TOPライフスタイルメンタル・心理学禅僧と考える...日々の暮らしから人生まで#486 禅の入口...仏道修行というものは、銘々一人一人の脚下の事柄である...13:50 2025年8月13日 281再生 問題を報告する 再生する シェアする 佛道は人人の脚跟下(きゃっこんか)なり...(道元:『学道用心集』九)AI目次禅の入口、それは足元から?仏道修行の真髄とは何か?集中力と心の源を探る旅心を捕まえ、我が物にする方法禅の修行、小さな一歩から始めるAI文字起こし(β版) # 初めのあいさつ おはようございます。 えりんじの古川周券です。 今日もどうぞよろしくお願いいたします。 # 仏道修行とは... 今日は、禅の入り口ということで、仏道修行というものは、明々一人一人の客家の事柄である、というお話をしたいと思います。 ちょっと難しい言葉がついていますね。 禅の入り口というタイトルは、どういうことかと言いますと、 まあ、例えば今までお話しさせていただいていることは、 例えば、昨日までだったら、日常に生かす禅、という風になっていますけれども、 それは、日常生活の方から、禅を見ているんですよね。 何か、禅の修行の世界で得たものが、日常に生かすことができないか、と。 日常立場から、禅を見る、と。 人生を考える、ということで、お話しすることもあるんですけれども、 こちらもどちらかというと、人生を考える、という日常の生活の基盤のところから考えて、 それで、禅の知恵、修行の知恵というものをどう生かすか、という感じのお話をしてきて、 どちらかというと、これまでは、このボイシーのお話は、 この日常生活の側から、禅を見るという立場で、ずっとお話をしてきたんですね。 だけども、ずいぶん、いろんなことをお話しさせていただいたので、 そろそろ、今度は、禅の立場から、どんどんお話をできればな、と、 少しずつ、思い始めているんですね。 それで、今回から、禅の入り口ということで、お話しをしようと思っているんですけれども、 まず最初に、昨日のお話、おととい、昨日おとといのお話、日常の生かす禅ということで、 集中力のお話をしたんですね。 禅の修行の基本というのは、まずは集中力なんですね。 いつもお話しすることですけれども、禅というものは、あるいは仏教というものは、 基本はそうなんですけれども、修行の宗教、誰かに助けてもらうというものではない。 自分で道を開いていくというものです。 自分で道を開くときに、いろんな自分を試すような壁がある、チャレンジングなことがあるわけですね。 それを乗り越えて前に進む。 そのときに、何が一番基本になるか、これはもう集中力に尽きるんですね。 禅の世界に、もし入門するのであれば、集中力は来ていなければならない。 だから、日常に生かす禅ということで、集中力のお話をしたんですけれども、 これはシンプルで簡単なことをお話ししているようだけれども、 実はここに始まって、ここに終わるって、そんなことなんですよね。 難しいことをチャレンジするって、例えば目の前に大きな問題があって、 それを乗り越えるのに大変なときに、どうしても人間というのは、 それと比例して、いろんなことをたくさんやらなきゃならない、 難しいことをたくさんこなさなきゃならないんだって、無意識に思ってしまうんですよね。 例えば、大きな壁を乗り越えるためには、たくさん道具を持ってきて、 たくさんの手続きをして、もうたくさん穴あけなきゃならないって思っている。 高い山に登るためには、たくさん装備を持ってきて、 もうふもとの方の樹木を切り払って、登っていかなきゃならないって思うんですよね。 でも、それは日常的な世界の話、世俗の話なんです。 禅の世界、仏教の世界というのは、心の世界のこと、精神の世界のことなんですよね。 実は、私たちの心は一種の病なんだけれども、心の世界ってつかみどころがないんですよ。 ある意味では、心というのは、動いた結果、私たちに働きかけるものは大きいんです。 悲しかったり、嬉しかったり、イライラしたり、怒りを感じたりって。 結果として私たちは、強く強く、はっきり明確に感じるんだけど、 じゃあ、感じるけど、感じさせる源は何かって。 心が動いている源は何かって。 それ、結構、つかめる用がないんですよ。 わーっと、どこからか感情が湧いてくるわけじゃないですか。 どこから情緒が湧いてくるわけじゃないですか。 でも、湧いた結果は見えてるんです。 腹が立つとか、むかつくとか、イライラするとか、嬉しいとか、 結果は分かるんだけど、それがどこからやってくるのかってことが分からない。 私たちは、どうしても分かりやすいものにしがみつくので、結果を追っかけるんですよね。 でも、源を追っかけない。 禅の世界には、義者が進まないときには、 車を撃った方がいいのか、牛を撃った方がいいのかっていう問答があるんですね。 車がうまく進まないときっていうのは、私たちが日曜日でうまくいかないときのことです。 