵に優しい友人」を許せますか?#1349 10分・9月8日・ 544再生AI目次友人の「敵への優しさ」を許せるか?優しい友人に向けられる複雑な心境人は「選ばれる感覚」を愛するのか正義の評価が関係性で変わる深層慈悲の概念に隠された人間の真理