#062母校での日本語教育の逡巡と葛藤ー教育バイオグラフィの試み09
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金沢大学での五年間を経て、1991年春に、母校である早稲田大学の日本語研究教育センター(現在の日本語教育研究センター)に職場が変わります。当時、バブルの後期にあたり、都市の物価は高騰していて、とても東京には住めないと覚悟を決め、東京から170キロの八ヶ岳南麓に住まいを定めます。
ここから週4日Wasedaに通うことになり、現在の2拠点生活を先取りした感がありました。
早稲田での日本語教育にはさまざまな課題があって、職場として、また自分の居場所として、どのように考えていったらいいのか、まさに逡巡と葛藤の日々が続きました。
ここから週4日Wasedaに通うことになり、現在の2拠点生活を先取りした感がありました。
早稲田での日本語教育にはさまざまな課題があって、職場として、また自分の居場所として、どのように考えていったらいいのか、まさに逡巡と葛藤の日々が続きました。
自分のことばをつくる
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1991年春、母校へ。
- 05:142.
留学生下請けとしての日本語教育
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ことばと文化を結ぶ教育への模索
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パリ大学交換研究への期待
コメント

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かぼちゃ
2024年3月2日
細川先生、こんばんは。かぼちゃです。「個の文化」の誕生はまだこの次だったんですね。引っ張りますねー。また次も聞かなきゃです。1991年といえば私が1回目の修士課程を終えた頃。当時、かぼちゃは貧乏をしていて、世の中のバブルに気がつきませんでした。細川先生のおられた早稲田は輝いて見えていましたよ。そちらでは、惑星同士がぶつかり合うようにして、大きな流れが動いていたのですねー。かたや、遠く西の空の下、かぼちゃは暗中模索でもがいていました🤭。大震災にも遭いました。あちこちで何かが動いていましたよね。
細川 英雄
2024年3月5日
ありがとうございます。90年代前半は、なかなか大変でした。外に見える形と内情ではまったく異なるものですね。90年代後半からがんばります(笑)。よろしく☺️