うまくいかないときにどうしたらいいかって。 車が進まないのが見えてるんですよ。目に見えてるんです。 車に乗ってるわけですよ。 車の車輪を見て、ぐるぐるぐるぐる、うまくいかない。だから車をバンバン叩くんです。 でも、車を叩いてたって進まないですよね。 牛を叩く方がいい。じゃあ、牛って何かってことです。 牛っていうのは、うまく進まないっていうのは、 日常生活であれば、これは原因を追求して結果をやるって。 いわゆる改善ですよね。分析して改善すればいいんだけど、 でも、心の問題はどうするのかって。 心がうまくいかないときには、心の源。 いろんな思いが湧いてくるじゃないですか。 なんかモヤモヤするって。なんかこんなんじゃないと思うって。 なんか人間にはうまくいかないって。 現実の中でパズルを込むように解決ができるものは、 まあ、ググればいいんです。解決を探せばいいんです。 だけど、心がどうにもならない。 怒りを感じて、どうにもならなかったり、寝れなかったり、不安を感じたり、自信がなかったりって。 心って、どっかからやってきて自分を苛む。 まあ、現実の世界の中で自分を苛めると同じくらい分かりにくいものです。 分かりやすいことですよね。大きなものは分かりやすい。でも、源は分かりにくいって。 だから、心の問題に関しては、牛はどこにいるのだって。 だから、重竜図ってものがありますよね。 牛をたどりながら、牛を追っかけていくって。 自分の心を捕まえることが実はとても難しい。だから禅は難しいんです。 禅の入り口というのは、その牛を追っかける話なんですよ。 でも、追っかけているうちはまだまだなんです。 牛を自分のものにしないといけないんですよね。 禅の入り口の話というのは、牛を我が物にするってどういうことかというところ。 それが当たり前の話をしようと思ってですね。 その時に今日、第1巻目になるんですけれども、 仏道修行というものは、名々一人一人の卓下のことからであるということから始めたいんですね。 これは、昨日はお話しした、集中力を身につけるということなんですよ。 集中力を身につけるということが、名々一人一人の卓下のことからであるということなんです。 集中力を身につけるというと、何かトレーニングして集中力というパワーを得る。違うんですよ。 集中力というのをパワーとして見るんじゃなくて、集中する自分になりきるということが大事なんです。 それが卓下のことからであるということの意味なんですね。 # 禅の入り口は... サイトロにあるこの言葉、仏道修行というものは、 命名、一人一人の客家の事柄であるというのは、 これは道元禅師の学道要人集に出てくる言葉なんですね。 道元禅師は、「仏道は人々の客婚家なり。」と言っているんですよね。 これはもう端的な言葉ですけれど、この言葉って実は、 意味わかるよって、そんな簡単なことではないんですね。 意味がわかってもどうにもならないんです。 これを自分の文字にしないといけないんですよ。 客婚家のことっていうのはどういうことかというと、 客婚家、自分の足元のこと、今やっていることに集中して、 今やっていることから目を逸らすなってことなんですよ。 いやだから、集中力を身につければなんとかなるんじゃなくて、 今ここで集中しなきゃならないんです。 それが大事なんです。これは客婚家のことですよね。 昔テレビで、静岡の臨済市宝広寺派の本山、奥山の宝広寺ですね。 宝広寺に昔、荒金天麟という老子がおられて、 この方を取材したドキュメンタリーがあったんですね。 もうずいぶん前です。もう30年前ぐらいですかね。 私はまだ全然、全然にも関心がなかったことです。学生時代ですよね。 悩んでいる学生が宝広寺に来ていて、老子の説法を聞く。 老子は、「その場その場になりきり。その場その場でなりきりなんだ。目を逸らすな。今ここになりきるんだ。速攻投手なんだ。」と言うんです。 聞いているうちに、聞いていた学生さんがハッと気づいて、顔つきが変わるんですよ。何か気づいたんですよ。 老子に向かってこう言うんですね。 「ありがとうございました。やっとわかりました。私は世の中を変えたいと思って社会事業みたいなことをしていたんだけど、そうじゃない。 私は学生なんだと。学生だから学生の本分である学ぶことを今一生懸命やればいいんだって。 ああいう運動なんかしたり、いろんなことに気を取られたら間違いなんだと。 ああしたい、こうしたいという、そういうものに気を取られてて、それに気を取られすぎてて、足元が見えてなかったって。前の方ばかり見て、遠くばかり見てて、足元が見えてなかったって。 気づきました?」って言ったら、老子が、「バカもの!」って怒鳴るんですよね。 そうじゃないんだって。お前は今、私の話を聞いてるんだろうって。一生懸命聞け!」って、老子が怒るんですよね。 これは、まだ学生の気づきって間違いじゃないんですよ。悪くはないんだけど、脚本家のことって、今この場、今この場しかないってことですよ。 よそ見をするなってことなんですよ。 よそ見をするなにも、いろんな意味があるじゃないですか。 できるだけ純一無雑。できるだけ単純に。単純なことの極致は何か。 息を一つ、二つじゃないですか。で、一つ二つのうちの一つも消えるんです。 ひたすら息になりきって、なりきっていることも忘れて、没頭する。 はっと気づいたら、いつの間にか時間が過ぎてたって。これが脚本家だってことなんです。 日常生活を送っていると、いろんなことに気を配らなきゃならないから、こういうトレーニングはなかなか難しいんですね。 なかなか難しいんだけれども、短い時間でもいい。 自分で、そういうふうに集中して没頭するということが許されるような合間を見つけて、その時間を大事にすることですよね。 職場ではなかなかうまくいかない。人間関係の場でもうまくいかない。 じゃあどうするかって。自分一人になれる場所を探します。 自分一人になれる場所を探して、その場所をその一分でもいい、五分でもいい、その場所を大事にして、その時に思い切って呼吸をしてみて、思い切ってなりきってみるって。 それでその時に、そのなりきるという感覚、その時に心がどう動くかってことを、いつも大事にするって。 実は没入、没頭の思いっていうものを、そういう状態、没入している状態の時だけにしてしまったら、あんまり意味がないんです。 道中の工夫というように、それに慣れてきて、感覚的にこれが没頭している状態だというのが分かってきて、その時の心の在り方、テンション、そういうものをうまくつかむならば、今度は仕事をしている時も、そういう心の感覚というのを忘れずにいることができるんですね。 そうやって少しずつ、少しずつ、少しずつ、じわじわ、じわじわ、脚本家のこと、命名の脚下の事柄ということを、少しずつ少しずつ増やしていくって。 そうすると何が最初起きるかって。気持ちが油断になるんです。やる気が心の奥底から湧いてくるって。そういうものを、もう小さく小さく、少しずつ少しずつ積み上げていくって、これが禅の入り口なんですね。 まあ、そんなわけで難しいんですが、禅の修行というのは、最初のうちは小さな小さなパズルなんです。 小さな小さなところ、本当に一分でいいんです。なかなかできません。で、そんなこと許さなさい。で、社会の中で生きてるんだったら、なかなか許さないんですよ。 でも、修行道場に行ったって、そんなことなかなか許さないんですね。誰もが一緒です。 そのギューッと集中して、没頭するって。そういう時間を少しでも作るって。 最初は好きなことをおからしく始められないかもしれませんけど、一分一秒でもいい。意識してそういう時間を自分に与えるって。自分のご褒美として与えるって。 ご褒美にリラックスしてくつろぐのもいいんだけど、ご褒美は、むしろ没頭して集中する。どうしてかって。 疲れてる時にでも没頭して集中して、自分の奥底の心の奥底を開放すると、心の奥底から力がみなぎってくるんですね。 私は同情ですを経験しました。いやいや、やらされてる感があったら、全然休みもらっても疲れとらないです。 でも、よし、やるって。自分で心を振り起こして、自分の心の奥底から気合が、気持ちが湧いてくる時に、ギューッというものが始まるんですね。 その切り替えを経験したことが私はあります。 だから、自分が疲れちゃってどうにもならない時はダメですよ。 だけども、なる程度自分の心に余裕が出てくるならば、自分の心の奥底を開放した時の、心の奥底から湧き出るような力というものを、ぜひ実感してほしいなというふうに思います。 そんなわけで、集中力を身につけるということは、たくさんのことを求めるんじゃない。 まずは徹底的にいろんなものをミニマムにして、切って切って切って切って、足元のこと。 何にも考えないで、心の奥底からギューッと気持ちが前に出る。気合というものが湧き出る。 そのあたりを自分の生活の中を振り返って、あるかな、よしやるぞという気持ちが高ぶる。 心が流行るという気持ち、ずいぶん長いこと忘れていますよね。 若い頃はそういうことがあるかもしれないけど、少々なかなか無くなっちゃいますね。 それを取り戻すということです。 それが善の入口なんですね。 # 終わりのあいさつ さて、今日も長い時間お聞きいただきまして、本当にありがとうございました。 どうぞ、良い一日をお過ごしください。 もっと見る #道元禅師 #方広寺 #仏道修行 #禅の入口 #荒金天倫 禅僧と考える...日々の暮らしから人生までプレミアム放送配信中!00:101.初めのあいさつ06:472.仏道修行とは...06:463.禅の入り口は...00:094.終わりのあいさつコメント感想・質問・応援メッセージを書こう ひまわり2025年8月19日勇気が出ましたいつもありがとうございます1返信
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